連載コラム(23)役割や義務から降りてみる

 

先⽇、35歳の男性がちょっとした事件を起こして、家族と警察の⽅に連れて来られました。

⾒るからにふてくされておられ、投げやりで視線も合わせないとされません。話そうという気などさらさらないのが明らかでした。

これまでも精神的に不安定になっていくつかの病院を回ったらしいです。が、「精神科医なんて信頼できない」と⾔う気持ちであるようです。

「どの医者も少し話を聞いただけで病名をつけ、薬を飲むように⾔うというようなことを思っているらしいと家族から聞きました。

 

「しかも医師によって、病名はバラバラ。⼊院も絶対イヤだ」という感じで、どうも時間をかけても埒があきそうにはありませんでした。

 

普段は、病名をつけたり薬を処⽅したりするのが医者の役⽬です。しかし、それをのっけから批判され、同じことを繰り返すわけにいかなくなってしまいました。

そこで奥の⼿を使うことに決めました。

 

それは“医者を降りる”ことです。

 

患者さんの⾔うことはある意味正しいと思われます。

診察とは言え、初対⾯の相⼿に突然⼼の秘密を打ち明けろというのは無理な注⽂でだと思えなくはないと思いました。

私にもその気持ちが伝わり納得したので、まずそれを伝えました。

そして短時間で彼を分かろうとすることも、病名をつけることも、薬を勧めることも、治そうとすることからも降りることにしたのです。

 

ここまで原稿を書いていたら、義妹が家に遊びに来たので要約を聞いてもらいました。

すると、「今やっているテレビドラマを思い出したわ。弁護⼠の主⼈公が、難問題に⾏き詰まると、最後に弁護⼠バッジをわざわざ外して向き合うの。すると不思議と難問が解決する筋⽴てなのよ」と⾔うのです。

 

役割や義務から降りて、ひとりの⼈間同⼠として向き合い、話し合うことが解決につながるということだろうと解釈したのでした。

しかし、ドラマではそれが成り立ちますが、現実に医者が医者を降りるのは簡単ではありません。

 

上司が上司を降りるのも簡単ではありません。

 

親が親を降りるのも簡単ではありません。

その仕事にプライドを持っていたり、何かをやってあげることに誇りを持っていたりする真⾯⽬な⼈ほど困難かもしれないと思われます。

役割に囚われ、義務に縛られ、⼀⽅的に決めつけたり、何かをしてあげたりするという関係になると、相⼿の気持ちに寄り添い共感することが難しくなります。

そこに⼈と⼈としての関係は築きにくかもしれません。

これは役割や義務を持たされているすべての⼤⼈が陥りがちな危険な罠かもしれないと考えるのです。

 

ところで事件の顛末ですが、その後、患者さんは少しずつ⼼を開いて話をしてくれ、そうこうするうちに「おれ、⼊院する。少し休むわ」と⾔って私や家族を驚かせました。

⼿ごわい患者さんほど教わることも多いなと思います。

何かに⾏き詰まったときには、肩の⼒を抜いて深呼吸。

弁護⼠バッジを持たない私は仕事場なら「医師から私に変⾝︕」。

⼦どもに難問が出たときにも「親から私にヘンシーン︕」と唱えることにしましょうか(笑)。