自分らしく生きる27 自分や病いと「向き合う」とは何か・1 

昨年の終わりころ、クリニックに来られ、2回ほど診察した方40才の女性が、

正月休みを終えたあたりに、大量の安定剤を服用してしまい、自殺をはかられました。

今まで心療内科にかかったこともなく、お子さんをふたり育てながら働いていた主婦の

方です。職場での人間関係がうまくいかず、最近やめられたものの、

「うつ病」だとは診断しなかった方です。よくねむれないとおっしゃるので

睡眠導入剤と眠りが深くなるような薬を一緒に処方しました。それを全部飲んでしまわれた

のです。幸い一命はとりとめ、からだもだいぶ回復したので予定外ではありましたが、

私の外来にみえました。予想しなかったことでしたので、大変驚きました。

そんな時には、私自身が動揺します。診断が間違っていたのだろうか。私の言った言葉で

傷ついたのではないだろうか。傷つくまでではなかったにしろ、最適な治療や言葉かけを

間違ったのではないだろうか。

いつも細心の注意をはらいつつ、言葉を選んで選んで話します。少しでも体調が悪いと

ろくな言葉が出てきません。人は私のことを神経質だと言ったり、からだに気を使い過ぎる、

とよく言うのですが、体調が少しでも悪いと、失敗するのです。あとで痛い目に会うのです。

これぞという時に最適な言葉かけができなかったり、タイミングをはずしたり、またいかにも

大義そうなのがばれてしまったりして、いいことはないのです。診療の結果に如実に

あらわらてしまいます。生きる医療器械です。

今日もいろいろ話をうかがいながら、最後に思いきってお聞きしました。

「最後の診療のときに私が言った言葉で、今でも覚えている言葉がある? 気にしている

言葉がある? 」 彼女は答えました。「そのために死にたくなったわけではありません。

でも、あなたは本当に理屈っぽいね、と言われたことをよく覚えています。落ち込んで

しまいました。それがきっかけではありませが、そのあと正月休みの間も、今後のことを

考えていたら、もうこの世から逃げだしたい、と強く思えてしまったんです。私が死んでも

あとのことはどうにでもなると思えました」と答えました。

実はやめた職場には、合わない人がいて、その人にせいでやめたくなかった職場をやめざる

を得なかった。労働基準局に相談したら「職場の長に訴えて、慰謝料をいただくとかの訴えを

したらと言われた」というのです。誰が考えても、人間関係がいやになってやめてしまった職場に

今さら出かけて訴えても、慰謝料が出るとは思えません。公的な機関の臨時職員だったのです。

また彼女自身に何か対人関係の面で、あるいは人生への向い方に問題があることも

わかります。

つぎの患者さんは待っています。とうとうと前職場の悪口を述べたてる彼女にかなりうんざりして

しまった私は、「あなた自身には問題がなかったかしら」ということを言いたくて仕方がありません

でした。しかしまだ2回目に診察でそれを言うのは早いのです。我慢を重ねてはいても、

ついなかなか彼女に同情ばかりもできなかったのです。「自分にも問題はあると思うよ」という

ようなことを少しだけ言ったことは覚えています。

しかし、自分を見つめるという作業は誰にとってもとても辛いものです。人間というのは、自分の

非を見つめることがもっとも苦手な動物です。巧妙にあの手、この手を使って、見つめなくても

いいようにもっていくのが人間というものです。

それは防衛手段のひとつで、自分をそうやって守っていかないと生きていくのが誰だって

いやになるでしょう。

だからそういう作業をするときには、準備万端整っていることが大切です。

とにかく、一命をとりとめたことを喜び、今後一緒に考えていくことを納得してもらって

お帰ししたのでした。

「自分と向き合う」「こころの病と向き合う」とは一番むづかしいことです。しかしそこを通過

しなかったら、どんな病気もどんな人生も前に向かっていかないと思います。

それについて思いついたことから書いていきたいと思います。

自分らしく生きる 26 ヒストリー 7 子育てと親子

リビングの窓から見える夕焼け

仕事から帰って、夕食作って、食べて、プールで1キロ泳いで。

ピアノのレッスンして、ブログ書いて。

友だちの家で電気ごたつを見て「ほしい!買う!」と思ったけど

夫から「買ってもいいけど、いつそこに座るの」と言われてしまいました。

たしかに座る時間、ないなあ。

☆      ☆      ☆

金沢で1人、弘前で3人の子供を出産し、29才にして4人の子供に恵まれて

いました。4才を頭にして4人。えっと4才、3才、1才、0才。まるで戦争状態です。

よくある話ですが、私自身の兄弟は弟がひとり。その弟とも疎遠になっていたので、

きょうだいというものに憧れたのです。

また、仕事を続けながら子育てするためには、「きょうだい力」を利用しない手は

ない、と考えた結果です。兄弟同士で遊べるのはすごく大事だし、親はいずれ死んで

しまうから、なんてことを考えていました。

保育園のある病院でしたので、産後2ケ月から保育園に預けて仕事を続けました。

子供というのはしゅっちゅう病気をします。でも医者は休めない仕事です。そのため

に、子供の病気専用の家政婦さんをたのんでいて、家事もついでに手伝ってもらいました。

また 姑さんや実家の母も寝台車「日本海」や「白鳥」に乗って12時間もかけて、

子供の病気の世話に来てくれました。本当に今 思い出すだけでもたくさんの方たち

の助けを借りました。私が働いていたせいで、子供たちもたくさんの人に可愛がられて

育ちました。

私も子供たちも甘え上手だったかな、と思います。できないことは人の手を借りるのが

一番ですね。

よく助けに来てくれた姑さんと母ですが、事あるごとに仕事をやめろと言いました。

「あなたは自分のしたいことを優先している。子育てのほうが大事」というのが理由です。

私にとってはあたり前の仕事でも、ふたりにとって医者を続けることは「自己実現を優先

している。わがままだ」という理由です。「じゃあ、私が煙突掃除婦だったらよかったわけ?

おしゃれして出かけないで顔をすすだらけにして帰ってきたら、よかったわけ?

それだったら家のために自分を犠牲にして働いていることになるから働いてもいいわけ?

自分を犠牲にして働かないと、女性は働いてはいけないわけ?」何回も泣いて

抗議しました。反対されるという理由でやめようと思ったことはありませんが、親の気持ちは

今だったらすなおにわかります。

もしも「仕事はね。いつからだって出来る。60才70才になっても働けるのよ。でも

子育ての数年間はもう二度と来ない。よく考えて決めなさい」こんな風に言われたら

きっともっとよく考えたと思います。

それでも一度だけ、仕事を続けるかどうか考えこんだことがあります。上の子が2才、

二番目が1才のころです。病気になって入院したり、保育園に行くのをとても嫌がった

りして大変な一時期がありました。

保育園に預けて別れる時、あまりにも泣き叫ぶのです。保育園の玄関からみんなで

入って、裏から自分だけ忍者のように抜けるという日々に疑問を感じました。

しばらく仕事、やめようかな、と思いました。結果は、子供よりも仕事を選んだのです。

けれど、裏から逃げるのではなく、しっかり子供の目を見て、わかってもわからなくても

説明したらよかった、と今になって思います。いつも周囲から反対されていたので

子育てに自信がなかったと思います。こんなにたくさんの反対をおしきって仕事して、

ちゃんと育っていかなかったらどうしよう、という不安感が払拭されるまでに

20年くらいかかっています。いつも不安でいっぱいでした。もうちょっと自信を持って

育てたかったと思います。人間はみな性格が違います。この娘(嫁)は仕事をやめる

タイプじゃない。そう読んだら覚悟を決めて「親がなくても子は育つというくらい

だから大丈夫。子どもも親の背中を見てしっかりした子になるわよ」くらいにアドバイス

してほしかったなと思います。当時は珍しかった「精神科医」という仕事からくる精神的

重圧が大きく、こんなに意地はって仕事を優先して、もし子供に何かあったらどうしよう

という気持ちがありました。人から相談受けている人だから失敗は許されない、みたいな。

でも誰よりも失敗が許されないと思っていた私が皮肉にも、どんな人より人生でつぎつぎと

失敗を重ねていったのですから笑えてしまいます。

仕事をやめないかわり自分で理由を作りました。「子供を犠牲(そう感じたのです)にして

までする仕事だから、ぜったいいい加減な仕事はしない」という理由です。

仕事を続けるためには、理由が必要だったのかな。

でも子供はかわいかったです。

子供が思春期になって父親に反抗するまでの10年、夫婦の問題は完璧に棚上げ

できてしまいました。それほど子供がかわいい、夫婦より子供と思って育てていました。

あとで手ひどいしっぺ返しをくらうとは夢にも思わず。

接する時間も少なかったせいか、しかることもなかったです。

私は、女性だから男性だからというのでなく、仕事をすることがあたり前の普通のことだと

思って育った初めての世代です。

また、仕事を持っていても、子供を育てたり、家事をしたりすることもまた、誰にとっても

普通だと考えていました。

特に精神科の、いいえ、精神科だけでないと思います。医療って暮らしの中に

含まれるものだと思います。

人間の暮らしの中で病気が起因したり、治ったり治したりするのです。医学的知識は

必要です。でも病気だけじゃなく暮らしそのものを見ていかないと本当の治療には

ならないと思う。

私は誰に習ったというわけではないのに、医師になった当時から自然にそう考えて

いました。多分、医者の家で育ったわけではなく、お金持ちでもなく、ごく普通の平凡な

田舎で育った生育環境からきたことやまた自分の感性もあると思います。

どんなものを食べているの? それはどうやって料理しているの? 毎月どれくらいの

お金で暮らしてる?そんな会話も治療のうちです。

わたし自身、どんなに仕事が忙しくても自分の食べるものは自分で作りたい。家事は

下手だけど自分の身のまわりくらい自分でしたい。

子育てで大事にしたこと。それは夕食だけは、きちんと手をかけたことです。家事も

子育てもかなりいい加減な私でしたが、夕食を作ることだけは、手抜きをしませんでした。

その理由は、食事を作るという行為は、欠かせない家事であって同時に心を育てる。

その一石二鳥さがいいと思ったからです。忙しい暮らしを切りぬけるキーポイントは

食事だけは自分の手で作る、とうことです。そのかわり掃除機のかけ方はいまだに

よく知らないのです。アイロンなんて一生かけたことないです。針箱なんて家にあったか

なあ。そんな世間知らずの生き方。自分であきれています。

もうひとつ大事にしたことがあります。お金です。医師の給料って世間一般より高いです。

でもそれにみあった暮らしはしません。なぜなら患者さんたちの暮らしとかけ離れて

しまうとだめです。また自分の子供たちが将来、医師になるとはかぎりません。

親の恩恵を受けて暮らしが良くても、ずっと一生良い暮らしができるとはかぎりません。

だから生活費は、世間の普通のサラリーマンの平均額で家族6人の生計をやりくり

しました。普通は医者のおうちってけっこう贅沢な暮らし。私からしたらとんでもないです。

子供たちの洋服は全員、お下がりでした。夫の母が洋裁の得意な人でしたので、

ズボンやくつ下には何回もツギをあててくれました。その当時でも、そんな子供は

少なかったように覚えています。長女の赤いTシャツを着た三男が、はずかしそうに

うれしそうにしていた顔が思い浮かびます。

とにかく、からだを使って働ける子に。からだを動かして働くことを嫌がらない子に。

両親が医者だったらお子さんもお医者? よく聞かれるんですがそんな風に

聞くひとを軽蔑してしまいます。

長男は三浪のあげく専門学校にしましたし、長女は内申書が悪いために高校に

入れず、二次募集でやっと入った高校を非行で退学させられ、うつ病になったので

通信制高校にして、それからアメリカの大学に入りました。次男は高校一年でさっさと

中退してしまい、三男は大学の生物工学科を出たとたん、ヘルパーがいい、といって

介護職につきました。

みんなそれぞれ。でも全員わたしの誇りの子供たちです。

家事や育児と仕事とは車の両輪。どちらが欠けても、わたしの人生はまわっていかない。

暮らしは自分の手で整える。そして普通のつつましい暮らしをする。これはわたしが

もっとも大事にしてきたこと、今現在も大事にしていることです。

ちょっと立派に聞こえますか。

でもそういう持論で暮らしていること、また地味で地道な子育てをしたことだけは確かです。

私の子育て、これで良かったんだ、としっかり思えたのは、あれから30数年経た

最近です。自分の子供たちが子育てをしているのを見て「しっかり子育てしている。

私の子育て、間違っていなかった」とはじめて思えました。それを子供に言ったら

「よく言うわね。反面教師やってるだけよ」と言われて、おしまい。子供って親に

批判的なんですね。

けれど、私の持論では、反面教師になれる親というのも、なかなかいいんですよ。

わかりやすくて。中途半端に「いい親」をやるよりよほどいいと思うけど。

子供って親以上にはなれない。親以下にもならない。今、両親を亡くしてみて

そう思うのです。私もあれだけ親を批判ばかりしていましたが、親以上にはなれて

いません。親以下にならないようにするのに必死です。

親が亡くなってしまうとよくわかると思いますよ。

亡くしてみてつくづくそう思うのですから。

でも親以下にもならないような気がして安心しています。

自分らしく生きる25「外の空気」を入れる「選択肢」を増やしておく

履歴書などを書くとき、趣味の欄があります。けれど仕事をしている人にとって、

趣味なんて作れる人がどれだけいるでしょう。私などは読書や音楽鑑賞と書くのも

おこがましいし、囲碁はとっくにやめたし。履歴書はともかく、再婚するとき登録した

サイトで、やはり「趣味」という欄があって「散歩」と書いた覚えがあります。

私の定義で言うと、向上の苦しみが伴わないようなものは、趣味にはあたりません。

趣味は散歩、というのもどうかと思う上に実は当時、大阪の街を散歩することなど

なかったのです。

結婚して山梨に来たときには、やれやれ、これで散歩ができると思ったのですが、

田舎道のなんと危ないこと。歩道はない、車は飛ばしている。一度、リュックを

かついで駅まで歩きました。その日のうちに「変わり者」のレッテルがはられて、

うわさが飛びかったのでした。田舎は散歩のできるところではない。

田舎は車で動くところ、犬を連れないで本物の散歩などする人はいない。

そんな人は変わり者。それを知ったのは、移り住んでからです。

それからしばらくして、散歩のできるところに住まいを移しました。夫も「散歩がしたい」と

強く望んでいたからです。

広い道路、その上に歩道までついています。なのに、車はほとんど通らない。

車の通らない林の道は、掃いて捨てるほどあります。それも素敵な素敵な林の中の

小道。童話に出てくるようなしゃれた小径です。小鳥の声も聞こえるし、葉っぱの

ざわめきも。空は真っ青です。たまに人家があって、手入れのゆき届いたきれいな

お庭をところどころで無料に見られます。

ところが。

ところが。

ところが、そんな理想の地に落ちついたにもかかわらず、夫婦で散歩をしたのは

数えるほどでした。だんだん外に歩いて出るなどがおっくうになりました。

それに夫婦で歩いても、歩幅とかペースが違います。話題もだんだんなくなって

きます。ふたりで無言で歩いているうち、散歩がつまらなくなってしまいました。

今ではまったく出ません。

別荘地ですから夫婦で歩いている人はいます。

いいえ、はっきり言います。いました。でも今はいません。

別荘を建ててしばらくは来られます。夫婦で散歩をなさいます。でもだんだん来なくなり、

散歩をしなくなり、お見かけしなくなります。

それくらい、人間というのは本来、無精にできています。犬を連れて出るのは散歩じゃ

ありません。それは犬の散歩であって、人間の散歩じゃありませんから。

これほど、口で言うのはたやすく、行うことのむづかしい散歩です。

けれども、こころの病になったとき、散歩ほど有用なものはない、ということについて

私の考えを話したいと思います。

心を病んだ時には、まず家から出られなくなります。人と会うこともおっくうになります。

少しづつ病気が良くなって、そろそろ仕事のことも気にかかり始めます。誰かと

会わなければいけないことも出てきます。

そんな時に、突然仕事に行くとか、法事に出るとは、それは無理です。

たいていの人が「趣味でも持っていれば良かったのですが」と言います。

たいていの人が「趣味を持ちなさい」と言います。

これもはっきり言います、趣味などいりません。持てる人は持てばいい。持っている人は

しあわせです。私は今、ピアノの趣味があってとてもしあわせです。

でも誰にでも勧められることではありません。好きなことを持つ、好きなことを続ける。

これは、仕事をするよりむづかしい。自分で自分を律し、自分で工夫し、誰からも

お金をもらえないばかりか、お金ばかりかかり、根気がいり、辛抱がいり、誰からも

ほめられず、上見たらキリがなく、自分で自分を嫌になることのほうが多く。

それでも続ける。そんなこと人に勧められますか? 私は勧めたことがありません。

趣味を持っている人は、人から勧められるまでにすでにやっています。

だから人から勧められなければいけないような人に、趣味はいらないのです。

けれど、暮らしと仕事の橋渡しは、何か必要です。そのひとつに「散歩」というのは

最高だと思っています。治療にもよく使います。

うつ病の治りかけの患者さんにまず、私が言うこと。

1、        窓から外の景色を見てごらん。木々をみたり、空を見たり、隣家の出入りする人

を見たりして、外の気配を感じてごらん。外に関心を持つといろんなことがわかって

くるし、おもしろいなと思うことがあるよ、と言います。

2、        つぎには、窓を開けて風を入れてごらん、と言います。外の風を家の中に入れて、

家にいながら外の空気を吸うことなら、うつ病の治りかけでもできます。

3、        つぎには、一歩でもいいから、玄関やベランダから外に出て、外の空気を

吸ったり、深呼吸をしなさい、と言います。

花に水をやったり、新聞をとりこめるだけでも進歩です。

4、        それから家のまわりをほんの数分でいいから歩いてごらん、と言います。

5、        毎日、朝夕のどちらかに散歩を習慣にできたら、それは心身の病気の

リハビリとしては最適だと思います。

私のアドバイスはいつも、とても具体的です。どんな場所に住み、どんな住まいで、

誰がそばにいるかまで聞いてからアドバイスします。

「次回、病院に来るとき、車以外でいらっしゃい」と言うこともあります。

散歩は道具がいりません。

いやならいつでも引き返すことができます。

肺に新しい空気を入れ、からだの運動にもなります。

よそのお宅のたたずまいを見たり庭のお花はとてもこころ癒してくれるものです。

一日何千歩とかの目標を立てて歩くのは、運動としてはいいのですが、やっぱり

心身両面の健康とかリハビリということを考えると、何千歩の目標はいらないと

思います。

新しい空気を吸う、深呼吸をする、空をみたり、景色をながめたり、新しいお店が

できたなと情報を得たり。やっぱりいかに5感をフルに活用できるかどうかでしょう。

どれだけ声を大きくして言っても言い足りないくらいです。

5感を活用しているかどうか・で人生の質が変わってきます。散歩とは単なる足の

連続運動ではないのです。

人間が外に出れなくなって、ベッドの上で亡くなるその瞬間まで、なんらかの形で

「外の空気を吸う」ということを心がけることが大事だと思います。

「窓を開ける」ことから「外でバリバリ働く」までの間に、無数の選択肢が広がっています。

その選択肢をひとつでも多く、増やす。心身がどんなレベルであったとしても、

そのレベルにあった「外の空気を吸う」ことができるためには、ふだんから選択肢を

増やしておくことが大事です。

先年亡くなって多田富雄さんは、四肢が使えず、食べれず、呼吸さえ呼吸器が

なかったら生きていけなかったのに、最後まで健康そのものの私などよりはるかに

「外の空気」を吸って生きておられました。すばらしい生涯です。

今日は友人と半年ぶりに散歩をしました。

怠け者で、出ることに相当抵抗がありましたが、無理にでも行かなければいけないと

思い、誘いました。楽しかったです。

雪道でも2時間は歩けた私ですが、半年ぶりだったので1時間ちょっとで疲れて

しまいました。でも、友達とはメールで毎日のように交流していても、歩きながら話すことは、

何年間メール交換したよりも濃い交流ができます。今日の友人とのミーティングのテーマは、

いかにその選択肢を増やすかについてでした。

インターネットの普及した昨今ですが、たまには歩きながらミーティングするのも

いいのではないかと思います。

下はフォトエッセイ集の中のひとつです。

写真展に出したら、毎日見にきては、この写真の前で泣くの、という女性が

いました。お子さんが不登校だと言っておられました。

自分らしく生きる24 5感を鍛える生き方をする

総合病院で働くようになってから、「食欲が出ない」「食べられない」「体重が

減っていくばかり」という患者さんを多く診るようになりました。

健康の基本は睡眠と食欲。睡眠は安定剤と睡眠薬をうまく使えば100%改善されます。

しかし食欲不振ほど、医者の手でどうしようもない症状もないのです。身体科に行くと、

かならず胃の検査をすることになるでしょう。でも異常ありませんと言われて、胃薬を処方

されます。けれどその薬で食欲が出ることはあまりありません。それでもなんとなく安心

して自然に改善する方も多いのでしょうが、食欲が出ないまま、だんだん体重などが

減ってくると、私のところに紹介されてくるというわけです。

精神疾患だというわけではないので、精神科にいらしても、なかなか治療手段が

ありません。一応交感神経をしずめ、副交感神経が働きやすくなる薬を処方します。

それで良くなる場合にはいいのですが、それでもいっこうに良くならない患者さんの

場合には、治療が大変になる。食欲だけは、それを改善する薬がないのです。

先日診た患者さんは、70才台の女性。長らくひとり暮らしをされています。

最近、食欲が出ず、体重が減っていくことを大変気にかけておられます。

だいたいはご自分で作っておられますが、最近は作る気力もなく、出来あいを

買ってくることも多いようです。ご近所のひとり暮らしのお仲間が食事を運んでくださる

のだけれど、それでも箸をつけただけでそれ以上、食べれないとおっしゃいます。

食欲のない方は、当然ながら料理をする気持ちになりません。料理をする気になれない

と、ついつい出来あいのものを買ってしまいます。それは悪循環の始まりになります。

わたしたちは、食べるということに関して、あまりにもあたり前になっていますので、

食べれるという行為がいかに大事な身体的・精神的能力であるかについて忘れて

います。食欲がわくということは、大変な能力です。気持ちが快感に向いている、

からだが快調に働いている。胃の働きが正常である。そしてその上に、胃膜から

消化液が出て、「食べ物を早くくれ」と言っている状態。それらすべてがそろわない

と食べる気になれないのです。どれが欠けても食べる気になりません。ちょっとでも

心配事ができると、パタッと食欲がなくなったという経験は誰にでも一回や二回は

あるでしょう。それくらい胃という臓器はデリケートなのです。

食べることは5感全部に関係しています。これほどすばらしい人間的行為も

珍しいでしょう。目で色や形を楽しむ、香りをかぐ、手ざわりを楽しむ、手で刻む、

じゅーっとする美味しそうな音、そして最後に「味」です。最初から「味」がくる

わけではありません。順番があるのです。

その順番をぜんぶ省いて、美味しく食べようとするのはだいたいにおいて無理が

あるのだと思います。

その患者さんには、食べれなくてもいいから、出来あいを買うことをやめ、まずスーパーに

行くこと、手にとって想像すること、家に帰って刻んでみること、

そういう手順を地道にやってみるようにアドバイスしました。

食べれない方が周囲におられる場合にも、食べ物を直接あげるより、作る過程を

ご一緒できるような配慮のほうが効くかもしれません。この患者さんは良くなられました。

もうひとりの患者さんです。この方は50才台の男性です。「食べれない」ことを主訴に、

何人も主治医を変えておられました。薬も効くものがありません。お説教も無駄です。

体重が減り、元気が出ないので仕事に就けないという悩みをかかえています。

今は奥さんが働いて生計を立てているそうですが、早く食べれるようになって仕事に

つかないといけないという焦りも強く持っておられます。

男性の場合には、もともと食事の支度をされていないので、食事を作っていく過程を

通じて、副交感神経が働くように持っていくということがむづかしくなります。

しかし5感を働かせる、という意味では同じだと思うのです。

「食べれない、ということを度外視して生きること。食べる前にすべきこと、たとえば

奥さんが働いているなら、掃除をしてあげる、庭の手入れをしてあげる、買い物に

行ってあげる。外の風にあたり、体を使い、どうやったら相手が喜ぶかを考えて

暮らしていけば、自然とからだが動くでしょう。それが生活の基本なんです。基本を

飛び越えて、食欲だけ出すということは無理です」とお話ししました。食べれなくても

(バナナだけは食べれるという、それでもいいのです)仕事につけなくても、生活の

基本をやるために体を動かし、奥さんがラクに働けるように助けてあげようとこころがけ

ていれば、食欲はあとでついてきます」と話しました。

今、食べれないことは、その方の今までの人生の一部だと思うのです。食べれない

ことばかりがクローズアップされているだけであって、生活の基本がどこかでおろそかに

なっていたということだと思うのです。

食欲にあまり変化はありませんが、今のところ主治医を変える気配はなく、通院

されているので、経過はまたいつか書きたいと思います。

今日作った中華料理は、にんにくと生姜とねぎの香りがすごくいいですね。

トウバンシャンの辛みも食欲を刺激します。これは日本料理や西洋料理にないほど、

食欲をそそる香りや辛みだとだと思います。

トウバンシャンでもなんでも、中華の味の材料は冷凍しておいて使ったらまた冷凍して

おけばいいそうです(たまにしか使わないのでたいてい賞味期限をすぎます)

自分ではそろそろ「味の素クックドゥ」を卒業したいと思っています。

食欲だけは、人生の最後まで残るものなので、もっとも大切にしたいことです。

私も一年ほど妹に助けてもらっていました。たった週2回、妹に作ってもらうだけ

なんですが、だんだん作る意欲をなくしてしまうのですね。不思議なんですが、

人間かならず楽な方に行きますね。これではいけないと思い、夫の退職を機に、

全部を自分で作ることにしました。たいして頑張らなくてもいいんです。

自分で何をどう食べるか考えて実行することは、大変なことだけど大切なことだと

思います。

大変な場合は、週に一回だけ外から取るとか外食をする。ほんの一品だけ出来あいを

買うとか誰かに助けてもらうとかがいいでしょう。誰かに下駄を預けてしまったらだめです。

栄養があるからいいとかいう問題ではありません。5感をないがしろにしたり、食べることを

はしょると、いつか、どこかでそのつけがまわってくると思っています。これはたくさんの

患者さんを診ての感想です。

☆     ☆     ☆

わたしは胃が軟弱で50年以上、朝ご飯は食べたくない人でした。ところが今の住まいに

なって、食卓から見える景色があまりにいいのです。気分が良くなって

「食べてみよう・・・・か・・・・な」という気になりました。本当に景色のせいです。

それまでは夫のためだけに朝ごはんを作っていたのです。

そして今は朝からもりもり食べています。不思議だなあとつくづく思います。

胃のあり方は本当に体の象徴です。

自分らしく生きる23 神様は細部に宿る

「お前たちのおかげで、しあわせな気持ちにさせてもらっているよ。

ありがとうね」そう声をかけて、大好物のかつお節をあげました。

このときばかりは、くっついて食べます。

☆      ☆      ☆

知人が再婚をされたということで奥様を連れてご挨拶に見えました。

奥様である方がピアノの先生だと聞いて、私の目が突然光りました。そして男性たち

そっちのけでピアノ談義になってしまったのでした。

私は得意満面で「乙女の祈り」を弾きました。それから今練習中の、バイエル94番を

弾きました。彼女は驚いた顔でこう感想を言ったのです。

「乙女の祈りを弾くときの楽しそうな顔と、バイエルを弾くときの、しかめっ面と、どうして

そんなに違うんですか?」

わたし「乙女の祈りは好きで弾きたくて弾いているからです。バイエルは先生に〇印を

いただくために弾いています。なかなか〇印をいただけず、この94番も、もう一ケ月も

そればかり弾いています。でも間違うのでまだ弾けません」

奥さん「じゃあ、93番は弾けたのですよね、つい最近ですね。弾いてみてくださいな。」

わたしは弾くことにしました。でも全然弾けません。あれ?どんな曲だった?えっと えっと・・・・・

奥さん「曲くらい覚えているでしょう?」

私「いいえ、〇をいただいたら、もう関係ないですもの、覚えていません。弾けません」

奥さん「じゃあ、積み重ねってものがありませんね。バイエルは楽しくないって皆言いますが、

一曲一曲に曲想もあるし、きれいでかわいい曲ばかりですよ」そう言って94番を弾いて

くれました。私が弾いていたのとまるで別の曲に聞こえました。

その曲は、ふぁふぁふぁ、ソソソ、ラララ・・・と同じ音が並びます。

私は、その曲をまるで かなづちで板を打ちつけるように弾いていたのです。

だって、正しく弾かないと〇がもらえませんから。

奥さんが弾くと、同じ ふぁ でも 違う大きさで、大きくしたり優しく弾いたり、のばし

たりして弾いています。とてもやさしくきれいな曲でした。

緑の葉っぱ、青い空、小鳥がとまっていて、子供が遊んでいます。

そんな風に聞こえました。

金づちの大工作業とはえらい違いです。

奥さん「バッハだってたくさんの練習曲を作っていますが、みな子供や奥さんにささげて

作っているんですよ。想いもあるし、語りかけるように作っているんですよ。乙女の祈りは

素敵な曲で、練習曲はつまらない、なんて思って弾いちゃ、もったいないです」

私はその話に感動しました。もっと心をこめて音を出さないとだめだと思いました。

でも、その場ではそれでピアノの話は終わりにしてしまいました。

あまりにもショックだったり感動したりすると、自分の中でもうちょっと温めてみたく

なります。安易に同調したり感動を表現したりができなくなってしまいます。

今日の話は、私はひごろの考えや態度を、ある意味どつかれたような気になりました。

神様はきっと、つまらないように見えるバイエルの曲の、ほんの一小節のあたりに

宿っているのかもしれないと思えました。

すべてのことに通じるようで、居住まいを正したくなりました。

私は習い事がとても好きです。この年齢になると、もう誰もしかってくれません。

その道を究めた人に接し、何かを習うことは、その習い事にとどまらない、何か

謙虚に出なおしてみたいような、厳粛なような、神妙なような、新鮮な気持になれます。

「習う」ということはとても大切なことだと思いました。

習い事も医師患者関係もみんな同じ。

一対一の信頼関係を作っていく中で、技術や薬だけでなく、人格と人格の触れあい

の中からお互いに学びがあってこそ、だと思えます。

自分らしく生きる22 ヒストリー6初めての恋愛

ロールカーテン越しに見える葉物がシルエットになってきれいです。

        ☆      ☆     ☆

私が心底人を好きになった体験は、すごくおそい。33才の時です。

23才の終わりに結婚して10年。私は遊ぶことが下手で、男性と親しく話すことも

できないまま、家事と仕事と子育てに追われていました。

33才の時、夫が転勤で金沢に戻ることになったので、病院をあげて送別会が

ありました。ほとんどの方が出席してくれた中で、一番の仕事仲間であったA医師が

、出席しません。「なぜだろう。一番の仕事仲間だったのに」とちょっと不満でした。

7年もの間、ふたりきりで話したこともない程度の間柄ですから、まあそれも 

仕方ないか。でも失礼しちゃうわ(その時には自分の気持ち「好きという」

にも気づいていない)

と、送別会が終わるころでした。やっと仏頂面であらわれたA先生。「二次会は

どこにしようか」みんなで外に出て、まだ寒い3月。青森の3月はまだ寒くて、

みんなで外で待ちながらちょっと震えていたときです。

「ふたりだけで逃げよう」と突然A先生。びっくりした私はなぜか咄嗟に応じたんです。

みんなが仰天する中、ふたりで暗闇の中に消えてしまいました。

行った先は、弘前大学医学部の屋上。おんぶして奥上まで上がってくれました。

星がものすごくきれいでした。

「好きだった。別れが辛くて、送別会に出れなかった」と言われました。

あれ?これって 三文恋愛小説みたいですか。表現力がないと、どう見ても

三文小説ですね。小説家にはなれそうもないな。

ふたりでしっかり抱きあって星を見ながら朝まで語りあいました。朝になっても

帰ってこない私を母がとても心配し、病院に電話をしたので病院中で大騒ぎになった

んですけどね。母は引っ越しの手伝いに来ていたのですが、とんでもない、娘が

行方不明になるなんて。

でも「夢見る少女」は、そんなことに頓着しません。

それから一週間もしないうちに金沢に戻った私は、まさに「冬ソナ状態」に陥って

しまったというわけです。会うことはおろか、当時は携帯電話がありませんからね。

枕を涙で濡らすこと半年。これだけ涙があるか、というくらい毎晩泣けてきました。

それでも私の「冬ソナ体験」は、半年で終わりを告げました。が、その体験が私を

根本から変えることになりました。

「人を死ぬほど好きになる」

結婚の時って、だれもが普通は恋愛ってことになっているけど、やっぱり条件が

入っています。しあわせにしてもらえるかどうか、親が賛成するかどうか。

自分のプライドを満たせる相手かどうか。子供を産んでもらえる年齢かどうか。

これって恋愛じゃない! はっきりわかりました。

だから純粋の恋愛をしないまま、たいていの人は結婚して一生を終えるんですね。

人を死ぬほど好きになった体験がない人が、「冬ソナ」にはまる気持ちがわかります。

その体験がある人ははまる必要がありません。恋愛そのものを馬鹿にしている人も

はまらないかもしれないけれど。

いずれにしても、目からウロコがいっぺんに数枚、いや それ以上落ちてしまった私。

個人的にはさておき、精神科医としてはこれ以上の貴重な体験は他にはなかった、

と断言できます。

恋愛をしている自分の、なんとばかばかしくおろかなこと!

こんなにおろかな人間だったとは! とつくづく自分を見てしまったんですから。

その後も、人を好きになりました。また死んでしまいたいくらいの手ひどい失恋も

経験しました。何回も男の人を好きになり、何回もばかな自分に出会い、そして

なおかつ結ばれませんでした。

でもこれらの体験がなかったら 今の私は、今以上に半人前だったと思います。

本当に賢い人にとってはそんな経験、不要かもしれない。

だけど、頭でっかちで感受性の乏しい私にとっては、「自分で体験してつくづく感じる」

ということが大切で必要なことだったんだと思います。
        ☆   ☆   ☆

A先生とは会うことはほとんどありませんが、たまに気まぐれに携帯メールを入れます。

「HP見てる?」って聞いたら「見てない」って。

「先生のこと HPに書いていい?」って聞いたら「いいよ」

「子供たちには言えないけど、孫ができる年ごろになったら みんなに公表しよう。

一緒に開業するのもいいね」

そう固く約束したのでしたが、孫ができる年ごろにはなったけど 別々の人生を歩んで

しまいました。

お互い、道は違ったけど しあわせになろうよ。

人は 忘れ難いほどの大切な体験からも、忘れてしまいたいほどの辛い体験からも

同じくらい貴重なものを得て、成長していくと思います。

        ☆      ☆     ☆

この上の文章は、平成14年から18年くらいの間に、私のHPに載せていた

文章です。今読んでもさしさわりがないのでそのまま載せました。

私が恥も外聞もなくヒストリーを載せるようになったのは、今 ヘルスコーチ

ジャパンで活躍しておられる最上さんという方が、ご自分のHPに なぜ

薬剤師からコーチになったかについて書かれており、とても新鮮だったこと。

辛い離婚を経験して、かっこつけきれなくなったこと。

それで平成14年ごろに、医師になったいきさつ、離婚のいきさつ、子育ての

ことなどを載せ始めたのです。今書いているヒストリーも、その時書いたものを

参考にしています。

そういえば平成10年に出した本にも書いています。今回のヒストリー原稿は

すべて平成10年に書いたものの二番煎じです、今回は最後まで

書きたいものです。

自分のヒストリーを時代の様子を含めて書くことの大事さを 歴史家の

色川大吉さんが述べて実行されています。

先日、久しぶりで講演でやってきたA先生と出会いました。

「一緒にクリニック開こうよ、って約束したこと覚えてる?」

「ぜんぜん覚えていない」と言われました。「ああ、そう」

でも今でも仲良しです。

男性のほうがロマンチストであるとよく言われますが、私は相当のロマンチストで

あるようです。

自分らしく生きる21 自律神経を意識して生きる

肺がんがだいぶ進んでいて、やつれきった感じのHさんは、50才代の終わり。

ここ3年近く私の心療内科外来に通っておられれます。だんだん歩くのもおっくうとなり

車椅子を奥さんが押しています。最初のころは不安が強く、不安障害の治療をしてい

ました。その後軽いうつ状態になり、現在はそれらの病気は良くなっているのだけれど、

「元気が出ない」「疲れやすい」「だるくてだるくて仕方がない」という訴えます。

食欲はあるし、何を食べても美味しい。だけど太っていかないし元気が出ないのは

変だ、とおっしゃいます。

「何を食べても美味しいだなんて、最高じゃないでしょうか」と話すと腹立たしそうに

こう言いました。「周囲の者も、どの医者もそればかり言うのです。そういう発言はもう聞き

あきてしまいました。何か自分に効くアドバイスをほしいんです」と言うのです。

困りました。でもやつれきった患者さんの顔を見ていると、こちらまで憂うつになって

しまいそうです。

「うーん、困りましたねぇ。あなたが今、お持ちの病気を考えると、元気元気というわけ

にはいかないでしょうね。でも肺がんがとても進行しているわけではないと内科医からは

お聞きしています。なので、あなたがそこまでしんどい、だるいとおっしゃるからには、

肺がん以外の原因もあるのではないでしょうか。」

患者さんはうなずきながら「癌の心配をしているわけではないのです」とおっしゃいます。

奥さんが口をはさみました。「昨日は、元同僚だった友人が見舞いに来てくれたんです。

その時にはけっこう生き生きとしていました。今日は別人のようにやつれています」

私「昨日はさぞかし楽しかったのでしょうね。わかります。でも人に会うということは

エネルギーを使いますから、今日はその疲れでしょう。でも、そこにヒントがありますよ」

患者さん「どういうことですか」

私「張り合いがあれば元気になれる。でも張り合いは疲れのもとでもある。そのふたつの

ことが示唆されます」

患者さん「じゃあどうすればいいんですか」

私「だるい、しんどいとい気持ちは、交感神経の中の副交感神経が優位になりすぎて

いる状態だと思います。わたしたちでも休日になると、疲れがどっとでてだるいです。

ところが月曜日になると不思議にシャキッとします。休日は副交感神経優位に、

月曜から金曜は交感神経優位になっているんだと思います。

人間にはリズムが必要なんです、理想的には週単位でなく、一日の中のリズムが

とれていることがよりりベターだと思います。

あなたは長い闘病生活でからだをいたわってばかりいるから、副交感神経ばかりが

常時働いている状態です。シャキッとする時間がもっと必要だということです。

何かしておきたいこと、したかったことってないんですか」

車椅子でやっと病院にやってきたその患者さんは「手もふるえるし、字を書く元気も

ありません。何もできません。こんなに悪い状態で何をしろと言うのですか」

理屈はわかってくれたけれど、さて何をするかという段になると食いさがってくる。

「何も出来ないですか。でも弱弱しいながら、声が出てるじゃないですか。

唄うことなら出来ないですか。呼吸も整のうし、緊張もするし、楽しい気分にもなりますよ」

そう言って私は先日の病院クリスマス会で職員が歌った「365日のマーチ」というのを

唄ってみせたました。けっこう楽しい歌なのです。

患者さんは驚いたような顔をして聞いていました。でも看護師さんも奥さんも笑います。

楽しい雰囲気に一瞬だけなりました。

「童謡でもいいんですよ。知ってる歌の歌詞を用意してあげて、ふたりで唄って

くださいよ。やれピアノだ、ギターだといっても、病気になったらおしまいです。

でも声という楽器だけは死ぬまで使用可能です。それもできなくなったら隣で家族が

唄ってあげるだけでもいいんです。それに唄うと呼吸が整のうので自然に

自律神経が安定するんです。私なんか車に乗ったらひとりで鼻歌を歌うことに

しているんですよ。すべてはふだんからの健康維持の訓練です」

「病気にばかり気持ちがとらわれちゃあだめです。他のことに気持をまわして緊張する

時間を持ったり、楽しい時間を無理にでも作ってください」

患者さんも奥さんも納得はしてくれました。

実行してくれるかどうかは、わかりませんがね。

交感神経が優位になり過ぎるとストレス性の病気になります。副交感神経が優位に

なって楽でだらけた生き方をしていても、十分病気になれます。

しんどい、だるいと思ったらいくらでも、そうなれます。

私などは本来なまけ者で、出来ることならからだを動かしたくないほうです。

仕事をしているからいいようなものの、仕事がなかったら、なんだかだと理由を

つけて、だらだらと本など読むだけで暮してしまいそうです。

今は交感神経を使っている時間、今は副交感神経の時間、という風にめりはりのある

暮らしは身体的にも精神的にも健康の大元。病気になっていないからいい、という

ものでもはありません。、いつか老化がきて、あるいは病気になって人は死にます。

そのとき周囲の愛する者たちを苦しめないためにも、若いころから習慣づくりをこころ

がけておくことが必要だと思います。

念のために言うと、交感神経は熱い風呂に入る、冷たい風にあたる。緊張して働くなど。

副交感神経は、食べる、ぬるい風呂にだらだらと入る。ごろごろとする。

「食べる」ことは副交感神経が働いていないと出来ないことなので、さきほどの患者さんが

「とても美味しく食べることができます」と言われたことと合致しているかもしれない。

わたしなども緊張をやわらげるために食べることがあります。

☆     ☆     ☆

この話を医局にいた女性の内科医に話してみました。

「うーん。唄うっていうの、実行してくれるかどうか知りたいな。でもそうやって自律

神経を意識して生きるってやってなかった。意識して生きるというだけでも、すごく

人生に効くかもしれない。おもしろい話を聞いたわ」と言ってくれました。

わたし自身は、12月からずっとブログを書いていて今日はもう元気なし。

でも「休むことのできない悪い性格」なのでがんばってしまいました。

人に言うことだけは立派なんですがね。また雪が降り積もりそうな寒さです。

自分らしく生きる20 ヒストリー5 自分のリスクで行動する

イチゴのかわいいお手て!

☆     ☆    ☆

今日の新聞に「自分で考えて、自分のリスクで行動する。それが今の日本人に

求められていると思う」とネット時代における日本再生論として、グーグル

日本法人の前社長だった辻野さんが書いています。それを読んで、はるか

若かりし頃からすでにそうやって生きていた自分を思いだし、医者になりたての

頃のこと書いてみようという気になりました。

24歳で卒業したときには、すでに結婚していて男の子がひとりいました。

研究室の助手だった夫が弘前の大学に転勤するというので、ついていきました。

青森県弘前市。大雪の年には家の二階あたりに道路があって、そこを自動車が

通る、そんな雪深い街です。引っ越して一週間目で、子供を近所のおばあさんに

預け、自転車に乗って、仕事を探しに出かけました。医局に入局しないばかりか、

誰の紹介も受けずに仕事をさがした医者など、今も昔も日本中さがしても

いないのではないかと思います。医者は古い体質の世界なので、医局に入局しない、

ということも考えられないし、自分で病院を見てまわって決めるということも考えられない

世界です。でも、大学病院はその体質の古さに自分がなじまない、自分の良いところが

殺されてしまう、と考えたこと。大学で研究と臨床に携わっている医師から学ぶことが

必須だとは思えなかったこと。

でも、何が一番いやだったか。今書いていて思い出しました。

自分が命かけて、また大事な子供を人に預けてまで働く職場を、教授や医局長の

鶴の一声で決められる、ということに納得できませんでした。

精神科医は当時は殺されることもある職業でした。それを誰かの命令で駒のように

動かされるということは、ぜったいに納得のできないことでした。

私は自分の職場くらいは自分できめたい。勝手に変えられず、そこでずっと働きたい。

そう思ったことを走馬灯のように思いだしました。気持は今も同じです。

とにかく早く現場に出て実地から学びたい。師となる先生は、範囲を「日本国中」に

広げてさがせばいい。そう考えたのです。

病院の選び方も変わっています。院長や事務長には会いません。ふらりと訪れ

ケースワーカーやコーメディカル スタッフに面会を求めました。「下の立場の人が

生き生きと働いている」それが私の基準です。院長や事務長はいいことばかり言う

だろうし、実態は知らないのではないか、そう思って。「患者さんが生き生きしている」

それが一番の基準だと良かったのですが、当時の精神病院では、それは望めません

でした。

市内の病院を4つほど回ったあと 決めたのは、生活協同組合の病院でした。

今でもそうですが、常識にはとらわれません。自分の考え、自分の勘をもっとも

大事にします。そうやって生きていくと勘もどんどん鋭くなります。辻野さん言うところの

「自分で考え、自分のリスクで行動する」ということをすでに40年前からやっていた

自分を誇りに思います。ただ成功より失敗のリスクをとることのほうが多かった

私の人生ですが、この病院に決めたことは人生最大の成功でした。

その後40年間、この病院以上の職場は今もまだありません。

でも、自転車に乗ってやってきてケースワーカーに面会を求めた若い女性だった私。

田舎くさいけど、今よりずっとかわいかったと思うよ。何者だろう。患者さんかな、

違うな。家族かな。違うな。患者さんのヘンな家族かも。そう評判になった当時のこと

は病院では長年語り草になっていたそうです。その病院で、わたしの仕事人生も

私生活もドラマチックに開幕しました。わたし24才、子ども生後半年の秋でした。

自分で考え、自分のリスクで行動する私のやり方は、それ後もどんどん過激になって

いきます。過激すぎて、後に「大阪で開業する」といったときには、85歳を越えていた

父から「もうお前の考えにはついていけない。私に聞かせないで勝手にやってくれ」と

言われました。でも私がその時出した本(最近、電子出版になった)をひそかに読んで

くれていて、母には「あれだけ書けるのなら大阪でもどこでもやっていける」と話して

いたそうです。頑固だった父の愛情を感じます。母も最後まであきれていましたが、

開業したばかりの大阪を離れ、また山梨の人と再婚すると言ったときには、

あっけないほど何も言いませんでした。「遠くなるけどごめんね」と言ったら

「好きなようにしたらいい。私らはふたりで生きていくから大丈夫」と言ってくれました。

でも「あんなに田舎は嫌いと言い続けたあなたが、最後には生まれた所よりもっと

不便な田舎を選んだんやね」と言われました。私は何ひとつ親や夫にも相談せずに

自分で決めて生きてきましたが、要所要所で親に言われた言葉はよく覚えています。

今日来た68歳くらいの女性患者さんが「40歳になる子供のことで心配があります。

親は死ぬまで子供を心配するのだなあ、と自分の親のことに初めて思い至りました」

と話していました。その年齢にならないとわからないことのほうが多いのですね。

また、私が何回も飛べたのは、人生の先輩の話をわが事のように聞く機会が

たくさんあったからだと思います。

人の経験を聞くということは、自分があたかも経験したのと同じ効果をもたらします。

私の話はぜひ若い人に読んでほしい、一歩踏みだす勇気をだしてもらえたら

いいなと思っています。

「自立」についた考えたこと

私の外来には、ご主人を突然亡くされた方がうつ病になって通院されるという

ケースが多い。もう20年も前のことだが、そのうちの一人の女性は、嘆くばかりで

何年も前に進むことができなかった。喧嘩などしたこともない仲良し夫婦だった

という。あまりにも前に進めないその患者さんを見て私は「夫婦仲が良い」とはどう

いうことだろう、と考えこむようになった。

夫婦仲が良く、意見が一致しすぎる両親のもとで育った子供にたまに問題が出る

ことは前著で書いた。では仲良し夫婦にはどんな問題が内包されているのだろう。

人間にはひとりひとり「自己」と「自我」があって、ひとりの人間の中の「自己」と「自我」

さえ喧嘩をする。たとえば意気地なしでメソメソしていると、もうひとりの自分が、

そのメソメソしている様子をはがゆく見ているのがよくわかる。

でもどうしようも出来ないのだ。それを「自分の中で葛藤する」という。

自分の中でさえ葛藤がおきるのに、自己と自我の違うふたりの人間が、家や暮らし

という狭い空間に長期間閉じこめられるわけだから、たとえ仲良しの夫婦であっても

喧嘩しないほうが不自然だ。

あんなに可愛いかった子供でさえ、子供が自我に目ざめると、親子の間で葛藤が

おきる。そしていずれ子供は親から離れていかざるを得なくなる。

「仲が良い」ということは一般に良いこととされている。しかし精神医学的に見ると、

かならずしも良いことばかりではないことがわかる。片方が我慢することで自我を押し

殺している、あるいはひとつの自我が他の自我にとりこまれたまま、無意識に葛藤を

さけている。お互いに「仲良し」を装って利用しあっているだけという場合もあるかも

しれない。そういう事態は人間のこころの成長という観点から見た場合には

かならずしも良いことではない。

じゃあどうすればいいの?ということになる。

喧嘩をして仲たがいして、また考えを変えて歩み寄る、という繰り返しは大変

エネルギーのいることだ。私などもできたら避けたいと思う「我慢タイプ」である。

また「ひとりで生きるレッスン」をするのも一筋縄ではいかない。

ただ私の問題提起を、私自身も含め、それぞれの事情に合わせて考えてみると

いうだけでも、成長や変化のきっかけになるかもしれない。

どんなに強い夫婦の愛もいずれは終わるときがくる。

どんなにかわいい子供でも、いずれは親から離れるべきときがくる。

家族や仕事に依存することも時には必要だが、依存しきったり、甘えきることは

良くない。

ほんの半日だけでも「この世にたったひとりで放りだされた孤独な自分」を想定

してみる。そうやって自分ひとりの精神的時間を持つことの積み重ねこそ大事

かな、と今の私は考えている。

家族や仕事関係だけで世界を完結させず、孤独な者同士がつながっていく意味

もそこにこそあると思う。

「涙は女の武器」は本当か?

レモンが誰かに抱きついた、なんて本当に初めてでした。

本当に、本当に、驚きました。

☆     ☆     ☆

「涙は女の武器だ」は本当か?

診察室で長い時間黙りこくり心を閉ざしたままだった女性の患者さん。精神科医が一言発した

だけで、突然、せきを切ったように泣きだした。という文章を読んだのはもう40年も前のことです。

尊敬する大先輩の本でした。患者さんのほとんどが統合失調症だった時代のこと。この病気は

患者さんが心を閉ざし、拒絶してしまうとどうしていいかわからなくなることもありました。

それから20年が経過したころ。ごく普通の社会生活を送っている神経症圏の患者さんが

見えるようになりました。そのころから名医ではない私の前でも泣く女性患者さんが激増する

ようになりました。

診察室にはティッシュ ペーパーの箱が必需品で、一週間で一箱がなくなることもある

のです。それくらい女性の患者さんは診察室で泣きます。

ところが泣いたあと、受けつけで処方箋をもらう時の患者さんは、来院されたときとはうって

変わって明るい表情であるらしいのです。わたしが何か魔法でも使ったかと看護師さんたちが

疑うほどです。

ひょっとして、もしかして、すごい名医?

と彼女たちが誤解することもあります。

名医じゃない。何もしてない。泣かしてなんかいない。

話しているうちにひとりでに泣いてしまうのです。

私も長い職業生活の中で、男性医師たちを前にして泣いたことが1、2度あります。

結婚生活の中でも、思わず泣くことがあります。女性は辛い気持を長い間おしこめていたりすると

泣けるのです。パソコンに手をやき困りはてる事が多かったころのこと。その日も不調となり、

専門家をたのんで深夜に及ぶ作業でも回復しなかった時の泣き方はすごかったです。

パソコンは誰か助っ人でも近くにいないかぎり、いったん不調になるとお手あげになります。

ふだんから困ることが多く、それが長期間根強く巣くっていたのでしょう。床に身を投げだして

おいおい泣いているうちに、涙が枯れていくのがわかりました。そして、泣き終わったころには、

なぜかスカッとするのです。涙にはこころを浄化する作用があります。

簡単には泣けない男性にくらべると、女性が泣けることは悪いことではありません。

いえいえ、たしかに「涙は女の武器である」ということにしておきましょう。