整理下手のツケ

 

私は整理下手です。

整理整頓というものが出来ません。

夫から「あなたの部屋はあなたの頭だ。あなたの机はあなたの頭だ」と言われています。

たしかに、頭もごちゃごちゃしています。

いろんなことに手をつけますし、いろんなことを秩序なく考える癖があります。

今回、連載コラムをブログに載せるにあたって、過去の記事や写真を整理していなくて、本当に困っています。

新聞の記事だけは、きちんとファイルしていました。それは「これだけ苦労して書いたのだもの。むげには出来ない」という気持ちからであって、整理しておきたいと思ったわけではないのです。

記事と ワードなどで書いたものや写真などはデータの質が違いますから、記事をファイルしてあってもブログに載せることはホネなんです。

今日はスタバに来て、その整理だけで数時間もかかってしまいました。無駄な時間・・・・・・・

私はつぎつぎと先に進んでしまうのが悪い癖です。

きちんと載せれるまで頑張ります。整理も自然と出来るのでいいかもしれません。

(過去の写真、一万枚以上、撮っているかもしれませんが、整理ができておらず、どうやって整理していいかもわからず、整理学、ってひとつの学問になるかもしれませんね。教授してほしいくらいです)

 

連載コラム(8)朝の気分を大切にしよう

「先⽣、朝起きた時はいいんです。でも⼣⽅から気分が憂鬱になります」「へえ、朝はいいのね。うつ病の⼈は朝の気分の⽅が憂鬱なんだよ」「じゃあ、僕の憂鬱感は何ですか」「疲れですよ。きっとやり過ぎです。疲れてくるんです」「でもやっていることは普通です」「他の⼈には普通でも、今のあなたにとってはやり過ぎなんじゃない」とまあ、患者さんとの会話は続いていきます。

うつ病の症状に「朝の気分が悪く、⼣⽅から夜にかけて気持ちが楽になる」というものがあります。

ですから朝起きた瞬間の気分を聞くのは、精神科医にとってとても⼤切な質問なのです。

朝は眠いし、会社もあるしで、どうしても気持ちが重くなりがちです。しかし、ここで⾔う「朝の気分」とは、そういうことを思う暇もない⽬覚めの⼀瞬のことです。

これは意識してみると誰にでもあります。

 

朝起きた瞬間の気分はその⼈にとって「その時期の基底の気分」です。

そしてそれは薬ですぐに改善できるものではない基調の気分です。

うつ病が良くなるに従い、⾃然に改善されていくものなので、うつ病改善の⽬安としても使えるものです。

これらは⼀般の⼈にとってもバロメーターとなります。うつ病でなくても、⽬覚めた瞬間、嫌な気分のする⽅がいる。また、嫌な気分のする日もあるでしょう。

そんな場合も基底の気分は「うつ」だと考えていいと思います。

例えばストレスいっぱいの環境で働いている⽅とか。

家族の病気で介護が⼤変な⽅などが例として挙げられるでしょう。

いずれも⾃分に負荷をかけない考え⽅や暮らし⽅を⼿探りするといいのじゃないかと思います。

さて、今⽇の状態は昨⽇の結果であるというのが私の考えです。

つまり、今⽇の調⼦が悪い時に、今⽇の出来事の中から原因を⾒つけるのは筋違いだという意味です。

昨⽇起きた出来事、昨⽇の過ごし⽅の中にすでに無理があるのだという考え方です。

ここからがポイント!

「今⽇」という⽇は「昨⽇の結果」「昨⽇の続き」です。

昨⽇が「うつ病の⾃分」なら、今⽇の朝起きた瞬間から憂鬱なのは当たり前なのです。

「昨⽇の⾃分が無理していた」なら、寝ている間にすっきり解消できる程度の疲れでないかぎり、朝の気分は悪いと思われます。⾝体の調⼦も悪いでしょう。

「今⽇という⽇」はいろんな意味で「昨⽇の結果」であると知れば、「なぜ、こんなに具合が悪いのだろう」と悩んだ時、昨⽇、何か⾃分は無理しなかったか、何か意に添わないことをやり過ぎなかったか、という視点で考えることがヒントになって、⾃分を知ることにつながっていくでしょう。

毎⽇の積み重ねの結果、私たちは「今⽇」という⽇を迎えた。明⽇を思い煩うことなく今⽇という⽇を⼤切に使えば、きっと⾃然にいい明⽇につながっていくだろうと思います。

連載コラム(7)第二の人生こそ本番ですよ。

何年に1回かのシルバーウイークで巷はにぎわっていました。わが家のご近所でも、祖⽗⺟たちが孫を相⼿にはしゃいでいます。

実は今、空前の祖⽗⺟ブーム。元気と時間と経済的余裕のある熟年世代と孫との関わりが密になっています。

そのためか、私の患者さんで祖⽗⺟のいない⼦どもを持つ⼥性がとてもうらやましがる方がおられます。また孫のいない⽅はもちろんのこと、祖⽗⺟のいない家もちょっぴり肩⾝の狭いこともあると聞きました。

思い起こせば、私の祖⺟は「孫かわいい」の典型だったように思います。祖⺟の⽣きがいは私。私だけ。

私が18歳で⼤学に進学して家を出てしまったその後、10年⽣きた祖⺟は寂しかっただろうなあと今になって思います。

毎朝11時になると、郵便受けを⾒に⾏くのが⽇課だったらしい、私から⼿紙が来てないかと。それは祖母の死後に聞いたのですからすこぶる後悔しました。

反対に、⽼衰のため96歳で亡くなった夫の祖⺟は、畑通いが⽇課。猫を飼い、⽥舎町にただ⼀つの映画館に出かけ、そして友達と花札で賭けては「負けた」と悔しがるマイペースで気ままな祖⺟だったと聞いています。夫はかわいがられた思い出もないらしいのですし、あまり良くは言わないのですが・・・でも私は夫の祖⺟の⽣き⽅、「何だか好き」と思ってしまいます。

前置きばかり⻑くなってしまいました。私の⼀番⾔いたいこと。
それは、若い頃の私は、⼦育てが終わってからの⼈⽣がこんなに⻑いとは知らなかったということです。

もし知っていたら仕事の仕⽅も⼦どもの育て⽅も違っていただろうと思われます。

⼦どもに⼿がかからなくなってから30年以上、孫がかわいい盛りを過ぎてからさえ、20年近くあるのが⻑寿社会です。昔はそれを「余⽣」と呼びました。そして「余⽣」は悠々⾃適が理想と⾔われた時代でした。

ここがポイント!

今、第⼆の⼈⽣を「余⽣」と呼ぶには⻑すぎると思います。

かつての私のように若い⼈はもちろんそんな先のこと、想像さえしていないことでしょう。

彼らは⼦育てや仕事やローンに追われる今が。

⼈⽣の最盛期であり本番であり。

世界は⾃分を中⼼に回っていると思っているでしょう。

では熟年世代はどうでしょうか。寿命が分からないのをいいことに「私、⻑くは⽣きない」など根拠のない⼝癖で将来をごまかしています。(この口癖のヒト、本当に多いのですよ。ぽっくり死にたいとかね。そんなに簡単に死ねないって!)

その結果、第⼀の⼈⽣から第⼆の⼈⽣になんとなく惰性で流れ込むことになりがちです。

でも、この⻑さと意味をきちんと知った上で計画を練ってみたらどうでしょう。

若い頃の仕事をさらに充実させて、豊かな刈り取りの時期にするのもいい。新たな楽しい計画だって30年もあれば実現するよ。

あらかじめ、⼈⽣に⼆つの⼭があることを知っておく意味はあると思います。

実は、⼦育ては⼈⽣のリハーサル。それが終わった後の⼈⽣こそ、むしろあなたが主⼈公として活躍する⼈⽣ドラマの本番なのよ、などと⾔ったら、きっと皆さん⽬をまあるくして驚くでしょうね(笑)