連載コラム(50)人は誰でも課題をひとつ与えられて生まれてくる

 

 

 

私のフォトエッセイ集に「どんな人も、人生の課題をひとつ与えられて生まれてくる。こんな優しい花でさえ」という一節があります。

 

息子のことで相談したいと、思いつめた表情でお母さんが訪ねて来られました。

成人した子供が社会に出て会社に勤めたのだけれど、どこも長続きしない。母親としてはなんとかしてやりたいと思う。息子の性格をわかっている知人に雇ってもらおうと思うがそれでいいだろうか、という内容でした。

 

若い頃の私は、その悩み事につきあい、相談に乗り、解決の糸口を見つけることに必死だったように思います。

 

しかし、やがてある疑問につきあたったのです。

精神科医としての私の役割って一体何だろうと。

そして気づいたことがあります。

診察や相談に来る方の悩みの多くが、家族の悩みと自分の悩みがごっちゃになり未整理になっていることです。

そして辿り着いた答。

人はみなそれぞれに人生に何らかの課題を持って生まれてくる。私の仕事は、それを代わりに解決することではなく、それに気づかせてあげることではないかということでした。

 

たとえば2才の子どもはヤンチャ盛りです。

この時期は怖さを知らずにヤンチャをすることが“仕事”です。

その子が水たまりで転んだとしましょう。

親が先回りして「水たまりがあるよ」と注意するのも、転んだ我が子の手をひっぱりあげるのもよくある光景です。

しかし2才の子どもにとっての課題は「転ぶこと」であり、「自分で起き上がること」です。

それをいつも親が避けたり、すぐさま助け起こしたりしていたら、子どもはその年代特有の課題を解かないまま大きくなってしまうことになります。

次にさらに大きな水たまりに出会った時、もっとひどいころび方をした時、その子はどうやってそこから起き上がれるでしょう。

自分が過去に助け起こしたことなどすっかり忘れ「どうしてこの子は、こんな水たまりから起き上がれないのだろう」と嘆いていないでしょうか。

ここがポイント!

ここで一番言いたいこと。

それは「愛する子どもであれ、夫婦であれ、人の課題を取りあげてはいけない」ということです。

 

そして逆説的ですが、人は自分が最も避けたい事柄こそがつきまとい、それに向き合って解決しなければ前に進めない課題として横たわってしまうことです。

たとえば「同じ過ちを繰り返す」などは、実はその中にこそ、ヒントが隠されていると思っていいでしょう。

 

それぞれの課題に気づくこと。

相手からその課題を取りあげず、本人に返してあげること。

私の仕事は、それぞれが自分の課題に気づくお手つだい、そして勇気をもってそれに立ち向かっていけるように背中を押してあげることだと思っています。

息子(娘)の課題、夫(妻)の課題を手をとって助けてあげたい気持ちは自然ですが、そこをぐっとこらえ、相手の課題は相手が乗り越えるように。

それを願うのが真の愛情だと思うのです。

 

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連載コラム(49)本日掲載・夢を叶える消去法

本日掲載のコラムです。

☆  ☆  ☆

ピラティスの先生と話をしていた時「どうしてこの仕事を選んだんですか」と尋ねてみました。彼女が元々栄養士だったと聞いていたからです。

短大を卒業して、最初は何を思ったかジムのインストラクターになったそうです。しかし「この雰囲気は合わない」と感じて、栄養士として病院に勤めることになりました。

ところが今度は「病院という保守的な組織に馴染まない自分」を感じて早々にやめてしまったといいます。そしてかねてから関心のあった整体を学び、師匠について仕事をしていましたが、上下関係の厳しさに疑問を感じて独立の道を選んだということです。

その後もいろいろと手を出したが自分に合わないものを、熟慮の末、消去していくうちに今があるのだそうです。

彼女は好きな仕事に巡りあえ、今、生き生きと働いています。

実は私も職業選択の折に消去法で決めたという経緯があります。

医学部を卒業したものの、臨床医は苦手だと感じていました。ふと中学生の頃キュリー夫人に憧れていたことを思い出して研究者の道を選んだのです。

しかし教授を頂点とした閉鎖的な環境が「進取の気性のある自分には合わない」と感じて一年でやめてしまったのでした。

 

さて、どうしよう・・・・

さりとて臨床医になる自信はなく、いろいろと考えを巡らせたが、どれもピンとくるものがなく、もう臨床医になるしか道はなかったというのが正直なところです。

(手塚 治が、医学部を出たものの、漫画家になったと知って、医学部を出ても、どんな仕事にも就けるんだ、ということを知ったのが、医学部を受けた動機だったので、音楽や絵の道を模索しましたが、ことごとく挫折しました。もともとその方面の才能はなかったということです)

 

しかし大変不器用ときています。医療器械を扱う自信がこれまたなかったのです。

まったく使わなくてすむのは精神科しかなかったという消極的選択でした。

(実は精神科だったら夜、起こされなくてもいいというのも選んだ理由でしたが、こちらは今でも深夜に起こされています。精神科救急って案外、深夜に多いのです)

いずれにしても自分に合わないものを消去していくうちに、精神科医に辿り着いたわけです。

今でこそ「天職ですね、精神に関心があったのですね」などと言われるがトンデモナイ。合わないものを消去した結果、私に残されていた道が精神科医であり、もうこの道でやっていくしかないと覚悟した結果です。

ここがポイント!

精神科医の吉田脩二先生が、「不登校の子供には“不適応能力”があると考えたほうがよい」と提案している。その考えに通じるものがあるかもしれない。不登校といえば「学校に適応できないのは問題で、適応できるように改善すべき」と考えられがちだが、本人が「この学校は自分には合わない、適応できない」と気づく力こそが大切なのだと言っています。

確かに、とにかく我慢だ辛抱だ、とムリヤリ適応していては、自分らしさも自分の能力も何がなんだかわからなくなってしまいます。

「消去法」というとネガティブな感じがするが、実は失敗から学び、合わないものがわかるって素晴らしい能力なのです。

そういう意味で、“消去力”は必要な場所に辿り着くために欠かせない力になり得ます。

 

自分に合うか合わないかの視点で歩む道を見つめ、合わないものにしがみつくことなくさらりと消去して、軽やかに転身していければ、人は年令に関係なくいつか夢に辿り着くことでしょう。

(注*この考え方は30年来、自分の中では暖めてきた構想です。自分の生き方でもありました。ピラティスの先生とたまたま話していて共感し、今回書いてみようと思いました)

 

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連載コラム(48)心と体はつながっている

 

 

 

<48>⼼と体はつながっている

モノが⾷べられないという訴えで働き盛りの男性が来院された。これまであちこちの病院を回り、どこも悪くないと⾔われた。しかし⾷べられないという状態は改善しない。内科では胃薬を、精神科では安定剤を処⽅されたが⼀向に良くならず、不満になっては医者を変える。

私のところはもう5カ所⽬で、さすがに疲労困憊されていた。胃や腸はストレスを受けやすい臓器だ。おそらく⻑年のサービス業で気を使い続けた結果かもしれないと推測した。サービス業はその⽅の最も苦⼿とする分野だったが、転職する勇気もなかったようだ。

最初は重湯から飲んでもらった。さすがに重湯と⾔われて驚かれたようだが「とにかく喉を通ればなんでもいい。⾷べられなければ⽩湯でもいい」と話した。元通りに⾷べようとしたり、他の⼈と⽐べたりするから良くない。⾷べたいもの、喉を通るものを⾒極め、そこから始めることだ。

仕事はとりあえず脇に置いた。妻と話し合い、妻が腹をくくって当⾯は⼀家の稼ぎ頭になることとなった。それが安堵となり、お粥やバナナが⾷べられるようになった。それでいいと励まし続けてだんだん良くなり、5年を経た今では元気に主夫として家事全般をこなしている。仕事には就いていないが、それがこの⽅にとってベストではないが、ベターなのだし、いろんな家庭の在り⽅があっていい。

⼼と体はつながっていると⾔われる。しかし⼼が疲れていても⼼は⾒えない。本⼈も家族も気づかないまま⻑年経過することが多い。結局体に症状が出て来院し、それを説明してもまだ半信半疑である。

実は先⽇、私⾃⾝も精神的ストレスが体に直結する体験をした。たまたまある⼈から私の弱点を厳しく指摘されることがあり、精神的にまいってしまったのだ。⼈は、⾃分でも気にしていることを注意されるとこたえるものらしい。

そしてその夜、⼤変なことが起きた。帰宅して⾷事をすませ⾵呂に⼊ったのだが、湯船につかった瞬間、ひどい不整脈性の頻脈発作に⾒舞われた。不整脈発作は私の持病で過労や精神的ストレスで出てくる。「疲れたな」とは思ったが、精神的ダメージに加え、温冷などの物理的刺激は⼈が考える以上に体が反応するものだ。しかしたったあれだけのこと、ここまで体にくるとは意外だった。

⼼の状態は、正直に体に現れる。⼼と体がここまでつながっていることを改めて思い知らされた出来事だった。それにしても、たとえ精神科医であっても⾃分の⼼はなかなか読めないものである。このごろ⾃分の⼼と体が怖い(笑)。荒く扱ったために突然、⽛を剥き出さないかと思って。

 

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連載コラム(47)心のブレーキのはずし方

 

 

 

<47>⼼のブレーキの外し⽅

前回、うつ病がなかなか治らないケースでは、⼼にエネルギーが補給されても、⼀⽅で「不安や思い込みなどのブレーキがかかっている」場合もあると書いた。今回はこの「⼼のブレーキ」について考えてみよう。

うつ病を発症し、休職した中年の男性がいた。症状が改善して復職したが、間もなく再発して⼊院した。しかし⼊院⽣活を⾒ていると割合おしゃべりで⾏動⼒もそれなりにある。エネルギーの枯渇というより、むしろブレーキがかかっていると判断した。

彼のキーワードは「焦り」であった。6⼈家族の⼤⿊柱であるというプレッシャーが⼤きくのしかかっていた彼は、⾝体が休んでいても⼼が休んでいないのだ。せっかく貯まったエネルギーを「焦りという気持ち」に使ってしまうため、⼒を貯め込むまでに⾄らない。さらに彼の場合、「⾃分はうつ病だから何をやってもダメだ」という思い込みがいっそうブレーキをかけていた。

「思い込み」がエネルギーの流れを⽌めている。それらブレーキの仕業でエネルギーが効率良く使えていない。⼼の病気が⻑引いている患者さんによく⾒られることだ。実は患者さんに限らず、⼼のブレーキは多かれ少なかれ誰にでもかかっている。「できないという思い込み」や「焦り」「こだわり」などだ。

問題は、誰もがそのことに気づきにくいこと。毎⽇、知らず知らずのうちに⾃分で⾃分にかけている「魔法の⾔葉」。そして、そもそも⾃分では気づかないものを、⾃分で外すことは困難だ。

ではどうするか。⼈間には「⾃分が⾒たことのない景⾊は⾒えない」という特徴がある。

私⾃⾝を例に挙げれば、院⻑になる前には「院⻑なんか無理︕」と信じていた。連載をやる前は「連載なんて絶対できない︕」と⾔い張った。でもうまくやれているかどうかは別として、やったらやったで、少なくともやる前とは別の景⾊を⾒ている。

そう。⼈間は体験することで、⽴場が変わることで別の景⾊を⾒、別の思いを経験し、その結果、今までできないと「呪⽂」をかけていたことがやれていたりする。私だけ特別だろうか。いや、そんなことはない。実は誰にでも平等に変化の機会は訪れている。「機会」だと気づいていないだけだ。

そんな時、後ずさりしないで⼀歩前に進んでみよう。⾃分では気づけないからこそ、素直に⼈の忠告を受け⼊れながら、または訪れた機会を逃さず、⼈は変化することで違う景⾊を⾒ることができる。⼈の忠告を受け⼊れること、機会を⽣かし⼀歩踏み出してみること。それが⼼のブレーキが外れるきっかけとなり、成⻑へと⾃分を運んでくれる気がする。

 

 

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八島湿原

車山の頂上に、ころぼっくるという名前の山小屋があります。

1956年建立というから60年前からの営業です。

そこに珈琲を飲みに行きたいといいましたら、ついでに八島湿原をトレッキングしようということになりました。

トレッキングというほどのものでもなく、ずっと板で道が作られています。

それでも、最近、毎日1500~3000歩を目標に歩き続けている私の「成果」を見るためにも、歩くことにしました。

風邪ぎみで頭痛と鼻水に悩まされながらも、炎天下をがんばって歩きました。

歩き終えた頃には、風邪は軽くなっていたので、体調を整えるためにプールにも行ってきました。

風邪だというのに炎天下を歩いたり、プールに行ったりとはげしいですが、あまり気にしないでやるべきことをやっているとだいたい一日で治ってしまいます。

風邪の原因はたぶん・・・・・・プールのやり過ぎ(笑)

先日1キロも泳いだんです。

身体が冷えたと思う。

でもダイキライな運動を習慣にするために、今ががんばり時だと思って。

身体を動かすことって楽しいな、と感じるまで少しでもいいから運動を続けようと思っています。

だって、私の場合「歩けなくなる運命にまっしぐら」というくらい車、車の生活なんです。

でも最近では山道を歩いたり、プールに入ると気分がかなり良くなるようになりましたよ♡♥

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連載コラム(46)うつ病とブレーキの関係・1

 

<46>うつ病とブレーキの関係

うつ病とは、エネルギーが枯渇すると起きる疾患である。⾞に例えればガソリンが空になった状態だ。⾞なら、ガソリンを補給すればまた⾛れるようになる。「うつ病」で⾔えば、仕事を休んだりして「休息」や「睡眠」を⼗分にとり、エネルギーを補給すればいい。

とは⾔え、「うつ病」は診断の難しい疾患の⼀つだ。また、「うつ病」と診断されて治療を受けている患者さんの中で、適切な治療を受けている⽅は、3割程度だとさえ⾔われている。

つまり世間で思われている以上に診断や治療や対応が難しい病気なのである。当然、⻑引いたり、再発を繰り返したりしやすい。何年も通院しているのに、先が⾒通せないこともある。

そこで、教科書とは別の視点から、私なりの気づきを書いてみたい。私が今回伝えたいこと、それは、エネルギー不⾜の観点ではなく、⾞で⾔えば、ブレーキの存在である。

なかなか治らない⽅の中に、「ガソリンはある程度たまったものの、ブレーキがかかっているために」⾞が動かない⽅もいるのではないか、と思うようになった。そこに気づかないまま、いくら休養をとっても、いくら抗うつ剤を飲み続けていても状況は進展しない。それはまるで左⾜でブレーキを踏みながら、右⾜でアクセルを踏んでいるようなものである。会社には⾏けないが休⽇なら遊べるという、いわゆる「新型うつ病」も嫌なことにはブレーキがかかる可能性がある。そのような場合には、ブレーキの解明が必要なのではないかと思う。

本来、⽣命体そのものは元気になりたいと思っている。私たちの⾝体の細胞⼀つ⼀つは本能的に健康な状態を⽬指している。⾃⼰治癒⼒と⾔われるものだ。それがうまく働かないのは、それを阻害するものがあるのではないかと仮定してみよう。

その⼀つが「ブレーキ説」である。ブレーキはどんなときにかかるだろうか。例えば、⼤きな不安があるとき。何らかの葛藤が解決されていないとき。あれやこれやと迷いがあるときなどに、⼈はいずれも動けなくなる。また、「⾃分にできるはずがない」「どうせうまくいくわけがない」などといったさまざまな「思い込み」がブレーキになっている場合もあるだろう。

こうしてみると、うつ病に限らず、誰もが多かれ少なかれブレーキを持っている。意識しているいないにかかわらず、そうやって⾃分で⾃分を⽌めているのだと⾔える。つまり、ブレーキとは、案外、⾃分の中にあるものなのかもしれない。

では、このブレーキはどうやったら外せるのか。⼈⽣を快適に安全に運転するために⽋かせない「ブレーキの上⼿な使い⽅や外し⽅」については、次回も続けて考えてみたい。

 

 

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料理は将来への投資

 

豆腐と豚ひき肉のドライカレーが載っていました。

ドライカレーは子供たちによく作った料理で、子供たちが大好きでした。

でも今の夫の好みではないので、何十年と作っていませんでした。

懐かしく思い出して、本来通り玉ねぎ、ピーマン、人参などを入れて、豚ひき肉メインで作りました。

木綿豆腐も少しだけ入れてみました。

☆    ☆    ☆

料理作りは、将来の自分の身体への投資。

料理をしようと思うくらいの精神的、時間的余裕だけはなくしたくないと思います。

それが目下の私の目標ですし、料理を面倒に思うことは身体に

投資していないことだと思います。

 

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連載コラム(45)いよいよ自立の時を迎えて

<45>いよいよ⾃⽴を迎えて

中学⽣の頃から通院している男の⼦が、親元を遠く離れ専⾨学校に進学することになった。これまでいろんなことがあった。不登校のまま中学を卒業したが、⾼校に⾏ける状態ではなかった。しかし親は「せめて⾼校だけは」と説得した。脱線するが、私は「せめて」と「どうせ」が嫌いである。世間を⽢く⾒ているし、その先への展望も感じられない。

さて彼はどうにか⾼校に進んだが、「せめて」⾏った⾼校は、ほどなく「辞めたい」と⾔い出した。すると親は「何か好きなことがあるなら、辞めてもいい」と⾔う。ここで私は反論した。「ではお⺟さんは、好きなことを仕事にしていますか」と聞いてみた。⽣活のために⼀⽣懸命働いているお⺟さんだ。

好きだの嫌いだのと⾔っておれないのは、ほとんどの⼈が同じだろう。でも多くの親が、⼦どもが挫折すると「せめて○○だけは」とか「好きなことを⾒つけたのなら」などと⾔う。⼦どもの将来を案じてとはいえ、⾃分だって好きなことを⾒つけられていないのに。⾃分ができていれば、⼦どもができるのは当然と思い、⾃分ができていなければ、せめて⼦どもには、と思うらしい。いずれにしても期待が⼤きい。何がなくても⽣きてきた⾃分の⼈⽣に誇りを持っていれば出てくる⾔葉ではないはず。

結局、彼は通信制に変わって気持ちも落ち着き、年数は少しかかったが卒業までこぎつけた。このまま親元に置くか思いきって⼿放すか、親もずいぶん迷った。私は「18歳、19歳は⼀つの⼤きな節⽬ですよ」とアドバイスした。不安定な思春期を過ぎて落ち着いてくる時期である。⼀⽅まだまだ世の中を知らず、素直な頭脳を持っている。これが20歳を越えるに従い事態が変わる。「親元にいたほうが、どうも楽に⽣きていけるようだ」という損得勘定をするようになるのである。

ただしこの年頃は、まだ何事にも不安でいっぱい。あまり突き放すと、挫折した時の反動が⼤きい。20歳前は、⼀つの⼤きな「⼿放し時」ではあるが、まだまだ⼿も⼼も⾦も添えてあげることが必要だ。⼿放した上で、⼿と⼼をかけてあげながら⼀⼈⽴ちの⼿助けをしていくことで、すんなり次のステージに進めることが多い。

突き放し過ぎて失敗したり、⼿元に置き過ぎて成⻑の機会を失ったりするケースが多いので、くれぐれもこの時期の対応を慎重に。親や先⽣など年配者の⽀えやアドバイスも⼼強いものだ。⾟い時こそ、相談してほしい。そんな時、⼀緒に乗り越えてあげられる親であり、⼤⼈であるために、私たちもまた年を重ねるほどに学びや気づき、⾃分磨きに今⽇もまた忙しい。

 

 

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連載コラム(44)今の時代を夫婦で豊かに

 

 

<44>今の時代を夫婦で豊かに

先⽇、久しぶりに⾦沢を訪れた。この街は私が18歳からの30年を過ごした第⼆の故郷。ここで喜びも悲しみも⾟いことも、普通の⼈が⼈⽣で出合うほとんどのことを経験した。いい思い出も⼭のようにあった⾦沢を⾃らの意思で離れて20年。

新幹線「かがやき」が到着した時には思わず胸がいっぱいになり、涙がこぼれそうになった。

⾦沢には今も⼦どもたちや友⼈たちが住んでいる。それなのに、もうずいぶん⾜が遠のいていた。私は地縁へのこだわりがあまりない。広い世界を⾒たい、いろんな経験をしたいという気持ちが強く、引っ越しの回数はハンパじゃない。

⾦沢では開業していた。⼦どもたちもみな独⽴し私は1⼈で暮らしていた。仕事にも友⼈にも恵まれ、それなりに幸せな⽇々だったと思う。ところがある⽇、ふと息⼦たちが家に寄りつかなくなっていることに気づいた。尋ねてみると「彼⼥の家におよばれすることが多くて」と⾔う。「お⺟さんのメシうまい︕」と⾔ってた⼦どものころ。いつからこうなったのか。どうして平等にわが家にも来ないのか。衝撃だった。

しかし冷静に嫁としての⾃分を振り返れば、やはり姑より実⺟を頼っているし、夫が⺟親の下へ⾜しげく通うのもヘンだ。ところがわが息⼦だけは例外だと信じていたのだから、ほんまにうかつやった(滋賀の⽣まれ。たまには関⻄弁で)。

最近、私の周りには「息⼦がお嫁さんにとられて寂しい」と嘆く⽅が多い。でも私の場合はその時に発想を180度転換したと思う。そうだ。親を卒業したんだ。お⼦さんのいない友⼈夫婦が「40代も半ばを過ぎ、50歳にもなると、⼦どもがいる⽅たちも夫婦2⼈になるのね。結局、⼈⽣の後半は⼦どもがいるかどうかなんて関係ないのね」と⾔っていたことを思い出した。なるほど。「⼦どもがいることを前提とした⽣き⽅」ってどうなの、と思えた。

男の⼦3⼈を持つ私としては、潔く息⼦たちをお嫁さんに渡し、新天地でゼロから出発するのも悪くない。私の「引っ越し癖」がむずむずと動きだした。そうだ、もともと住みたかった都会に⾏こう。そしてもう⼀度、結婚したい。⼦どもを頼るよりやっぱり良き伴侶を得よう。そう決⼼した私はクリニックを友⼈に譲り、何の未練もなく⼤阪に出たのである。

それからはや20年。息⼦や娘と会うのは多くて年に1回。でも今はインターネットを通じていつでも⼗分に全員とつながっている。狭い地縁や⾎縁にこだわって⼦どもを縛ることなく、「広い世界を⾒ておいで︕」と晴れやかに⼦どもたちを送りだそう。⼈⽣90年の時代を⾃らの⼿で豊かに築きながら⽣き抜く時にきていると思う。

 

 

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連載コラム(43)家庭は社会生活の基盤

<43>家庭は社会⽣活の基盤

やっと仕事に就いた患者さんが「次は結婚したい」と⾔う時、私はいつも「仕事より結婚⽣活の維持のほうが⼀般的にハードルが⾼いのよ」と話す。家庭を治めるということは、⼀筋縄ではいかない、⼈間にとっての⼀⼤事業なのだ。最近のテレビで⾸相が夫⼈の活動がらみで窮地に⽴たされたり、皇族⽅で

さえご家庭の問題で悩まれたりする様⼦を⾒るにつけ、つくづくその思いを深くする。

⾃⾝を振り返っても、仕事を難なくこなすより夫とうまくやるほうが難しいと感じることもある。わが⼦どもたちを⾒ても、結婚だ、⾚ちゃんだと喜ぶのも束の間、そこから何⼗年と連綿と続く家庭⽣活に四苦⼋苦しているのを垣間⾒ると、やれやれ⼼配はつきないものだと嘆息するのだ。

仕事は嫌なら変わったり、辞表1枚で辞めたりすることもできる。が、夫婦や⼦どもとの関係は密着度も強く逃げ場もない。相⼿は⽣の感情をぶつけてくるし、価値観や意⾒が違って思い通りにいかないことも多い。しかし家庭⽣活は⽋くことのできない⼈⽣の基盤なのだから、私たちは家庭を治めることの⼤切さをもっと認識しておいたほうがいい。やれ結婚式だ、ドレスだと⼤騒ぎするのも幸せな⼈⽣の⼀コマかもしれないが、私⾃⾝はあまりそういうことに関⼼がなく、家庭を治めるコツというものを親から⼦へ伝えておくほうがよほど重要だと思うのだ。

以前どこかに「家庭は『やすらぎの場』であると同時に、家族の⾃我がぶつかり合う『戦いの場』でもある」と書いたところ読者の共感を得たことがある。「喧嘩して当たり前だと聞いて、ほっとした」という感想もあった。⾃我の違う⼈間同⼠が⽣活を共にするということは、そういうことだ。

「仲良く」と「喧嘩」との相反する両者のバランスをいかに保つかで家庭の真価が問われるだろう。ところが多くの家庭では、意⾒が異なった時、誰かが黙ったり、我慢したりすることで、その場を丸く治めているように思う。「黙る役割」「我慢する役割」が決まっているかのようだ。表⾯上の平和を優先するあまりであろうか。

「⾃分の考えをちゃんと主張しながら相⼿と和していくこと」こそが⼈間社会に適応していく課題であり、最⼤の試練だと思うが、夫婦関係で例えれば、押すだけの「亭主関⽩」や、引くだけの「恐妻家」ではなく、押したり引いたりしながらうまくやっていく、という感じだろうか。

あらゆる⼈間関係において重要なこのスキルを、「家庭で練習しなくてどこで練習するの︕」というのが、今回私が最も伝えたいことである。とはいえ、国を治めようという野⼼家でさえ、夫⼈となるとまた別のようだし、熟練した精神科医であるはずの私でさえ、夫ひとりに⼿こずるのが現実である。さて、あなたはいかが︖

 

 

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