心療内科・中井教授

関西医科大学心療内科学教授・中井吉英先生の講演を聞きに行った。

九州大学池見寅次郎教授の弟子である。

 まずは精神科・神経科・心療内科・神経内科の違いを説明したい。

精神科とは、カラダに異常がない精神的な疾患をみる科である。カラダの診察はまずしない。

神経科イコール精神科である。「精神科」が聞こえが悪いので「神経科」と呼ぶことがある。

神経科を標榜している医師は精神科医である。

これに対し心療内科とは、内科学のひとつである。体に症状が出ている人に対して、カラダの面と心理的な面を切り

離すことなく、両面から診る。だからカラダの診察が主体である。しかし面接も重視する。

神経内科は、脳や脊髄などの疾患をみる純粋の内科医であって、面接は重視しない。

神経内科医は脳神経科とも通ずる純粋身体科医師である。

私は精神科医であるが、クリニックを開いたとき最初は「神経科」つぎに「心療内科」と標榜した。

そのほうが患者さんが来院しやすいと考えたからだ。今から17年も前だ。

しかしその後、開業する精神科医の8割以上が「心療内科」と標榜するようになった。

これは実は良くないことだと中井教授は考えているようである。

精神科と心療内科は似て、非なるものなのに、受けが良いかどうかだけで標榜するのはたしかに

まぎらわしいことだ。中井先生ならずとも最近ちょっと腹だたしい気がしている。

しかし、世の中に精神科医は多いが、心療内科医は少ない。優れた心療内科医はほとんどいない。

だから 本物の心療内科医ってどんな人なのか見たくて、講演に行った。

講演といっても身内の勉強会だったので、講演のあと、個人的に話しをしに行った。

「私は精神科医師なんです。最近、精神の病気ではないのに、身体的な症状の原因がわからないからと

いうことで精神科にまわされてくる人が多いのです。でも私は内科の素養がないので困っています。

内科医もわからない、精神科医もわからない、そんな症状を呈する人に対して、中間の、機能性の障害が

あるような気がしています。ですので、気のせいです、とか 気にしないように、とかだけは言わないように

して、私のわかる範囲で仮説を立てて説明するようにしています」と話した。

中井先生から「そんな風に言う精神科医に初めて出会いました。うれしいです」と握手を求められた。

「それでいいんです。機能性の障害ということもあるので、一緒にさがしましょう」と言ってあげるだけで

患者さんはどれだけ救われることか」と言われた。

できるなら 漢方などの処方も使えるようになったらいいですね、とのこと。

久ぶり目からウロコの一枚落ちた講演会だった。

プロ中のプロってやっぱりカッコいいね。

名刺をいただいたのに、わたしは自分の名刺を作っていないので、かわりに自分の書いた本を渡した。

もうそろそろ、つぎの名刺代わりの本を出したいところだが まったくその気配がないのはさびしい。

 でも反面、遊びまくりたい。

今月30日の今年最後の講演が終わったら、「遊びまくる」か やっぱり「何か書くことにこだわる」か考えようと

思っている。

 仕事もたしかに楽しいのだけど、講演や原稿とかが入ると、気にかかって遊ぶ気持ちになれない。

もう、思いっきり自分を甘やかして、遊びまくりたい気持ちもある。

どっちするか楽しみながら迷いたい。

お金とこころはセットです。

お金とこころもセットになっています。

精神を診る医者だから、お金のことなんかそれほど気にしないでしょ?って
思うかもしれない。

でもこれは私の考えなんですが、お金ほど心に影響を与えるものは他には
ないと思います。

患者さんを診ていて「食べたくない」とかの訴えがあるとします。

どんなものが好きなの?
だれが作っているの?
どこで買い物するの?
お金は十分にある?

とかそういう現実的なことを聞くことがあります。

私自身、ふだん現実の暮らしをしているわけだし、どんなにカッコいいこと言ってたって、それだけじゃ生きていけない。

そうすると 必然的に 患者さんの金銭的な面があらわになっていくこともあります。

「食べたくない」って 一言に言うっても、

お金があるのとないのとじゃあ 話が違ってきます。

愛情とか優しさも お金に影響されます。
すごく影響されるってこと 知ってました?
わたしは「すごく影響される」のが ごくフツーの人間の性(さが)だと思う。

すごく優しいお嫁さんと、冷たく見えるお嫁さんがいます。

でも 結婚して、夫の働きが悪くて、しかも舅姑たちに借金があって、お嫁さんも
必死で働かなかったら食べていけない。

そんな余裕のない暮らしをしていて、病気で入院したお姑さんに、こころから優しくできます?

わたしだったらむつかしい。

だから 経済的に、その人がどんな状況に置かれているかについては、わたしはかなりつっこんで聞くことがあります。

優しくて余裕があって・・・・・という場合には別だけど、イライラしていたり
気持ちがすさんでいたり、人に思いやりがかけられなかったり やる気がイマイチ
出なかったりって場合には、経済的に心配のない状況にあるかどうかについて
思いをはせてみるのも ひとつの方法かもしれません。

その人の経済面を心配してあげるということは その人の気持ちを気にかけてあげると
いうことと同じです。

そうそう。反対のこともあります。
親が子供に金銭的に甘くしたり ルーズにしたりして 子供の心をだめにすることなんて
本当に簡単にできます。

お金に恵まれている場合、お金が悪さしないように知恵を働かせないと、子供をだめにする
場合が、おうおうにして見られます。

反対に貧乏な中で子育てすることは大変なご苦労だと思いますが、ごく自然に我慢させたり
工夫したりできるので、いい子が育つことも想像以上に多いのですよ。

あなたには 何%の 男性性(女性性)がありますか

今日の朝日新聞に、40年間ひそかにブラジャーをつけ続けている
大手企業管理職の58歳男性の記事がある。
仕事人として、立派に役職を果たしながら 一方では毎朝 30いくつものレースのブラジャーの中から、その日の気分にあったものを選ぶという。

たった3枚か4枚の きわめてシンプルなブラジャーしか使いまわしていないわたしより、よほど 女性的であることには間違いがない。

こういう男性は、世の中に想像以上に いっぱいいる。

どんな男性にも、かならず女性性がある。
どんな女性にも、かならず男性性がある。

男性性とは、人間の中の 男性的な部分、たとえば きっぷが良いとかリーダー
シップがあるとか決断力があるとか、はたまた 粗野で粗雑であるとか相手に気配りが欠けるとかいろんな色合いがある。

かたや女性性にも、優しく、美しいものを好み、世話好きで暖かいという面だけだけなく、心配性で うじうじしていて 決断力がなく 嫉妬深いなどの面もある。

どんな男性も 100%男性性しかなかったら、シュワルツネッガーみたいになってしまうし、どんな女性も 100%女性性しかなかったら、昔の中国の 纏足の女性みたいに自己主張のまったくない人になってしまう。

自分を考えてみてほしい。
自分のまわりをみまわしてみてほしい。

男性でも、ロマンチックで静かな音楽を好んだり、かわいい装飾品に関心があったり、女房のつくる料理の段取りを知っていたりする人がいる。そんな男性は、相手のこまかな心模様を手にとるようにわかっていたりする。

そんな人を相手にすると、女性は話も合うし、気持ちをわかってくれるし、やはりうれしいものだけど、度が過ぎると 気を使うし、こまかすぎて うっとうしい。

過ぎたるは 及ばざるがごとし。
女心なんかには ちっとも関心のなさそうな 鈍感な男性を見ると 案外 ホッととしたり 世話を焼きたくなるのもまた 女心というものである。

さて、わたしはどうかというと、こういう職業を続けているということは 女性性が高くなくてはぜったい出来ない。
患者さんが ああでもない、こうでもないと愚痴っても、何時間でも聞いていられる。
男性でもカウンセラーなどをやっている人は 女性性が特別に高いと思ってまちがいがない。
そういう男性のパートナーは、男性性の強い さっぱりした女性が合うというか
お互いに ホッとするのではないかしら。

一方で、医師というのは決断力がいる。決断の連続だ。うじうじしていては勤まら
ない仕事。
なので 男性性も相当に高いのである。
女性性が 6か7、男性性が 3か4くらいはあると自分では思う。

だから 男性性のあまりに高い、「おれについてこい!」タイプの頼りがいのある人を パートナーに持つと ぶつかるかもしれないね。

わたしの夫は男だ(もちろんだけど)。
会社を経営して若い人を 使っているので決断力の塊、すごく男性的だ。

ところが 一歩内面に立ち入ると、いやいやビックリ! 男性のわりにはけっこう繊細で神経質、そして めちゃかわいいものが好き。
レースのカフェ カーテンを買ってきてセットするのは夫だ。
でも 私が男っぽいからちょうどいいかなあと思ってみている。

というよりか、家にいるとバランスをとるために だんだん男性的になり、あまり
こまかいことにこだわらなくなっている自分に気づく。

どの夫婦も そうやって バランスをとっているのかもしれない。

いずれにしても、自分の中の男性性と 女性性を自覚すること。
自分の中で バランスよく配置すること。

そうすることで 生きていきやすくなったり、異性とおつきあいするときも(恋愛ばかりではなく 職場やご近所づきあいも含めて)相手を 理解しやすくなると思う。

そしてわたしの提言。

世をリードする男性たちが、自分の女性性を自覚し、少しでも伸ばしていくだけで
世の中は今より平和的で暮らしやすくなると思うのだが・・・・・

精神科医の教科書

精神科医の教科書は何だと思います?
フロイトですか? それともユングでしょうか?

答えはどちらも「ノー」です。
精神科医の教科書、それは<自分の心>です。

たとえば誰かの一言でおちこんだとします。
ふつうなら、落ち込んだ自分を嘆いたり、あるいは自分あるいは他人を責めたりします。

そうせずに、そこから学びはじめるのです。
あの人のどういう言葉に傷ついたのか、
なぜそれに自分は傷ついたのか、
それが自分のプライドと深くかかわったいたからなのか、
人間ってこんなにつまらないことで落ち込むものなのか・・・などなど。

他人のこころは見えません。
見えるのは自分のこころだけ。だからそれしか頼りがないのです。

自分の中におきてきた感情をまず認める。そしてその感情と他人との間に起きる気持ちの変化(精神力動といいます)をもとに学びます。
それを治療に応用し、その結果をまた自分にあてはめる。
その繰り返しです。

だから、わたしは毎日毎日忙しい。

自分の気持ちを、まずはそのまま認めてやる。その上で「患者のワタシ」の心を「精神科医のワタシ」が観察する。
これなら、あなたにも今日からできるでしょう。

これ名づけて「だれでも精神科医になれる法」です。

いかが?

幸福の原風景

幸福の風景

脳に重い障害を持って生まれ、起き上がることも話すことも、自分で食べることさえ出来ないまま20歳を迎えた青年を受け持ったことがあります。

日曜日になると、お母さんが妹や弟を連れて面会に来られました。3人はベッドのそばに寄り添うようにして青年を囲み、一時間ほどの面会時間を、話しかけたり食べさせたりして帰っていかれるのです。妹も弟も、やさしいしぐさで兄の面倒を見ていました。そこは 重い精神遅滞の方や 精神遅滞は軽くても精神的に不安定であるために家庭で暮らすことのむつかしい方が主に暮らしていました。家族にみはなされたようなかたちで 面会に訪れる人さえいない方もいました。看護師さんたちはお世話に忙しく立ち働いていましたが、医師として治療的にしてあげれることの少ない方の病棟です。

その青年が、手足を動かすことも話すことも出来ず、笑い顔さえほとんどないまま寝ているそばで、お母さんは屈託なくしあわせそうに話しかけていました。まわりは弟や妹の明るい声や笑い声に包まれていました。それはしあわせのひとつのかたち、幸福の風景でした。

その病棟とは別に、わたしが当時、医師として主に受け持っていた病棟は 重い精神病の方の病棟でした。家族の誰かが重いこころの病のために入院すると家族の暮らしは一変します。「なぜこんな病気になったのか、不幸なことだ」と家族は嘆きます。暗く落ち込んだり苦しんだり、時には 病人と家族の間で修羅場がくりひろげられることもあります。心の病の場合、もともと普通の能力を持った方が病気のためにいろんな面で障害がおきてきます。病前には出来たいろいろなことが出来なくなり、本人も家族も苦しみます。人間は誰でもそうですが、「持っているもの」って持っていてあたり前になってしまうんですね。もともと持っていたものを何かの理由で失うほど辛く苦しいことはありません。
また からだの病気ははずかしくないけれど、こころの病気は 人に言えないはずかしいことという世間体もあります。

そういう環境にいたわたしが、たまの日曜日に訪れる病棟で垣間見た青年とその家族の風景。

存在しているという、ただそれだけでまわりをしあわせにするということがあり得る。
ただそばに寄り添うだけという、そういう愛情のかたちがある。

その風景は 今でもわたしにとって、しあわせの原点、愛情の原点です。

働くということ その2

せっかく行きたかった高校に入学したのに、いろんな事情から不登校になっている少女がいます。
高校には行けないのに、週末にはアルバイトをしているということです。
それもけっこう長く続いていて、それなにり頼りにされているようなのです。

もちろんご両親は嘆きますよね。せめて高校だけは出てほしいと。

でも私の考えは違うのです。
どんな仕事でも、赤の他人の中に混じって働いて、お金を得て帰ってくるって、すごい能力だと思うんです。

学校生活で得られることはもちろん、とても大切なことばかり。

それでもなお、わたしはアルバイトをしているその少女を精一杯応援しています。

勉強のできる子供が、社会に出てからうまくいかなくなる確立って
けっこう高いものがあります。
でも、若い頃からからだをはって働くことをしてきた若者が、
社会でうまくいかなくなる確立って、ほとんどないんです。

そんなことみなさん、知ってます?
知らないの? それとも知りたくないの?

勉強はいくつになってもできますが、働く習慣は若いほどいい。
若くて、誰に注意されても「はいっ!」って聞けるすなおなこころを持っているときに。

もしあなたの子供が、学校に行きたくないといったら。
せめて高校だけは・・・などという姑息的な意見でごまかす前に。

いいよ。
じゃあ 働きなさい。

ぜひそう言ってあげてください。

若い人をたくさん診てきた私の、
今もっとも大切にしている考えのひとつです。

働くということ その1

働くことが好きです。

汗水たらして働く、気合を入れて働く。そうやって働いている人を見ると、すてきだなと思います。

適当に働く、楽して裕福でいられる。そうやって一生を送ることがしあわせだという考えがあってもいいでしょう。でもわたしは、働くことが好き。一生懸命働いている人を見ることも、好きなのです。

そういう意味では、精神病にかかった患者さんの多くは働くことができません。
それはだめな人でしょうか。だめな一生でしょうか。

わたしは、そうは思いません。
健康ってたまたま恵まれたものだと思うのです。
たまたま健康に生まれた、たまたま能力があった、
たまたま普通の家庭に生まれた、たまたま働き者の夫に恵まれた。
あなただってそう。みーんな、たまたまです。

なのに精神を病んだ人を見て、わがままだとか、怠けているとか、弱いとか言う。「もっと心を強く持ちなさい」と励ましたりたりする。

「ゆっくり休むこと、病気を治すことも仕事よ」
そう、患者さんに言います。

病気を治すことも仕事です。

患者さんも、わたしたちも一生懸命働いているのです。