ブルーベリーの季節に。

ブルーベリーをいただきました。

摘み放題というのがあって、朝早くから出かけたそうです。

とても甘くて大ぶりの美味しいブルーベリーでした。

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インスタグラムで、若い画家とおぼしき女性と知り合いになりました。

知り合いになったと言っても、その方の日記風の写真と言葉を

見るだけです。それ以上のおつきあいはありません。

でも、読んだ本、観た映画、飼っている動物。。。などが出てきて、賢明な女性なのだなあと思えます。

みんながフォロワーの数を競う世界の中にあって、そんな風はまったくなく、義理の@いいね!もないようで、とても好感が持てます。

ほおったらかしでもなく、時々写真をアップして楽しんでいる様子もうかがえます。

若い人から学んだ今日でした。

連載コラム(39)曖昧さに耐えるということ

<39>曖昧さに耐えるということ

これもわたしの好きなコラムのひとつです。

先⽇、福島県相⾺市で精神医療に携わっている元同僚から勧められたテレビを⾒た。番組では、震災直後に多かった⾃死が⼀時減少したものの、最近になって再び増加傾向にあるという話を取り上げていた。その現象をアメリカの社会学者が提唱した「曖昧な喪失」という⾔葉で説明していた。はて、曖昧な喪失とは何だろう。

例えば家屋敷をすべて失った場合、ショックは甚⼤だが諦めざるを得ない状況となり、そのぶん強い覚悟が⽣まれる。ところが⼀時避難などだと、いずれ帰れると期待するが、現実は厳しく期待と失望が繰り返されるうちに⼼が疲弊してしまうのだという。覚悟ができるのと、真綿で⾸を絞められるような状況の違いは、精神科の患者さんも同様で、⼤きなショックには耐えられるのに、わずかな出来事で再発する。

ある重症の統合失調症の⼥性患者さんは、お⺟さんが献⾝的に⾯倒を⾒てくれたおかげで退院できた。ところがそのお⺟さんが突然の病で亡くなる。どうなることかと思ったが、予想に反して彼⼥の症状は落ち着き、病弱な⽗親のために家事までやるようになった。しかしこの病気に再発はつきもの。そしてそのきっかけは、ちょっと⾯⼦をつぶされたような曖昧な出来事であることに気づいた。

親の死を覚悟して再発しなかった患者さんが、どうしてこんな些細なことに弱いのかと不思議に思う。でもこれは統合失調症の患者さん全般に⾒られる傾向なのだ。⼤きな出来事に平気でも「こんなことくらいで︖」というようなことで再発する。それは何も精神障害の⽅特有の現象ではない。

実は私も⾃分を「逆境に強い⼈」だと思っていた。だがその認識は間違っていたかもしれない。⼈間はそもそも逆境には強いのだ。むしろ些細なことや曖昧なことに弱いのが⼈間なのではないか。分かりやすい逆境にあれば、覚悟ができるし、周りの⼈が助けてもくれる。

ここからがポイント!

自分でも読み返しては、心するところ。

だが些細で曖昧なダメージは外からは⾒えず、周りの助けも得られないまま知らず知らずのうちに本⼈の⼒を奪っていく。

震災は極端な例であって、そもそも考えてみれば⼈⽣とは、⼦どもが巣⽴っていくあたりから最期を迎えるまで、曖昧な喪失体験を繰り返していくようなものだ。そして⽼いていくこともまた、希望と失望を繰り返しつつ、だんだんできなくなることが増えていく、まさに曖昧な喪失体験の典型である。⼈⽣の途上にある私には、それに対してどうしたらいいかという知恵は浮かばない。けれども、希望と失望の繰り返しであるグレーゾーンな⼈⽣そのものを、苦しさ⾟さも含めて味わえる⼼境になりたいと思う昨今である。