コクテル堂で珈琲豆を

昼休みに車で3分のコクテル堂へ出かけた。

下記をクリックすると出てきます。

 コクテル堂珈琲

挽きたて珈琲豆の工場が韮崎にあり、小売りもしてくれる。

とても新鮮。

卸しなので安く、昨年まで20年間、値上げがなかったのは

すごいと思う。さすがに1~2割あがった。

 

わが家は20年、ここで豆を買っている。

東京のカフェなどに卸しているので、豆は良い。

 

昨年、ここの駐車場でバックして車を止めるとき。

広い広い駐車場なのに、職員さんの車にぶつかってしまった。

止まっている車に、である。

 

はずかしくて一年は、職場の人に買いに行ってもらっていた。

 

今日はとうとう行って謝った。(もちろん修理はさせてもらった)

 

職員さんの車とお客さんの車の境に、駐車止めが置いてあった。

こんな広々とした駐車場。工場なので、客の車もない。

どうしてこんな場所でぶつかるのか、自分でもあきれる。

周りに自然があり、動物がいるということ。

周りに山や林だけでなく。

動物がいる暮らし。

そんな人が今の世の中、どれだけいるだろう。

 

「金沢でも大阪でも、コスモスを見るために。

電車に乗ったり、車が必要で一時間はかかったのよ」

今日、友人にそんな話をしたらとても驚いていた。

 

こちらでは、通勤途上であちこちの桜を見ながら。

あるいは水仙の群生を見ながら、移動している私。

 

買いたいモノがそれほどいらなくなった今となっては。

猫も牛も自然に溶け込んでいる暮らしは豊か。

 

レモン! 一体何を考えているの?

さっきからお隣の庭ばっかり見ているね。

 

沖縄は四季がないし。

北海道は、私にはその広大さが、おおざっぱに感じる。

信州の自然は繊細で変化が細やかなので、美しいと思う。

 

健康年齢を上げる(樋口恵子さん)

 

樋口恵子さんは、いつの時代でも、時代の先取りをすることを

得意として、つっ走ってきた人らしい。

記事の中で「人生100年の時代を迎えて」と言われていた。

 

「人生90年」とは最近よく言われることだが。

たしかに100才になる人口も増える一方だ。

 

私の外来患者さんの中にも、まもなく100才を迎える方が

何人かおられる。

10年前には考えられなかったことだ。

 

さて、樋口さんの主張は「健康年齢を上げなければいけない」

いうことだ。(平均寿命が上がっても、それだけでは意味がない)

今後は、そのことに積極的に取り組んでいくと言う。

 

運動は必須項目であるが(畑でもボランティアでもいいのだが)

運動をしない人の言い訳は、こうである。

 

「私、長生きしないから!」

「私、施設に入るからいいの!」である。

 

おいおい。長生きって、したくて出来るもんでも、

したくないからしないものでもないのよ。あなたみたいな

人こそ長生きしちゃうんよ。

 

あのね。施設に入るっていうけど、金があるからいいって

もんではないのよ。

誰が看るの、あなたを看る若い人なんて、その頃にはいないのよ。

今でさえ、介護の人手が足りなくてうんと困ってるの。

なまじっかお金持ってるからって、わがままなこと言うんじゃない!

 

そう心の中で叫んでいる私がいる。

そこそこ金を持ってる人って不遜だよね。

あなたを誰が看るの。金だけでは解決できないんよ。

仕事で介護に従事してる人の給料、知ってますか?

あなたの年金より安いんですよ。あり得ますか?

 

とにかく、長生きするリスクはしっかり計算に入れておいてね。

そして、人手が足りなくて、誰もあなたを看れないの。

今、病気の人は私たちが看る。

でも今、健康な人は、ずっと最期まで自立できるよう努力

してね。

多分、そのころは介護してくれる人、数的にうんと足りないと

思う。社会全体のことも考えましょう。

 

そして、それぞれが努力しようね。

樋口さんの言いたいことが、そうかどうかはわからないけど。

私の言いたいことは、社会の変革と自己努力です。

 

病気とつきあう時に(樋口恵子さん)

私がまだ30才くらいの頃から、樋口さんはもう有名人だった。

理性が勝ちすぎている感じで、あまり好きではなかったが。

84才の現在も、引く手あまたでご活躍の様子を見ると。

好き嫌いではなく、尊敬してしまう。

誰にでも出来ることじゃないからね。

 

今日の新聞での記事のこと。

たくさんの病気を経て、今でも病気とうまくつきあっていると

書かれていた。

大病をした時、ご主人が他界されていて、同居するひとり娘さんも

忙しい医者で、まったく当てにできず。

たくさんの女友だちに助けてもらったという。

 

ひとりの親友より、たくさんの女友だちグループです。

 

そう主張されていた。

 

それでも、不調が現れたとき、すぐさま車で救急外来に連れて

いってくれた同居する娘さん、いたからこそじゃないかと

考える。

大動脈瘤破裂寸前の大病で、命拾いしたのが幸いと言える一刻を

争う病気だからだ。

 

娘より、友達グループと言いきることができるのは。

同居する娘さんがいたからこそじゃないのか。

人間、あるものは もうあたり前になるんだというのが感想だ。

 

それを前提として 女友達グループが一番というのは、

女友だちグループなんて誰でも持てないことを考えると。

あまり現実的じゃないなと思う。

私のように働いている女性に、友達をつくる余裕もない。

 

自分が持っているものは一体何か。

いざという時のものを、どうやって増やすか。

そしてどう生かすか。

 

それぞれが見つめ、状況に応じて自在に変化していく

ことが大事ではないかと思った。

「人生100年の時代を迎えて」という記事だった。

続きはまた明日。