やっぱり腰を痛めてしまいました。

パソコンのやり過ぎ、スマホはだめよ。

何回も妹に注意を受けていましたが、心のどこかで「大丈夫」という気持ちがあるものですね。病気になるまでは・・・・・

今朝、当直室のベッドから起き上がろうとしたところ・・・・・

腰がやられて起きれません。

やっと起きて仕事をしましたし、夕方には当然治るものと思っていましたが、治りません。

プールに行ったら治るとまだ、タカをくくっていましたが。

でもまだ調子が良くありません。

腰を痛めるなんて、私の辞書にはなかったのに。

やっぱり、座って背中を丸めて長時間いることが良くなかったのでしょうか。

それでも尚、ブログを書いている私。

しぶといですね。今日はこのへんで。

 

連載コラム(34)人生の伴走者とは誰か?

 

<34>⼈⽣の伴⾛者とは誰か

これは私のお気に入りのコラムのひとつです。

どの⼈にも⼈⽣の伴⾛者ともいうべき⼈がついてくれている。こんなことを⾔えば、夫や妻、親や友⼈などの⾝近な⼈たちを思い浮かべるだろう。だが違う。あなたの⼈⽣にいついかなる時も寄り添ってくれる⼼強い⼈⽣の伴⾛者。それは実は「あなた」の中にいるのである。

いったい何のことかと思われるかもしれない。それは「⾃分の中にいて、⾃分を⾒ているもうひとりの⾃分」である。そしてそれは誰にでもいる。それが「⾃我」と呼ばれる存在だ。

こんなことはないだろうか。とても緊張する場⾯に置かれた時、冷や汗をかきながら慌てている⾃分がいる⼀⽅で、緊張し慌てている⾃分を冷静に「困ったことになったぞ、どうする︖」などと思いつつ⾒ている⾃分もまた同時にいたりすること。また、思春期の⼦どもに「そろそろ⾃我が出てきた」と評するように、⾃我は相⼿と意⾒が違っても「私はこう考える」と主張できる⼒を⽣む。これを世間では「反抗」と呼んだりするが、ただ主張するだけでなく相⼿の思いも汲みながら対応ができるように⼿助けすることで、⾃我は育っていくのだ。こうした主張や対応をするためには、⾃分を客観的に⾒つ

める能⼒が⽋かせない。

例えば「⾃分が認知症ではないかと⼼配しているうちは⼤丈夫」というように、今の⾃分の思考や判断⼒の衰えをちゃんと客観的に認識するというのは、なかなかすごい能⼒なのである。これもしっかりした⾃我があればこそ可能になる。ちなみに⾃⼰主張の強い⼈を「あの⼈は我が強い」と表現することがあるが、それとは違うので誤解しないでほしい。そういう⼈はむしろ⾃分の弱さを、強がりや頑固さでカバーしていることが多い。

⾼齢になり、親類縁者もいないままひとり暮らしをしている⼈を⾒れば、周りはどんなに寂しいだろうと案ずるかもしれない。しかし当の本⼈は特に寂しいとも思わずに暮らしている。これも、⼈は本来もうひとりの⾃分と対話しながら⽣きる⼒を持っているからである。

⼈は孤独に耐える⼒を⼗分に持っているものだ。

私が患者さんを診察したり治療したりする時に重要視するのも、表に出た症状より、むしろこうした「⾃我」の強弱であると⾔えば驚かれるだろうか。「⾃分の中のもうひとりの⾃分」は誰にも必ずいる。⾃分を客観的に⾒つめ、時に励ましたり、慰めたり、叱ったりしてくれる、唯⼀無⼆の親友であり味⽅だ。無意識のうちに「ふたり」が会話することで、⼈は⼈⽣の孤独や荒波を乗り越えていく。若くても⽼いても、ひとりの時間を⼤切にし、⾃分を⾒つめ、⾃分と対話する時間を持ってほしいと思う。