連載コラム(43)家庭は社会生活の基盤

<43>家庭は社会⽣活の基盤

やっと仕事に就いた患者さんが「次は結婚したい」と⾔う時、私はいつも「仕事より結婚⽣活の維持のほうが⼀般的にハードルが⾼いのよ」と話す。家庭を治めるということは、⼀筋縄ではいかない、⼈間にとっての⼀⼤事業なのだ。最近のテレビで⾸相が夫⼈の活動がらみで窮地に⽴たされたり、皇族⽅で

さえご家庭の問題で悩まれたりする様⼦を⾒るにつけ、つくづくその思いを深くする。

⾃⾝を振り返っても、仕事を難なくこなすより夫とうまくやるほうが難しいと感じることもある。わが⼦どもたちを⾒ても、結婚だ、⾚ちゃんだと喜ぶのも束の間、そこから何⼗年と連綿と続く家庭⽣活に四苦⼋苦しているのを垣間⾒ると、やれやれ⼼配はつきないものだと嘆息するのだ。

仕事は嫌なら変わったり、辞表1枚で辞めたりすることもできる。が、夫婦や⼦どもとの関係は密着度も強く逃げ場もない。相⼿は⽣の感情をぶつけてくるし、価値観や意⾒が違って思い通りにいかないことも多い。しかし家庭⽣活は⽋くことのできない⼈⽣の基盤なのだから、私たちは家庭を治めることの⼤切さをもっと認識しておいたほうがいい。やれ結婚式だ、ドレスだと⼤騒ぎするのも幸せな⼈⽣の⼀コマかもしれないが、私⾃⾝はあまりそういうことに関⼼がなく、家庭を治めるコツというものを親から⼦へ伝えておくほうがよほど重要だと思うのだ。

以前どこかに「家庭は『やすらぎの場』であると同時に、家族の⾃我がぶつかり合う『戦いの場』でもある」と書いたところ読者の共感を得たことがある。「喧嘩して当たり前だと聞いて、ほっとした」という感想もあった。⾃我の違う⼈間同⼠が⽣活を共にするということは、そういうことだ。

「仲良く」と「喧嘩」との相反する両者のバランスをいかに保つかで家庭の真価が問われるだろう。ところが多くの家庭では、意⾒が異なった時、誰かが黙ったり、我慢したりすることで、その場を丸く治めているように思う。「黙る役割」「我慢する役割」が決まっているかのようだ。表⾯上の平和を優先するあまりであろうか。

「⾃分の考えをちゃんと主張しながら相⼿と和していくこと」こそが⼈間社会に適応していく課題であり、最⼤の試練だと思うが、夫婦関係で例えれば、押すだけの「亭主関⽩」や、引くだけの「恐妻家」ではなく、押したり引いたりしながらうまくやっていく、という感じだろうか。

あらゆる⼈間関係において重要なこのスキルを、「家庭で練習しなくてどこで練習するの︕」というのが、今回私が最も伝えたいことである。とはいえ、国を治めようという野⼼家でさえ、夫⼈となるとまた別のようだし、熟練した精神科医であるはずの私でさえ、夫ひとりに⼿こずるのが現実である。さて、あなたはいかが︖