連載コラム(47)心のブレーキのはずし方

 

 

 

<47>⼼のブレーキの外し⽅

前回、うつ病がなかなか治らないケースでは、⼼にエネルギーが補給されても、⼀⽅で「不安や思い込みなどのブレーキがかかっている」場合もあると書いた。今回はこの「⼼のブレーキ」について考えてみよう。

うつ病を発症し、休職した中年の男性がいた。症状が改善して復職したが、間もなく再発して⼊院した。しかし⼊院⽣活を⾒ていると割合おしゃべりで⾏動⼒もそれなりにある。エネルギーの枯渇というより、むしろブレーキがかかっていると判断した。

彼のキーワードは「焦り」であった。6⼈家族の⼤⿊柱であるというプレッシャーが⼤きくのしかかっていた彼は、⾝体が休んでいても⼼が休んでいないのだ。せっかく貯まったエネルギーを「焦りという気持ち」に使ってしまうため、⼒を貯め込むまでに⾄らない。さらに彼の場合、「⾃分はうつ病だから何をやってもダメだ」という思い込みがいっそうブレーキをかけていた。

「思い込み」がエネルギーの流れを⽌めている。それらブレーキの仕業でエネルギーが効率良く使えていない。⼼の病気が⻑引いている患者さんによく⾒られることだ。実は患者さんに限らず、⼼のブレーキは多かれ少なかれ誰にでもかかっている。「できないという思い込み」や「焦り」「こだわり」などだ。

問題は、誰もがそのことに気づきにくいこと。毎⽇、知らず知らずのうちに⾃分で⾃分にかけている「魔法の⾔葉」。そして、そもそも⾃分では気づかないものを、⾃分で外すことは困難だ。

ではどうするか。⼈間には「⾃分が⾒たことのない景⾊は⾒えない」という特徴がある。

私⾃⾝を例に挙げれば、院⻑になる前には「院⻑なんか無理︕」と信じていた。連載をやる前は「連載なんて絶対できない︕」と⾔い張った。でもうまくやれているかどうかは別として、やったらやったで、少なくともやる前とは別の景⾊を⾒ている。

そう。⼈間は体験することで、⽴場が変わることで別の景⾊を⾒、別の思いを経験し、その結果、今までできないと「呪⽂」をかけていたことがやれていたりする。私だけ特別だろうか。いや、そんなことはない。実は誰にでも平等に変化の機会は訪れている。「機会」だと気づいていないだけだ。

そんな時、後ずさりしないで⼀歩前に進んでみよう。⾃分では気づけないからこそ、素直に⼈の忠告を受け⼊れながら、または訪れた機会を逃さず、⼈は変化することで違う景⾊を⾒ることができる。⼈の忠告を受け⼊れること、機会を⽣かし⼀歩踏み出してみること。それが⼼のブレーキが外れるきっかけとなり、成⻑へと⾃分を運んでくれる気がする。

 

 

連載コラム(46)うつ病とブレーキの関係・1

 

<46>うつ病とブレーキの関係

うつ病とは、エネルギーが枯渇すると起きる疾患である。⾞に例えればガソリンが空になった状態だ。⾞なら、ガソリンを補給すればまた⾛れるようになる。「うつ病」で⾔えば、仕事を休んだりして「休息」や「睡眠」を⼗分にとり、エネルギーを補給すればいい。

とは⾔え、「うつ病」は診断の難しい疾患の⼀つだ。また、「うつ病」と診断されて治療を受けている患者さんの中で、適切な治療を受けている⽅は、3割程度だとさえ⾔われている。

つまり世間で思われている以上に診断や治療や対応が難しい病気なのである。当然、⻑引いたり、再発を繰り返したりしやすい。何年も通院しているのに、先が⾒通せないこともある。

そこで、教科書とは別の視点から、私なりの気づきを書いてみたい。私が今回伝えたいこと、それは、エネルギー不⾜の観点ではなく、⾞で⾔えば、ブレーキの存在である。

なかなか治らない⽅の中に、「ガソリンはある程度たまったものの、ブレーキがかかっているために」⾞が動かない⽅もいるのではないか、と思うようになった。そこに気づかないまま、いくら休養をとっても、いくら抗うつ剤を飲み続けていても状況は進展しない。それはまるで左⾜でブレーキを踏みながら、右⾜でアクセルを踏んでいるようなものである。会社には⾏けないが休⽇なら遊べるという、いわゆる「新型うつ病」も嫌なことにはブレーキがかかる可能性がある。そのような場合には、ブレーキの解明が必要なのではないかと思う。

本来、⽣命体そのものは元気になりたいと思っている。私たちの⾝体の細胞⼀つ⼀つは本能的に健康な状態を⽬指している。⾃⼰治癒⼒と⾔われるものだ。それがうまく働かないのは、それを阻害するものがあるのではないかと仮定してみよう。

その⼀つが「ブレーキ説」である。ブレーキはどんなときにかかるだろうか。例えば、⼤きな不安があるとき。何らかの葛藤が解決されていないとき。あれやこれやと迷いがあるときなどに、⼈はいずれも動けなくなる。また、「⾃分にできるはずがない」「どうせうまくいくわけがない」などといったさまざまな「思い込み」がブレーキになっている場合もあるだろう。

こうしてみると、うつ病に限らず、誰もが多かれ少なかれブレーキを持っている。意識しているいないにかかわらず、そうやって⾃分で⾃分を⽌めているのだと⾔える。つまり、ブレーキとは、案外、⾃分の中にあるものなのかもしれない。

では、このブレーキはどうやったら外せるのか。⼈⽣を快適に安全に運転するために⽋かせない「ブレーキの上⼿な使い⽅や外し⽅」については、次回も続けて考えてみたい。

 

 

連載コラム(45)いよいよ自立の時を迎えて

<45>いよいよ⾃⽴を迎えて

中学⽣の頃から通院している男の⼦が、親元を遠く離れ専⾨学校に進学することになった。これまでいろんなことがあった。不登校のまま中学を卒業したが、⾼校に⾏ける状態ではなかった。しかし親は「せめて⾼校だけは」と説得した。脱線するが、私は「せめて」と「どうせ」が嫌いである。世間を⽢く⾒ているし、その先への展望も感じられない。

さて彼はどうにか⾼校に進んだが、「せめて」⾏った⾼校は、ほどなく「辞めたい」と⾔い出した。すると親は「何か好きなことがあるなら、辞めてもいい」と⾔う。ここで私は反論した。「ではお⺟さんは、好きなことを仕事にしていますか」と聞いてみた。⽣活のために⼀⽣懸命働いているお⺟さんだ。

好きだの嫌いだのと⾔っておれないのは、ほとんどの⼈が同じだろう。でも多くの親が、⼦どもが挫折すると「せめて○○だけは」とか「好きなことを⾒つけたのなら」などと⾔う。⼦どもの将来を案じてとはいえ、⾃分だって好きなことを⾒つけられていないのに。⾃分ができていれば、⼦どもができるのは当然と思い、⾃分ができていなければ、せめて⼦どもには、と思うらしい。いずれにしても期待が⼤きい。何がなくても⽣きてきた⾃分の⼈⽣に誇りを持っていれば出てくる⾔葉ではないはず。

結局、彼は通信制に変わって気持ちも落ち着き、年数は少しかかったが卒業までこぎつけた。このまま親元に置くか思いきって⼿放すか、親もずいぶん迷った。私は「18歳、19歳は⼀つの⼤きな節⽬ですよ」とアドバイスした。不安定な思春期を過ぎて落ち着いてくる時期である。⼀⽅まだまだ世の中を知らず、素直な頭脳を持っている。これが20歳を越えるに従い事態が変わる。「親元にいたほうが、どうも楽に⽣きていけるようだ」という損得勘定をするようになるのである。

ただしこの年頃は、まだ何事にも不安でいっぱい。あまり突き放すと、挫折した時の反動が⼤きい。20歳前は、⼀つの⼤きな「⼿放し時」ではあるが、まだまだ⼿も⼼も⾦も添えてあげることが必要だ。⼿放した上で、⼿と⼼をかけてあげながら⼀⼈⽴ちの⼿助けをしていくことで、すんなり次のステージに進めることが多い。

突き放し過ぎて失敗したり、⼿元に置き過ぎて成⻑の機会を失ったりするケースが多いので、くれぐれもこの時期の対応を慎重に。親や先⽣など年配者の⽀えやアドバイスも⼼強いものだ。⾟い時こそ、相談してほしい。そんな時、⼀緒に乗り越えてあげられる親であり、⼤⼈であるために、私たちもまた年を重ねるほどに学びや気づき、⾃分磨きに今⽇もまた忙しい。

 

 

連載コラム(44)今の時代を夫婦で豊かに

 

 

<44>今の時代を夫婦で豊かに

先⽇、久しぶりに⾦沢を訪れた。この街は私が18歳からの30年を過ごした第⼆の故郷。ここで喜びも悲しみも⾟いことも、普通の⼈が⼈⽣で出合うほとんどのことを経験した。いい思い出も⼭のようにあった⾦沢を⾃らの意思で離れて20年。

新幹線「かがやき」が到着した時には思わず胸がいっぱいになり、涙がこぼれそうになった。

⾦沢には今も⼦どもたちや友⼈たちが住んでいる。それなのに、もうずいぶん⾜が遠のいていた。私は地縁へのこだわりがあまりない。広い世界を⾒たい、いろんな経験をしたいという気持ちが強く、引っ越しの回数はハンパじゃない。

⾦沢では開業していた。⼦どもたちもみな独⽴し私は1⼈で暮らしていた。仕事にも友⼈にも恵まれ、それなりに幸せな⽇々だったと思う。ところがある⽇、ふと息⼦たちが家に寄りつかなくなっていることに気づいた。尋ねてみると「彼⼥の家におよばれすることが多くて」と⾔う。「お⺟さんのメシうまい︕」と⾔ってた⼦どものころ。いつからこうなったのか。どうして平等にわが家にも来ないのか。衝撃だった。

しかし冷静に嫁としての⾃分を振り返れば、やはり姑より実⺟を頼っているし、夫が⺟親の下へ⾜しげく通うのもヘンだ。ところがわが息⼦だけは例外だと信じていたのだから、ほんまにうかつやった(滋賀の⽣まれ。たまには関⻄弁で)。

最近、私の周りには「息⼦がお嫁さんにとられて寂しい」と嘆く⽅が多い。でも私の場合はその時に発想を180度転換したと思う。そうだ。親を卒業したんだ。お⼦さんのいない友⼈夫婦が「40代も半ばを過ぎ、50歳にもなると、⼦どもがいる⽅たちも夫婦2⼈になるのね。結局、⼈⽣の後半は⼦どもがいるかどうかなんて関係ないのね」と⾔っていたことを思い出した。なるほど。「⼦どもがいることを前提とした⽣き⽅」ってどうなの、と思えた。

男の⼦3⼈を持つ私としては、潔く息⼦たちをお嫁さんに渡し、新天地でゼロから出発するのも悪くない。私の「引っ越し癖」がむずむずと動きだした。そうだ、もともと住みたかった都会に⾏こう。そしてもう⼀度、結婚したい。⼦どもを頼るよりやっぱり良き伴侶を得よう。そう決⼼した私はクリニックを友⼈に譲り、何の未練もなく⼤阪に出たのである。

それからはや20年。息⼦や娘と会うのは多くて年に1回。でも今はインターネットを通じていつでも⼗分に全員とつながっている。狭い地縁や⾎縁にこだわって⼦どもを縛ることなく、「広い世界を⾒ておいで︕」と晴れやかに⼦どもたちを送りだそう。⼈⽣90年の時代を⾃らの⼿で豊かに築きながら⽣き抜く時にきていると思う。

 

 

連載コラム(43)家庭は社会生活の基盤

<43>家庭は社会⽣活の基盤

やっと仕事に就いた患者さんが「次は結婚したい」と⾔う時、私はいつも「仕事より結婚⽣活の維持のほうが⼀般的にハードルが⾼いのよ」と話す。家庭を治めるということは、⼀筋縄ではいかない、⼈間にとっての⼀⼤事業なのだ。最近のテレビで⾸相が夫⼈の活動がらみで窮地に⽴たされたり、皇族⽅で

さえご家庭の問題で悩まれたりする様⼦を⾒るにつけ、つくづくその思いを深くする。

⾃⾝を振り返っても、仕事を難なくこなすより夫とうまくやるほうが難しいと感じることもある。わが⼦どもたちを⾒ても、結婚だ、⾚ちゃんだと喜ぶのも束の間、そこから何⼗年と連綿と続く家庭⽣活に四苦⼋苦しているのを垣間⾒ると、やれやれ⼼配はつきないものだと嘆息するのだ。

仕事は嫌なら変わったり、辞表1枚で辞めたりすることもできる。が、夫婦や⼦どもとの関係は密着度も強く逃げ場もない。相⼿は⽣の感情をぶつけてくるし、価値観や意⾒が違って思い通りにいかないことも多い。しかし家庭⽣活は⽋くことのできない⼈⽣の基盤なのだから、私たちは家庭を治めることの⼤切さをもっと認識しておいたほうがいい。やれ結婚式だ、ドレスだと⼤騒ぎするのも幸せな⼈⽣の⼀コマかもしれないが、私⾃⾝はあまりそういうことに関⼼がなく、家庭を治めるコツというものを親から⼦へ伝えておくほうがよほど重要だと思うのだ。

以前どこかに「家庭は『やすらぎの場』であると同時に、家族の⾃我がぶつかり合う『戦いの場』でもある」と書いたところ読者の共感を得たことがある。「喧嘩して当たり前だと聞いて、ほっとした」という感想もあった。⾃我の違う⼈間同⼠が⽣活を共にするということは、そういうことだ。

「仲良く」と「喧嘩」との相反する両者のバランスをいかに保つかで家庭の真価が問われるだろう。ところが多くの家庭では、意⾒が異なった時、誰かが黙ったり、我慢したりすることで、その場を丸く治めているように思う。「黙る役割」「我慢する役割」が決まっているかのようだ。表⾯上の平和を優先するあまりであろうか。

「⾃分の考えをちゃんと主張しながら相⼿と和していくこと」こそが⼈間社会に適応していく課題であり、最⼤の試練だと思うが、夫婦関係で例えれば、押すだけの「亭主関⽩」や、引くだけの「恐妻家」ではなく、押したり引いたりしながらうまくやっていく、という感じだろうか。

あらゆる⼈間関係において重要なこのスキルを、「家庭で練習しなくてどこで練習するの︕」というのが、今回私が最も伝えたいことである。とはいえ、国を治めようという野⼼家でさえ、夫⼈となるとまた別のようだし、熟練した精神科医であるはずの私でさえ、夫ひとりに⼿こずるのが現実である。さて、あなたはいかが︖

 

 

連載コラム(42)私論ーお金を貯めるコツ

<42>私論-お⾦を貯めるコツ

福島の原発事故からはや6年を迎えたが、「⾃主避難」されている⽅の住居補助がこの3⽉で打ち切られることになり、⽣活に困窮する⽅は増えるだろう。精神障がいの⽅たちも、お⾦に困っている⽅が多い。外来に通院中の63歳の男性は障害年⾦を受け取りながら、共同作業所で働いている。合わせて⽉に12万円ほどである。将来に備えて貯⾦をしなければ、という話になったので、家計簿を⼀緒に検討した。⾷費の4万円は多いということになり、そこから1万円を貯蓄に回す計画を⽴てた。

精神科医がそこまで︖ と思われるかもしれないが、⻑期に⼊院した⽅が退院していく時など、お⾦の問題は無視できない。そこで今回はお⾦の貯め⽅について考えてみたい。

「お⾦がない」「お⾦が貯まらない」が⼝癖の⼈がおられる。そんな⽅々の家をこっそり覗いてみよう。例えば冷蔵庫。う〜ん、詰まっていますねえ。賞味期限切れがあったり、本⼈も忘れたものがあったり。キッチンやリビングも全体にごちゃごちゃしている。そして収納スペースや押し⼊れはモノであふれている…。しかしよく考えてみてほしい。これらはすべて「お⾦で買ったもの」だ。

つまり「モノはお⾦が形を変えたもの」で、⾔いかえれば、⼈は⾦貨に埋まって暮らしているのと同じなのだ。⼟地も家もモノも元は⾦貨なんですよ。意識したことありますか︖

お⾦を貯めるというと、家計簿を思い浮かべる⼈も多い。確かに家計を“⾒える化”することは必要だが、それはお⾦を貯めるための「最初の⼀歩」にすぎない。なぜなら家計簿は「お⾦を使った結果」だからだ。

根本的な解決法は、「お⾦を使う前に」「これにお⾦を使って良いかどうかを考えられること」ではないかと思う。世の中には「欲しいもの」「⼀⾒必要なもの」でいっぱいだ。それらを⼿に⼊れていたらキリがない。その結果が上記の家の様⼦ではないだろうか。

発想を全く切り替えてみよう。⾃分にとって「欲しいもの」を基準にするのではなく、これがなければ⽣きていけないくらい必要なもの、⼤切にしたいものを⾒つけること。何⽇かけてもいい。まずそれを考えてみよう。ただ、やみくもにガマンしろというのではない。そぎ落とすこと。⾃分にとって⼤切なものを知るプロセスこそが⼤事なのだ。そのプロセスを経た上で、財布の紐を緩める。

そうすれば⽉に3千円でも5千円でもお⾦は貯まるはずである。ならば先にその⾦額を収⼊から引いて「そのお⾦はないもの」として暮らしてみよう。失敗してもいい。緩くてもいい。そうやって買う前に考える習慣を繰り返すことがお⾦を貯めるコツ。

 

連載コラム(41)病気の陰に隠れないで

 

このコラムは好きなコラムです。

新聞の読者欄にも感想が出ました。

その後、亡くなってしまわれましたが、私も彼女の生き方に

勇気づけられているひとりです。

☆    ☆    ☆

歌舞伎役者の市川海⽼蔵さんの妻である⼩林⿇央さんは、病気を隠して闘病⽣活をされていたが、マスコミにスクープされて乳がんを公表。その後、ブログを始めて⾃らの想いを発信していくことを決意された。そのきっかけとなったのは「病気の陰に隠れないで」という主治医の⼀⾔だったそうだ。私もまたその⾔葉に衝撃を受けた⼀⼈である。

先⽇から診ている中年の婦⼈は、⾝体中が痛みだして⾝体科を訪れたが疾患が⾒つからず、精神科を勧められて受診された。そして薬物療法などで痛みは⽣活に⽀障のない程度まで改善していった。しかし間もなく婦⼈は「痛みはなくなったが、⾝体中がだるくて眠い」と訴えるようになった。

私は「痛みがこれほど良くなったのにね。良くなった時、少し家事などやってみた︖」と聞いた。「ええ、恐る恐る。でもまた再発するのじゃないかと怖くて。そしたら案の定、だるくて眠いなと気がついて」と⾔う。「何か新たな病気探しをしてない︖」と聞くと、「そんなことないです、本当にだるくて」と⾔う。「そうね。ここは病院だから、病気の症状を話してくれるのは当然だよね」「はい」「私もあまり家事のことなど聞いてなくて、症状はどうですか、って病気の話ばかりになって。お互いに病院にいるのだから当たり前かもしれない。でも、あれだけ苦しんだ痛みが取れて、すごく喜んでいたあなたは、何か今までやりたくてもできなかったことに⼿をつけた︖ 何か別の症状が出るのじゃないかと戦々恐々としながら新しい病気探しをしているようにも⾒えるよ。今の状態でもできる家事はあるでし

ょう」などと話し合った。

きっと家でも愚痴や⾔い訳が多いのだろう。付き添う夫も私との会話で胸のつかえが取れたような顔をしていた。

ここがポイント!

実は病気の⼈だけではない。みんな隠れるのが上⼿である。私が忙しい仕事を隠れ蓑に⽣きているように、ある⺟親は「まだ⼦どもが⼩さいから」と⼦どもの陰に隠れ、ある妻は「夫がいい顔をしないから」と夫の陰に隠れて⽣きている。「陰に隠れる」とは「その⼈や事柄のせいにして、⾃分本来の⼈⽣を⽣きることから逃げて⼼や⽣活を狭くしている」ということだ。

もし、私に何ひとつ隠れるものがなかったら…と思いをはせてみる。⼀体どんな景⾊を⾒たいと思い、どんな⼈とつながり、何を学びたいと思うだろう。

⼈は必ずいつか死ぬ。

どれだけ頑張ったかより「いかに⾃分の⼈⽣を⽣きたか」にこそ価値があると私は思う。

⾃分は何の陰に隠れて⽣きているのか。隠れるものも、能⼒も失われた時、あなたは誰とどこにいて、どんな景⾊を⾒ていたいだろうか。

 

連載コラム(40)叱ることのむずかしさを思う

<40>叱ることの難しさを思う

上司に叱られたと⾔って落ち込む患者さんの話を聞くにつけ、叱ることの難しさを思う。そして、つくづく褒めるより叱るほうが何⼗倍も⼤変だと実感する。

私は⼦どもの頃、祖⺟に育てられたのだが、叱られた覚えがない。祖⺟は⾔葉では叱らなかったが悲しそうな表情を⾒せた。私は幼いながらも悪いことをした⾃覚があり、⼩さくなっていた。「⾃分のような⼦どもでも、悪いことをした時には、分かるものだ」ということにわれながら驚いたことを覚えてい

る。⽗親の⼦育ては、普段は何も⾔わないが、いったん約束を破ると、板の間に何時間も正座させるというものだった。

そんな経験からわが⼦にも、がみがみと叱る⼦育てはしなかったし、誰に対しても叱ることは苦⼿で、また慎重でもある。院⻑になってからも患者さんや職員を叱ることはあまりない。軽く注意を促すか、あるいは⾃分が叱らず、しっかり冷静になってから適任の⼈に注意してもらう程度である。

私がなぜ⼈を叱らないかというと、あまりにも叱ることが難しいからだ。叱りたいと思う時、私は相⼿のためを思うと同時に、⾃分の⽴場上であったり、あるいは⾃分の思い通りに育っていない相⼿に対して失望や腹⽴ちの気持ちが混じっていたりすることにも気づく。するとためらってしまうのだ。また、相⼿の事情や体調、⼼の状態抜きに叱ると危険だし、相⼿にとっては⾔い分があっても上司や主治医に⾔い返すのは難しいだろう。そんなこんなを考えすぎて、ついきつく叱れなくなる。

ちなみにかつて厳しく叱ったことのある職員に聞いてみた。「昔、2回ほど叱ったね。覚えてる︖」。すると「あれは院⻑のためにやったことなので納得がいかなかった。でも⾔い返せなかったんです」「もう1回は忘れました」と⾔う。「じゃあ、2回とも的外れで学びになっていないね」と2⼈で思わず笑ってしまった。そんなものなのだ。

クリニックをやっていた20年前には、ある対応のきつい看護師にとても優しく「あなたの⾔い⽅ははっきりしていて分かりやすいけど、患者さんによってはきつく感じる⽅もいると思う。相⼿によるので気をつけてね」と注意したことがある。翌⽇私が受け取ったのは彼⼥の辞表で、翌々⽇からパッタリ来なくなった。あ〜あ。きつくても優しくてもだめなら、いったいどうすればいいの。

今の私の結論は「上司は⾃分の意⾒を⾔い、相⼿にも話す余裕を与え、対等に話し合うくらいがちょうどいい」というものだが今後も試⾏錯誤は続くだろう。こんなゆるいことを⾔っていると、⽴派な⽅からは、まさに「お叱り」を受けるだろうか。

 

 

連載コラム(39)曖昧さに耐えるということ

<39>曖昧さに耐えるということ

これもわたしの好きなコラムのひとつです。

先⽇、福島県相⾺市で精神医療に携わっている元同僚から勧められたテレビを⾒た。番組では、震災直後に多かった⾃死が⼀時減少したものの、最近になって再び増加傾向にあるという話を取り上げていた。その現象をアメリカの社会学者が提唱した「曖昧な喪失」という⾔葉で説明していた。はて、曖昧な喪失とは何だろう。

例えば家屋敷をすべて失った場合、ショックは甚⼤だが諦めざるを得ない状況となり、そのぶん強い覚悟が⽣まれる。ところが⼀時避難などだと、いずれ帰れると期待するが、現実は厳しく期待と失望が繰り返されるうちに⼼が疲弊してしまうのだという。覚悟ができるのと、真綿で⾸を絞められるような状況の違いは、精神科の患者さんも同様で、⼤きなショックには耐えられるのに、わずかな出来事で再発する。

ある重症の統合失調症の⼥性患者さんは、お⺟さんが献⾝的に⾯倒を⾒てくれたおかげで退院できた。ところがそのお⺟さんが突然の病で亡くなる。どうなることかと思ったが、予想に反して彼⼥の症状は落ち着き、病弱な⽗親のために家事までやるようになった。しかしこの病気に再発はつきもの。そしてそのきっかけは、ちょっと⾯⼦をつぶされたような曖昧な出来事であることに気づいた。

親の死を覚悟して再発しなかった患者さんが、どうしてこんな些細なことに弱いのかと不思議に思う。でもこれは統合失調症の患者さん全般に⾒られる傾向なのだ。⼤きな出来事に平気でも「こんなことくらいで︖」というようなことで再発する。それは何も精神障害の⽅特有の現象ではない。

実は私も⾃分を「逆境に強い⼈」だと思っていた。だがその認識は間違っていたかもしれない。⼈間はそもそも逆境には強いのだ。むしろ些細なことや曖昧なことに弱いのが⼈間なのではないか。分かりやすい逆境にあれば、覚悟ができるし、周りの⼈が助けてもくれる。

ここからがポイント!

自分でも読み返しては、心するところ。

だが些細で曖昧なダメージは外からは⾒えず、周りの助けも得られないまま知らず知らずのうちに本⼈の⼒を奪っていく。

震災は極端な例であって、そもそも考えてみれば⼈⽣とは、⼦どもが巣⽴っていくあたりから最期を迎えるまで、曖昧な喪失体験を繰り返していくようなものだ。そして⽼いていくこともまた、希望と失望を繰り返しつつ、だんだんできなくなることが増えていく、まさに曖昧な喪失体験の典型である。⼈⽣の途上にある私には、それに対してどうしたらいいかという知恵は浮かばない。けれども、希望と失望の繰り返しであるグレーゾーンな⼈⽣そのものを、苦しさ⾟さも含めて味わえる⼼境になりたいと思う昨今である。

 

 

連載コラム(38)愚痴りたいとき思うこと

<38>愚痴りたいとき、思うこと

愚痴はおおむね⼥性の専売特許だ。もちろん男性にも愚痴りたいことは⼭のようにあるだろう。愚痴を⾔えば気持ちがすっきりする、すっきりした後はやる気も出るというもの。ところが、愚痴は聞く側にとってあまり⼼地よいものではない。なのでつい早くアドバイスをして愚痴を⽌めたい衝動にかられる。

でも⽌めようとすればするほど、逆効果になるだろう。相⼿は「⾃分の気持ちを分かってもらえていない」と悲愴感を漂わせ、さらに声⾼く愚痴を述べ⽴ててくるからだ。じゃあ、どうしたらいいの︖ という気持ちになるが、この愚痴のループを⽌める、とっておきの⽅法を提案したい。

例えば⼥性が夫の愚痴を⾔っている場合。積年の恨みつらみがあるだけに迫⼒もあって、中途半端なアドバイスでは通⽤しない。そこで私は「でも、そんな夫を選んだのはあなたでしょう︖」とやんわり問いかける。相⼿は「だけど、その時には気づかなかったんだから仕⽅ないでしょ」。私は「なるほどね。でもちょっと考えてみて。その時、あなたのご主⼈より男前で、⾼給取りで、頭が良くて気がきいて、ステキな男性が近くにいたと仮定しましょう。果たしてその男性は、あなたを選んだかしら」。すると、さすがに⼥性は黙る。黙らされるといったほうが正確だろうか。

これはどんなことにも当てはまる。職場の愚痴しかり、友達の愚痴しかり。先⽇も、職場のもめ事からうつ病を発症して1年ぶりに復職した男性がいた。「なんとかやっています。

しかし、職場は相変わらずレベルの低い問題でゴタゴタしていて嫌になります」と⾔うので、例の持論をぶった。「あなたは地元から出たがらず、⼀番⼿っとり早い就職先を選んだんだよね。もし、勉学に励み苦労の揚げ句、すばらしい会社にたどり着いていたなら、今の状況は起きてなかったかも」と。その時は黙って帰った男性だが、1カ⽉後の診察で「先⽣のあの⾔葉は衝撃でした。⽬からウロコです。職場に対する思いが変わり、⼈⽣まで考えてしまいました」と⾔ってくれた。

ここがポイント!

愚痴や悪⼝を⾔うとき、⼈は「⾃分だけは別」という前堤で話している。でも本当は「別」じゃない。類が友を呼んでいるだけだ。それが分かれば、愚痴を⾔いそうになったとき、⼝を押さえたくもなる。愚痴は⾔っていい。おおいに。だけど、あなただけ「別」でないことを知った上で。この私だからこそ、この夫がいる。この私だからこそ、この会社に居る。この私だからこそ、今の状況を招いている…。そう思うと少なくとも私は、今居る場所を⾼められる⾃分でありたいと思うのだ。