連載コラム(32)じりつとはの深い意味

<32>「じりつとは」の深い意味

30歳をすぎた頃、九死に⼀⽣を得る体験をした。幼い⼦ども4⼈を連れて、家族でドライブに出かけた時のことである。

途中、景⾊のいい場所で夫が⾞を⽌め、先に外に出た。道の左側は絶壁で落ちたら奈落の底、という⾼さである。その時、⾞がじりじりと下り始めたのだ。運転をしないペーパードライバーの私にもブレーキが⽢いのだと分かった。

慌てて夫に「⼤変︕⾞が下がる︕」と叫んだのだが、彼はうれしくて⼿を振っていると勘違いしているようである。私は咄嗟に「この⼈を当てにしていたら⼦どももろとも死んでしまう」と判断した。頭が真っ⽩になったが、とにかく⾃分の⼒でなんとかしなければと、めちゃくちゃ両⼿を振り回した。どこかにブレーキがあるはず︕との考えがよぎったのだ。すると、アッという瞬間があって、⼿がハンドブレーキに触れた。それを⼒いっぱい引いて、⾞は⽌まった。

私の⾃⽴⼼が、⾃分と⼦どもの命を救ったと思った。そして、若い時に免許を取らせてくれた⽗に感謝した。運転を全く知らず、夫に依存する体質だったら、死んでいたと思う。

この事件はずっと私の中のテーマだったが、最近、室井滋さんの「しげちゃんと じりつさん」という絵本を読んだ時、⼆つの事柄がつながった。おばあちゃん⼦のしげちゃんは、おばあちゃんがいないとだめだったり、夜も祖⺟と⼀緒に寝たりする⽢えん坊さん。だが、⼩学校1年の通信簿で先⽣に「⾃⽴を︕」と書かれてしまう。そこでお⺟さんは1⼈で寝られる⼦になるよう仕向けたのだが…という内容である。

室井さんは「親⼦で“じりつ”を考えるきっかけにしてほしかった」と⾔う。⾃⽴というと⼀般には「親の家から出る」「⾃分で稼ぐ」というイメージだろう。でも、それらは強⼒な⼿段の⼀つだという意味であって最終の⽬的ではない。

私の命を助けた「じりつ⼼」も、しげちゃんのお⺟さんが考えた「じりつ」も、そんな狭⼩な解釈ではない。⾃分の頭で考え、⾃分で判断し、⾃分で⽣きていく⼒をつけるためには、どうしたらいいかという話である。

咄嗟の判断⼒の違いが⽣死の分かれ⽬になることがある。同じ病気になっても「治る⼈」と「治らない⼈」の差になって表れることもある。障がい者や⾼齢のお年寄りのサービスも⾏き届いていればいいとは限らない。⼗⼈いれば⼗⼈、百⼈いれば百⼈、⼈それぞれに「じりつ」の内容は違う。

あなたにとっての「じりつ」とは何か。「じりつ」にはゴールなんてないのだ。私はこれからも⽣きている限り、⾃分の⾜でしっかり⽴って歩いて考える⽣き⽅をしたいと思っている。