プールはスポーツ? それとも癒し?

 

吉永小百合さんは、水泳が好きでお上手だということが知られています。

テレビ番組でも、ご自身のホームグラウンドでとてもきれいなフォームで泳いでいるところを撮られていました。

先日のこと。

「今も泳いでいます。スポーツは大好きです。でも泳ぐことは、スポーツではなく、癒しです」とおっしゃっていました。

ハッとしました。

スポーツだと思ってしぶしぶ通っていたからです。

それからプールを別の目で見ることが出来るようになりました。

「鍛えなくては」「運動をしなくては」と思うと腰が重くなります。

疲れた時に「癒しに行こう」と思うと、なんだか腰が軽くなります。

今夜もそんな夜でした。

昨年の秋から、夫に関係なくひとりで行けるようになりました。

今日も「疲れを癒し」にひとりで行き、少しだけ泳いであとは歩きました。とっても気持ちいいのです。

水の中は、お母さんのおなかにいた時の羊水のような感じがします。ふわふわと歩いているだけで気持ちいいです。

これからも、あまり嫌がらず、気軽に「癒し」に行こうと思っています。

パソコン作業のせいか、トシのせいか。

最近よく不整脈が出るので心配です。

なんとか乗り越えたいものです。

その日の疲れはその日のうちに取ってしまうのがいいかもしれません。

プールウオーキングが効を奏しますように。

コラム(10)外の風に当たるって大事

⼼の病にかかると、外に出られないと⾔い、家に閉じこもる患者さんが多いです。

そういう患者さんに対して家族も医療者も「少しは外に出掛けましょう」と⾔ったところで、出てくれるわけではありません。外に出られるくらいなら、ここには来てません、と反論したくなる方ばかりです。

外に出られない、と⾔い張る患者さんに「じゃあ、朝起きたら、カーテンだけでも開けてみては︖」と提案してみました。

そのうち、カーテンだけは開けられるようになった、とおっしゃいました。

「どんな⾵景が⾒えた︖」と聞いてみました。

「隣のおうちの壁が⾒えただけです」と素っ気なく答えた後で、「でも、空が⾒えました」と⾔ってくれたときはうれしい気持ちがしました。

次に「ちょっと窓を開けてみましょう」と提案してみました。患者さんは本当に少しだけ窓を開けるようになりました。「⾵が気持ち良かった」と話してくれました。

私は少しずつ⽬標を上げていきます。

「裏庭まで出る」ことになり、「裏庭を少し歩いてみる」ことができた時は患者さんもうれしそうでした。

いつしか夫とスーパーに⾏けるようになりました。

それから数年がたちました。

そしてなんと! 今では週2回のパートに⾏っているんです。大⼤進歩です。

もっと病状の重い⽅もいます。そんな⽅にはさらにハードルを下げます。

つまりまずは、ご家族が「外の⾵」を運んであげるのです。

家族が帰った時、患者さんの部屋の⼾を開け「ただいま。今帰ったよ」と⾔うだけでも「外の⾵」が⼊ります。季節の果物を買って帰り、患者さんと⼀緒に⾷べるのも「外の⾵」です。

⼈間にとって外に出ることは⼤事ですが、家の中に「外の⾵」を⼊れることはもっと必要です。

話はちょっと⾶躍しますが、親⼦の絡む事件なども閉鎖的な環境で起きることが多いように思われます。

家にこもりがちな⽅にとって、家族が帰ってきたり、お客さんが来たりするだけで、家の⾵が動くのが分かります。

症状のすっかり安定した⽅が診察に来ることも、同じ意味です。「出掛けてくる」ということに意味があり、定期的に診察に来る⽅のほうが再発しにくいという事実があります。

「外の⾵を⼊れる」「外の⾵に当たる」ことは、⼈間が社会の⼀員として⽣きていく基本です。

どんなに閉じこもっている患者さんでも、そうやってカーテンを開けたり、外出から帰った家族が声を掛けたりすることなどから始め、無理なく少しずつハードルを上げていくと、必ず外に出られるようになります。

押しつけは逆効果。出無精の⽅に「たまには外に出てみようよ。どんな⾵が吹いていたか教えてね」とさりげなく⾔ったことがありました。

ある時、コスモスを⾒に出掛けたと⾔うので、驚いたことを思い出しました。

押しつけがましくなく聞こえたので、ふっと⼼が素直になれたのかな。

(**注* 自転車が好きなので、この写真はとても気にいっています。乗りませんけれど)

コラム(9)しあわせは、持ち物の量で決まらない

昔、よく往診をしました。

通院を拒否する統合失調症の⽅のおうちに診察に出かけるのです。家の中に「何にもない」ことが多くて驚いたことがあります。

何かに関⼼を持つと、どうしても「モノ」が増えることになりがちです。

まったく何にもないガラーンとした部屋を⾒ながら、この患者さんの精神内界もこんな⾵に荒涼としているのだろうかと思ったものです。

(このくだりは、私の患者さんから、少々傷ついたと言われていますので、そういう場合もあったということで、また書き方を考えなおしたいと思っています)

⼀⽅では、多くのモノを収納しきれない⼈が増え「収納術」の本が出始めました。

その次が「断捨離」でしたね。

「断捨離」が発展して⾏き着く所まで⾏き、今では「ミニマリスト」という⼈たちの本が書店に平積みされています。

「ミニマリスト」と称する⽅の部屋の写真を⾒ると、昔、統合失調症の⽅の家に往診に⾏った時の⾵景を思い出します(この表現も考慮の余地あり、ですね。それに、ちょっと違う感じですので。ミニマリストさんは本当に何も持っていないようですから)。

それこそワンルームの部屋に、布団と1組の⾷器だけ。テーブルさえ、収納ボックスを兼ねた箱であったりします。「本当にそれだけで⽣活できるの」と問いたくなってしまいます。

しかし、彼らはインターネットを通じて社会とつながり、いろんな情報を持ち、最低限の仕事をしています。そういう形で社会とつながることを選んだ結果なのでしょう。

私の病院の隣に⼩さなグループホームが建っています。病院を退院した後、⺠間のアパートで⽣活する⼒やお⾦のない⽅がここで暮らしているのです。

ここにも持ち物の少ない⼈たちが住んでいます。ある⼈は資産家の家に⽣まれ、豪勢な⾃宅を持っているのに、その家を空き家にしてまでホームに⼊居しています。また、共同作業所で働いたり、病院のデイケアに通ったりするのが⽇課の⼈もいます。

皆さんの暮らしは質素、部屋は超シンプル。多くのモノや責任を背負って息切れ切れに暮らしている私から⾒ると、その⽅たちが⾝軽で飄々と⽣きているように⾒えて羨ましく感じるのです。

私がそう話すと、彼らは「先⽣も飄々と⽣きているように⾒える」と⾔ってくれます。

そこで「モノを持っていてもいなくても、⼈⽣の苦楽はほとんど同じねえ」と、2⼈で笑い、お互いにそこそこの幸せを確認するのです。

幸せが環境に左右される⽐率はたかだか10%だという報告を読みました。「なるほど」と思います。

その理由として、どれだけお⾦持ちでも、それに慣れてしまえば当たり前。⾼学歴しかり、⼤邸宅しかり、美貌しかり。すべては「慣れ」の現象が起きるせいで、いずれそれらは「当たり前」となります。そして持っているモノはすっかり忘れ、ないモノを数え出すようになるのです。

⾃分にとって価値あること、必要なことを知り、それを選んで⽣きていけば、おそらく多くはいらないのではないか、と思います。

つましく謙虚な患者さんたちから私は日々、多くのことを学んでいるのです。