連載コラム(7)第二の人生こそ本番ですよ。

何年に1回かのシルバーウイークで巷はにぎわっていました。わが家のご近所でも、祖⽗⺟たちが孫を相⼿にはしゃいでいます。

実は今、空前の祖⽗⺟ブーム。元気と時間と経済的余裕のある熟年世代と孫との関わりが密になっています。

そのためか、私の患者さんで祖⽗⺟のいない⼦どもを持つ⼥性がとてもうらやましがる方がおられます。また孫のいない⽅はもちろんのこと、祖⽗⺟のいない家もちょっぴり肩⾝の狭いこともあると聞きました。

思い起こせば、私の祖⺟は「孫かわいい」の典型だったように思います。祖⺟の⽣きがいは私。私だけ。

私が18歳で⼤学に進学して家を出てしまったその後、10年⽣きた祖⺟は寂しかっただろうなあと今になって思います。

毎朝11時になると、郵便受けを⾒に⾏くのが⽇課だったらしい、私から⼿紙が来てないかと。それは祖母の死後に聞いたのですからすこぶる後悔しました。

反対に、⽼衰のため96歳で亡くなった夫の祖⺟は、畑通いが⽇課。猫を飼い、⽥舎町にただ⼀つの映画館に出かけ、そして友達と花札で賭けては「負けた」と悔しがるマイペースで気ままな祖⺟だったと聞いています。夫はかわいがられた思い出もないらしいのですし、あまり良くは言わないのですが・・・でも私は夫の祖⺟の⽣き⽅、「何だか好き」と思ってしまいます。

前置きばかり⻑くなってしまいました。私の⼀番⾔いたいこと。
それは、若い頃の私は、⼦育てが終わってからの⼈⽣がこんなに⻑いとは知らなかったということです。

もし知っていたら仕事の仕⽅も⼦どもの育て⽅も違っていただろうと思われます。

⼦どもに⼿がかからなくなってから30年以上、孫がかわいい盛りを過ぎてからさえ、20年近くあるのが⻑寿社会です。昔はそれを「余⽣」と呼びました。そして「余⽣」は悠々⾃適が理想と⾔われた時代でした。

ここがポイント!

今、第⼆の⼈⽣を「余⽣」と呼ぶには⻑すぎると思います。

かつての私のように若い⼈はもちろんそんな先のこと、想像さえしていないことでしょう。

彼らは⼦育てや仕事やローンに追われる今が。

⼈⽣の最盛期であり本番であり。

世界は⾃分を中⼼に回っていると思っているでしょう。

では熟年世代はどうでしょうか。寿命が分からないのをいいことに「私、⻑くは⽣きない」など根拠のない⼝癖で将来をごまかしています。(この口癖のヒト、本当に多いのですよ。ぽっくり死にたいとかね。そんなに簡単に死ねないって!)

その結果、第⼀の⼈⽣から第⼆の⼈⽣になんとなく惰性で流れ込むことになりがちです。

でも、この⻑さと意味をきちんと知った上で計画を練ってみたらどうでしょう。

若い頃の仕事をさらに充実させて、豊かな刈り取りの時期にするのもいい。新たな楽しい計画だって30年もあれば実現するよ。

あらかじめ、⼈⽣に⼆つの⼭があることを知っておく意味はあると思います。

実は、⼦育ては⼈⽣のリハーサル。それが終わった後の⼈⽣こそ、むしろあなたが主⼈公として活躍する⼈⽣ドラマの本番なのよ、などと⾔ったら、きっと皆さん⽬をまあるくして驚くでしょうね(笑)

連載コラム(6)過労の兆候は何でわかるか?

このコラムは

「得意が⾯倒」過労の兆候 

という題名です。

新聞の連載というのは、題名を10字以内におさめないといけないのですよ。ですからなかなか難しいのです。ちなみに1000字以内で書くコラムっていうのもなかなかハードルが高いです。短くてまとめるのはけっこう大変です。

☆   ☆   ☆

暑い夏が終わり季節の変わり⽬ともなれば、疲労がたまって体調を崩す⽅が多いように思います。疲労というのは⾒えにくいものです。だけど、すべての病気や不調の裏に「疲労」や「過労」が隠れていると⾔われていますし、医師をして患者さんと関わっていると、すべての病気の引き金は「過労」だと思うくらいです。そこで今⽇は私が使っている、とっておきの疲労度測定法をご紹介しましょう。

さて、⼀⽇の暮らしは家事をはじめ、多数の作業の集まりで成り⽴っています。例えば朝起きてからの⾝⽀度に始まり、⾷事の⽀度、洗い物、洗濯、掃除、整理、運転、買い物、⼦どもの世話、世間付き合い、草むしり、花の⼿⼊れ、テレビや新聞で情報を得るなどです。かぎりない雑用の連続です。

この中から⾃分にとって「好きで得意な家事」は何だろうと考えてみてくださいますか。

次に「苦⼿で不得意な家事」も同様に考えてみましょう。

つまりは、それらをものさしとして疲労度を測るやり⽅なのです。しっかり、好きと苦手を分けてください。

この際、「やらねばならない」かどうかは横に置いといて、⾃分にとって、好きで得意で割合⾃然にやれてしまうことと、苦⼿で不得意なので無理してやっている家事や雑⽤を、⾃覚的に⾃分の中でしっかり分けることが大切です。

その⾃覚ってふだんはやりませんが、まずはそこが基本になります、⼤事です。

好きなことは、たいていは少々疲れていてもできるものです。

ここがポイント・1

それがおっくうになるということは相当疲れている時なのだ、というのが私の仮説であり、今回⼀番⾔いたいことなのです。

今回も「なあんだ」だったでしょうか。

例えば私の場合は少々疲れていてもキッチンに⽴てるし、キッチン仕事は気分転換になることさえあります。

ところがなぜか料理がおっくうで気が乗らない時があります。私はそんな時、しっかり⾃分の疲労度は⾼いと⾃覚し、無理をせず休むことにしています。

逆に整理や掃除はとても苦⼿です。できたらなるべくやりたくない家事NO.2 です。(ちなみに NO.1は庭仕事です)

たまに整理や掃除がはかどる時があるのですが、それは私にとって特別に元気な時なのだと思うと間違いがありません。そんな時は調子に乗ってテンションを上げないよう、要注意なんです。

私は疲労度を⾃分なりに数字化して⼿帳にちょこっと書き続けることで、とても忙しく、また病気がちな時期を見事、無事に乗り切った経験があります。

健康な⼈にとっても疲労は無関⼼ではいられないはずです。うつ病を患った⽅、持病のある⽅、ご⾼齢の⽅、仕事や育児などに忙しい⽅、また疲労を⾃覚できないまま肩こりや頭痛などを起こしてしまう⽅にとっても、疲労を早めに⾃覚することはとても⼤切だと思います。

ここがポイント・2

ところが、得意なことができなくなると、⽪⾁なことに⼈は「これくらいできない私じゃない」「こんなはずじゃない」と思って、逆に⾃分を頑張らせることが多いように思います。

得意なことさえできないくらい疲れがたまっている時だという事実が隠れてしまうのは、怖いことですよね。

疲れに敏感になり、休み時を知ることで、ぜひ疲れをため込まない暮らしを⼼がけてほしいと思います。

(○注*このコラムは私のお気に入りのコラムです)

連載コラム(5)人の心の傷は人との関係の中でしか治らない

精神科の治療は、⼦育てに似ています。

ということに気づいたのは、ある新聞の連載を頼まれた15年前ほど前でした。

 

神⼾や佐世保で起きた殺⼈事件など少年による犯罪が⽬⽴ったそのころ、私は⾦沢に住んでいました。⾦沢の新聞社から「だから⼦供はキレる」という題名の連載を頼まれ、児童が専⾨ではないのに⽂章がどんどん出てきたのです。その時、統合失調症の⽅の治療や社会復帰に⻑らく関わってきた経験がまさに「⼦育て」に似ているからだ、と気づいたのでした。

私が診察室で患者さんと向き合う時、まず考えること。

それは病気の重症度によって「⼦育てのどの時期まで遡って関係を持っていったらいいか」ということです。

精神症状が激しくて関係をつくりにくい⽅や、話す元気もないほど落ち込んでいる⽅の場合には、⽣まれたての⾚ちゃんの時期にまで遡る必要があります。

それはどんなに叫んだり、駄々をこねたりしても、それを⾮難せず受け⼊れることでもあります。また、話せない状態でも焦らずに「しっかり待ってあげること」です。

⾼校の時までバリバリのスポーツマンだったA君は、こだわりが強いため、それが遠因となっていじめに遭い、学校に⾏けなくなってしまいました。中退した後、清掃業で働いていましたが、25歳の時、突然仕事をやめ、家に引きこもってしまったのです。病院に来たきっかけは眠れなくなったことでした。

最初のころ、A君はうつむきがちで暗く、ほとんど会話もなく、うなずく程度で、とりつくしまもありませんでした。

仕事ができなくなった⾃分を責め、親や世間に肩⾝が狭いと感じるばかりであるように見えました。そんなA君と対⾯しながら「今は、今のままでいいんだよ」と⾔ったり、黙りこむA君の気持ちをなぞるようにただ⼀緒に黙っていたりすることもあったと覚えています。

そんな期間が1年以上も続いたでしょうか、長く感じる一年でした・・・・・・

あるころからA君は、私に対して、⼼を許し始めたと感じるようになりました。次第に顔を上げ、視線を合わすようになったのです。

声も⼤きくなりました。

たまに笑顔が⾒られるようになりました。

何もできない⾃分でも、そのままで認められていると感じると、⼈は⼼を開き始めます。少しずつ会話が増えていったのでした。

ただただ泣き叫んでいた⾚ちゃんが、安⼼して泣きやみ周りを⾒渡し始めたかのように見えました。

ここがポイント!

薬物療法全盛の昨今です、しかし。

⼼の病は薬だけでは治りません。薬は最低限に必要なものです。

その上で、心の病は、⼈間と⼈間の関係の中でしか治っていかないのです。

診察室は「ひとつの宇宙」のように感じる時があります。患者さんと医師との間の 大きな宇宙。

そして、生まれたばかりの赤ちゃんとお母さんの時代にいったん戻って、関係を築きなおす場所であるように感じるのです。

 

それが「重い⼼の病気」の場合における、「専⾨家による育て直し」ということでしょうか。

私たちにとって⼈間関係は時に⼤きな悩みの種。

しかし同時に、⼼が最も⼤きく育つのも、気づきが得られるのも、⼈が⼈にかける⼿間暇の中でだと思います。

人間関係。

わずらわしいものではありますが、大事にしながら暮らしていきたいものです。

連載コラム(4)母と娘。成人したら別れてもいい

 

年に⼀度の「お盆」の季節となりました。墓参りや帰省、家族だんらんのこの時期、「帰省したくない」「⺟に会いたくない」という⼥性患者さんが意外に多いことに最初はとても驚きました。

平穏な家庭⽣活を営み、⼩学⽣の娘さんが2⼈いるA⼦さんとは、もう何年にもわたるお付き合いです。彼⼥から「実家は⾞で1時間ほど。夫婦2⼈暮らしの⺟親から、孫たちの誕⽣⽇など記念⽇ごとに誘われるんです。でも⾏きたくないんです」と⾔われた時、私はすぐに返事ができなかった。カウンセリングならそこから話が始まるのでしょうが、⼗数分の診察では、患者さんも深いところまで聞いてほしいわけではないことが察しられたからです。

私は「いろんな⺟⼦の関係があってもいいと思うよ。⾏きたくないって⾔えないの︖」と⾔ってみました。「⾔えないんです。罪悪感が出てきます。でも私は⺟と相性が悪いんです。苦痛です」。お説教をしても意味がないと思った私は「お⺟さんを重く感じる⼈は結構いるよ。⼦どもたち(母にとってはお孫さん)だけ送り出してあげればどう︖」と提案したのです。それ以来、お孫さんたちは実家に⾏きますが、A⼦さんはもう何年も⺟親と会っていないはずです。

そんな母子関係もあるって知っていましたか。

実はA⼦さんの了解のもと、⼀度だけご両親と会ったことがあるんです。

今はやりの⽥房永⼦著「⺟がしんどい」、信⽥さよ⼦著「⺟が重くてたまらない」、岡⽥尊司著「⺟という病」などの本に⾒られるような重苦しいお⺟さんには実は⾒えなかったんです。ごく普通の平凡な、また愛の感じられるお母さんでした。

「なぜか分からないけれど、娘さんはお⺟さんが苦⼿らしいんですよ。お⺟さんもご⾃分を責めないでください。⼦どもっていうのはね、この世に出てくる時、お⺟さんのおなかを借りるだけなんです。お⺟さんの持ちモノじゃなく、通り道なだけです。だから20歳を過ぎたら別⼈格。別々の⼈⽣を歩むことが⼀番です」と持論を展開しました。

ここがポイント!

お母さんは、おなかを貸してあげただけですよ。そうやってこの世に出してあげたと考えればいいんです。

この持論、お⺟さん⽅に結構受けます。

「兄弟、顔は似てるけど性格が全然違うんです。道理で」「考えや価値観が親と似てないんです。なるほど」と笑いを誘う。私は「⾝体を借りるから顔や体形は似るんですよ」と返すんです。

また反対の場合もあります。⺟親が娘をかわいいと思えない場合です。これもまたタブーで「⼦どものいない⼈のことを考えなさい」と諭されそうですね。とても言える言葉ではないです。でも多いんです。私の職場でさえも、同感する人、けっこういます。以外でしょう。でも、そんなお⺟さんは病気の⼦どもを持っていることも多く、どこかで頑張り過ぎたのかもしれませんね。いいお⺟さんでいたい。⼦どもの気持ちに添ってあげたい。なんでも頑張り過ぎるとどこかで無理がきて、結局は嫌いになってしまうことがあります。

そうですよ、頑張り過ぎて嫌いになっちゃったんです、きっと。

⺟と娘、時には難しい関係ですが、どんな場合でも⾃分を責めず無理せず、それぞれの⼈⽣を精いっぱい楽しんでほしいなぁと思います。

連載コラム(3)趣味と娯楽を分けてかんがえよう

「趣味と娯楽は別もの」と書かれており、なるほどぉと胸にストンと落ちたのは、もうすごい若いころでした。

実は、ワタクシこの春から趣味としてオカリナを習い始めました。けれど、あとに書く理由、つまり向上の辛さを乗り越えられなくて、ただ今中断しております。

患者さんやそのご家族にとっても「趣味」はかなりの関⼼事です。仕事で定年を迎えたり、うつ病で悶々としていたりする⼈に対して、ご家族が「趣味を持ってほしい」と⾔い出すケースがけっこう多いのです。

その時、私は「趣味を持つことは仕事より難しいのですよ。仕事のほうがまだラクです。だから無理強いしないで」とご家族に⾔います。

こう言われると、みな「?」顔になるので、説明が必要なのです。その説明をこれから書きますね。

仕事は「今⽇からやめます」というわけにいきません。でも趣味をやめる理由なんて⼭ほど⾒つかります。

みなさん、思いあたることがあるでしょう。

実は若いころ出会ったのは、こんな⽂章でした。「趣味とは向上の苦しみが伴う愉しみ。娯楽とは向上の苦しみが伴わない愉しみ」。

それ以来、⾃分の中で趣味と娯楽をはっきり分けるようになったのです。

そして患者さんには「趣味を持つことは難しいので考えなくていい。でも娯楽はできるだけたくさん持っていた⽅がいいよ」と話すことにしています。

娯楽は向上の苦しみが伴わないので、続きやすいですよね。ビデオや⾳楽の鑑賞、散歩、ウインドーショッピング、気ままに楽器をつまびく、読書、ゲーム、テレビ…挙げたら切りがないでしょう。

気持ちが乗らなければしなくていい娯楽をたくさん持っていることは、病気の回復や⼈⽣の充実度にとても大切です。

さて、話を「趣味」に戻しましょう。

趣味を持つことは難しいのであまり考えなくていいと思うけれど、ないよりはあった⽅がいいかもしれません。「趣味」の⾒つけ⽅ですが、⼦どものころどんなことに関⼼があったか思い出すと割合みつけやすいようです。

何も思いつかない場合には、現実の⽣活の中でいろんなことに関⼼を持ち、機会があればなんでも⼿を出してみることですね。

深く考える必要なんかないですよ。

「忙しいから無理」「三⽇坊主に終わるんじゃないか」「⾃分の苦⼿分野だから」というのが三⼤妨害要素ですが、そんなこと考えていたら何もできません。

そう。⼼配なんかいらないんです。

これは私の説ですが、⼀つの趣味を⼀⽣かけて追求する⼈はどこか特別だという気がします。

ここがポイント!

特別な人ではない我々凡人は、趣味より娯楽をいくつか持って楽しみましょう。平凡なことを愉しみに変えましょう。

信念と頑固は紙⼀重だし、⼀つのことに固まってしまうより、いろんなことに挑戦する⽅が楽しいではないか、という考えもあります。いったん始めたものをやめると、やめ癖がつくと⾔って、⽇本⼈は⾃分にも⼦どもにも無理を強いる傾向があります。でも合わないものを無理に続ける必要などどこにもありません。やめるからまた、新しいことに挑戦できるというメリットはとてつもなく⼤きい、そのほうが大きい気がします。

「○○1⽇講座」に出てみる。合わないと思ったら3⽇でやめる。3年、10年と続けた趣味も現実の暮らしの中で無理が⽣じると思ったら潮時です。好きなものや得意なものより、苦⼿だと思っていたことの⽅が「伸び代」が⼤きいのでやってみるといい、というのは認知症予防のアドバイスのひとつですが、これは⼀般にも通じることです。

無理に趣味など持たなくていい。が、あれば時にはとってもつらく、そしてちょっぴり楽しい。

みなさんは、どちら派ですか?

 

連載コラム(2)愚痴上手な人のマナーとは?

先回、会話はキャッチボールのようなものです。ですからまずボールをしっかり受け⽌めることが⼤事ですと書きましたね。

今回は逆の⽴場から書いてみました。

毎⽇、診察室で多くの患者さんの話を聞くのが私の仕事です。「この1カ⽉はどんな調⼦でした︖」とまず話を振るのは私のほうからです。

患者さんが話す内容はさまざまですけれど、好転しやすい⼈としにくい⼈があるんですよ。治りやすい人と治りにくい人と言いかえてもいいかもしれません。

だったら「治りやすい人」「成長しやすい人」に入りたいと誰もが思うのではないでしょうか。

どんな違いがあるか考えてみましょう。

今⽇いらした50歳の男性は、職場や仕事の中で葛藤を抱えておられ、いまひとつ体調不良が好転しなくて悩んでおられる方です。

「どうですか︖」とまずお聞きしてみました。

「やっぱり、もやもやします。⼈間関係って難しいです。いろんな本も読んでみるんですが、ピンとくるものもないし」とおっしゃいます。

「どんな時に︖」と話を向けても、私の問いかけなどなかったかのようにスル―して、いかにご自分の体調不良がつらいか、気分がすっきりしないかについて、えんえんと話されるのでした。こんな具合ですと、一方的な愚痴だけで、診察の持ち時間はあっという間に終わってしまいます。

ああ、もったいない。

次に来た患者さんは38歳の⼥性でした。

「ぐっすり眠れないんです。質の良い睡眠が欲しいんです」とおっしゃいました。続いて彼⼥は「仕事を3⼈で組んでいるんですけど、私以外の若い2⼈が仲がいいんです。こないだ、私の仕事が遅いので残業していたら、2⼈して攻撃してきたっていうか、あなたの要領が悪いから⾃分たちまで帰れないって、いじわるな⾔い⽅で」などと、彼⼥の話はとても具体的で、職場の状況を想像できる話し方です。

私自身も共感もできましたし、こうなると断然アドバイスもしやすいですよね。

では一体、具体的に語れるとはどういうことでしょう。

実は、ここがポイント!

やはり、普段からまわりを客観的に⾒て⾃分の置かれている状況を知ろうとしたり、⾃分の⼼の動きに注意を払ったりしていないとできないことなんです。

むずかしい言葉で言うと「自我を働かせる」とか「もうひとりの自分が、今の自分を俯瞰する」とでもいいましょうか。

⼈は⼈間関係の中でいろんなストレスを受けています。いくら⾃分がおとなしくしていても、問題があちらの方から勝⼿にやってくると言っても過言ではないでしょう。そして悩まされるのです。

そんな時、誰かに話を聞いてもらうと本当にすっきりします。

しかし、その話し⽅にはやはり⼯夫が必要だと思います。

例えば「ちょっと愚痴を聞いてほしいんだけど、いい︖ 聞いてもらえるだけですっきりすると思うの」と断ってから話すだけで、相手にも心の準備が出来ますし、「聴いてあげたいな」と思うでしょう。

また、愚痴と相談事は違うので「迷っているの。ちょっとあなたの意⾒を聞きたくて」と最初に⾔うと分かりやすいですよね。そしてあくまでも、愚痴も悩みも、相⼿が想像しやすいように具体的に手短に。また相⼿や周囲の悪⼝だけにとどまるより、⾃分のことではあっても、その⾃分を「もうひとりの⾃分」が⾒ているように話すと、聞く⼈の気分を重くしないですみます。またそのほうが、はるかにより効果的なんです。

愚痴上⼿になって今⽇のもやもやを明⽇に残さず、すっきりした気分で夜を、朝を迎えたいものですね。

 

連載コラム(1) 会話とはキャッチボールと同じです

最初からぶっそうな話ですみません。

私の患者さんが診察室に入ったとたん「わたし今・・・人を殺してきたんです」と言ったなら。

多分、わたしはとても驚くと思います。

そして表情ひとつ変えることなく言うでしょう。

ただ「・・・そう」とだけ。

 

患者さんの訴えを診察室という名の密室で聞き続けて何十年。

時代は変わり、病気の様相はすっかり変わったけれど、「人の話を真っ白な心で聞き続ける」というスタンスだけは変わることなく続けてきました。

そして何十年続けてきても、一番むづかしいと感じるのは何でしょうか。

それは「人の話を聞く」ということなんです。

 

そんな私が伝えたいこと。

それは、会話とはまず、投げられたボールをしっかり受け取ることだということです。

 

なあんだ、と思われるかもしれません。

わかっている、とおっしゃるかもしれません。

ところがどっこい。そうはいかないものなんです。

 

自分と同じ考えである時には「そうそう」とすなおに聞けても、反対意見だったり、思いもよらず「学校に行きたくない」「やめたい」などと言われた時に、まず「そうなんだね」と言える人はとても少ないと思います。

 

たいていの人は、困ったことを言われると相手のボールをしっかり受けとる前に、急いで投げ返そうとします。

 

私にも若いころ、苦い思い出があります。

 

それはある若い女性の患者さんでした。彼女の会社の上司の息子もまた、私のクリニックに通っていたのです。ある時彼女から「先生、私がここに通院していること彼にしゃべったでしょう」と言われました。身に覚えのない私は被害的になり疑っている彼女の気持ちを受けとめる前に即座に否定したのでした。

本当に心外だと思った私は「言うわけがないでしょう」と言い、彼女は黙りこみました。

 

そして話はそこで終わったと思っていたのですが・・・・・・。

ところがです、その後、彼女から長い手紙が届いてびっくり。

 

こんなことが長々と書かれていました。

 

「先生は不安な私の気持ちをわかってくれる前に、怖い顔をして否定し自分を主張した」と書かれていたのです。

 

「殺してきました」と言われても受けとめられる私が、危険が自分の身に及んで余裕をなくすと、受けとめるどころか自分の身を守るのに必死になっていたという事実。

 

反対の例をあげましょう。

 

先日、私は仕事のことで急に自信がなくなり、相手に電話をして訴えました。

相手方は「そんな気持ちでおられたんですか。気がつかなくてごめんなさい。でも大丈夫」と言ってくださった。

「そんな気持ちでいらしたんですね」と投げたボールを受けとめてもらっただけでなんだかとてもうれしく「頑張ってみようかな」という気持ちになれたのです。

 

不思議!!

 

わかってもらえていないと思うと人はしつこく訴えたくなるものです。わかってもらえたと思えた途端にすっとして、案外「もう少しだけがんばってみようかな」などと思えてくるのですから本当に不思議ですよね。

むつかしく考えることはないんですよ。

そしてここがポイント!

多少 ?? と思っても、とにかく「そうなんだね」と相槌をうつだけでも結構。

相手や自分を偽ることと、相槌はまったく別モノですよ。わからない部分はあとでゆっくり確かめましょう。

言葉の魔法。上手に使って聴き上手となり、まわりの笑顔、引き出したいものですね。

おことわり(Dr.あやこのしあわせ論)

新聞に連載したものがとても好評で、載せてほしいとのお願いが多いため、会話調に読みやすくなおしてこのブログに漸次、載せていきます。

カテゴリーは「Dr.あやこのしあわせ論」となっています。

別仕立てに出来ず、カテゴリーを分けることしかできませんので、すでにお読みくださった方は、飛ばしてくださいますようお願いします。