孤独死

友人がちょっと重い病気にかかりました。

遠くに住んでいる息子さんが心配して、一緒に住もうと言ってくれるそうです。

家族思いで 家族のために生きてきたような彼女ですから、当然同居を選ぶと思っていました。

けれど、彼女の口からは意外な答えがかえってきました。

自分は孤独死を選ぶって言うんです、同居しないって。

先日95歳で亡くなった彼女のお母さんは、ずっと彼女と同居していました。

お母さんの最期は、彼女と隣あわせで寝ている最中に自然死のように亡くなったんです。

なんてしわあせなこと・みんなが そう感じていた矢先だったから 彼女の選択は意外です。

でも彼女はお母さんの一生を見ていて、そう 決断したんだそうです。

経験しない者にはわからないことが、いっぱいあるんですね。

彼女は哲学者なので、死についての考え方が わたしとは違うんです。

医師は 生かすことが仕事ですから、いかに死ぬかなんて 考えません。

でも ぜんぜん立場の違う人から「自分は 孤独死を選ぶわ」って 言われたとき。

そりゃあ、彼女だって どうせ孤独死になんかならないわ、って言うのは カンタン。

でも、そういう考え方があるのだと思い、気概があるのだと思うだけで 心が広がる気がする。

         ☆     ☆     ☆

先日、新聞にこんな話が載っていました。

ある有名だったアナウンサーが 90才近くで タバコによる火事で自宅で焼死された事件。

彼は離婚して 妻と2人の娘とは とうの昔に別居。

アナウンサーをやめてからも ずっと東京でひとり暮らしだったそうです。

娘さんとは行き来がなく、亡くなったあと、娘さんは 父親の孤独な最期を思い、胸を痛めたとか。

ところがどっこい。

その彼には、最期まで 趣味の付き合いで仲間がいて、とても親しまれ尊敬されていて、ということを

亡くなったあと、知ることになったそうです。

世間から見たら孤独でさびしい晩年。

でも彼の心は最期まで 自立心にあふれ 輝いていたことを知った娘さんの話でした。

ひとり暮らしというと「さびしいでしょう」「かわいそう」と思うのが 人の常。

あさはかな私たちのこころは「家族の近くで」また「子供たちと一緒に」暮らすことを

しあわせと考える風潮があるけれど、そんなのは 風潮に過ぎない。

まさか子供たちの手前「わたしはさびしかった」なんて口が裂けても言いたくない、

思いたくないってのが、親心ってものでしょう。

「ありがとう」って死んでいくのが穏便でかわいい年よりって決められているから。

だけど、 しあわせは人が決めるモンじゃない。

「孤独だったけど、しあわせだったわ」と思える人生も なかなかのものじゃないかとわたしは思う。

 年とったら子供の近くに行かないとマズイかなあと思っていたわたしだったけど、

彼女と話しているうちに、なんだか気分がすっきりしてきた。

人に気を使い、こころがどこかナイーブで優しい面があるわたしは(自分で言うのだから

間違っているかもしれないが)

人に気を使わなくてもいい気ままな暮らしのほうが合っていると思う。

いずれは地域のお世話になり、孤独死する生き方を目ざすことにしよう。

わたし流しあわせの見つけ方

ココロとカラダの処方箋~~散歩

 dsc05200.JPG

わたしは、からだを動かすことが大きらい。

良く言えば書斎派、悪くいえば 怠け者です。

最近、「頭と心と体」をバランスよく使わないと、人間はだめになるという持論を展開しているので

自分でもやむなく、散歩を始めることにしました。

20分から始め、30分、40分とのばしていますが、今日は 野菜直売所まで

登り道を50分も歩きました。坂道って きついですね。

人っ子ひとり出会わない林の道。

帰りに、あと一歩で家、というところで バテテしまいました。

知り合いが車で通りかかり、かろうじて救助されました。

         ☆     ☆    ☆

心が弱っているときやうつ病の治療に一番効くのが、散歩です。

体とこころに同時に効くので、お勧めです。安あがりだし。

わたし流しあわせの見つけ方

残り物に福あり? の 医者暮らし

長い間、女性としては珍しく、常勤医として働いてきた。

女性医師の場合、出産や育児があるので、たいていはどこかで休んだり、パート医になることが多い。

しかし私の場合、常勤とは言っても夕方には帰るし、当直も最低限しかしてこなかった。

夜の仕事は、男性医師が全部やってくださった。だから常勤といってもカッコつきの「常勤」である。

いくら能力があっても、夜や休日にアテにならない医師は、半人前。そんな世界だ。

医師の世界では、そんな半人前の医師だったから、能力があっても管理職にはなれない。

別に名誉がほしいわけではないが、管理職になれないということは、組織の中にあって、自分の意見は通らないということ。

いつも誰かに従っていなければいけないということ。

だから、いつも誰かに従い、波風は立てず、ただただ真面目に診療するだけだった。

そのおかげで、自分で納得のいく、丁寧な診療をできる医師にはなれた。

 大きな組織にいた40歳半ばのとき、思うようにならない組織を離れたいと思って開業した。

男性でさえ、精神科で開業しない時代だったので 華々しい転身だった。

しかしここでも男性医師は、奥さんの内助の功あっての開業。

男性は家事がないぶん、どの世界でも 奥さんとふたりで一人前のような気がする。

内助の功がないまま、何から何までひとりでやるのは 大変なことだった。

経営は順調で診療そのものも充実していたが、結婚したのをキッカケに 勤務医に戻った。

され、勤務医になったのはよいが、夜や休日は活動したくない、あいかわらずの「半人前医師」なので

いつも 管理者の言うことには ぜったい従わないといけない。

そういうことには慣れているものの、ちいさな私立病院ともなれば 我慢することのほうが多くなる。

 このたび 4回目の転身をはかり、大きな総合病院2つをかけ持ちのパート医となった。

本来なら 大きな総合病院は 妻子を養っている中堅の医師で うまっているはずだ。

ところが 最近は 誰もが精神科クリニックを開業する時代になったので 逆に総合病院に空席がある。

 まさに 残り物に福 なのだ。 ああ 良かった!

しかし、パートなので立場がなく、仕事も決まってなくて泣けるときもある。

かけ出しならいざ知らず、キャリアや能力があっても立場がないってそりゃあ ギャップが大変よ。

でも 今 考えている。

これからは一匹狼で行こう。 自由で わたしらしい。

「クリニック」という砦がなくても。病院の常勤医として守られている、ということがなくても。

一生、こんなに真剣に丁寧に仕事をしてきたんだもの。

こんなに 自分らしく仕事をしたいと願い、転身に転身を重ねて、自分らしい居場所をさがしてきたんだもの。

一日きざみで 働く場を変えようと、そして 毎日が戦場に赴くみたいその日かぎりであろうと。

その日一日の仕事が 自分で納得のいくものなら、その先には きっと 何かがある。

先日、ある病院の精神科のドクターが うつ病で入院してきた。原因は精神的ストレスと過労だ。

精神科医という仕事は精神的にハードなのだが、わたしは 健康を維持して長く続けたいと思っているので

毎日工夫を重ね、クールに自分を見つめ、自分をコントロールする日が続く。

「これで良し」という日は訪れないかもしれないが、それが「生きている」ということだ。

わたし流しあわせの見つけ方

きんぴらゴボウ~~コロンブスの卵

dsc05222.JPG 

これも20年くらい前話である。

そのころつきあっていた男性は、ひとり暮らしだったが料理が上手だった。

あるとき、手料理をご馳走してあげるというので喜んで出かけた。

わたしも何か一品をと思い、おふくろの味、きんぴらごぼうを丁寧に

作って持参した。

さて、その日は、蟹すきだった。わたしも早速 手製のきんぴらを出そうとしたが・・・・・・・・

そこには すでに きんぴらごぼう が テーブルに出ていた。

それは 見事なできばえで 糸のように細く切られたごぼうと人参。

それにくらべて、わたしのときたら・・・・・・精一杯細く切ったつもりが・・・・

なんとなく太くて 田舎くさいではないか。

 彼氏のお母さんは大阪にお住まいで料理がとっても上手。

大阪から送ってくれたのだとの話だった。

自分のきんぴらを 出さなかったことは言うまでもない・・・・・・・

それ以来、すっかり きんぴらは苦手になってしまった。

本を見ながら丁寧に作れば 美味しくはなるけど 面倒になってしまった。

ところが、最近知りあった友人が 「きんぴらのごぼうは皮をむかなくても

いいのよ。水にさらさなくてもいいの。丸たんぼうのように ザックザックと

切ればいいの。そのほうが美味しいのよ」という。

彼女はペンションのオーナーで お料理上手。彼女が言うのだからと思って作ってみたら。

なんと 正解! ごぼうも人参も甘みが出て美味しいこと。

なあんだぁ。発想の転換だ。

本当にらくらく。あっという間に作れて美味しい。

 料理って やっぱり頭がやわらかい人の専売特許だと思ったことだった。

わたし流しあわせの見つけ方

桜の想い出

 dsc_0006.JPG

25才の春、夫の転勤で弘前に住むことになった。

そのとき見た弘前城の桜は、当時この世のものとは思えないくらい

すばらしく、日本一だと思った。

その頃は 桜見物などという風習は なかったように思う。わたしは子供をおぶって見にいったけど、人影なんて まばらだった。

すばらしい桜を 子供と ふたりじめして感動した日が懐かしい。

今、新聞などには弘前城の桜は すばらしさでは日本で3番目か4番目と言われている。

 でも多分、青森って 人口がすごく少なくまた不便なので。

東京や大阪みたい人が多くないし、わざわざ弘前まで出かけられることがないから その素晴らしさがあまり知られていないと思う。

弘前。もう一度行ってみたいが あまりにも遠くて 行く機会がない。

今日、仕事帰りに 日本で5本の指に入るという高遠城址の桜を

見に行った。

信州の遅い春は これからだ。

わたし流しあわせの見つけ方

憧れの・・・・・・・

dsc05204.JPG

今日は休日でした。 
平日に家にいるというのは、最高の贅沢です。憧れの・・・・・
たまだから こんなにうれしいのかもしれませんが。

早速散歩をしました。

近所の公園に 水芭蕉が咲いていました。

わたし流しあわせの見つけ方

ライフワークバランス

住まいのあたりは高原なので春が遅い。
今日は雪が降った、ちょっと愕然とした。
桜なんてまだまだ見ようも出来ない。

 3月まで、何十年とフル回転で働いていたが、思いきって4月から休みを多くした。
まだまだ常勤で働ける年齢なのだけど、思いきって少なくしようと決めたのだ。

 ところが、長年常勤で働いてきた身には、パートというのが、いかにも肩身が狭い。
机さえない。名前も知られないし、責任を持たせてもらえない。

病気というのは、曜日や時間を選ばない。
だから常勤ということは、「夜も日曜日も責任を持つ」ということだ。

ところが「夜も日曜日も責任を持つ」ということは並大抵のことではない。
わたしにとっては、今までも一番苦手なこと。

だからできたら「日曜日も夜も責任を持たなければいけない」常勤医の 助っ人でいい。
それくらいが気持ちが楽。

そう決めてパート医を選んだのだけど、まだ時々、欲や迷いが出る。

欲が出るのは、精神科医というのがどこでもひっぱりだこだからだと思う。
「来てほしい」「もっと働いてほしい」と言われたら悪い気がしない。

 でも、本当にいい仕事をしたいと思ったら、時間的には ちょっともの足りない、って
いうくらいが、ちょうどいいと思う。

だって、医療器械なんだもの。
精度を保とうと思ったら、これ以上仕事を増やしたらだめ。
そう言いきかせているわたし。

友人たちは「もっと遊ばなくってはだめ。働き過ぎよ」って言うんだけど、

働くことが辛いことで 仕事をやめたら 楽しいことばかり待っているわけではないと思う。

やっぱり 仕事と生活のバランスが大事。ライフワークバランスの良いことが 一番だと思う。

                           ☆      ☆      ☆

ところが、がむしゃらに働いていたときには、何かを埋めるように、ホームページを整備したり
ブログにもがむしゃらに何か書きたかった。

なのに、仕事に余裕が出たら、あまり書きたくない。
なんか憑き物が落ちたような気持ち。
ブログを再開したばかりなのに スミマセン。

今日は久しぶりで ピアノを弾いた。楽しかった。

仕事と 私生活の間で 揺れ動くわたし。

でも、いかにも わたしらしくて いいではないか、と思うことにしよう。

わたし流しあわせの見つけ方

「医療器械」の不調

精神科医の見立てや治療は、他の科のように血液検査や内視鏡というわけにはいかない。

精神科医の検査器具・治療器具は「自分の体」。体しかない。

しかも、相手はもっとも傷つきやすい患者さんだ。

だから、少しでも体調不良だと、見立てはともかく、治療の際に影響してしまう。

疲れているときの一番の失敗は「つい一言多くなること」

「口は災いの元」を地でいく結果になってしまう。

人間は疲れてくると、おしゃべりになる。年とるほどにおしゃべりになるのも
抑制がきかなくなっているからだ。

抑制をきかして人の話を聞くためには、体調が良く、しっかり抑制がかかっていないと出来ないのだ。

だからふだんからものずごく、神経質なくらい体調管理をおこなう。

日曜日は、たいてい「医療器械」の整備に追われるというわけだ。

             ☆    ☆    ☆

このところ気分がぱっとしない。

でも今日は久しぶりで ひじきの煮物を作った。

料理できるということは、わたしの理屈からいくと疲れているわけではないのに。

なぜだろう。

人間は「自分を知る」ということがもっとも難しいと思う。

天気のせいにはしたくないが、各地で桜が咲いているというのに今日はこちらは雪模様だった。

hijiki.jpg

わたし流しあわせの見つけ方

続・お金とこころ

以前に、「お金とこころはセットです」というコラムを書きました。
それに対して、友人から「言われてみれば確かにそう。でも じゃあ どうすればいいの」と
聞かれました。
それはそれぞれが考えればいいことなのだと思うのです。が、こんなことがありました。

二ケ月ほど前、こんな相談を受けました。
ご主人が、お金にルーズだというのです。奥さんが置いておくお金が、なんとなくなくなっている
のだそうです。ご主人の小遣いが少ないのはわかるので「あなた 取ってない?」と聞くと
「とってない」と言います。でも なんとなく少なくなっている気がする。でもご主人から あまりにあ
確信的に「とってない」と言われると、ついつい「じゃあ わたしの心得違いかなあ」と思ってしまう、
というのです。

子育て真っ最中の忙しい主婦の暮らしの中で、お金はたえず必要ですし、また 1000円札が何枚か
なくなっていたとしても 確信できない気持ちはよくわかります。

ご主人のほうが、はるかに知能犯なんですよね。

「ご主人が抜いていることは確かだと思いますよ」と話すと

「でも、確信的に否定されてしまうんです。現行犯で捕らえられないし」とのこと。

こんなとき、あなたならどうしますか?

         ☆      ☆      ☆

わたしにもこんな経験があります。
昔、500円玉貯金をしていました。たまったたまったと喜んでいたのですが、
いつのころからか たまり方がおそい。
そのころまだ思春期だった次男に「あなた、とってない?」と聞いても「とってない」と
言います。

何回かそんなことを繰り返した、あるとき、わたしが寝ていたら こっそりやってきた
次男がそーっと500円玉貯金を抜いているのです。

そこで そのときは寝たフリをしていたのですが、何日かして 折をみはからって
次男を 前に座らせました。

そしてとても厳粛な声で 言い渡したのです。

「あなたね、500円玉の件だけどね、お母さんはずっと前から 知ってたのよ。
わかっていたけど黙っていたの。よく考えて行動しなさいよ!」

びしっと言うだけ言って、うむを言わさず、立ち去りました。

その後、500円玉貯金がなくならなかったことは言うまでもありません。

その次男がもう少し大きくなってからですが、バイクを買うので保証人になってくれと
言ってきました。冷たいようでしたが、お金をためてから買いなさいとつっぱねて
保証人にはなりませんでした。

どの子も親が保証人になっていると泣きつかれたけど、まだまだ甘えたい年頃の
次男の保証人になったら、結局 いずれわたしがかぶることになる気がして。

成人するかしないかの あやうい時期は特別にお金に対して 子供たちにはきびしく
しました。

子供が多少お金にルーズでも、親は困りません。でも いずれ そのお嫁さんが困る気がして・・・・・・

誰かのつけは、結局 いつかは誰か別の人にまわってくるのですよね。

           ☆      ☆     ☆

その奥さんには、こんな助言をしました。

ご主人が盗んでいると思います。でも たずねたってはぐらかされるだけ。
ご主人のことはほうっておいていいですよ。
お金を大切にしなさい。一円たりともおろそかにしないつもりでやってごらん。

二ケ月後にきた奥さんの顔は明るかったです。

ご主人には「お金は大切だから とらないでね」とだけ言い、あとはほうって
おいたそうです。
わたしに言われた通り、家にあるお金は把握するようにして、毎日家計簿をつけて
いるそうです。

もちろん、ご主人はそれ以来とらないそうです。とれないですよね、奥さんが毎日一生懸命
家計簿つけていたら・・・・・・・・・

          ☆      ☆       ☆

ひきこもっている患者さんにも、誰からお金をどんな形でもらっているか、聞きます。

下手なカウンセリングをおこなうより、いろんな構図が見えてきます。

お金の得方、お金の使い方で、その人の中身がわかると思う。

         ☆    ☆    ☆

お金には こころが入っていると思って大事に扱うこと。

それが、お金の扱い方の基本だと思う。

わたし流しあわせの見つけ方

心神耗弱状態と責任能力

先日、ある殺人事件で精神科医による容疑者の精神鑑定がおこなわれ、
「容疑者は事件当時、心神耗弱状態であった」との鑑定結果が出た。

 たしかに、容疑者は異常な精神状態にあったと思われる。
しかし鑑定にもあったように、あくまでも 「急性」で「短期」の精神病状態である。
何年も前からその様な状態にあったわけではないし、逆に突然意識をなくしたわけでもない。

事件当時、短期に精神病状態にあって、判断がつきかねる状態であれば、日本の裁判では
無罪もしくは情状酌量の余地ありということになっているらしい。

けれど今回の事件では、その判断に納得しかねるという世論が多勢をしめるように思える。

              ☆       ☆       ☆

話は変わるが、お酒を飲んでおこす事件がある。酩酊状態における犯罪だ。

酩酊状態は まず2つに分けられる。

ひとつめは 普通酩酊。これは普通の楽しい酔いである。
ふたつめは 異常酩酊。異常酩酊もまた 2つ あって、複雑酩酊と 病的酩酊である。
事件になりやすいのは後者、つまり複雑酩酊と 病的酩酊である。

一番多く見られるのが複雑酩酊である。これはお酒を飲むと 人格が変わってしまい、粗暴になり
興奮する。
しかし見当識は保たれていて、粗暴や興奮の結果におこなった行為は、ふだんから心の底に
持っていた感情が出るのであって、周囲からもなんとか理解できる範囲である。
つまり ふだんから憎んでいた人に向かうけれど、無差別な殺人にはならない。

 これに反して異常酩酊というのは、めったにない。これは本人も周囲もまったく理解に苦しむような
 無差別殺人をもおこしかねない状態に陥るような酩酊である。本人の知らないうちに起こるもの
であって、責任能力はない、とされている。裁判になっても無罪である。

しかし。

ここが大事なところなのだが「もし、酒を飲めば、異常酩酊状態に陥るような酒の
飲み方になる」ということを 本人が一回でも知らされた後におこした事件は有罪である。

知らなかったらどうしようもない。
しかし過去に知らされていたなら、本人が自覚していようがいまいが、あるいは
意識をなくした上でおかした犯罪であっても、有罪ということだ。

とても納得のいく考えだ。

        ☆      ☆      ☆

今回の事件は酩酊で言うなれば、複雑酩酊のようなものだ。
もともと憎んでいた人を殺したわけだから。そして 複雑酩酊なら 当然、有罪だ。

もし、今回の事件が 異常酩酊に匹敵するくらいの心神耗弱状態であったとしても、
どうだろう。

もしそうであったとしても、自分が殺人事件をおこしかねないくらいになっているという
ことを 一度も想像できなかっただろうか。

「殺したい」と ただの一度だって 思わなかっただろうか。

人を殺したいくらい憎いという自分の精神状態を、まったくわからないのは子供くらいで
あって、その精神状態の異常さに、普通の大人なら 気づかないわけがない。

「相手も悪い人だった」という事実と 容疑者の責任能力の有無はまったく別次元の話である
ことは言うまでもない。

       ☆       ☆        ☆

精神科医・吉田脩二の本「サルとヒトの間」に、ある病気の後遺症で 数秒しか記憶が保てない
ある高名な指揮者の話が出ている。

彼は自分は生きる屍だといい、次第に人格崩壊していくのですが、吉田は言っている。

人間は、過去、現在、未来の連続性の中で生きてこそ、存在しているのだと如実にわかる、と。

事件をおこした容疑者が、その事件当夜、責任能力のないような異常な精神状態にあったと
しよう。鑑定でそう言っているのだから そうなんだろう。

しかし、容疑者の人生は連続している。

事件当夜の前日、彼女には責任能力があったはず。ということは 自分の置かれている状況を
理解もしていたはずである。

自分の判断で結婚し、自分の判断で結婚生活を続けていた。
その結婚生活が予想に反して、しあわせなものではなく、夫を殺したいくらいの心境にあると
いうことを 理解できていないくらいだったら そもそも結婚できてないと思う。

その連続性をどう考えるのだろうか。
一ケ月前の責任能力と前日の責任能力と 当日の責任能力は連続して考えるべきものと思う。

        ☆      ☆      ☆

統合失調症という疾患がある。最近は良い薬も出て、また精神医療の啓蒙のせいか統合失調症の
方の犯罪がうんと減った。

統合失調症で 幻覚や妄想のもとで 犯罪を犯した場合は 無罪ということになっているようだ。

しかし、精神病の方に添いながら仕事をしているわたしだけど、統合失調症の幻覚で罪をおかしたら
無罪というのも 納得できないと思っている。

病気であっても 罪をおかしたら有罪になる。そういうことは きちんと患者さんに話すべきだと思う。

精神病をもっている人が、もしちゃんとした治療しなかったら 幻覚妄想状態になって何をしてしまうか
わからないような異常な状態に陥ってしまうんですよ、ということは 教えておいたほうがよい。

それをわかる義務が患者さんにはあると思う。

そういう義務を果たしてもらうことが わたしは本当の意味で精神病の人を尊重することだと思っている。

         ☆        ☆       ☆

今回の事件では、短期に急性に精神病状態であったというならそれはそれでよい。

しかし 責任能力はあると思う。

なぜなら 人間は連続して生きているからこそ、人間であるから。

毎日毎日、テレビや新聞で、いやというほど知らされている。

愛憎がともなえば殺人事件になるということを。

誰ひとり、テレビや新聞の報道から遮断されてはいない。

あなただって、もし今、誰かを死ぬほどに殺したいほど憎んでいたとしたら、

一日も早く解決するか相談するか逃げるかしないかぎり、殺人事件に発展する可能性は
いっぱいあるんですよ。

誰もそのことを教えられていない、知らされていない今の世の中ではない。

そうわかっていながら、苦しむあまり心神耗弱状態で事件をおこしたら、それは

今日のあなたに責任があるかぎり 明日のあなたにだって責任はあると思う。

そうやって連続性のあるものとして人の人生を考えるという視点に立てば、

今日のあなたの生き方が あなたの10年後のあり方と関係してくるということだ。

わたし流しあわせの見つけ方