連載コラム(35)自分にとっての魔法の杖

<35>私にとっての「魔法の杖」

⼦育てと精神科の治療は共通点が多い。そう気づいたのは、以前住んでいた所の地元の新聞に⼦育ての連載をしていた20年ほど前のことだ。児童精神医学が専⾨ではない私が、不思議と⼦育ての記事を書き続けることができた。その経験から、未熟な⼦どもをひとり⽴ちするまで育てる「⼦育て」と、弱っている患者さんの⼼を育てて社会に送り出す「治療」の本質が同じだと知ったのだった。

⼦育ても治療も相⼿の⼼に添い、叱ったり褒めたりしながら対応し、またいろいろな役割の⼈が関わることで社会性を獲得させていく。それを裏づけるように、精神科に勤務するようになって⼦育てがラクになったという看護師は少なくないし、私もその⼀⼈だ。

精神科医になった当初は、ただ患者さんの気持ちに共感することに必死だった。しかし、精神科病院にあっては⼀対⼀の関係だけに閉じこもってはいられない。同時にさまざまな職種が関わっており、⾃分が関わる部分はそのほんの⼀部にすぎない。また主治医としてチームをまとめるという役⽬もある。診察室での様⼦だけでなく⽣活全般や過去、将来など広い視野に⽴って治療⽅針を決める。その中で時には制限をしたり、叱ったりすることも必要になる。

私は最初、家庭でいえば⽗親が担いがちなこの役⽬がとても苦⼿だった。しかし次第に抵抗なくやれるようになり、今ではメリハリのきいた役割と優しくて受容的な役割を使い分けることができるようになった。⺟親や看護師のように⾝近でお世話をするからこそ⾒えることと、主治医として少し距離を置くからこそ⾒えるものは違う。そしてその両⽅が必要なのだ。

精神科ではそれを意図的にやっているわけだが、これはあらゆる⼈間関係に応⽤できるだろう。例えば「両親の考えを統⼀しないと⼦どもが混乱する」などと⾔われるが、必ずしもそうではない。両親であっても別⼈である。考え⽅も接し⽅も違うのが当たり前だ。その⼆つをどのようにうまく機能させるかが⼤事なのだ。また、会社という組織で⼈を育てる時も同様だと思う。どんなに優秀な⼈でも、⼈は⼀⼈では何もできない。反対に、どんな⼈にも存在の価値を与えることができる。

価値観や考え⽅、やり⽅の違う⼈を敬遠し、つい排除したくなる私たちだ。でも「チームで」という観点に⽴つと、あの⼈がいるから、この⼈がいるおかげで、という謙虚な気持ちになれる。⻑い間精神科病院という特殊な環境で働いてきた私はそのことを学んだ。今では家庭でも職場でもその考え⽅を取り⼊れた途端に不思議と物事がうまく運ぶ、いわば私にとっての「魔法の杖」なのである。

やっぱり腰を痛めてしまいました。

パソコンのやり過ぎ、スマホはだめよ。

何回も妹に注意を受けていましたが、心のどこかで「大丈夫」という気持ちがあるものですね。病気になるまでは・・・・・

今朝、当直室のベッドから起き上がろうとしたところ・・・・・

腰がやられて起きれません。

やっと起きて仕事をしましたし、夕方には当然治るものと思っていましたが、治りません。

プールに行ったら治るとまだ、タカをくくっていましたが。

でもまだ調子が良くありません。

腰を痛めるなんて、私の辞書にはなかったのに。

やっぱり、座って背中を丸めて長時間いることが良くなかったのでしょうか。

それでも尚、ブログを書いている私。

しぶといですね。今日はこのへんで。

 

連載コラム(34)人生の伴走者とは誰か?

 

<34>⼈⽣の伴⾛者とは誰か

これは私のお気に入りのコラムのひとつです。

どの⼈にも⼈⽣の伴⾛者ともいうべき⼈がついてくれている。こんなことを⾔えば、夫や妻、親や友⼈などの⾝近な⼈たちを思い浮かべるだろう。だが違う。あなたの⼈⽣にいついかなる時も寄り添ってくれる⼼強い⼈⽣の伴⾛者。それは実は「あなた」の中にいるのである。

いったい何のことかと思われるかもしれない。それは「⾃分の中にいて、⾃分を⾒ているもうひとりの⾃分」である。そしてそれは誰にでもいる。それが「⾃我」と呼ばれる存在だ。

こんなことはないだろうか。とても緊張する場⾯に置かれた時、冷や汗をかきながら慌てている⾃分がいる⼀⽅で、緊張し慌てている⾃分を冷静に「困ったことになったぞ、どうする︖」などと思いつつ⾒ている⾃分もまた同時にいたりすること。また、思春期の⼦どもに「そろそろ⾃我が出てきた」と評するように、⾃我は相⼿と意⾒が違っても「私はこう考える」と主張できる⼒を⽣む。これを世間では「反抗」と呼んだりするが、ただ主張するだけでなく相⼿の思いも汲みながら対応ができるように⼿助けすることで、⾃我は育っていくのだ。こうした主張や対応をするためには、⾃分を客観的に⾒つ

める能⼒が⽋かせない。

例えば「⾃分が認知症ではないかと⼼配しているうちは⼤丈夫」というように、今の⾃分の思考や判断⼒の衰えをちゃんと客観的に認識するというのは、なかなかすごい能⼒なのである。これもしっかりした⾃我があればこそ可能になる。ちなみに⾃⼰主張の強い⼈を「あの⼈は我が強い」と表現することがあるが、それとは違うので誤解しないでほしい。そういう⼈はむしろ⾃分の弱さを、強がりや頑固さでカバーしていることが多い。

⾼齢になり、親類縁者もいないままひとり暮らしをしている⼈を⾒れば、周りはどんなに寂しいだろうと案ずるかもしれない。しかし当の本⼈は特に寂しいとも思わずに暮らしている。これも、⼈は本来もうひとりの⾃分と対話しながら⽣きる⼒を持っているからである。

⼈は孤独に耐える⼒を⼗分に持っているものだ。

私が患者さんを診察したり治療したりする時に重要視するのも、表に出た症状より、むしろこうした「⾃我」の強弱であると⾔えば驚かれるだろうか。「⾃分の中のもうひとりの⾃分」は誰にも必ずいる。⾃分を客観的に⾒つめ、時に励ましたり、慰めたり、叱ったりしてくれる、唯⼀無⼆の親友であり味⽅だ。無意識のうちに「ふたり」が会話することで、⼈は⼈⽣の孤独や荒波を乗り越えていく。若くても⽼いても、ひとりの時間を⼤切にし、⾃分を⾒つめ、⾃分と対話する時間を持ってほしいと思う。

八ケ岳に住むということ

 

インスラグラム・プロフィール

八ヶ岳山麓に住む私が感動した風景、花、絵になるものすべて。私がここに住んで良かったと思わせてくれたすべてのものたち、そして猫たち。時に旅先で。

上は私がインスタグラムに書いた自分の写真のプロフィールである。

まだたった数枚しかアップしていないが、このプロフィールは、私の想い、そのものだと思った。

 

私は夫の強い意思でここに来た。

都会に住みたい気持ちを封じこめて、夫についてきた。

しかし、ここに住んでますますカメラを持つようになった。

 

普通は、カメラと言えば、朝の光の中、あっちこっち出かけ、じっと構え、辛抱のいるエネルギーのいる作業だ。

しかし私は、

家と職場の往復だけで

膨大な写真を撮った。

そんなことが普通はあり得るだろうか、

私は写真のために一回でも撮影旅行や旅に出かけたことはない。

 

ここで撮った数々の写真は私のこの土地での人生そのものだと思え、胸がつまった。

 

インスタにどれだけはまるかはわからないが、私の書いたプロフィールは私をよく現わしている。

 

私がここに住んで11年。

住まないとぜったい、わからない季節の移ろいや自然。

旅行者や別荘の人たちにはぜったいわからない、この微妙な季節の移り変わり、それを切り取る。

私はここに住んで多くのものを得た。

昨日、インスタに載せる写真を選んでいてつくづく思った。

☆   ☆   ☆

載せ方がわからなくて、妹にメールしたら「身体を壊すからやめなさい」と強く注意された。

たしかに今の私にスマホやインスタは、健康を害する元かもしれないが。

連載コラム(33)自分が変われば相手も変わる

 

 

 

<33>⾃分が変われば相⼿も変わる

精神科の患者さんの症状は、どこからが病気でどこからが性格的なものか区別がつきにくい。それもそのはず。⼼の病とは「⼈間関係の病」でもあるからだ。

⼈間関係の中で、⼈の⼼は⼀定の法則に従って動く傾向がある。満⾯の笑みを浮かべて「ありがとう」と⾔われた時、⾃然に⼈はうれしい気持ちになる、などはそのちょっとした例である。

精神医療では、その動きの法則性を⾒つけていくことが⼤切で必要になる。例えば、ダダをこね続けた時に根負けした親が⾃分のわがままを聞いてくれると、⼦どもはだんだんわがままを通すためにダダをこねたり、それがエスカレートしたりする可能性もある。こうやって親⼦の間で⻑年の間に困った性格や精神症状が形成されていくことはよくあることだ。私たちは患者さんと家族の⼼の関係性を探り、良くない⼒関係が働いているなら、それを別の⽅向に変えるよう働きかけたりもする。

先⽇、激しい不安障害で⼊院となったA君はまだ若い17歳。不安が起きるたびに家に電話し、会いたいと⾔う。それが1⽇⼗数回にもなって親がネをあげた。患者さんは発作を起こすと親が⾔いなりになることを無意識に知っている。発作を収めたい⼀⼼で⼦どもの願いをかなえ続けたツケは⼤きい。

また別の例だが、神経質で⼏帳⾯な強迫性障害のBさんには、おおらかでのんびりとした妻がいた。神経質な夫を持てば、妻はバランスをとるためにどんどん⼤ざっぱになりがちだが、妻が⼤ざっぱになればなるほど夫は不安になり、強迫的な⾏動が増えていた。

こんな時、患者さん⾃⾝を治療するのはもちろんだが、家族にも働きかけ、変わってもらわないと症状は改善しない。A君の両親とは、今後A君の⾔いなりにならないよう話し合う予定だ。Bさんの奥さんには、ご主⼈の症状を神経質すぎると決めつけないようにお願いした。そして奥さんも⼏帳⾯な⾯を出してくれれば、ご主⼈も安⼼すると助⾔したところ、症状は少しずつ改善している。⼈間はともすれば、相⼿ばかり変えようとする。というか、⾃分は変わりたくない、相⼿をばかり変えたいと思う⼈であふれている。誰でも⾃分は悪くないと思い、⾃分が変わることには強い抵抗を感じるものだ。

しかし、⼈の⼼が関係性の中でどちらにも動くことが分かれば、どうだろう。どちらがいいか悪いかではない。相⼿の病気が良くなったり、⼆⼈の関係が良くなったりすることが⽬的なのだから、思いきって⾃分から変わってみよう。「⾃分が変われば相⼿が変わる」は真実である。ぜひ試してみてほしい。

 

 

インスタグラム

 

これは、今日、インスタグラムに載せた写真です。

妹手づくりの甘くて美味しいかぼちゃプリンでまったり日曜日の昼下がり。

きわめて地味な暮らしの中で、月に一回、妹が来る日は私の一番うれしくしあわせな日。

だってだって、ふだんは仕事と寝るだけなんですもん。

誰も来ず、どこにも行かないんですよん。

 

ずっと使わずにいたスマホ。

今日、妹が来たので、インスタグラムの登録方法を教えてもらいました。

妹もよくわかっておらず、でも私よりマシで(なぜならやっぱり息子、娘、職場の若い人の影響ありで)ふたりで四苦八苦、というより妹が四苦八苦して、登録してくれました。

写真は大好きなので、フェイスブックよりインスタグラムのほうが私としては使いやすいかな、と思います。

写真の「保管場所」という感じですね。

 

妹はわたしより 一回りも若いのですが、それでも。

「こおゆうのをしていたら仕事に差し支えるの。とにかく、いかに寝るかしか考えていないの。だからやらない」と言います。

私も同感です。

もう、今では。

寝ることしか考えていません。

寝ないと翌日の仕事にさしつかえるからです。

金曜日の医師会&宴会では、疲れが今朝まで残ってしまい。

マイッタ! という感じ。

 

やっと健康的に戻ったのに、インスタだなんて

トンデモナイです。

だめだだめだだめだだめだだめだだめだ

本業から捨てられちゃう

☆    ☆    ☆

でもいつかいつかいつかいつかいつか

私の膨大な写真たち。インスタで整理してアップしたいものです。

連載コラム(32)じりつとはの深い意味

<32>「じりつとは」の深い意味

30歳をすぎた頃、九死に⼀⽣を得る体験をした。幼い⼦ども4⼈を連れて、家族でドライブに出かけた時のことである。

途中、景⾊のいい場所で夫が⾞を⽌め、先に外に出た。道の左側は絶壁で落ちたら奈落の底、という⾼さである。その時、⾞がじりじりと下り始めたのだ。運転をしないペーパードライバーの私にもブレーキが⽢いのだと分かった。

慌てて夫に「⼤変︕⾞が下がる︕」と叫んだのだが、彼はうれしくて⼿を振っていると勘違いしているようである。私は咄嗟に「この⼈を当てにしていたら⼦どももろとも死んでしまう」と判断した。頭が真っ⽩になったが、とにかく⾃分の⼒でなんとかしなければと、めちゃくちゃ両⼿を振り回した。どこかにブレーキがあるはず︕との考えがよぎったのだ。すると、アッという瞬間があって、⼿がハンドブレーキに触れた。それを⼒いっぱい引いて、⾞は⽌まった。

私の⾃⽴⼼が、⾃分と⼦どもの命を救ったと思った。そして、若い時に免許を取らせてくれた⽗に感謝した。運転を全く知らず、夫に依存する体質だったら、死んでいたと思う。

この事件はずっと私の中のテーマだったが、最近、室井滋さんの「しげちゃんと じりつさん」という絵本を読んだ時、⼆つの事柄がつながった。おばあちゃん⼦のしげちゃんは、おばあちゃんがいないとだめだったり、夜も祖⺟と⼀緒に寝たりする⽢えん坊さん。だが、⼩学校1年の通信簿で先⽣に「⾃⽴を︕」と書かれてしまう。そこでお⺟さんは1⼈で寝られる⼦になるよう仕向けたのだが…という内容である。

室井さんは「親⼦で“じりつ”を考えるきっかけにしてほしかった」と⾔う。⾃⽴というと⼀般には「親の家から出る」「⾃分で稼ぐ」というイメージだろう。でも、それらは強⼒な⼿段の⼀つだという意味であって最終の⽬的ではない。

私の命を助けた「じりつ⼼」も、しげちゃんのお⺟さんが考えた「じりつ」も、そんな狭⼩な解釈ではない。⾃分の頭で考え、⾃分で判断し、⾃分で⽣きていく⼒をつけるためには、どうしたらいいかという話である。

咄嗟の判断⼒の違いが⽣死の分かれ⽬になることがある。同じ病気になっても「治る⼈」と「治らない⼈」の差になって表れることもある。障がい者や⾼齢のお年寄りのサービスも⾏き届いていればいいとは限らない。⼗⼈いれば⼗⼈、百⼈いれば百⼈、⼈それぞれに「じりつ」の内容は違う。

あなたにとっての「じりつ」とは何か。「じりつ」にはゴールなんてないのだ。私はこれからも⽣きている限り、⾃分の⾜でしっかり⽴って歩いて考える⽣き⽅をしたいと思っている。

サプリ、自己導尿、白内障など

昨夜、医師会の会合と宴会があった。

会合では話せないが、宴会になると、いろんな科の先生の話が

直に聞ける。

 

整形の先生が「膝に効くというコンドロイチンとかいろんなもの、あれはまったく膝にはいかない。食べ物やサプリは無関係」と言い切っていた。

私もどう考えても、そう思っていたので、飲んではいないが、かなり賢明な人たちがこぞって飲んだりしている。

不思議である。

 

私が「ルテインはどうですか」と眼科の先生に聞いた。

「黄班症の予防にはなります」という。

私は左目が失明しているので、右目までやられたら失明であるので、半信半疑で飲んでいる。眼科医がそう言うので、やめることもないかと思った。

 

親類の男性が、排尿困難で困っている。人生がもう終わりだと思うくらい悩んでいる。尿が出にくく、しかし基礎疾患はなく、治療のし様がない。

「最後は自己導尿という方法があります」という。

聞いたことがなかったが、調べてみると、自分で管を入れて尿を出すのだが、生活に支障はないらしい。

教えてあげよう。

 

私は病気になると、もちろん病院には行くし、だいたい知り合いの医者にも聞くし、別の病院にも行くし、簡単な病気でも3人の医師に聞く。

ひとりでは信用できない。

 

「白内障と言われた時に読む本」という本が出ていて、良心的な眼科医が、丁寧に、手術の可否や必要な知識を書いてくれている。

自分には白内障はないが、買ってみた。

なるほどと思うことがあった。

 

どんな病気でも、少なくとも3人の医師に聞いたほうがいい。

癌など重い病気なら7人に聞くと思う。

 

病気とはそういうものである。

大事な自分の身体は慎重の上にも慎重に考えてあげるべきだと

思う。考えてあげれる人は、自分しかいないのだから。

連載コラム(31)反論で対等な関係を築こう

<31>反論で対等な関係築く

「もう、⾔われ放題なんです」。その患者さんは嘆息をついた。職場の先輩がいつもきつく当たるらしい。患者さんは何も⾔い返せない。ところがある⽇、ご飯が喉を通らず夜も眠れぬほどになり、翌⽇思いきって「あんな⾔い⽅をされて落ち込みしんどかった」と初めて伝えたそうだ。相⼿は黙った。「すごくすっきりしたんです。⾃分のすっきり感に本当に驚きました」と、患者さんはうれしそうだった。これからは少しずつ⾔うようにすると⾔う。

⾃称しっかり者の私でさえ、家で、職場で、どれだけ黙り込んでしまうことか。このトシになれば⾔い訳にもならないが、そういう訓練を受けていないし、今まで⾔い返す⼤事さをあまり意識してこなかった。相⼿が理不尽であればあるほど「どうせ分かってもらえない」とばかり黙ってしまっている。

もう親のせいにはできないが、親に⼝ごたえをしてはいけない、などと教えられ、反抗したり⾔い返したりすることをしてこなかった。そんな⼈は意外に多い。先⽇、わざわざ横浜の友⼈宅に泊まりに⾏った妹も、⼀晩中友⼈から愚痴を聞かされ、それを制⽌できなかったというからあきれてしまった。

実は夫婦にもこうしたパターンは多い。夫が毒⾆家だと妻は黙り込む。妻が愚痴っぽかったり嫌みを⾔ったりするタイプだと夫は黙る。私たちは⾃分の気持ちや考えを伝えることに慣れていない上に、喧嘩になるのを異常に恐れている。けれど、やっぱり⾔い返さない⽅にも責任があると思う。

職場での反乱は波⾵が⽴つことも多い。まずは家庭の中で練習をしてみてはどうか。⼦どもが⼝ごたえしたら「へえ、そんなことを考えていたんだ」と受け⽌めてあげよう。夫婦の間でも、⾔い返す練習をしよう。いや、するべきだと思う。

なぜかというと、⻑い年⽉の間にそれぞれの性格の特徴やパターンが強化され、その差が埋められぬほど⼤きな溝となるからだ。共⽩髪になったころ、愚痴が常態化して認知症になってしまう妻、毒⾆が常態化して暴⼒的になってしまう夫。そうなって初めて精神科の⾨を叩くことになる。

黙り込むことは決して相⼿に対する愛情ではない。その場限りの平和を重視した、⾃分を守る⼿段である。優し過ぎる⼈、優し過ぎる妻(夫)、優し過ぎる⺟(⽗)は相⼿の⽋点を⻑年かけて⼤事に育てているのだと知れば怖い話だ。

固い頭になる、事件になる、認知症になる、その前に、愛情を込めて相⼿と戦おう。まず家庭の中で親⼦や夫婦やきょうだい、考えや思いの違いを⾔い合える対等な関係をつくろう。たくさんのケースを⾒てきた私の切なる願いである。

 

 

この頃、森林浴にはまっています💛

このごろ、森林浴にはまっています。

リラクゼーション効果もありますし。

NK細胞が活性化されて免疫機能が上がるらしいです。

 

家自体が森の中ですから、家のまわりをウロウロしたり。

森を目がけて、3000歩程度ですけど、朝に夕に歩いています。

 

今日は通りがかりのカフェで、セロリとレタスの野菜ジュースをいただきました。

夕方から仕事ですので、少しゆっくりできました。

 

今の住まいに移ってから、なぜこんなに健康になったのだろう。

不思議で仕方ありませんでした。

それが森の効果だと言われたら、そうかもしれないなと思います。