連載コラム(17)自分で治す力・信じよう

精神科の敷居はどんどん低くなり、⼈々が気軽に精神科の⾨をくぐる時代。その中にどんな問題点が潜んでいるかについて書いてみたいと思います。

気軽に受診することは必ずしも悪いことではありません。軽いうちに治せるという利点があります。

しかし、どこからが「医療」で、どこからが本⼈の考え⽅や環境の問題であるかなどの線引きが難しく、そういう患者さんが多くなっているのが最近の特徴だと言えます。

急に会社に⾏けなくなった40歳の男性は、「上司とうまくいかなくなったが、最初は頑張って⾏っていた。しかし、朝になると気分が悪くなり、家を出る時間になるころから動悸がしたり吐き気がしたりして、どうしても家から出れなくなり会社を休んでいる」ということで来院されました。

気分も憂うつで、不安も増して、夜も眠れないといいます。気が強くて⾃信過剰の⾯と、⾮常に⼩⼼な⾯が同居しているように見えました。外⾯(そとずら)がいいので⼈間関係は悪くないらしいです。

患者さんの問題や環境はさておき、夜もぐっすり眠れていなければ翌⽇に疲れを残し、体調も気分も優れないだろうということで、まずは多少の安定剤を処⽅しました。

初期の段階だったので、症状はいったん改善しました。が、その後、彼の体調不良の訴えはエスカレートしていくことになります。

「職場復帰のハードル」を越えるのがなかなかうまくいかないのです。どうも薬だけの⼒では無理のようでしたが、すべては薬や「病気」のせいにしてしまうのでした。

でもここではっきり⾔おうと思います。

⼈間にとって、「病気」はその⼈の⼀部にしかすぎません。健康な⾯の⽅がはるかに多いはずです。ですから誰でも⾃分で治す⼒を持っているのです。医療はそれを⼿助けするにすぎません。

そして実は、「病気」と「性格」が重なり合って、症状を不安定にさせたりエスカレートさせたりするという特徴が⼼の病にはあります。

例えば、マイナス思考の⼈は、起きたことの悪い点ばかりとらえてしまうので、ますます悪くなってしまうといったようなことです。

⼼の病気は、気質や性格、そして環境ときっかけがすべてそろったときに発症します。

それは何も⼼の病に限ったことではないかもしれませんね。⾝体の病気も同じでしょう。⾷べ物や不摂⽣と、体質や遺伝的要素などすべてがそろって初めて発症するのですね。

ここがポイント!

ですからどんな病気であってもまず、⾃分を振り返ってみましょう。

薬に頼り過ぎたり専⾨家に任せ過ぎたりするのはよくないと思います。

⽣活習慣を変える。

⾃分の頭で考えたり友⼈に相談したりする。

親⼦や夫婦で向き合う。

いろんなことを総動員し、本来の⾃分が持つ⼒を信じて病と向き合いましょう。

逆説的ですが、そんな⼈にとってこそ、医療者側もまた最⼤限にその専⾨性を発揮できるのだということを知っておいてほしいと思います。

 

 

 

連載コラム(16)働くことが治療になる

 

私の患者さんには、働いていない⼈も多いのです。

働くことは病気だとか健康だとかと関係なく⼤切だと思うので、無理強いはしないのですが、チャンスがあれば勧めることにしています。

必要は発明の⺟という諺があります。必要に迫られての⼯夫こそが、発明に発展するという意味です。同じことが仕事にもいえると思います。

お⾦なんか⼆の次、とにかく働きたくて働きたくて、という⼈などそんなにいません。みんな⽣活のため、生活のために働いている⼈がほとんどです。ですから患者さんがお⾦に困っている時やお⾦を欲しがっている時に働きかけるのがコツだでしょうか。その時こそ提案のタイミング。

「あなたの欲しい物を買うお⾦はあるの︖」

「お⾦がないのにどうやって暮らしていくつもり︖」。

そんな問いかけをしているうちに患者さん⾃ら「働くしかないか」と思うようになることが多いです。そうなったらしめたもの。

⽣活保護で暮らしながら通院している35歳の男性患者さんは不規則な暮らしを⻑年続けていました。勤めはするのですが、どこも⻑続きしないのです。その彼に彼⼥ができた。

彼⼥は健康で普通に働いている方ですが、収⼊はかなり少ないようでした。

所帯を持てる状況ではないが結婚がしたい、⼦どもも欲しいといいます。

私は病気の⼈同⼠であっても同棲や結婚に好意的です。しかし「⼦どもを産む」ことに対しては、慎重にならざるを得ません。

「結婚は賛成だけど、⼦どもを育てることはとても責任の重い、またお⾦もかかることだよ」とアドバイスします。

そこで⼀⽇も早く⼦どもをという彼⼥も交えて話し合いました。

「同棲でも結婚でもいいと思う。でも⼦どもをつくることは2⼈の⽣活が安定してからだよ」と意⾒を⾔いました。

彼らは今現在の同棲に⽔を差されたように感じてとても落ち込んだように見えました。

⼼配していましたが、1カ⽉してやってきた2⼈。「反対された気がして落ち込みました。でも2⼈でよく話し合いました。そして今は同じ会社で製造作業員として働いています。絶対結婚したいと思って」。

あんなに調⼦の悪かった彼が⼀体どうしたというのだろう。

働くようになったのです。

そうしたら⽣活も規則的になり、気分の落ち込みも少なくなってきました。その後、彼の病状は明らかに良くなっているように思われます。

私の出版した本に「誰にとっても仕事は通院治療、そして作業療法。治療してもらってお⾦までいただいて感謝、感謝」という⾔葉があります。

ただ、働くことは誰にとっても⼤変なこと。

だからこそ、必要に迫られることが必須なのだと思います。

あれが欲しい。これも欲しい。

結婚したいし⼦どもも欲しい。

そうやって欲望や夢を持てる⼈間に育てておけば⼈は⾃然に働くようになると思います。

働くために⽣きているのではないのです。

夢を叶えるためにみんな頑張って働いているのですから。

 

連載コラム(15)子育ての先を見つめて

⼦育ての⽬的は「育てる」ことですが、「親からの⾃⽴」までだと認識している親は少ないのではないでしょうか。

⼦どもなんて普通に育てていれば、普通に家を出て⾃分で⽣活していってくれると漫然と思っているのが⼤抵ではないでしょうか。

ところがそうはいかない、という例を嫌というほど⾒てきました。

そんな中で、障がいを持った⼦の親から学んだことをご紹介したいと思います。

⼭梨に移住したころ、30歳の精神遅滞の⻘年が受診しました。

彼はグループホームで暮らしていました。スタッフの話では、東京で⽣まれ育ったが、幼いころに障がいのあることを知った両親が、親だけで抱え込むのではなく、いずれ親と離れて暮らしていけるようにと育てた結果だということでした。(私は親の先見性に感心しました)

また別の事例もあります。最近、発達障がいの私の男性患者さんが就職先が決まり、いよいよ1⼈暮らしをすることになりました。
この⽅は幼いころに障がいが分かってから治療を続けている方です。
⼀⼈っ⼦なので愛情独り占めでとても可愛がられて育ちました。が、両親は⼀⽅で「この⼦の⼒で⽣活していけること」を⽬標に育ててきたと言います。

⼈付き合いが下⼿で、能⼒に偏りがあるなど多々⼼配な点があったので、親元から離れることに困難があることは想像できました。そして⼤学に⾏く時、彼の第1志望は東京の⼤学でした。

⼼配する⺟親に「若いほど適応⼒はありますから、この時点で⼿放すことも有りです」と話したが、東京ではなく、地元の⼤学にだけ合格しました。

「学業も⼤事ですが、体を使って働く⼒のほうがもっと⼤事です」という勧めに従って、スーパーの⿂屋さんでアルバイトをしました。

さて、卒業する段になって、障がいを隠して就職するか障がい者であることを認めてもらった上で就職するかだいぶ迷った後、障がい者として働く道を選びました。そしてようやく温かく迎えてくれる会社が⾒つかったのです。

その会社は家からかなり近く、家から通勤できないこともない距離です。しかし両親はあえて、1⼈暮らしさせる道を選んだのです。

この年齢の⼦どもは素直なので、親の⽅針はとても⼤事です。どちらにもころぶ時期だと言えるでしょうかこの時期を外すと、⼦は親の⾔うことを聞かないし、また親元での暮らしがいかに楽ちんであるかを知ってしまうと、家から離れられなくなります。

会社が家から通える範囲であっても家から離しなさい、と私はいろんな⼈に助⾔します。アパート代がもったいないなどは論外です。

子供の自立とお金を図りにかけるなんてトンでもない。⼈間はもっともったいないことをいっぱいしているではないかと思うのです。

⻑い将来を⾒通せば、わが⼦が⾃分で⾃分の⾝の回りを整え、⽣計を⽴て(あるいは社会の援助を受け)暮らしていけるように⼿助けすることが、どんな親にとっても⼀番の務めではないでしょうか。

これら障がいを持った親御さんたちの真摯な⼦育てから、私が学んだことはとても⼤きいと感じています。

(:注*アパート暮らしも、もう4年目に入ります。年に二回ほど、今でも診察に来てくれます。お母さんとはスーパーや銭湯で2年に一回くらい出会います。そのたびに彼の成長ぶりを知り、目を細める私なのです。高校3年まで、母親と銭湯に来ていて驚きました。でも親がうまく道筋をつけさえすれば、そんなことは小さなことなのですね)

連載コラム(14)心のアラーム鳴ってるの聞こえていますか?

年の初めの外来はとても気ぜわしいです。

そんな中、なんとも浮かぬ顔で来院したご婦⼈がいました。お⼦さんもそれぞれに家庭を持ち、お孫さんもおられます。さぞかし華やかな正⽉であったろうと想像して話題に出したところ、突然涙ぐまれて驚いてしまいました。

⼭梨県は「⼈々が移住したい県ナンバーワン」です。K⼦さんもそんな移住者のお⼀⼈で、夫婦⼆⼈暮らし。お⼦さん⽅は遠くに住んでおり、正⽉に家族で集まる習慣はどうもないようでした。

寂しいけれど気楽な⽇々の暮らしを楽しんでいるつもりでいたと彼女は言います。
ところがこの正⽉、思わぬところから噂が⼊ったのでした。息⼦たちが寄りつかないのは、お嫁さんがK⼦さんを敬遠しているらしいということです。遠いから来られないのは仕⽅ないと気にも留めていなかったが、あらためてそういうことを知ってしまうと、とても悲しい。本当に落ち込むと彼女は涙ぐむのです。

K⼦さんはお嫁さんに気遣いをしてきたつもりでした。

でももっと近くにいて孫たちをみてやればよかったのだろうか。

私の⽣き⽅、わがままなのだろうか。

考えるほどに⾃分を否定してしまって落ち込むといいます。

こんな時「そんなに気にするほどのことではないよ」と⾔うのが⼀般的な対応でしょうか。

しかし精神科医Dr.あやこは違う(笑)。

 

落ち込んでいるのは私ではなくて当の本⼈だし、それが現実なのだから、まず認めてあげるのが先決だ。
今まではこれくらいのことで落ち込むことはなかった。しかしこの正⽉はなぜか⼼が元に戻らない。

ここがポイント!

こんな場合、つまり不安やイライラ、落ち込みなど普段と違う感情が出るということは、⼼に「アラーム」が鳴っているということだと教えてあげるのがDrあやこのやり方です。

⼼のケアに関わる私たちがとりわけ⼤事にするのが、この「⼼のアラーム」が鳴っているという事実に本⼈が気づくことの重要さです。

いつもとは違う気持ちの変化があった時に、「気にしないで」とか「まだ頑張れるはず」と⾃分の気持ちを抑え込む⽅向にいくのは危険だと思います。

認めた上でその気持ちにどんな意味があるのかを考えることが⼤切であり、治療でもあると考えています。

彼⼥に対しても落ち込みの意味について⼀緒に考えてみました。

「故郷を出て広い世間の中でもまれながら⽣きてきたあなたが失ったもの。それは親や⼦や孫たちとの密な関係や隣近所の友達。でもずっと地元にいたら得られなかった多くのものも⼿にしたと思う」

そう話すと、K⼦さんはうなずきました。

「両⽅は得られないですね。それを忘れ、今までの⽣き⽅に迷いが出たのですね。私の⼈⽣で⼤切にしていくことは何か、つい忘れがちなそのことを今⼀度⾒つめ直す時期にきているのかも」。

帰り際のK⼦さんに、来た時の涙はもうありませんでした。

泣き顔や暗い顔で診察室に入った方が、晴れやかな顔になって出て行くとき、事務員やナースたちは「何があったか知らないけど、そんな時が一番うれしい」と言ってくれます。

今日も患者さんから笑顔を引き出し、それを見守るのが私たちの仕事です。

連載コラム(13)枠づけで依存防止

新しい年を迎えました。

私の元⽇は、普段と変わらず当直とそれに続く⽇直の仕事から始まりました。患者さんたちにとっても「正⽉」は単に⽇常の続きにすぎないことが多く、また医療従事者も⽇直や夜勤はお構いなしにやってきます。

ところが、お正⽉が特別に忙しいかというと必ずしもそうではないのです。精神科の急変患者さんが元⽇から多いわけではありません。

つまり、⾝体の病気は意思と関係なく起きると思われますが、一方、⼼はある程度意思に影響されるからではないでしょうか。

「虫垂炎」も「肝炎」もお正月かどうかなど関係ありませんが、かたや心の病気は、お正⽉には病院はやっていないと思えば、パニック発作が元⽇の朝から起きることは⽐較的少ないのです。

「正⽉はどこの病院もやってませんよ」という教育をしていると患者さんもそれなりに⼼構えをつくるのです。

これを精神科では「枠づけする」と⾔います。境界線をつくることで、気持ちが引き締まったり、規律を守りやすかったりするということです。

反対に、我慢強くない患者さんを周囲がとても⽢やかすと、患者さんのわがままが増⻑して症状が悪化することはしばしば見られます。

他にも例を挙げてみましょう。

私の病院の外来は午前中だけです。が、以前に患者さんが午後にも来られた場合には診ていた時期がありました。すると午後の「急患」と称する患者さんは増えていったのです。冷たいようでもきちんと「外来は午前中だけ」を徹底してから、午後の「急患」はあきらかに少なくなりました。

また、私の受け持ち患者さんの数が少ない時期に、夜間休⽇⽤の電話番号を全員の患者さんに教えたことがあります。驚いたことに、その全員から「緊急」の電話があったのです。電話番号を「知っている」とつい電話で助けを求めたくなるのが⼈の⼼理なのでしょう。

私も同じ。パソコンが苦⼿なので、パソコンお助けマンがいます。相⼿の携帯電話を知ってしまうと、パソコンがこじれたときに「翌⽇まで待つ」とか「⾃分で努⼒をする」前に携帯電話につい⼿を伸ばしてしまう⾃分がいます。事務所の電話しか知らないと、努⼒しなくても時間外電話をかけなくてすむのです。これも⼀種の「枠づけ」だと⾔える。

精神科の治療では治療⼿段として「枠づけ」を⾏うのですが、⽇常の暮らしの中では、社会が、あるいは親が⼦どもに、夫(妻)が妻(夫)に、⾃分が⾃分に枠をつくってあげることで、依存や乱れや無理を防いでいます。それ以上超えたらだめよという境界線を、外から内から設けてあげるのです。

ちょっと窮屈な感じがするかもしれませんが、⼈間が⽻⽬を外さないで⽣きていくために⼤切な精神科的視点です。

今年の始めはそれを知っただけで、愚痴を聞いてくれない優しくない夫(妻)を持っている⼈も背筋が伸び、「そっか、これも愛か」と思えるようになるかも。

(:注* ちょっとむづかしいでしょうか。頭ではわかっても、生活の中で具体的に応用して考えるのはハードルの高い視点かもしれませんね。まあ、家族や友人の愚痴も優しく聞いてあげればいいというものではない、というくらいに理解していただければと思います)

連載コラム(12)意欲こそ、若々しさのもうひとつのポイント

若々しい脳とは何かのキーワードは「⼼のしなやかさ」であると前回書きました。今回は、もう⼀つのキーワードである「意欲」について書いてみたいと思います。

「やる気のなさ」は認知症の始まりの指標として、「もの忘れ」の症状と同じくらい重要です。

ここで脳の仕組みについて簡単に触れたいと思います。

脳は3頭⽴ての⾺⾞に例えると分かりやすいです。

1頭⽬は感性や感覚をつかさどる右脳。

2頭⽬は運動をつかさどる脳。

3頭⽬は論理的な思考をつかさどる左脳。

3頭の⾺が⼒を合わせて私たちの⼼や体を⽀えてくれています。

ここで強調したいのは、⾺以外にも⽋かせないものがあるということです。それは⾺を操る御者の存在です。

⾺がいくら達者でも、御者がさぼっていたら、これ幸いとばかりに⾺も怠けてしまうという具合です。

「意欲ややる気」に関係する場所は主に前頭葉です。御者の働きが悪くなると、今までできたことが何かとおっくうになります。おっくうになってやらなくなるから、ますます脳の機能も衰えるという悪循環です。

以前、1⼈暮らしを⻑く続けた88歳の⼥性が肺炎で⼊院してきたことがあります。気丈夫な⽅で、⼊院するまでは料理や家事をこなし、1⼈暮らしをしていました。ところが、⼊院して脳の検査をしたところ、脳の萎縮は重度だったのです。これだけ脳が退化していても、料理や家事ができることに本当に驚いたものです。

彼⼥には家族や親類が近くにいませんでした。彼⼥を⽀えていたものは「誰も助けてくれる⼈がいない。最期まで⾃分でやっていくしかない」という覚悟と意欲であったろうと想像できます。そして、⼊院して頑張る必要がなくなってからの衰えは、残念ながらあっという間でした。あれだけの家事をこなしていた婦人がたったの一週間で、自分がどこにいるかもわからなくなったのです。

器質的な脳の異常が⼤きくても、⼈⽣にやる気や⽬的があると、⼤きく萎縮した脳がこんなにも働くのだという事実は時に奇跡的でさえあります。少ない脳細胞でも助け合って必死で機能すれば、⼤きな⼒が出るのですね。

⼈⽣に何か⾜りないものがある、というのは必要なことです。また同情すべき状況にある、というのも悪いことばかりではありません。その中に、⼈の⼼を震い⽴たせる何かがあるような気がします。

今嘆いている苦労や重責こそ、若さの秘訣だと考えを変えてみる視点もあるのではないでしょうか。

恵まれて幸せなのは結構なこと。しかし、お⾦があって家族がいて、何もかもやってもらって、⾃分の役割やすべきことまでなくなってしまうと、脳はあっという間に退化します。

どうやら幸せボケは新婚さんだけの専売特許ではないようです。

連載コラム(11)若さのキーワード、それは心のしなやかさ

年を重ねても若々しくいられる秘訣(ひけつ)って何だと思いますか。

そのキーワードの⼀つは「⼼のしなやかさや頭の柔軟さ」です。(身体も同じかもしれませんね)

もう⼀つは「意欲や好奇⼼」を挙げたいと思います。

今回は「しなやかさ」のほうを取り上げてみたいと思います。

心のしなやかさってどうやってそれを鍛えることができるでしょうか。患者さんが⼼を病むときを考えてみました。

それは、環境や対⼈関係が変わったり、傷ついたり、何らかの変化があったときにあらわれます。つまり変化に対応できないとき、⼈の⼼は折れたり病んだりするでしょう?

それを裏返すと、トラブルや悩みのときこそ、脳に刺激を与え、⾃分を変える絶好のチャンスと⾔えるるでしょう。

⾄近な例を挙げてみます。

わが家で新しく買い替えたピアノのことで夫婦の意⾒が異なったことがあります。

ピアノは夫婦共通の趣味です。その扱いで夫がAだと主張し、私は内⼼Bだと思い、考えが真っ向から対⽴したのでした。

私はけんかが嫌で対⽴をあらわにすることを避け、だんまり戦術に⼊りました。しかし、お⾦の⼯⾯で苦労したことを思えば、どうしても⼼が晴れないのです。

そこで、86歳になる昔のピアノの先⽣に電話で相談することにしました。

彼⼥は「難しい問題ね。ご主⼈には彼なりの確固たるお考えがあるのでしょう。あなたの考えも、今は聞いていただけないと思うよ。それを⾔い募って争えば、たった2⼈の夫婦暮らしが不愉快なものになるでしょう。ピアノの扱い⽅の問題は、あなたにとって⼈⽣の⼀⼤事なの︖ でなかったらここはひとつ、気持ちを切り替えて忘れるのもあり。それが嫌なら、どちらが正しいかはさておき、あなたが今できることをやることね」と明快に⾔われました。

それは、私なりのやり⽅で弾いてあげれば、ピアノは響くという⽅法でした。

私は⼿に⼊れた時の苦労やどちらが正しいかばかりにこだわり、それしか⾒ずに悩みました。

でも冷静に考えれば、私のやれることは他にまだあったのです。

⼼がすっきりし、考えの違いは棚上げにしたままですのに、不思議とピアノを弾く時間が⼤切に思えるようになったのです。

⽼婦⼈の想像⼒、経験に基づいた多⾯的な視点、押すだけでも引くだけでもない柔軟な対応。私はそのアドバイスに救われ、だんまり戦術でかたくなになっていた⼼が柔らかくなり、前向きになれました。乗り越えたのだと思えました。

うっとうしい夫婦げんかや職場のいざこざ、そして⼼の病気を得ることなどは、視点を変え、脳に刺激を与えるチャンス到来なのだと思っています。

そして⽼いて⾝体は衰えても、⽼婦⼈のように、周りの⼈に的確なアドバイスを与えることのできる若々しい⼈であり得るという事実。それは、誰にとっても希望であり⽬標でもあると思います。

連載コラム(10)外の風に当たるって大事

⼼の病にかかると、外に出られないと⾔い、家に閉じこもる患者さんが多いです。

そういう患者さんに対して家族も医療者も「少しは外に出掛けましょう」と⾔ったところで、出てくれるわけではありません。外に出られるくらいなら、ここには来てません、と反論したくなる方ばかりです。

外に出られない、と⾔い張る患者さんに「じゃあ、朝起きたら、カーテンだけでも開けてみては︖」と提案してみました。

そのうち、カーテンだけは開けられるようになった、とおっしゃいました。

「どんな⾵景が⾒えた︖」と聞いてみました。

「隣のおうちの壁が⾒えただけです」と素っ気なく答えた後で、「でも、空が⾒えました」と⾔ってくれたときはうれしい気持ちがしました。

次に「ちょっと窓を開けてみましょう」と提案してみました。患者さんは本当に少しだけ窓を開けるようになりました。「⾵が気持ち良かった」と話してくれました。

私は少しずつ⽬標を上げていきます。

「裏庭まで出る」ことになり、「裏庭を少し歩いてみる」ことができた時は患者さんもうれしそうでした。

いつしか夫とスーパーに⾏けるようになりました。

それから数年がたちました。

そしてなんと! 今では週2回のパートに⾏っているんです。大⼤進歩です。

もっと病状の重い⽅もいます。そんな⽅にはさらにハードルを下げます。

つまりまずは、ご家族が「外の⾵」を運んであげるのです。

家族が帰った時、患者さんの部屋の⼾を開け「ただいま。今帰ったよ」と⾔うだけでも「外の⾵」が⼊ります。季節の果物を買って帰り、患者さんと⼀緒に⾷べるのも「外の⾵」です。

⼈間にとって外に出ることは⼤事ですが、家の中に「外の⾵」を⼊れることはもっと必要です。

話はちょっと⾶躍しますが、親⼦の絡む事件なども閉鎖的な環境で起きることが多いように思われます。

家にこもりがちな⽅にとって、家族が帰ってきたり、お客さんが来たりするだけで、家の⾵が動くのが分かります。

症状のすっかり安定した⽅が診察に来ることも、同じ意味です。「出掛けてくる」ということに意味があり、定期的に診察に来る⽅のほうが再発しにくいという事実があります。

「外の⾵を⼊れる」「外の⾵に当たる」ことは、⼈間が社会の⼀員として⽣きていく基本です。

どんなに閉じこもっている患者さんでも、そうやってカーテンを開けたり、外出から帰った家族が声を掛けたりすることなどから始め、無理なく少しずつハードルを上げていくと、必ず外に出られるようになります。

押しつけは逆効果。出無精の⽅に「たまには外に出てみようよ。どんな⾵が吹いていたか教えてね」とさりげなく⾔ったことがありました。

ある時、コスモスを⾒に出掛けたと⾔うので、驚いたことを思い出しました。

押しつけがましくなく聞こえたので、ふっと⼼が素直になれたのかな。

(**注* 自転車が好きなので、この写真はとても気にいっています。乗りませんけれど)

連載コラム(9)しあわせは、持ち物の量で決まらない

昔、よく往診をしました。

通院を拒否する統合失調症の⽅のおうちに診察に出かけるのです。家の中に「何にもない」ことが多くて驚いたことがあります。

何かに関⼼を持つと、どうしても「モノ」が増えることになりがちです。

まったく何にもないガラーンとした部屋を⾒ながら、この患者さんの精神内界もこんな⾵に荒涼としているのだろうかと思ったものです。

(このくだりは、私の患者さんから、少々傷ついたと言われていますので、そういう場合もあったということで、また書き方を考えなおしたいと思っています)

⼀⽅では、多くのモノを収納しきれない⼈が増え「収納術」の本が出始めました。

その次が「断捨離」でしたね。

「断捨離」が発展して⾏き着く所まで⾏き、今では「ミニマリスト」という⼈たちの本が書店に平積みされています。

「ミニマリスト」と称する⽅の部屋の写真を⾒ると、昔、統合失調症の⽅の家に往診に⾏った時の⾵景を思い出します(この表現も考慮の余地あり、ですね。それに、ちょっと違う感じですので。ミニマリストさんは本当に何も持っていないようですから)。

それこそワンルームの部屋に、布団と1組の⾷器だけ。テーブルさえ、収納ボックスを兼ねた箱であったりします。「本当にそれだけで⽣活できるの」と問いたくなってしまいます。

しかし、彼らはインターネットを通じて社会とつながり、いろんな情報を持ち、最低限の仕事をしています。そういう形で社会とつながることを選んだ結果なのでしょう。

私の病院の隣に⼩さなグループホームが建っています。病院を退院した後、⺠間のアパートで⽣活する⼒やお⾦のない⽅がここで暮らしているのです。

ここにも持ち物の少ない⼈たちが住んでいます。ある⼈は資産家の家に⽣まれ、豪勢な⾃宅を持っているのに、その家を空き家にしてまでホームに⼊居しています。また、共同作業所で働いたり、病院のデイケアに通ったりするのが⽇課の⼈もいます。

皆さんの暮らしは質素、部屋は超シンプル。多くのモノや責任を背負って息切れ切れに暮らしている私から⾒ると、その⽅たちが⾝軽で飄々と⽣きているように⾒えて羨ましく感じるのです。

私がそう話すと、彼らは「先⽣も飄々と⽣きているように⾒える」と⾔ってくれます。

そこで「モノを持っていてもいなくても、⼈⽣の苦楽はほとんど同じねえ」と、2⼈で笑い、お互いにそこそこの幸せを確認するのです。

幸せが環境に左右される⽐率はたかだか10%だという報告を読みました。「なるほど」と思います。

その理由として、どれだけお⾦持ちでも、それに慣れてしまえば当たり前。⾼学歴しかり、⼤邸宅しかり、美貌しかり。すべては「慣れ」の現象が起きるせいで、いずれそれらは「当たり前」となります。そして持っているモノはすっかり忘れ、ないモノを数え出すようになるのです。

⾃分にとって価値あること、必要なことを知り、それを選んで⽣きていけば、おそらく多くはいらないのではないか、と思います。

つましく謙虚な患者さんたちから私は日々、多くのことを学んでいるのです。

連載コラム(8)朝の気分を大切にしよう

「先⽣、朝起きた時はいいんです。でも⼣⽅から気分が憂鬱になります」「へえ、朝はいいのね。うつ病の⼈は朝の気分の⽅が憂鬱なんだよ」「じゃあ、僕の憂鬱感は何ですか」「疲れですよ。きっとやり過ぎです。疲れてくるんです」「でもやっていることは普通です」「他の⼈には普通でも、今のあなたにとってはやり過ぎなんじゃない」とまあ、患者さんとの会話は続いていきます。

うつ病の症状に「朝の気分が悪く、⼣⽅から夜にかけて気持ちが楽になる」というものがあります。

ですから朝起きた瞬間の気分を聞くのは、精神科医にとってとても⼤切な質問なのです。

朝は眠いし、会社もあるしで、どうしても気持ちが重くなりがちです。しかし、ここで⾔う「朝の気分」とは、そういうことを思う暇もない⽬覚めの⼀瞬のことです。

これは意識してみると誰にでもあります。

 

朝起きた瞬間の気分はその⼈にとって「その時期の基底の気分」です。

そしてそれは薬ですぐに改善できるものではない基調の気分です。

うつ病が良くなるに従い、⾃然に改善されていくものなので、うつ病改善の⽬安としても使えるものです。

これらは⼀般の⼈にとってもバロメーターとなります。うつ病でなくても、⽬覚めた瞬間、嫌な気分のする⽅がいる。また、嫌な気分のする日もあるでしょう。

そんな場合も基底の気分は「うつ」だと考えていいと思います。

例えばストレスいっぱいの環境で働いている⽅とか。

家族の病気で介護が⼤変な⽅などが例として挙げられるでしょう。

いずれも⾃分に負荷をかけない考え⽅や暮らし⽅を⼿探りするといいのじゃないかと思います。

さて、今⽇の状態は昨⽇の結果であるというのが私の考えです。

つまり、今⽇の調⼦が悪い時に、今⽇の出来事の中から原因を⾒つけるのは筋違いだという意味です。

昨⽇起きた出来事、昨⽇の過ごし⽅の中にすでに無理があるのだという考え方です。

ここからがポイント!

「今⽇」という⽇は「昨⽇の結果」「昨⽇の続き」です。

昨⽇が「うつ病の⾃分」なら、今⽇の朝起きた瞬間から憂鬱なのは当たり前なのです。

「昨⽇の⾃分が無理していた」なら、寝ている間にすっきり解消できる程度の疲れでないかぎり、朝の気分は悪いと思われます。⾝体の調⼦も悪いでしょう。

「今⽇という⽇」はいろんな意味で「昨⽇の結果」であると知れば、「なぜ、こんなに具合が悪いのだろう」と悩んだ時、昨⽇、何か⾃分は無理しなかったか、何か意に添わないことをやり過ぎなかったか、という視点で考えることがヒントになって、⾃分を知ることにつながっていくでしょう。

毎⽇の積み重ねの結果、私たちは「今⽇」という⽇を迎えた。明⽇を思い煩うことなく今⽇という⽇を⼤切に使えば、きっと⾃然にいい明⽇につながっていくだろうと思います。