連載コラム(27)忙しさの中で見えたこととは?

 

うつ病など、⼼の不調を来した⽅がよく訴える悩みに「家事ができない」「仕事がはかどらない」などがあります。

「部屋はごちゃごちゃ、⾐類の整理ができない」「料理のメニューが浮かばない」などです。

 

この問題を⼼の病の治療法という観点からではなく、多くの⼈に共通する悩みとして書いてみたいと思います。

 

なぜなら⼦育て中の⺟親、介護をしている⼈、⾼齢者、ハードワーカーなど、時間的にも精神的にも余裕がなくなると、こうした状況は誰にでも起こりうると思うからですし、私⾃⾝もその⼀⼈だからです。

 

そんな時、ある新聞記事が⽬にとまりました。

アメリカのデパートで接客をしている⼥性が、⽩いシャツに⿊いパンツを⾃らの定番と決めてそれで通しているというものでした。

本来ならその⽅は洋服を⽇替わりで着がえる⽴場にあったのです。が、「男性のスーツのような装いでも何ら問題ない」というその女性の⾏動は、⼈々に好感を持って受け⽌められることとなりました。

そして「⼥性だからといって洋服を変えなくていいのではないか」という議論が巻き起こったらしいのです。

 

私はそれにヒントを得て、というか、勇気を得て、⾃分の⾐類を⼤幅に減らすことにしました。

そして仕事や会議などで失礼にならない程度にシャツやセーターとパンツ姿で通すことに決めたのです。つまりスーツは持たないのです。

以来、私の定番化はさらに進み、数枚のシャツやセーターに2〜3本のパンツを着回すのみとなりました。

⾐類の整理や⾐替え、洗濯やアイロンがけにとられる時間はほぼ皆無となり、本当に快適です。

 

私は⾃分に能⼒的・時間的にモノの管理能⼒がないことをよくわかっています。

それは、うつ病になった⽅が本来の能⼒を失った状態ととても似ていると自分では思います。

また私には他の⼈の視線を気にする以上に「するべきこと」「したいこと」があるのです。その時間がほしい!

 

つまりモノの管理にとられる時間があったら、仕事や健康管理をしたい。

ここがポイント!

何かしたいこと、するべきことのためには、捨てること、諦めることが必要なのではないでしょうか。

また、能力がなかったら諦めたり減らしたりすればいいのではないでしょうか。

「○○できない」と悩む⼈の多くはそうした現実をしっかり⾒ていないように思います。できなかったら、それを認めてしまえばいいのです。

⾃分の能⼒を過信し、若い時と⽐べ、他の優秀な⼈と⽐べ、病前と⽐べているのではないですか。

「⾐類の整理ができず⼭のように積まれている」と悩む⼈への助⾔は、「枚数を減らしなさい。⾃分で管理できる枚数にね」です。

能⼒や時間のある⼈が、どんなに⾐類を持っていようと構わないと思います。

だけど、今の⾃分に余裕がないのなら、仕事やモノや料理のメニューを能⼒に合わせて減らそうではないですか。

まず⾃分の現実を⾒つめ、本当に必要なもの、本当にやるべきことのためには、⾒栄や体裁を捨てて持ちたいもの、やりたいことの数を減らそうではありませんか。

そうすることはきっと⼼地よい⾐⾷住の、そして幸せな⼈⽣への第⼀歩ではないかと私は思うのです。

 

 

連載コラム(26)人生の落とし穴・乗り越え輝く

 

⼈⽣には何が起こるか分からないものです。

あなたは普段からそのことを、どのくらい⾃覚しているおられるでしょうか。

先⽇、私の先輩である医師が愛する娘さんを亡くされました。

娘さんも素晴らしい医師として活躍されていた中での突然の出来事でした。

彼の悲しみようはとても⾒ていられないほどでした。

 

実は10年前、私も同じ体験をしました。

⼦どもたちの無病息災を祈っている⼀⽅で「うちだけは⼤丈夫」という根拠のない安⼼感があったかもしれません。

まさか、自分の子が・・・とは誰もが思っていることです。

 

しかし、ある幸せな⽇曜⽇の朝、息⼦が事故で亡くなった知らせを受けたのでした。

わたしは突然奈落の底につき落とされてしまいました。

 

⼈⽣には“落とし⽳”があって、いつ誰がそこに落ちても不思議ではないのでしょう。つくづくそれを思い知らされたのです。

でも誰でもそれくらいの覚悟をしておいたほうがいいし、また、だからこそ平凡な⽇々の有り難さが⾝に沁みるのだと思います。

 

滋賀に⽣まれ育った私の⽗も号泣するほどの悲しみの淵に落ちたことがあります。

91歳の夏、頼りきっていた妻が病気で急死すると、亡骸を前になりふり構わず号泣し続けたのでした。

悲しみと絶望から酒に溺れ、怒鳴ったり、失態を演じたりするようになりました。

品格のあった⽗とはとても思えない⾔動が進み、⼭梨に住む私の元に嫌々連れてこられることになったのです。

つらかったことと思います。

誰もが思うでしょう。

「90歳を過ぎるまで幸せに暮らしてきたのだもの、悲しみや絶望かも、もう無縁だろう」と。

でも⼈⽣の落とし⽳に年齢は関係ないことの過酷さを知ったのでした。

最後は⼩さなグループホームでお世話になり、1⽇1合のお酒を楽しみつつ落ち着いた暮らしを取り戻すようになりました。

⼣⽅になると⼥性職員に「家族が待ってるだろう。早く帰ってやれよ」と声をかける優しさがあったと聞いています。

やがて私の顔も分別がつかなくなっていましたが、最期まで品格だけは崩れなかったように思います。

 

落とし⽳にいったん⾜をとられましたが、⾒事にそこを乗り越えた⼈の⼈⽣は、さらに輝くことを⾒せてもらったと思っています。

最近、ニュースで⾒るような事件や災害、世の中で起こるすべてのことは、あなたにも起きうることです。

 

しかし、⼈⽣の落とし⽳は、必ずしも⼈を不幸のどん底につき落とすだけのものではないと思っています。

それは⽣きている以上避けられないものであり、私たちがふたたび這い上がって成⻑するきっかけとなり得るのだと私は信じたいのです。

 

 

連載コラム(25)親しき仲にも距離感あり

先回は「嫌」を意識することの⼤切さについて書きました。今回は、その「嫌」との折り合い⽅について書いてみたいと思います。

会社に⾏けなくなった33歳の男性が来院されました。好きな仕事に就いて7年になるということです。

だけど、3年ほど前から上司と合わない。上司はやり⼿で前向き、部下からも⼀⽬置かれているそうです。なぜ⾃分が彼を苦⼿に思うのか分からないけれど、最近では顔を⾒るのも⾟くなってきたというのです。

思いきって、なんとその上司本⼈に相談したといいます。

懐が広いのか意外にも理解してくれ、できるだけ顔を合わさずに済むような仕事に回してくれたそうです。

しかし、それでもだんだんと気重になり、夜も眠れなくなってきたということで来院されました。

私は不思議だったのでいろいろと聞いてみました。

どうやら、内向的で不器⽤、地道にこつこつ仕事をするタイプの男性が、タイプの違う上司に無理に合わせているうちに、少しずつ無理が重なり、⾃分を否定するようになったと私は仮説を⽴ててみました。

 

「そう⾔えば僕は⼦どもの頃から、あまり嫌ということを⾔えなかったんです。親にも反抗したことないし。今回に関しても我慢し過ぎたのかもしれません。遅過ぎたかな」と浮かぬ顔で答えました。

 

今、流⾏りのアドラー⼼理学では、「⼈間の悩みはすべて⼈間関係の悩みである」と考えるそうですが、実際に新聞の⼈⽣相談を⾒ても、その⼤半は⼈間関係の話につきることが多いですね。

私の診察室でもさまざまな⼈間関係の悩みが渦巻いているように思えます。

しかし、そんな患者さんに私はよく、こんなシンプルな解決法を提案することにしています。

ここがポイント!

それは単純で明快。

単に「距離をとること」なんです。

 

「そんなことできないから悩むのでしょう」とか「逃げることになりませんか」と⾔わます。

そんなことはありません。

物理的には難しい場合でも「⼼理的に距離を置く」という⽅法なら考え⽅次第ではないかと思いますが、どうですか。

だけど⼈は、誰それが苦⼿とか嫌いとか⾔いながら、度々その⼈を思い出し、喜々として「いかに嫌いか」をくり返し話すことがいかに多いことでしょう。

嫌いと⾔いながら、とらわれていることに気づいてさえいないのです。

なぜだろう。なぜでしょう。

嫌いだとか苦⼿だとかと思う相手って、実はその⼈にとって気になる存在でもあるからなのです。

上司と部下、夫婦や親⼦。

⼈は「仲良くしなければいけない」という「ねばならない」にとらわれていることのいかに多いことかと思います。

そんな⼈たちに「もっと離れてもいいんだよ」と⾔ってあげたい。

⼈間関係で悩んだら⾃分や相⼿を変えようとする前に「必要以上に近づき過ぎているかもしれない」と⾒直し、⼼の中でダンシャリを決⾏することをお勧めしたいです。

いい⼈間関係のコツとはほど良い距離感にあり。

ではないでしょうか。

 

連載コラム(24)「嫌い」を大切にしよう

 

もう10年以上もお付き合いのある⼥性患者さんがおられます。

第1⼦を出産後の不調で初診となり、遠⽅に引っ越してからも数カ⽉に⼀度通っておられました。

ところが、ほとんど忘れかけていたある⽇、久しぶりに来院された彼⼥はひどくやつれておられたのです。

ご主⼈は⽥舎育ちで、「わが⼦もぜひ⽥舎の学校に通わせ、⾃然の中でのびのびと育てたい」と強く願っておられました。彼⼥はできるだけ彼の望みを叶えてあげたいと思っていたのですが、⼀⽅で義⽗⺟との同居や慣れない⼭の暮らしに強い不安を持っており、実はそれが⻑年の悩みの種だったのです。

ところがこの春、とうとう⽥舎に引っ越したのだというのです。

それからわずか2カ⽉⾜らずで彼⼥はやつれきり、病気が再発してしまったのでした。

 

そんな時私は、「結婚っていったい何だろう」と思ってしまうのです。

 

わが家は夫婦共に再婚ですが、私の提案で結婚時にある取り決めをしました。

それは、「相⼿の『好き』には必ずしも協⼒しなくていいが、相⼿の『嫌がること』はできるだけしない」というものです。

 

例えば、夫がどんなに温泉好き、旅好きであっても、私が嫌なら付き合わなくてもいいし、責められることもない。

だけど、もし夫が、汚れた⽔回りが異常に気になる性格だとすれば、私は⽔回りをキレイにする「努⼒」を厭わない。(たかがこれくらいのことで怒るかなあ、と思わぬことはないが、それは問わない)

ここがポイント!

 

つまり、「相⼿の『好き』以上に、『嫌』を尊重する」と⾔うと分かりやすいだろうか。

なぜなら⼈は、嫌なことを我慢するのに⼤変なエネルギーを要するからだ。

何が嫌か、なぜ嫌なのか…。その思いを我慢したり、抑圧したりすると、たまりにたまってどこかで爆発してしまう。

あるいは⾃らの⼼や体を傷つけてしまう。

彼⼥の夫は、⾃分の夢を叶えることばかりに⽬を奪われ、彼⼥がいかに嫌がっているかについての思いやりに⽋けていました。

もともと仲の良いご夫婦なのだが、相⼿の嫌がることを強要したために離婚の危機に⾒舞われているのです。

彼⼥の場合は「⾃分がどれほど不安な気持ちを持っているか」に気づいて、それをしっかりと相⼿に伝えていました。

 

ここがもっとポイント!!

しかし、ここが⼤事なのですが、案外⼈は⾃分の「嫌」に気づいていない場合が多いのです。

「どうせ分かってもらえない」と諦めているうちに訳が分からなくなるのです。

 

そして「まだ我慢できる、まだ我慢できる」と思っているうちに、ある⽇突然修復不能な関係になったり、体が限界を超えて不調を起こしたりという例を、これまで数えきれないほど⾒てきました。

 

お互いにくれぐれも「嫌」を軽んじることなかれ、です。

(この記事を書いたあと、一年ぶりに彼女に電話を入れてみました。千葉の実家に身を寄せたのです。電話は通じませんでしたが、どうしているかしら・・・といつも気になります)

 

 

連載コラム(23)役割や義務から降りてみる

 

先⽇、35歳の男性がちょっとした事件を起こして、家族と警察の⽅に連れて来られました。

⾒るからにふてくされておられ、投げやりで視線も合わせないとされません。話そうという気などさらさらないのが明らかでした。

これまでも精神的に不安定になっていくつかの病院を回ったらしいです。が、「精神科医なんて信頼できない」と⾔う気持ちであるようです。

「どの医者も少し話を聞いただけで病名をつけ、薬を飲むように⾔うというようなことを思っているらしいと家族から聞きました。

 

「しかも医師によって、病名はバラバラ。⼊院も絶対イヤだ」という感じで、どうも時間をかけても埒があきそうにはありませんでした。

 

普段は、病名をつけたり薬を処⽅したりするのが医者の役⽬です。しかし、それをのっけから批判され、同じことを繰り返すわけにいかなくなってしまいました。

そこで奥の⼿を使うことに決めました。

 

それは“医者を降りる”ことです。

 

患者さんの⾔うことはある意味正しいと思われます。

診察とは言え、初対⾯の相⼿に突然⼼の秘密を打ち明けろというのは無理な注⽂でだと思えなくはないと思いました。

私にもその気持ちが伝わり納得したので、まずそれを伝えました。

そして短時間で彼を分かろうとすることも、病名をつけることも、薬を勧めることも、治そうとすることからも降りることにしたのです。

 

ここまで原稿を書いていたら、義妹が家に遊びに来たので要約を聞いてもらいました。

すると、「今やっているテレビドラマを思い出したわ。弁護⼠の主⼈公が、難問題に⾏き詰まると、最後に弁護⼠バッジをわざわざ外して向き合うの。すると不思議と難問が解決する筋⽴てなのよ」と⾔うのです。

 

役割や義務から降りて、ひとりの⼈間同⼠として向き合い、話し合うことが解決につながるということだろうと解釈したのでした。

しかし、ドラマではそれが成り立ちますが、現実に医者が医者を降りるのは簡単ではありません。

 

上司が上司を降りるのも簡単ではありません。

 

親が親を降りるのも簡単ではありません。

その仕事にプライドを持っていたり、何かをやってあげることに誇りを持っていたりする真⾯⽬な⼈ほど困難かもしれないと思われます。

役割に囚われ、義務に縛られ、⼀⽅的に決めつけたり、何かをしてあげたりするという関係になると、相⼿の気持ちに寄り添い共感することが難しくなります。

そこに⼈と⼈としての関係は築きにくかもしれません。

これは役割や義務を持たされているすべての⼤⼈が陥りがちな危険な罠かもしれないと考えるのです。

 

ところで事件の顛末ですが、その後、患者さんは少しずつ⼼を開いて話をしてくれ、そうこうするうちに「おれ、⼊院する。少し休むわ」と⾔って私や家族を驚かせました。

⼿ごわい患者さんほど教わることも多いなと思います。

何かに⾏き詰まったときには、肩の⼒を抜いて深呼吸。

弁護⼠バッジを持たない私は仕事場なら「医師から私に変⾝︕」。

⼦どもに難問が出たときにも「親から私にヘンシーン︕」と唱えることにしましょうか(笑)。

 

連載コラム(22)「不安な気持ち」を成長のきっかけにしよう

九州の地震災害があったが、どこに住んでいても災害から無縁ではありません。住む地域に関わらず不安に思う⽅も多いことと思います。今回は「不安」について書いてみたいと思います。

精神科領域ではさまざまな不安を訴えて来院する患者さんがもっとも多いです。

以前、⼤きな台⾵に遭遇した⽅を診察したことがあります。

⼤きな窓のある家に住んでおられたその男性は、しなり続ける窓が割れないように⼀晩中、窓を押さえ続けていました。

夜が明け、台⾵⼀過。ほっとしたのもつかの間、間もなく強い不安障害を発症されたのでした。

不安を感じる中枢は誰もが脳の中に持っており、羅針盤のように危険を察知し、その⼈を守る装置でもあります。

しかし、その男性の場合、死ぬほどの危険を経験したことで不安装置のタガがはずれ、不安の実態は消えたのに、脳だけが過敏になったのでしょう。

不安を感じる⼒は⼈によってさまざま。夜、1⼈でトイレに⾏くだけでも怖い、という⼈もいれば、深夜の灯りのない夜道を若い⼥性が1⼈で帰宅して平気という場合もあります。

あまり過敏なのも生きていきにくいですし、深夜の暗い道を若い女性が歩いて帰っていく、などという大胆な感覚も、危険だと思います。

私の患者さんの例ですが、⾞を運転すると「何かを轢いたのではないか」という不安が怒濤のように押し寄せて、不安で不安で仕⽅がないと⾔う⽅がいます。

この⽅の場合は、常に強い不安を感じ、⼼から離れないので治療を続けているのですが、こんなケースはしばしばみられます。慎重でいいと思うのですが、本人にとってはつらいようです。

彼が運転中に事故を引き起こす危険は極めて少ないと⾔えます。なぜなら慎重の上にも慎重だから。

また私事で恐縮だが、私は原稿書きと講演が苦⼿です。

「もう書けないのではないか」「うまく講演をこなせないのではないか」という不安に絶えずさいなまれています。

経験が少ない場合に不安になるのは当然ですです。

書くことも話すことも臨床経験とは違うからです。

けれど⼈からは信じてもらえず、あまり騒ぐと嫌みになるので騒ぐに騒げないのですが、でも本当に不安なのです。

で、対応策としては、不安だから、不安で仕⽅がないから、書く能⼒のある⼈の2倍の準備や時間をかけて努⼒するしかないわけです。

「ちゃんと書けてるではないか」と言われるのですが、不安を利用して、十二分の時間をかけて準備しているからできていることなのだ、ということを人は知りません。

ここがポイント!

このように、いろいろな種類やレベルの不安がありますが、不安感は基本的には私たちにとって、なくてはならない感情だと⾔えます。

まず危険をいち早く察知し⾃らの⾝を守るために。

また不⼗分を⾃覚し、努⼒することで失敗を回避するために。

不安を知った上で⾏動することができれば、結果がうまくいくというわけです。

そう考えれば「⼀切不安がない」というのはむしろ不⾃然な状態です。

不安を感じない⼈は、実は強いのではなく、それを認めたくないのかもしれません。

もし⾃分の中の不安に気づいたら、必要以上に怖がらずに⾒つめてみましょう。

不安を抑圧せず、「⼤切なことを教えてくれるサイン」ととらえたらどうかと思います。

そうすることで、不安はあなたにとって⼤きな味⽅となり、無病息災や成⻑への⼤きな原動⼒となるに違いありません。

 

 

連載コラム(21)年代によって違う課題

⼈には、絶対受け⼊れなければいけない現実があります。そのひとつが年齢です。

50歳の男性患者さんはとても魅⼒的な⽅です。雑談の中で思わず聞いてみました。

「結婚の予定はあるの︖」

「ありますよ。でも⺟が85歳でしょ。1⼈暮らしになったらって思っています」。

私「だめだめ。どうしてそんな⼤事なことを先延ばしにするの。50歳はまだ頭も柔軟で相⼿に合わせる⼒もある。だけど、年をとるにつれ頭が固くなり、他⼈に合わせて暮らすのはもうごめんとなるのよ」

年は争えない、というのはある意味当たっています。「いくつになってもできる」という宣伝⽂句に騙されてはいけません。

⼈を個別に⾒れば全員違うので、決してひとくくりにできないとは思います。

けれどです、同じ年齢の⼈を集団で⾒ると、その年齢の特徴が如実にあらわになるんです。ほんとにごまかでない、と思うほどです。

その例ですが、教師をしている友⼈が⾔います。

⼩学校4年⽣と5年⽣では歴然とした違いがあると。

4年⽣はまだまだ可愛くて受け持つのが楽しいと感じるのだそうです。

ところが5年⽣の担任になった途端、学級運営が難しくなるというのです。

1⼈1⼈の⼦どもを⾒れば⾃我の芽⽣えなど感じない無邪気さなのに、それを集団として⾒ると違うらしいのですよ。

年齢による他の課題の例を挙げてみましょう。

18歳も節⽬です。

親から離れ、広い社会に関⼼を持ち出す時期です。

そして今振り返ってみれば、私にも20歳代、30歳代の頃がありました(笑)。

「若い時の苦労は買ってでもせよ」と⾔われ、苦労を苦労とも思わず学び、働いたし、それが今、実っているとも⾔えます。

45歳くらいから55歳くらいの更年期の⼥性たちは不調に陥りやすいですよね。

原因は必ずしもホルモンのせいではありません。

⾃分の時間もできて、それまで棚上げされていた夫婦の問題や⽣き⽅の問題が出てくる時期なのです。

やがて仕事を辞める時期がきて、さらに⽼年にもなれば、⾃⾝の⾝ひとつを持て余すようになるでしょう。

詩⼈の⻑⽥弘は「⼈⽣の最後に必要なのはただ歩くこと」と書いていて、その単純明快さに思わずうなってしまいました。

⼈⽣においては、年代ごとの課題が横たわっています。

そのタイミングを逃さず、⾃分なりに意識することが必要です。

そのためにはどうすればいいでしょうか。

ここがポイント!

⾃分より年上の⽅の⼈⽣を観察することは誰にでもできる⼤きな⼀⼿だと思われます。

課題をクリアして素敵に年とった⽅をお⼿本にし、逆にどんなにだめに⾒える⼈からも、反⾯教師として教えられる。

⼈は⼈から最も多くを学ぶのでしょう。

⾝近にいる⼈はつい⽋点ばかり⽬につくもの。

だけどあなたの隣にいるあの⽅この⽅こそ、⾃分の年齢における課題を⾒つける学びの宝庫かもしれませんよ。

 

連載コラム(20)身体の声に耳すますってどういうこと?

 

今日は、精神科医から⾒た「からだの健康法」について書いてみたいと思います。

ある⼈は90歳を超えても元気で1⼈暮らしをしているかと思えば、ある⼈は70歳を過ぎて歩けなくなったり、認知症が始まったりします。

若いころは皆同じように健康なのに、⼈⽣後半のこの違いって一体何でしょう。そう思いませんか?

私は若いころから、いつもこの疑問を持ちながら診察しているんです。答はまだ見つからないのですが。

 

もちろん⻑寿法は、今更私が⾔うまでもなく「⾷事と運動」などの⽣活習慣によるところが⼤きいこと、はよく知られています。問題は、そのあり⽅でしょうか。

ジャズダンスにはまっているA⼦さんとB⼦さんは共にからだを動かすことが⼤好き。ところがある時、A子さんもB子さんも無理がたたり膝を痛めてしまいました。

A⼦さんはダンスを諦め、膝に負荷のかからない⽔泳に切り替えることにしました。

B⼦さんはダンスにこだわり続けたのですが⼀向に膝が治らず、⽣きがいを奪われた落胆から、うつ状態になってしまいました。

健康のために始めた運動が、かえって健康の邪魔になったとも⾔えるケースです。

⾷事についても同じで、何かがブームになると、皆がそれに⾶びつく傾向があります。しかし⾷事にしろ、運動にしろ、その⼈に合ったことは顔が違うようにみんな違うのです。

違うだけでなく、その⼈の中でもどんどん変化していくものです。

だから時期や年齢、体調などに合わせて柔軟に変えていかなければならないのが健康法です。

どんなに良いことでも固定化された途端にそれは「健康法」ではなく「病気法」になりかねない、というのが私の持論です。

⾼齢になっても元気で暮らしている⽅々は、事もなげに「好きなものを好きなだけ⾷べています」とか「好きな畑仕事をしているだけ」とおっしゃることがとても多いのですよ。

頑張って運動している⼈より、⾃然体で⽣きている⼈の⽅が健康だなんて⽪⾁なことですが、実はそこに鍵があると私は思います。

そういう⼈が何もしていないわけでは決してないのです。

ここがポイント!

例えば、畑仕事、草むしり、⾞をやめて歩くようにしたなど、⽇頃からよくからだを動かしています。⾃分を⾒つめる習慣が⾝についており、⾃分が快いと思うことを選んでいます。

また、暮らしの中にからだを動かす仕組みを上⼿に取り⼊れているのです。

⾃分を過信せず、からだと相談しながら無理をしないという共通点が見られます。

つまりは健康法に情報はいらないのではないでしょうか。

それは⼈から教えられたり、押しつけられたりするものではなく、それぞれが⼯夫しながら⾒つけるものなのでしょう。

そのためには、まず⾃分の体質を知りましょう。

⾃分の好みを知りましょう。

⾃分のからだの声に⽿を傾けましょう。

そしてからだと相談しながら模索して変えていきましょう。

そうやって⾃分だけの「究極の健康法」を⾒つけ、育てていこうではありませんか。

平凡かもしれないが、そのプロセスを楽しむことが、元気で⻑⽣きできるコツかもしれないと思うのです。

 

 

連載コラム(19)叱る前に準備すること

 

最近、学校の先⽣と⽣徒の間の信頼関係が揺らいでいるための事件が⽬⽴ちます。

⼀体、信頼関係とは何でしょうか。

私の診察室では患者さんの話を聞き続けることに多くの時間を割きます。

患者さんの話すことを評価せずに、ただただ聞き続けるということを何年も続けます。

そうしますと、いざ「これは放っておけない」という時にきつい助⾔や注意をしても、素直に聞き⼊れてくれるのです。

「信頼してくれているからかな」と思う瞬間です。

 

話を元に戻しましょう。

私がいつも不思議に思うことがあります。

それは、新しく4⽉から担任になった学校の先⽣が、⽣徒が悪いことをすると、赴任間もなくであってもすぐに注意することです。

悪いことをした⼦どもに注意するのは当たり前だと思われるかもしれませんね。

でもね、⽣徒の側から⾒たらどうでしょうか。先⽣の⾔うことが正しいと分かっていても、⾃分のことを何も知らない先⽣から叱られると、ショックを受けたり、素直に受け⼊れられなかったりするのではないかと思うのです。

⼈間は、正しいことだけを⾔っていればいいというものではありません。

まず教師と⽣徒の関係性があって、その⼈間関係の上に⽴った「褒める」や「叱る」ではないでしょうか。

そして信頼関係などというものは、そもそも⼀朝⼀⼣にできるものではないのです。

私が⼼配するのは、事件に発展する場合などには、先⽣との間だけでなく、その⼦は親に対しても⼼を開いていなかったのではないかという点です。

親を信頼するとはどういうことかと思われますか。

親が⼦の⽋点や弱さも⼗分に分かった上で、⽋点や⻑所も含めて丸ごと⼦どもを受け⼊れていると、⼦どもは親に隠すこともうそをつく必要もないわけですよね。つまり弱い⾃分もさらけ出せるということです。

私も含めて今の社会が、弱さや⽋点を受け⼊れない体質になっているので、⼦どもは親にも先⽣にも容易に⼼を開いてはいけない、弱さを⾒せてはいけないと思っているのかもしれないと心配します。

こうした関係は実は、師弟や親⼦に限らず、上司と部下や、友⼈、親類などすべての⼈間関係に⾔えると思われます。

例えばこんなことはないでしょうか。

尊敬し、信頼している⼈から叱られると、ショックであっても、どこかで妙にうれしい。でも信頼していない⼈から叱られると、むしろ反発してしまう。その違いは「相⼿を信頼し⼼を開けるかどうか」にあるのではないかと考えます。

信頼関係がなければ、いくら⾔葉を投げかけても、それは閉じた⼼に跳ね返されるだけです。

ここがポイント!

本当に相⼿のためを思うなら、回り道のようでも、まずは相⼿の話に⽿を傾け、事情や思いを受け⼊れるという準備を十分に時間をかけてしましよう。

しっかり時間をかけてから注意したり叱ったりしても決して遅くはないし、むしろ⼼に沁みると思います。

 

 

連載コラム(18)たまに夫婦の役割見直してみませんんか

 

 

夫婦とは、たった⼀つしかない椅⼦を取り合いっこする営みである、と⾔ったのは⼩説家の⽥辺聖⼦です。

つまり、どちらかが先に「私、働かない」と宣⾔すれば、もう⽚⽅が⼀⽣働かねばなりません。

⽚⽅が「俺、料理は苦⼿」と⾔えば、もう⼀⽅が⼀⽣キッチンに⽴つことになります。

お⾦の管理しかり、⼦育てしかり、先に椅⼦に座った者勝ちの世界です。

理屈もなにもあったものではありません。

⼆⼈の暮らしに、椅⼦が1個しかないというのは実に激しい現実です(笑)。

そして⼆⼈の役割は結婚当初の「椅⼦取り合い合戦」で固定されたまま、何⼗年と続くのです。そんなこと、考えたことありましたか?

それがいろんな病理を⽣みます。(最近は、殺人事件にまで発展することもありますね)

認知症もその⼀つといえるかもしれません。

それは⽚⽅がやり過ぎると⽚⽅がやらなくなる。⽚⽅がわがままになると⽚⽅が我慢する。たったそれだけのシンプルな法則です。

そしてやらなくなる⽅は、能⼒がどんどん落ちていく、という事実です。

A⼦さんは77歳。68歳まで勤め続けました。しかしどんなに良いことでもパターン化してしまえば、脳への刺激にはなりません。

⼀⽅、ご主⼈は家計管理、書類関係などに⼏帳⾯で、仕事の傍らA⼦さんを⽀えたのでした。「できた優しいご主⼈ね」と⾔われ続けたといいます。

しかし数年前、ご主⼈が病に倒れて亡くなったのでした。

⾯倒なことをすべて夫に任せてきたA⼦さんは、混乱し茫然としていましたが、間もなく認知症の兆しが出始めました。

A⼦さんの認知症は⻑い年⽉をかけて、ご主⼈が育ててきたともいえるのです。

優しいはずのご主⼈が、A⼦さんの能⼒を奪い続けていたとは何と残酷な話ではないでしょうか。

でも、夫婦がお互いに相⼿の能⼒を奪い続けた結果、より奪われた⽅が認知症になったケースは多くみられます。

誤解しないでほしいのですよ、優しさが悪いわけではないのです。また夫婦の役割分担は合理的だし互いに好都合だと思います。相⼿の領域に踏みこまず、少し距離を置いて喧嘩を避けるやり⽅は賢明でもあります。

ここがポイント!

しかし、⼈としての成⻑や頭の訓練という観点から⾒たらどうでしょう。性格や能⼒の違う⼆⼈だからこそ、喧嘩や葛藤を通じて成⻑できるのが夫婦ではないでしょうか。

⼀⽅が相⼿に遠慮して気遣うあまり、相⼿の⽋点がむしろ増⻑されていると感じる場合もあります。

相手に無頓着になっている。相手との険悪な雰囲気をただただ避けている、などなど。

相⼿の顔⾊をうかがい、出来上がったパターンを崩すことを恐れると、互いの⽋点が修正されないまま増⻑し、加齢によってエスカレートしたり、能⼒が衰えたりするのかもしれません。

固定化された夫婦の役割を⾒直し、交代を検討してみてはどうだでしょう。

また苦⼿だと思って避けてきたことをやってみることで、眠っていた能⼒が⽬覚めた例は年齢に関係なくしばしば⾒られることです。

さあ、あなたは今⽇から、何に挑戦してみますか。