うつにならないために取り入れたい朝習慣

今日は「うつ病にならないために取りいれたい朝習慣」というテーマを取り上げたいと思います。うつは誰でもかかる病気です。できたらなりたくないですね。

でも「うつ」って、知らず知らずになっていく、気づきにくい病気なんです。が、反面、あるたったひとつのことを意識するだけで、心理検査よりも早く、自分で気づくことも出来るんですよ。

 

そのポイントは、朝起きた時の気分をチェックすること。簡単にその日の体調やうつの始まりがわかりますよ。チェックの仕方もカンタンです。

みなさんは今日、どんな気分で目覚めましたか。その気分には3つの段階があります。

一つ目。さわやかな目覚めで気分も良く、やる気もあった。

二つ目。なんとなく起きた。気分がすぐれないということはなかった。

三つ目。又一日が始まるのか、学校か仕事かというちょっと重い気持ちだった。この3つのうち、どれでしたか。

さわやかな目覚めは、健康の証です。

でも三つ目だった方、つまり目覚めが悪く重い気持ちで起きたという方は、こころと身体がやや不調かもしれません。

もちろんそんな気分だったからといって、うつであるという診断はできません。でも、不調であることに気づいてあげ、自分の心や体を守ってあげることが出来ればうつになることが予防できます。

 

うつの病気の始まりは、そんな朝起きた時の気分の重さが続くことです。毎日のように続くことなんです。

 

では、そんな人がいったいどんなことに気をつけたらいいでしょうか。

生活習慣、睡眠、食事、働き方やその内容、家族関係などをひとつづつ見直すことです。

 

40歳代のバリバリ会社員の男性が「朝、起きた時憂うつで仕事に行きたくない気分なんです」といって来院されました。先ずお聞きするのは睡眠、それから食欲と続きます。

ひとつひとつチェックですよ。

その方も、やはりぐっすり眠れた感じがないとおっしゃいました。そしてそれら症状の裏には仕事の量が多すぎて疲れはていた状態があったんです。薬も使いつつ、まずは仕事を減らせませんか?から始まりました。一ケ月後には改善に向かっていたので、半年ほどで薬なしのカウンセリングに移行しました。

 

さて、今日の話をふまえて私が一番お伝えしたいこと、それは。朝の目覚めに注目すること、そしてそれを習慣にする大切さです。歯磨きのように習慣にするということ。

 

あなたは今現在、忙しい現役世代ですよね。そんなことに注目する余裕もないままベッドを離れていることでしょう。でも、その時の気分に少しだけ目を向けてあげてください。

朝は一日の始まり。脳や身体が動き出そうとするその時に、ということに意味があります。

 

うつの予防だけでなく。実はあなたが今より健康に生きるために欠かせない習慣です。あなたの不調に気づいてあげるのは、あなたにしかできません。ぜひ忙しいあなたの明日からの朝習慣に取り入れていただければうれしいです。

これからも、あなたに出来る簡単な心の持ち方や習慣などについて発信していきたいと思います。

 

続・定休日

 

仕事行く前に少し散歩した。

どこにでも咲いているのが、アナベルと都忘れ。

わが家のカサブランカもとうとう咲いた。

 

都忘れを、裏から撮ってみた。

 

今日もこのブログ、定休日、みたいなもの。

インターネットとの距離感がとれずにいる。

生活の見直し

つい先日まで、自分は健康だと思っていました。

しかし、ある出来事をきっかけに頻脈発作が出てからのこの一ケ月。なんだか疲れやすく、また期外収縮なども起こりやすくなりました。

なんだか身体に自信がなくなってきました。

しかし考えてみれば、私の年齢で、月曜日から土曜日まで働き、日曜日も原稿や家事があり、しかも当直を若い人と同じようにこなしていたら、身体がヘンになるのは当たり前のことです。

昨日、知人の精神科医に「慢性の緊張状態」のせいで起きる「不整脈」と指摘され、今さらながら ハッと気づきました。

職場にいると過度の緊張感を強いられています。家に帰ると本当にほっとします。

家は家族も少ないので静かですし、森の空気感もいいです。猫たちにも癒されます。

自分を過信していなかったか。

思いきって、やむなく月一回程度行っていた病院に☎をして一方的にやめることにしました。出かけていって言うと、押し切られてしまうからです。

暮らし方の見直しをしなければいけない時期に来ている。

そのことを教えてくれた体調不良だったのではないかと思えるようになりました。

食べたものを書く行為は楽しいです。

一ケ月限定でおこなってみようと思っています。

カロリーなどにとても詳しいので、食べたもののカロリー計算は難なく行えます。

食べる行為をもっと大切に出来るような気がしてきました。

どんな結果になるでしょうか。



私にとって大切な時間とは?

私の日常はとても忙しい。そして、それも自分で決めることが出来ない状態である。

外来の曜日は決まっているし、当直も他の方との関係で決まってしまう。

半日を一単位、当直は一回分を一単位として、週間の単位数を計算する。たとえば今週は13単位だ。

一週間を7日とすると、一週間は日曜日もいれて、14単位。なので13単位ということは、週間の休みが半日しかないことになる。

私の目標は10単位である。一週間に5日分働けば十分だと思う。それが13単位とは。これはこの数年続いている。

今の働き方が自分の意思で変えられない以上、私の決めることは、仕事以外の時間の使い方だ。

夫にやれる家事は手伝ってもらう。しかし家事の大半はやはり主婦でないとわからないことも多い。

するとますます自由時間が少なくなる。

その少ない自由時間をどう使うかが問題となる。

やりたいことはたくさんある。その中で。

どうしてもやりたいこと。これだけはやるということをつきつめていく暮らしとなる。

そんな人生、大変でしょ、嫌でしょ、と思われるかもしれない。

しかし考えようによっては。

自分の人生に何がもっとも大切か。

を考えることになる。

それをつきつめることは、私にとって意味のある取り組みだと思うし、いつか「あの忙しくて、窮屈で、自由時間のなかった時期もそれなりに楽しかった」と思う時がくるかもしれない。

いずれにしても。

その貴重な時間を使って、このブログを書く。書く意味は自分でもまだわかっていない。でもなぜかパソコンに向かっている。自分と向き合う時間が自分にとって大切な時間になっているのかもしれないし、そうでないかもしれない。

ただ、できるだけ短い時間で書くことだけはこころがけている。いろんなことを最短で行う、時間を大切に使う習慣だけはしっかりとついている。

男の子が生きていきにくい社会だと思いませんか。

私がクリニックを開業した平成3年ごろには、クリニックに来るのは、若い女性や主婦の方が、クリニックを利用し始めたころでした。

男子たるもの、精神科クリニックになど行くべきではないという風潮でしたから若い男性の来院はかなり少ないでした。

若い女性の過食症や拒食症、強迫性障害の方など、今まで誰にも相談できないで苦しんでいた方たちがこぞって精神科の門をくぐりました。

 

ところがこの数年、若い男性ばかりがとても多くなっています。その多くは本来の精神的疾患ではなく、社会に適応できない、会社に適応できなくて悩む方です。とても軟弱で未熟さが目立ちます。

初診の方で多いのが、若い男性、それから認知症のお年より、それについで初老の女性です。若い女性の来院は昔に比べたら少なくなっているように感じます。

初老の女性が多いのは、これまた女性の寿命が長くなり、それまでの生き方の問題が噴出してくるせいです。初老の男性が少ないのは、男性は生き方で悩むほど頭がやわらかくないですからね。来られる時は、認知症になったときです。

生き方が多様化して生きていきやすくなったのは若い女性です。逆に男性は多様化したことで生きにくくなっているように感じます。

なぜなら多様化したせいで、どんな生き方でもいいとは言うものの、どう生きていったらいいかわからなくなるのですね。「男子たるもの、一家を養っていかなければならない」という男性性は当然求められます。一方、家事を手伝う人としてまたイクメンとしても期待されています。アイデンティティーが持ちにくいです。昔の男性よりはるかに立ち位置がむづかしいのです。

しかしその前に、家庭が母性化しているので、母親に取り込まれて軟弱に育ちます。未熟なまま社会に出ます。しかし家庭から一歩出ると、男性社会ですからきびしいですよね、外の世界は。楽な仕事なんてないですから。

一方、母性化した家庭の中でのびのびと育った女性は、そもそも家からも社会からも期待されていないので、肩にのしかかってくるものの重さが違います。

「期待されていない」というのは悲しいようですが、どっちにころんでもいいわけですから気持ちがラクなんです。のびのびしています。働いても良し。結婚しても良し。未婚でも良し。いいですよね、この自由さ。

 

男の人が生きていくのは大変な時代にもっともっとなっていくことでしょう。

 

男の子の子育てには、いくつかの注意点があります。

本来、女性は産む性なので逞しく、男性は見かけとは別にデリケートでナイーブな人が多いように思います。

 

男の子が逞しく育つために必要なちょっとしたコツを知っているのといないのでは、社会に出てからの生きやすさが違ってくるでしょう。

お母さんに去勢されたような軟弱な男の子が増えて、クリニックの門をくぐる男性が多いのは悲しいことです。

それはその前の、結婚する時の「ふたりの関係」から始まるのですが、結婚する前の男女の関係を育てる分野の仕事をする方がいてもいいと思うほどです。だって早いほどいいんです。安易に結婚したり、恋愛をしているようで、実は対等な尊敬や信頼の関係にない恋愛から結婚生活が始まると子育てにも影響が出ます。

精神科で定点観測をしていると、10年単位くらいで、時代の変化を感じます。精神科は、もっとも社会の裏面、ホンネの部分が見える場所。

そんな場所にドンと座って、ゆっくり患者さんの声に耳を傾けている時が一番こころが落ちつきます。

私もまた、患者さんになれる素質を持っているからでしょうか。

しかし「医療」とか「疾患」というより、社会的、心理的側面で病む患者さんが、医療費を使って診療を受ける今の体制はよくないと思います。社会が悪いという前に親たち、大人たちが学び、変わっていかなければいけない面があると思っています。

 

人が亡くなること。

昨日、100才にも近いご高齢の方が亡くなった。

主治医が不在だったので、私がお看取りをおこなった。

ただただ眠っていて、普通に息をされているかのような感じだった。

でも亡くなっているのだ。

すごく不思議な感覚だった。

悲しくなかった。

 

病院であたり前におこなわれている看取り。

なんだか感情がない「死」の儀式。

 

お子さんがもうおられないのか、孫さんが来られた。

孫さんは若い女性で、幼いふたりのお子達を連れておられた。

やっぱり悲しい素振りはなかった。

準備をする間、お子達を笑いながら普通に遊ばせておられた。

 

なんにも変わらない病院の中、誰かの感情も特別動かない中で、ひとりの人が亡くなった。

 

病院ではあたり前の、日常的なことだけど、こんなにあたり前でいいのかなと思った。

でも当たり前の出来事のひとつだとも思えた。

 

初めて医者になった時に、初めて人を亡くした時は泣けた。

今ではもう泣けない。

 

でも、生きておられるうちは、全然面会に来ない方ほど。

亡くなった時、大騒ぎされたり、大泣きされることがあって。

それもまた不思議に思う。

 

生きているうちに、もっと喜んだり悲しんだりしたらいいのに。

生きてる時は、全然会いにも来ないのに、会いに来ない人ほど。

亡くなったときに大泣きする。

 

それも不思議な現象だと思う。

 

やっぱり、生きているうちに、喜んだり、大事にしたり、悲しんだりしたい。

そう思う。

 

亡くなったらもうおしまい。

身体は朽ちるので、心の中で出会うしかない。

 

健康年齢を上げる(樋口恵子さん)

 

樋口恵子さんは、いつの時代でも、時代の先取りをすることを

得意として、つっ走ってきた人らしい。

記事の中で「人生100年の時代を迎えて」と言われていた。

 

「人生90年」とは最近よく言われることだが。

たしかに100才になる人口も増える一方だ。

 

私の外来患者さんの中にも、まもなく100才を迎える方が

何人かおられる。

10年前には考えられなかったことだ。

 

さて、樋口さんの主張は「健康年齢を上げなければいけない」

いうことだ。(平均寿命が上がっても、それだけでは意味がない)

今後は、そのことに積極的に取り組んでいくと言う。

 

運動は必須項目であるが(畑でもボランティアでもいいのだが)

運動をしない人の言い訳は、こうである。

 

「私、長生きしないから!」

「私、施設に入るからいいの!」である。

 

おいおい。長生きって、したくて出来るもんでも、

したくないからしないものでもないのよ。あなたみたいな

人こそ長生きしちゃうんよ。

 

あのね。施設に入るっていうけど、金があるからいいって

もんではないのよ。

誰が看るの、あなたを看る若い人なんて、その頃にはいないのよ。

今でさえ、介護の人手が足りなくてうんと困ってるの。

なまじっかお金持ってるからって、わがままなこと言うんじゃない!

 

そう心の中で叫んでいる私がいる。

そこそこ金を持ってる人って不遜だよね。

あなたを誰が看るの。金だけでは解決できないんよ。

仕事で介護に従事してる人の給料、知ってますか?

あなたの年金より安いんですよ。あり得ますか?

 

とにかく、長生きするリスクはしっかり計算に入れておいてね。

そして、人手が足りなくて、誰もあなたを看れないの。

今、病気の人は私たちが看る。

でも今、健康な人は、ずっと最期まで自立できるよう努力

してね。

多分、そのころは介護してくれる人、数的にうんと足りないと

思う。社会全体のことも考えましょう。

 

そして、それぞれが努力しようね。

樋口さんの言いたいことが、そうかどうかはわからないけど。

私の言いたいことは、社会の変革と自己努力です。

 

病気とつきあう時に(樋口恵子さん)

私がまだ30才くらいの頃から、樋口さんはもう有名人だった。

理性が勝ちすぎている感じで、あまり好きではなかったが。

84才の現在も、引く手あまたでご活躍の様子を見ると。

好き嫌いではなく、尊敬してしまう。

誰にでも出来ることじゃないからね。

 

今日の新聞での記事のこと。

たくさんの病気を経て、今でも病気とうまくつきあっていると

書かれていた。

大病をした時、ご主人が他界されていて、同居するひとり娘さんも

忙しい医者で、まったく当てにできず。

たくさんの女友だちに助けてもらったという。

 

ひとりの親友より、たくさんの女友だちグループです。

 

そう主張されていた。

 

それでも、不調が現れたとき、すぐさま車で救急外来に連れて

いってくれた同居する娘さん、いたからこそじゃないかと

考える。

大動脈瘤破裂寸前の大病で、命拾いしたのが幸いと言える一刻を

争う病気だからだ。

 

娘より、友達グループと言いきることができるのは。

同居する娘さんがいたからこそじゃないのか。

人間、あるものは もうあたり前になるんだというのが感想だ。

 

それを前提として 女友達グループが一番というのは、

女友だちグループなんて誰でも持てないことを考えると。

あまり現実的じゃないなと思う。

私のように働いている女性に、友達をつくる余裕もない。

 

自分が持っているものは一体何か。

いざという時のものを、どうやって増やすか。

そしてどう生かすか。

 

それぞれが見つめ、状況に応じて自在に変化していく

ことが大事ではないかと思った。

「人生100年の時代を迎えて」という記事だった。

続きはまた明日。

ぶちまけた話・・・

わたしは、こんなに広くて立派なマイ ルームを持っている。

しかし、足の踏み場もない日が多い。

ぶちまけた話、ここにくるのは着替えの時だけ。

どんどん汚れていく。

今日はちょっと大掃除をした。

☆   ☆   ☆

この2月まで3ケ月、日曜日になると雪道を一時間ばかり散歩していた。

雪道はやわらかいあたたかさがあり、街を歩くよりずっと歩きやすい、寒くない。

だけど、不整脈が出てから、散歩も控えるようになった。

運動不足になると夫にいうと「ふき掃除をすれば」という。

とてもいい案だと思い、数年ぶりに 日曜日にはふき掃除をすることになった。

禅の修行をしている気分だ。

☆     ☆    ☆

ぶちまけた話、私が家にいるのは日曜日だけだ。

だから 本当は散歩できる身分ではないのだ。

なぜなら 自分の部屋に入るのも 日曜日だけ。

ということは植物が枯れるのだ、

しばしば、自分の部屋の鉢物を枯らしてしまう。

枯れて初めて、ああ 忙しくしてたんだと思う。

でも私の忙しさでは、リビングはともかく、自分の部屋に鉢を置くと枯らす。

でも忙しさの指標になっていい。

日曜日は掃除や整理をする以外、選択肢がないというわけだ。

今日は私の部屋の整理をした。

でも 下の写真は ダイニングテーブル。

 

ダイニング テーブルには、今日中に片付けないといけない種類でうまっている。

お客さん用の 大きな一畳もあるテーブルも、私の本などでいっぱい。

ぶちまけた話。

わが家は、私の物であふれている。

ああ、夫が怒っている。

片つけたゴミの袋が玄関に山。

それをほうっておいてパソコンでこれ書いている私って本当に怠け者。

ああまだまだ片付けはつづく。

でもきれいのすることは楽しいよ。

☆  ☆  ☆

今日は「ぶちまけた話」という言葉を3回も使った。

いつもきれいな場所を選んで写している。

しかし、足の踏み場もない場所や書類や本の山。

夫の怒りの声。。。。などが行き交っているのが、わが家の真の姿だ。

でも、今日はこぎれいな家に住もうと決心した。

 

メルマガは、こんな感じです。

アフタークリニックでは、毎週メルマガを出しています。

私のほかに、スタッフさんたちも書いてくれるので二本立てです。

たとえば明日、発行のメルマガはこんな文章で始まります。

    ☆   ☆  ☆

今週から「うつ病」について何回かに分けて書きたいと思います。

 

「うつ病」は今では誰でもかかる病気として認知されています。

しかし、以前は十分な理解が得られず「怠け病」などと呼ばれていました。

最近では、うつ病は誰でもかかる、という理解までは正しいのですが、

元気がなければ「うつ病」

やる気がなくなれば「うつ病」 

仕事に行けなくなったら「うつ病」

引きこもっていれば「うつ病」という風に、

なんでも「うつ病」にしてしまう傾向が強くなっています。

 

なぜこんなに極端に走ってしまうことになるのでしょうか。

 

それは「うつ病」の診断がたいへん難しいからです。

私は精神科医歴が長いのですが、単純に見える「うつ病」の診断を

むづかしいと感じます。

血液検査やMRIで診断がつかないのです、厄介ですね。

精神科医にとっても「うつ病」の診断は困難で、また深いもの。

他科の医師がその診断を正しく行うことは無理かもしれません。

 

うつ病の本質を一言で言ってみましょう。

「うつ病」とはエネルギーが枯渇した状態です。

いわゆるガス欠ですね。

どんなに憂うつ感が強く、やる気がなくて元気が出ないように見えても、

エネルギーが枯渇していなければ「うつ病」ではありません。

 

では、エネルギーの枯渇とはどんな感じでしょうか。

 

たとえば、「自分はこんなに憂うつである。何ひとつやる気がしない」と

多弁に訴える方がいます。

そんな場合には、うつ病以外の病気を疑います。

エネルギーが枯れると、しゃべる気にさえならないからです。

「訴える気力も出ない」というのが正直な気持ちかもしれません。

文章は思うように書けません。

絵を描いてもらうと、消えそうな薄い線で小さく小さく描いてしまいます。

 

 

反対にこんな例もあります。

うちの娘は「うつ病」の診断で数年も引きこもっています、という場合です。

これもやはり、うつ病以外の病気を疑ってしまいます。

 

引きこもっている状態は、虐待でもないかぎりは、エネルギーの溜まる環境です。

数年も引きこもっていてエネルギーがたまらないということはないのです。

 

 

なぜなら、人間というのは生きています、エネルギー体です。

エネルギーの枯渇状態というのは、どんどん枯渇してなくなるか。

逆にエネルギーに満ちて元気になるか。

かならずどちらかの方向に向かいます。

何年も同じエネルギー状態でとどまるということは本来むづかしいことなのです。

 

何年も社会に出れない場合は、エネルギーが枯渇したことによる「うつ病」

ではなくて、何らかの理由で、ブレーキがかかっているのですね。

          (つづきはメルマガで)

            ☆    ☆    ☆

メルマガを毎週出し続けるなんて、どんな感じになるのでしょう。

大変でしょうね。

けれど、生きているかぎり何かを考えながら生きているわけです。

息をするように言葉を連ねていけばいいのかな、と考えています(楽天的?)