電話嫌い

今日も当直で、ちょっと用事をしようと思っていたら。

電話。

イスラエルの娘からである。

取りたくないのだが、何かあっても困るのでとったら・・・・・・

えんえん、しゃべることしゃべること。

私は電話嫌い。

というより、あまりおしゃべりが好きではない。

くだらない話や愚痴で時間をとられたくない。

我慢して聞いていたら、すっかり思考停止になってしまった。

だから今日は写真だけ。

冷たいかな? 冷たいと言われも平気。

私は携帯電話のない時代に生まれていても良かった。

連載コラム(40)叱ることのむずかしさを思う

<40>叱ることの難しさを思う

上司に叱られたと⾔って落ち込む患者さんの話を聞くにつけ、叱ることの難しさを思う。そして、つくづく褒めるより叱るほうが何⼗倍も⼤変だと実感する。

私は⼦どもの頃、祖⺟に育てられたのだが、叱られた覚えがない。祖⺟は⾔葉では叱らなかったが悲しそうな表情を⾒せた。私は幼いながらも悪いことをした⾃覚があり、⼩さくなっていた。「⾃分のような⼦どもでも、悪いことをした時には、分かるものだ」ということにわれながら驚いたことを覚えてい

る。⽗親の⼦育ては、普段は何も⾔わないが、いったん約束を破ると、板の間に何時間も正座させるというものだった。

そんな経験からわが⼦にも、がみがみと叱る⼦育てはしなかったし、誰に対しても叱ることは苦⼿で、また慎重でもある。院⻑になってからも患者さんや職員を叱ることはあまりない。軽く注意を促すか、あるいは⾃分が叱らず、しっかり冷静になってから適任の⼈に注意してもらう程度である。

私がなぜ⼈を叱らないかというと、あまりにも叱ることが難しいからだ。叱りたいと思う時、私は相⼿のためを思うと同時に、⾃分の⽴場上であったり、あるいは⾃分の思い通りに育っていない相⼿に対して失望や腹⽴ちの気持ちが混じっていたりすることにも気づく。するとためらってしまうのだ。また、相⼿の事情や体調、⼼の状態抜きに叱ると危険だし、相⼿にとっては⾔い分があっても上司や主治医に⾔い返すのは難しいだろう。そんなこんなを考えすぎて、ついきつく叱れなくなる。

ちなみにかつて厳しく叱ったことのある職員に聞いてみた。「昔、2回ほど叱ったね。覚えてる︖」。すると「あれは院⻑のためにやったことなので納得がいかなかった。でも⾔い返せなかったんです」「もう1回は忘れました」と⾔う。「じゃあ、2回とも的外れで学びになっていないね」と2⼈で思わず笑ってしまった。そんなものなのだ。

クリニックをやっていた20年前には、ある対応のきつい看護師にとても優しく「あなたの⾔い⽅ははっきりしていて分かりやすいけど、患者さんによってはきつく感じる⽅もいると思う。相⼿によるので気をつけてね」と注意したことがある。翌⽇私が受け取ったのは彼⼥の辞表で、翌々⽇からパッタリ来なくなった。あ〜あ。きつくても優しくてもだめなら、いったいどうすればいいの。

今の私の結論は「上司は⾃分の意⾒を⾔い、相⼿にも話す余裕を与え、対等に話し合うくらいがちょうどいい」というものだが今後も試⾏錯誤は続くだろう。こんなゆるいことを⾔っていると、⽴派な⽅からは、まさに「お叱り」を受けるだろうか。