コラム(35)自分にとっての魔法の杖

<35>私にとっての「魔法の杖」

⼦育てと精神科の治療は共通点が多い。そう気づいたのは、以前住んでいた所の地元の新聞に⼦育ての連載をしていた20年ほど前のことだ。児童精神医学が専⾨ではない私が、不思議と⼦育ての記事を書き続けることができた。その経験から、未熟な⼦どもをひとり⽴ちするまで育てる「⼦育て」と、弱っている患者さんの⼼を育てて社会に送り出す「治療」の本質が同じだと知ったのだった。

⼦育ても治療も相⼿の⼼に添い、叱ったり褒めたりしながら対応し、またいろいろな役割の⼈が関わることで社会性を獲得させていく。それを裏づけるように、精神科に勤務するようになって⼦育てがラクになったという看護師は少なくないし、私もその⼀⼈だ。

精神科医になった当初は、ただ患者さんの気持ちに共感することに必死だった。しかし、精神科病院にあっては⼀対⼀の関係だけに閉じこもってはいられない。同時にさまざまな職種が関わっており、⾃分が関わる部分はそのほんの⼀部にすぎない。また主治医としてチームをまとめるという役⽬もある。診察室での様⼦だけでなく⽣活全般や過去、将来など広い視野に⽴って治療⽅針を決める。その中で時には制限をしたり、叱ったりすることも必要になる。

私は最初、家庭でいえば⽗親が担いがちなこの役⽬がとても苦⼿だった。しかし次第に抵抗なくやれるようになり、今ではメリハリのきいた役割と優しくて受容的な役割を使い分けることができるようになった。⺟親や看護師のように⾝近でお世話をするからこそ⾒えることと、主治医として少し距離を置くからこそ⾒えるものは違う。そしてその両⽅が必要なのだ。

精神科ではそれを意図的にやっているわけだが、これはあらゆる⼈間関係に応⽤できるだろう。例えば「両親の考えを統⼀しないと⼦どもが混乱する」などと⾔われるが、必ずしもそうではない。両親であっても別⼈である。考え⽅も接し⽅も違うのが当たり前だ。その⼆つをどのようにうまく機能させるかが⼤事なのだ。また、会社という組織で⼈を育てる時も同様だと思う。どんなに優秀な⼈でも、⼈は⼀⼈では何もできない。反対に、どんな⼈にも存在の価値を与えることができる。

価値観や考え⽅、やり⽅の違う⼈を敬遠し、つい排除したくなる私たちだ。でも「チームで」という観点に⽴つと、あの⼈がいるから、この⼈がいるおかげで、という謙虚な気持ちになれる。⻑い間精神科病院という特殊な環境で働いてきた私はそのことを学んだ。今では家庭でも職場でもその考え⽅を取り⼊れた途端に不思議と物事がうまく運ぶ、いわば私にとっての「魔法の杖」なのである。

コラム(34)人生の伴走者とは誰か?

 

<34>⼈⽣の伴⾛者とは誰か

これは私のお気に入りのコラムのひとつです。

どの⼈にも⼈⽣の伴⾛者ともいうべき⼈がついてくれている。こんなことを⾔えば、夫や妻、親や友⼈などの⾝近な⼈たちを思い浮かべるだろう。だが違う。あなたの⼈⽣にいついかなる時も寄り添ってくれる⼼強い⼈⽣の伴⾛者。それは実は「あなた」の中にいるのである。

いったい何のことかと思われるかもしれない。それは「⾃分の中にいて、⾃分を⾒ているもうひとりの⾃分」である。そしてそれは誰にでもいる。それが「⾃我」と呼ばれる存在だ。

こんなことはないだろうか。とても緊張する場⾯に置かれた時、冷や汗をかきながら慌てている⾃分がいる⼀⽅で、緊張し慌てている⾃分を冷静に「困ったことになったぞ、どうする︖」などと思いつつ⾒ている⾃分もまた同時にいたりすること。また、思春期の⼦どもに「そろそろ⾃我が出てきた」と評するように、⾃我は相⼿と意⾒が違っても「私はこう考える」と主張できる⼒を⽣む。これを世間では「反抗」と呼んだりするが、ただ主張するだけでなく相⼿の思いも汲みながら対応ができるように⼿助けすることで、⾃我は育っていくのだ。こうした主張や対応をするためには、⾃分を客観的に⾒つ

める能⼒が⽋かせない。

例えば「⾃分が認知症ではないかと⼼配しているうちは⼤丈夫」というように、今の⾃分の思考や判断⼒の衰えをちゃんと客観的に認識するというのは、なかなかすごい能⼒なのである。これもしっかりした⾃我があればこそ可能になる。ちなみに⾃⼰主張の強い⼈を「あの⼈は我が強い」と表現することがあるが、それとは違うので誤解しないでほしい。そういう⼈はむしろ⾃分の弱さを、強がりや頑固さでカバーしていることが多い。

⾼齢になり、親類縁者もいないままひとり暮らしをしている⼈を⾒れば、周りはどんなに寂しいだろうと案ずるかもしれない。しかし当の本⼈は特に寂しいとも思わずに暮らしている。これも、⼈は本来もうひとりの⾃分と対話しながら⽣きる⼒を持っているからである。

⼈は孤独に耐える⼒を⼗分に持っているものだ。

私が患者さんを診察したり治療したりする時に重要視するのも、表に出た症状より、むしろこうした「⾃我」の強弱であると⾔えば驚かれるだろうか。「⾃分の中のもうひとりの⾃分」は誰にも必ずいる。⾃分を客観的に⾒つめ、時に励ましたり、慰めたり、叱ったりしてくれる、唯⼀無⼆の親友であり味⽅だ。無意識のうちに「ふたり」が会話することで、⼈は⼈⽣の孤独や荒波を乗り越えていく。若くても⽼いても、ひとりの時間を⼤切にし、⾃分を⾒つめ、⾃分と対話する時間を持ってほしいと思う。

コラム(33)自分が変われば相手も変わる

 

 

 

<33>⾃分が変われば相⼿も変わる

精神科の患者さんの症状は、どこからが病気でどこからが性格的なものか区別がつきにくい。それもそのはず。⼼の病とは「⼈間関係の病」でもあるからだ。

⼈間関係の中で、⼈の⼼は⼀定の法則に従って動く傾向がある。満⾯の笑みを浮かべて「ありがとう」と⾔われた時、⾃然に⼈はうれしい気持ちになる、などはそのちょっとした例である。

精神医療では、その動きの法則性を⾒つけていくことが⼤切で必要になる。例えば、ダダをこね続けた時に根負けした親が⾃分のわがままを聞いてくれると、⼦どもはだんだんわがままを通すためにダダをこねたり、それがエスカレートしたりする可能性もある。こうやって親⼦の間で⻑年の間に困った性格や精神症状が形成されていくことはよくあることだ。私たちは患者さんと家族の⼼の関係性を探り、良くない⼒関係が働いているなら、それを別の⽅向に変えるよう働きかけたりもする。

先⽇、激しい不安障害で⼊院となったA君はまだ若い17歳。不安が起きるたびに家に電話し、会いたいと⾔う。それが1⽇⼗数回にもなって親がネをあげた。患者さんは発作を起こすと親が⾔いなりになることを無意識に知っている。発作を収めたい⼀⼼で⼦どもの願いをかなえ続けたツケは⼤きい。

また別の例だが、神経質で⼏帳⾯な強迫性障害のBさんには、おおらかでのんびりとした妻がいた。神経質な夫を持てば、妻はバランスをとるためにどんどん⼤ざっぱになりがちだが、妻が⼤ざっぱになればなるほど夫は不安になり、強迫的な⾏動が増えていた。

こんな時、患者さん⾃⾝を治療するのはもちろんだが、家族にも働きかけ、変わってもらわないと症状は改善しない。A君の両親とは、今後A君の⾔いなりにならないよう話し合う予定だ。Bさんの奥さんには、ご主⼈の症状を神経質すぎると決めつけないようにお願いした。そして奥さんも⼏帳⾯な⾯を出してくれれば、ご主⼈も安⼼すると助⾔したところ、症状は少しずつ改善している。⼈間はともすれば、相⼿ばかり変えようとする。というか、⾃分は変わりたくない、相⼿をばかり変えたいと思う⼈であふれている。誰でも⾃分は悪くないと思い、⾃分が変わることには強い抵抗を感じるものだ。

しかし、⼈の⼼が関係性の中でどちらにも動くことが分かれば、どうだろう。どちらがいいか悪いかではない。相⼿の病気が良くなったり、⼆⼈の関係が良くなったりすることが⽬的なのだから、思いきって⾃分から変わってみよう。「⾃分が変われば相⼿が変わる」は真実である。ぜひ試してみてほしい。

 

 

コラム(32)じりつとはの深い意味

<32>「じりつとは」の深い意味

30歳をすぎた頃、九死に⼀⽣を得る体験をした。幼い⼦ども4⼈を連れて、家族でドライブに出かけた時のことである。

途中、景⾊のいい場所で夫が⾞を⽌め、先に外に出た。道の左側は絶壁で落ちたら奈落の底、という⾼さである。その時、⾞がじりじりと下り始めたのだ。運転をしないペーパードライバーの私にもブレーキが⽢いのだと分かった。

慌てて夫に「⼤変︕⾞が下がる︕」と叫んだのだが、彼はうれしくて⼿を振っていると勘違いしているようである。私は咄嗟に「この⼈を当てにしていたら⼦どももろとも死んでしまう」と判断した。頭が真っ⽩になったが、とにかく⾃分の⼒でなんとかしなければと、めちゃくちゃ両⼿を振り回した。どこかにブレーキがあるはず︕との考えがよぎったのだ。すると、アッという瞬間があって、⼿がハンドブレーキに触れた。それを⼒いっぱい引いて、⾞は⽌まった。

私の⾃⽴⼼が、⾃分と⼦どもの命を救ったと思った。そして、若い時に免許を取らせてくれた⽗に感謝した。運転を全く知らず、夫に依存する体質だったら、死んでいたと思う。

この事件はずっと私の中のテーマだったが、最近、室井滋さんの「しげちゃんと じりつさん」という絵本を読んだ時、⼆つの事柄がつながった。おばあちゃん⼦のしげちゃんは、おばあちゃんがいないとだめだったり、夜も祖⺟と⼀緒に寝たりする⽢えん坊さん。だが、⼩学校1年の通信簿で先⽣に「⾃⽴を︕」と書かれてしまう。そこでお⺟さんは1⼈で寝られる⼦になるよう仕向けたのだが…という内容である。

室井さんは「親⼦で“じりつ”を考えるきっかけにしてほしかった」と⾔う。⾃⽴というと⼀般には「親の家から出る」「⾃分で稼ぐ」というイメージだろう。でも、それらは強⼒な⼿段の⼀つだという意味であって最終の⽬的ではない。

私の命を助けた「じりつ⼼」も、しげちゃんのお⺟さんが考えた「じりつ」も、そんな狭⼩な解釈ではない。⾃分の頭で考え、⾃分で判断し、⾃分で⽣きていく⼒をつけるためには、どうしたらいいかという話である。

咄嗟の判断⼒の違いが⽣死の分かれ⽬になることがある。同じ病気になっても「治る⼈」と「治らない⼈」の差になって表れることもある。障がい者や⾼齢のお年寄りのサービスも⾏き届いていればいいとは限らない。⼗⼈いれば⼗⼈、百⼈いれば百⼈、⼈それぞれに「じりつ」の内容は違う。

あなたにとっての「じりつ」とは何か。「じりつ」にはゴールなんてないのだ。私はこれからも⽣きている限り、⾃分の⾜でしっかり⽴って歩いて考える⽣き⽅をしたいと思っている。

コラム(31)反論で対等な関係を築こう

<31>反論で対等な関係築く

「もう、⾔われ放題なんです」。その患者さんは嘆息をついた。職場の先輩がいつもきつく当たるらしい。患者さんは何も⾔い返せない。ところがある⽇、ご飯が喉を通らず夜も眠れぬほどになり、翌⽇思いきって「あんな⾔い⽅をされて落ち込みしんどかった」と初めて伝えたそうだ。相⼿は黙った。「すごくすっきりしたんです。⾃分のすっきり感に本当に驚きました」と、患者さんはうれしそうだった。これからは少しずつ⾔うようにすると⾔う。

⾃称しっかり者の私でさえ、家で、職場で、どれだけ黙り込んでしまうことか。このトシになれば⾔い訳にもならないが、そういう訓練を受けていないし、今まで⾔い返す⼤事さをあまり意識してこなかった。相⼿が理不尽であればあるほど「どうせ分かってもらえない」とばかり黙ってしまっている。

もう親のせいにはできないが、親に⼝ごたえをしてはいけない、などと教えられ、反抗したり⾔い返したりすることをしてこなかった。そんな⼈は意外に多い。先⽇、わざわざ横浜の友⼈宅に泊まりに⾏った妹も、⼀晩中友⼈から愚痴を聞かされ、それを制⽌できなかったというからあきれてしまった。

実は夫婦にもこうしたパターンは多い。夫が毒⾆家だと妻は黙り込む。妻が愚痴っぽかったり嫌みを⾔ったりするタイプだと夫は黙る。私たちは⾃分の気持ちや考えを伝えることに慣れていない上に、喧嘩になるのを異常に恐れている。けれど、やっぱり⾔い返さない⽅にも責任があると思う。

職場での反乱は波⾵が⽴つことも多い。まずは家庭の中で練習をしてみてはどうか。⼦どもが⼝ごたえしたら「へえ、そんなことを考えていたんだ」と受け⽌めてあげよう。夫婦の間でも、⾔い返す練習をしよう。いや、するべきだと思う。

なぜかというと、⻑い年⽉の間にそれぞれの性格の特徴やパターンが強化され、その差が埋められぬほど⼤きな溝となるからだ。共⽩髪になったころ、愚痴が常態化して認知症になってしまう妻、毒⾆が常態化して暴⼒的になってしまう夫。そうなって初めて精神科の⾨を叩くことになる。

黙り込むことは決して相⼿に対する愛情ではない。その場限りの平和を重視した、⾃分を守る⼿段である。優し過ぎる⼈、優し過ぎる妻(夫)、優し過ぎる⺟(⽗)は相⼿の⽋点を⻑年かけて⼤事に育てているのだと知れば怖い話だ。

固い頭になる、事件になる、認知症になる、その前に、愛情を込めて相⼿と戦おう。まず家庭の中で親⼦や夫婦やきょうだい、考えや思いの違いを⾔い合える対等な関係をつくろう。たくさんのケースを⾒てきた私の切なる願いである。

 

 

コラム(30)心が宿る場所を大切に

<30>⼼が宿る場所を⼤切に

この夏は久しぶりの猛暑だった。旅をした私も旅先の暑さでバテたが、⾃分の「疲れ」が暑さ負けなのか仕事疲れがどっと出たのか、はたまた旅⾏という慣れない環境に適応できていないのか悩んでしまった。それがきっかけで私は「疲れ」とは⼀体何で、どこから来ているのかなどについて思いを巡らすことになった。

そんなある⽇、出張先で読んだ新聞が私の⽬を引いた。それは「体で対話する⽣き⽅」というタイトルで、ダンサーの⽇常を追ったドキュメンタリー映画を紹介するものだった。ダンサーの「⾃分の体に敏感になると⼈の気配も分かるようになっていく」「体が柔らかく開くと⼼も開く。そうすると相⼿も受け⼊れてくれる」の⾔葉が印象的だった。監督は「⾃分の体に意識を向けるきっかけになってほしくて」この映画を作ったという。

精神科医というと、⼼ばかりを⾒ていると思われるかもしれない。でも私は、患者さんの姿勢や傾きや太り⽅などを同時に診ている。「⼼と体は⼈間が便宜上分けただけで、本来は分けられるものでない」というのが私の持論だ。

⻑く⼼の不調に悩むA⼦さんはあちこちの病院に何年も通院した後、半年ほど前に当院に変わってきた。幸い半年で症状が改善した。しかし喜びも束の間、引っ越しをきっかけに調⼦を崩した。A⼦さんは引っ越しで無理はしていないと⾔い張った。むしろ広く快適な家に越してうれしくて仕⽅がない。それなのに精神病状がぶり返したことに納得がいかないと⾔う。落ち込む彼⼥を前に私もハタと考えこんでしまった。

しかし、こういうことだと思う。新しい⽊の⾹りのする住みやすい⼀軒家に何の不⾜があろう。しかし、いくら⼼はうれしくても、彼⼥⾃⾝の体はそれまでの狭いアパート暮らしにすっかり馴染んでいた。動線も気づかいも異なる新しい住まいに、まだ体が馴染めずに緊張を強いられ、その結果、⼼も疲れてしまったのではないだろうか。

「引っ越しくらいで」あるいは「たかが部署が変わっただけで」と思う⼈は多い。けれど、環境の変化は、知らず知らずのうちにまず体に負担をかける。その結果、体の緊張から⼼の不調を来す⼈は案外多いのではないだろうか。

体の専⾨家であるダンサーと、⼼の専⾨家である精神科医が同じことを考えている。「柔らかくしなやかな体が柔らかい⼼をつくる」「体の病気の遠因が⼼にある」「⼼の病気のきっかけが体だった」などだ。なんだか調⼦が悪いなぁ、という時は、「体」にも「⼼」にも意識を向けて、ぜひあなた⾃⾝との“三者会談”をやってみてほしい。

コラム(29)情報満載・家族の顔

 

皆さんは、毎⽇、夫や妻や⼦どもたちの顔をどれくらい⾒ているでしょうか。

⼀緒に暮らしていても、あらためて家族の顔をしっかりと⾒ることはあまりないのではないかと思われます。

先⽇、ある⻘年がうつ症状を訴えて外来を訪れました。

ともに店を経営していた⽗親が脳梗塞で倒れ、店を⼀⼿に引き受けることになったのです。看病しながら頑張っていましたが、1年たったある⽇、気がついたらうつ病になっていたといいます。

⻘年は礼儀正しく、訴えも控え⽬で、⼀⾒して重症には⾒えないのでした。

しかし、ここがうつ病の診断の難しいところなのです。

この青年と反対に、憂鬱感が強いとか⾷欲がない、やる気が起きないなど、うつ病と似た症状があっても実はうつ病とは限りません。

その違いは何でしょうか。

うつ病を⼀⾔で表すと、エネルギーの枯渇状態です。

貯⾦を使い果たすと何も買えないように、エネルギーを使い果たすと、何もできなくなります。

「うつ病」と「単なる落ち込みや憂鬱な気分」との違いはエネルギーの量だということができます。

たまに、いかに⾃分が⾟いかについて滔々と述べる患者さんがおられます。

うつ病の⽅が、こんなにエネルギッシュにしゃべれるだろうか。本当にエネルギーを使い果たしていれば、話すのも訴えるのもしんどく⼤儀になるはずだ、などいろいろ考えながら診断のためのお話しをお聞きしていきます。

エネルギーが枯渇すると、⼈はしおれた花みたいになるように思います。

つまり話すのもおっくう、⼈と会いたくない、⾷べるのも⾯倒、顔から⽣気が失われる、夜も熟睡できない、などなど。

そしてそのすべての変化は、案外しっかりと顔に出るのです。

顔は正直に、その方の内面をあらわします。

だから私は、診察室で「聴診器」の代わりに「私の⽬」を使うのです。

とにかくまず患者さんの顔を⾒ます。

症状が良くなっても悪くなっても表情ひとつでだいたいのところが分かるのですから不思議でしょう?

患者さんの中には「先⽣がパソコンばかり⾒て、⾃分の顔を⾒てくれない」という理由で病院を変わってくる⽅も少なくありまん。みんなしっかり⾃分を⾒てほしいのですね。

専⾨家は毎⽇たくさんの顔を⾒ないといけませんが、皆さんなら家族だけ。

家族の数なら知れています。

ここがポイント!

毎⽇⼦どもたちをがみがみと追いたてる前に、わが⼦の顔が⽣き⽣きとしているかを⾒ることにしませんか。

忙しさにかまけて相棒の顔などじっくり⾒たことがないという⽅も、朝起きた時の顔を「定点観測」していれば、いずれその⽇の調⼦や気分が分かるようになるはずです。

毎⽇同じようでも、家族の顔や表情にはさまざまな情報が書き込まれています。

ここもポイント!!

 

⽇々⾒続けることではじめて、その⼈の変化というものが分かるようになります。

 

その変化や違いをキャッチすることが⼤切なのです。

薬や病院に頼る前に、ぜひ「あなたの⽬」を使ってみてはどうだろうかと提案したいと思います。

 

 

 

コラム(50)人は誰でも課題をひとつ与えられて生まれてくる

 

 

 

私のフォトエッセイ集に「どんな人も、人生の課題をひとつ与えられて生まれてくる。こんな優しい花でさえ」という一節があります。

 

息子のことで相談したいと、思いつめた表情でお母さんが訪ねて来られました。

成人した子供が社会に出て会社に勤めたのだけれど、どこも長続きしない。母親としてはなんとかしてやりたいと思う。息子の性格をわかっている知人に雇ってもらおうと思うがそれでいいだろうか、という内容でした。

 

若い頃の私は、その悩み事につきあい、相談に乗り、解決の糸口を見つけることに必死だったように思います。

 

しかし、やがてある疑問につきあたったのです。

精神科医としての私の役割って一体何だろうと。

そして気づいたことがあります。

診察や相談に来る方の悩みの多くが、家族の悩みと自分の悩みがごっちゃになり未整理になっていることです。

そして辿り着いた答。

人はみなそれぞれに人生に何らかの課題を持って生まれてくる。私の仕事は、それを代わりに解決することではなく、それに気づかせてあげることではないかということでした。

 

たとえば2才の子どもはヤンチャ盛りです。

この時期は怖さを知らずにヤンチャをすることが“仕事”です。

その子が水たまりで転んだとしましょう。

親が先回りして「水たまりがあるよ」と注意するのも、転んだ我が子の手をひっぱりあげるのもよくある光景です。

しかし2才の子どもにとっての課題は「転ぶこと」であり、「自分で起き上がること」です。

それをいつも親が避けたり、すぐさま助け起こしたりしていたら、子どもはその年代特有の課題を解かないまま大きくなってしまうことになります。

次にさらに大きな水たまりに出会った時、もっとひどいころび方をした時、その子はどうやってそこから起き上がれるでしょう。

自分が過去に助け起こしたことなどすっかり忘れ「どうしてこの子は、こんな水たまりから起き上がれないのだろう」と嘆いていないでしょうか。

ここがポイント!

ここで一番言いたいこと。

それは「愛する子どもであれ、夫婦であれ、人の課題を取りあげてはいけない」ということです。

 

そして逆説的ですが、人は自分が最も避けたい事柄こそがつきまとい、それに向き合って解決しなければ前に進めない課題として横たわってしまうことです。

たとえば「同じ過ちを繰り返す」などは、実はその中にこそ、ヒントが隠されていると思っていいでしょう。

 

それぞれの課題に気づくこと。

相手からその課題を取りあげず、本人に返してあげること。

私の仕事は、それぞれが自分の課題に気づくお手つだい、そして勇気をもってそれに立ち向かっていけるように背中を押してあげることだと思っています。

息子(娘)の課題、夫(妻)の課題を手をとって助けてあげたい気持ちは自然ですが、そこをぐっとこらえ、相手の課題は相手が乗り越えるように。

それを願うのが真の愛情だと思うのです。

 

コラム(28)私が仕事を休まないコツ

 

 

⾝体が丈夫なほうでなく、不調を感じることも多い私です。

なのに何⼗年、病気で仕事を休んだ覚えがないのです。

そう話すと皆さん驚いてそのコツを聞かれます。

「無理しないことですか︖」と聞かれることも多いです。だけどこれが違うのですよ。

 

コツはただ「休まないと決める︕」です。

 

もちろん体調を崩すこともありますが、「患者さんがいるので、まず絶対休まないと先に決めてるのよ」と⾔うと相⼿は笑ってしまいます。そんなことが健康の秘訣だなんてね。

でも本当なのです。

先⽇の⽇曜⽇も、起きようとしたのですが、吐き気がしてどうしても起きられませんでした。

朝も⾷べられず、昼も⾷ベられず、⼣⾷も⾷べられず、⽔さえ喉を通らない状態が続きました。

仕⽅がないからおとなしく寝ているしかないと観念しました。

しかし考えていることは、「明⽇、⾏けるかどうか」ではなく、

「どうしたら明⽇⾏けるか」だけです。

 

つまりダウンして寝ていながらも、私の頭の中に「明⽇は休む」という選択肢は全くなく「⾏くこと」しか考えていないのです。

こんな時、夫はというと…。私の性格や置かれている状況をよく知っています。

だから「絶対⾏くよ」と同情も⼼配も全くありません(笑)。

私⾃⾝は⾝体の変化を⾒つめつつ、とにかく寝ていただけでした。

すると夜中の12時になって、吐き気が⽌まってやっと⽔が飲めるようになりました。このあたりで「しめた︕」と思ったのでした。

夜が明ける頃には、どうにかお粥が⾷べられました。

これでもう⾝体は回復の⽅向に向かっていること間違いなしです。そしてもちろんその朝、いつも通り仕事に⾏ったのでした。

ここがポイント!

⼈はあれこれ迷ったり⼼配したりするのが好きですが、選択肢が⼀つしかないと悩もうとしても悩めません。

「⾏くこと」を先に決めておくと余計な⼼配や迷いがないので、そのぶん⾝体の回復にエネルギーを集中できるのかもしれないと思います。

多くの場合には、迷いが邪魔をしているのですね。

医者の宿命で⻑い歳⽉の間にそんな思考や⾝体になったのだと思います。

だからといって「休む⼈は⽢えている」とは思わないし、このコツを⼈に強制したこともありません。

むしろ普段から患者さんには「無理しないで」「がんばり過ぎないで」と繰り返している私です。

またこんな私も、精神科医が10⼈以上いる⼤病院に勤めていた頃には、⼦どもが4⼈いたこともあって、遅刻の常習犯でした。

「医者でなかったらとっくにクビだね」と同僚に嫌みを⾔われたくらいです。

つまり、遅刻しても誰かがカバーしてくれる環境にあると、無意識に気持ちが緩んでしまうのでしょう。

これは誰にでも⾔えることではないでしょうか。

退路を断ち、選択肢を⼀つにする。

その覚悟が、持っている⼒を最⼤限に引き出してくれると思います。「⼀念岩をも通す」じゃないけれど、願望を先に決め、迷いなくそれに向かっていると、念願がかないやすいのですよ。

ぜひ皆さんもお試しあれ。

 

 

コラム(27)忙しさの中で見えたこととは?

 

うつ病など、⼼の不調を来した⽅がよく訴える悩みに「家事ができない」「仕事がはかどらない」などがあります。

「部屋はごちゃごちゃ、⾐類の整理ができない」「料理のメニューが浮かばない」などです。

 

この問題を⼼の病の治療法という観点からではなく、多くの⼈に共通する悩みとして書いてみたいと思います。

 

なぜなら⼦育て中の⺟親、介護をしている⼈、⾼齢者、ハードワーカーなど、時間的にも精神的にも余裕がなくなると、こうした状況は誰にでも起こりうると思うからですし、私⾃⾝もその⼀⼈だからです。

 

そんな時、ある新聞記事が⽬にとまりました。

アメリカのデパートで接客をしている⼥性が、⽩いシャツに⿊いパンツを⾃らの定番と決めてそれで通しているというものでした。

本来ならその⽅は洋服を⽇替わりで着がえる⽴場にあったのです。が、「男性のスーツのような装いでも何ら問題ない」というその女性の⾏動は、⼈々に好感を持って受け⽌められることとなりました。

そして「⼥性だからといって洋服を変えなくていいのではないか」という議論が巻き起こったらしいのです。

 

私はそれにヒントを得て、というか、勇気を得て、⾃分の⾐類を⼤幅に減らすことにしました。

そして仕事や会議などで失礼にならない程度にシャツやセーターとパンツ姿で通すことに決めたのです。つまりスーツは持たないのです。

以来、私の定番化はさらに進み、数枚のシャツやセーターに2〜3本のパンツを着回すのみとなりました。

⾐類の整理や⾐替え、洗濯やアイロンがけにとられる時間はほぼ皆無となり、本当に快適です。

 

私は⾃分に能⼒的・時間的にモノの管理能⼒がないことをよくわかっています。

それは、うつ病になった⽅が本来の能⼒を失った状態ととても似ていると自分では思います。

また私には他の⼈の視線を気にする以上に「するべきこと」「したいこと」があるのです。その時間がほしい!

 

つまりモノの管理にとられる時間があったら、仕事や健康管理をしたい。

ここがポイント!

何かしたいこと、するべきことのためには、捨てること、諦めることが必要なのではないでしょうか。

また、能力がなかったら諦めたり減らしたりすればいいのではないでしょうか。

「○○できない」と悩む⼈の多くはそうした現実をしっかり⾒ていないように思います。できなかったら、それを認めてしまえばいいのです。

⾃分の能⼒を過信し、若い時と⽐べ、他の優秀な⼈と⽐べ、病前と⽐べているのではないですか。

「⾐類の整理ができず⼭のように積まれている」と悩む⼈への助⾔は、「枚数を減らしなさい。⾃分で管理できる枚数にね」です。

能⼒や時間のある⼈が、どんなに⾐類を持っていようと構わないと思います。

だけど、今の⾃分に余裕がないのなら、仕事やモノや料理のメニューを能⼒に合わせて減らそうではないですか。

まず⾃分の現実を⾒つめ、本当に必要なもの、本当にやるべきことのためには、⾒栄や体裁を捨てて持ちたいもの、やりたいことの数を減らそうではありませんか。

そうすることはきっと⼼地よい⾐⾷住の、そして幸せな⼈⽣への第⼀歩ではないかと私は思うのです。