霧の朝

 

今朝は深い霧。

もやの中を灯りをつけて運転して行きました。

 

一日、腰痛がひどくて困りました。

なので、夜はしっかりプールで歩き、泳いできました。

 

若いころから腰が弱く(固く)、しばしばぎっくり腰のような

状態になります。

若い頃は、マッサージ屋さんにかけこんだり、鍼治療を受けたこともありますが、ここ20年は、プールで治します。

腰が固くなると、腰痛になります。

ですので、マッサージや整体でお金と時間をかけるより、プールでしっかり歩くと治っていきます。

先日は、とうとう膝が・・・・と思いましたが、プールで歩いて

治りました。

身体を冷やすので長い時間は良くないですが、40分くらいなら大丈夫。

今夜も30分歩いて、500m泳いできました。

 

すぐには治らないでしょうが、こうやって少しづつ治していきたいと思います。

「痛さ」にエネルギーがとられると、たいした仕事もしていないのに、ふだんの何倍も疲れた感じがして、あちこち痛い人の気持ちがとてもよくわかりました。

 

 

連載コラム(35)自分にとっての魔法の杖

<35>私にとっての「魔法の杖」

⼦育てと精神科の治療は共通点が多い。そう気づいたのは、以前住んでいた所の地元の新聞に⼦育ての連載をしていた20年ほど前のことだ。児童精神医学が専⾨ではない私が、不思議と⼦育ての記事を書き続けることができた。その経験から、未熟な⼦どもをひとり⽴ちするまで育てる「⼦育て」と、弱っている患者さんの⼼を育てて社会に送り出す「治療」の本質が同じだと知ったのだった。

⼦育ても治療も相⼿の⼼に添い、叱ったり褒めたりしながら対応し、またいろいろな役割の⼈が関わることで社会性を獲得させていく。それを裏づけるように、精神科に勤務するようになって⼦育てがラクになったという看護師は少なくないし、私もその⼀⼈だ。

精神科医になった当初は、ただ患者さんの気持ちに共感することに必死だった。しかし、精神科病院にあっては⼀対⼀の関係だけに閉じこもってはいられない。同時にさまざまな職種が関わっており、⾃分が関わる部分はそのほんの⼀部にすぎない。また主治医としてチームをまとめるという役⽬もある。診察室での様⼦だけでなく⽣活全般や過去、将来など広い視野に⽴って治療⽅針を決める。その中で時には制限をしたり、叱ったりすることも必要になる。

私は最初、家庭でいえば⽗親が担いがちなこの役⽬がとても苦⼿だった。しかし次第に抵抗なくやれるようになり、今ではメリハリのきいた役割と優しくて受容的な役割を使い分けることができるようになった。⺟親や看護師のように⾝近でお世話をするからこそ⾒えることと、主治医として少し距離を置くからこそ⾒えるものは違う。そしてその両⽅が必要なのだ。

精神科ではそれを意図的にやっているわけだが、これはあらゆる⼈間関係に応⽤できるだろう。例えば「両親の考えを統⼀しないと⼦どもが混乱する」などと⾔われるが、必ずしもそうではない。両親であっても別⼈である。考え⽅も接し⽅も違うのが当たり前だ。その⼆つをどのようにうまく機能させるかが⼤事なのだ。また、会社という組織で⼈を育てる時も同様だと思う。どんなに優秀な⼈でも、⼈は⼀⼈では何もできない。反対に、どんな⼈にも存在の価値を与えることができる。

価値観や考え⽅、やり⽅の違う⼈を敬遠し、つい排除したくなる私たちだ。でも「チームで」という観点に⽴つと、あの⼈がいるから、この⼈がいるおかげで、という謙虚な気持ちになれる。⻑い間精神科病院という特殊な環境で働いてきた私はそのことを学んだ。今では家庭でも職場でもその考え⽅を取り⼊れた途端に不思議と物事がうまく運ぶ、いわば私にとっての「魔法の杖」なのである。