リビングの窓から見える夕焼け
仕事から帰って、夕食作って、食べて、プールで1キロ泳いで。
ピアノのレッスンして、ブログ書いて。
友だちの家で電気ごたつを見て「ほしい!買う!」と思ったけど
夫から「買ってもいいけど、いつそこに座るの」と言われてしまいました。
たしかに座る時間、ないなあ。
☆ ☆ ☆
金沢で1人、弘前で3人の子供を出産し、29才にして4人の子供に恵まれて
いました。4才を頭にして4人。えっと4才、3才、1才、0才。まるで戦争状態です。
よくある話ですが、私自身の兄弟は弟がひとり。その弟とも疎遠になっていたので、
きょうだいというものに憧れたのです。
また、仕事を続けながら子育てするためには、「きょうだい力」を利用しない手は
ない、と考えた結果です。兄弟同士で遊べるのはすごく大事だし、親はいずれ死んで
しまうから、なんてことを考えていました。
保育園のある病院でしたので、産後2ケ月から保育園に預けて仕事を続けました。
子供というのはしゅっちゅう病気をします。でも医者は休めない仕事です。そのため
に、子供の病気専用の家政婦さんをたのんでいて、家事もついでに手伝ってもらいました。
また 姑さんや実家の母も寝台車「日本海」や「白鳥」に乗って12時間もかけて、
子供の病気の世話に来てくれました。本当に今 思い出すだけでもたくさんの方たち
の助けを借りました。私が働いていたせいで、子供たちもたくさんの人に可愛がられて
育ちました。
私も子供たちも甘え上手だったかな、と思います。できないことは人の手を借りるのが
一番ですね。
よく助けに来てくれた姑さんと母ですが、事あるごとに仕事をやめろと言いました。
「あなたは自分のしたいことを優先している。子育てのほうが大事」というのが理由です。
私にとってはあたり前の仕事でも、ふたりにとって医者を続けることは「自己実現を優先
している。わがままだ」という理由です。「じゃあ、私が煙突掃除婦だったらよかったわけ?
おしゃれして出かけないで顔をすすだらけにして帰ってきたら、よかったわけ?
それだったら家のために自分を犠牲にして働いていることになるから働いてもいいわけ?
自分を犠牲にして働かないと、女性は働いてはいけないわけ?」何回も泣いて
抗議しました。反対されるという理由でやめようと思ったことはありませんが、親の気持ちは
今だったらすなおにわかります。
もしも「仕事はね。いつからだって出来る。60才70才になっても働けるのよ。でも
子育ての数年間はもう二度と来ない。よく考えて決めなさい」こんな風に言われたら
きっともっとよく考えたと思います。
それでも一度だけ、仕事を続けるかどうか考えこんだことがあります。上の子が2才、
二番目が1才のころです。病気になって入院したり、保育園に行くのをとても嫌がった
りして大変な一時期がありました。
保育園に預けて別れる時、あまりにも泣き叫ぶのです。保育園の玄関からみんなで
入って、裏から自分だけ忍者のように抜けるという日々に疑問を感じました。
しばらく仕事、やめようかな、と思いました。結果は、子供よりも仕事を選んだのです。
けれど、裏から逃げるのではなく、しっかり子供の目を見て、わかってもわからなくても
説明したらよかった、と今になって思います。いつも周囲から反対されていたので
子育てに自信がなかったと思います。こんなにたくさんの反対をおしきって仕事して、
ちゃんと育っていかなかったらどうしよう、という不安感が払拭されるまでに
20年くらいかかっています。いつも不安でいっぱいでした。もうちょっと自信を持って
育てたかったと思います。人間はみな性格が違います。この娘(嫁)は仕事をやめる
タイプじゃない。そう読んだら覚悟を決めて「親がなくても子は育つというくらい
だから大丈夫。子どもも親の背中を見てしっかりした子になるわよ」くらいにアドバイス
してほしかったなと思います。当時は珍しかった「精神科医」という仕事からくる精神的
重圧が大きく、こんなに意地はって仕事を優先して、もし子供に何かあったらどうしよう
という気持ちがありました。人から相談受けている人だから失敗は許されない、みたいな。
でも誰よりも失敗が許されないと思っていた私が皮肉にも、どんな人より人生でつぎつぎと
失敗を重ねていったのですから笑えてしまいます。
仕事をやめないかわり自分で理由を作りました。「子供を犠牲(そう感じたのです)にして
までする仕事だから、ぜったいいい加減な仕事はしない」という理由です。
仕事を続けるためには、理由が必要だったのかな。
でも子供はかわいかったです。
子供が思春期になって父親に反抗するまでの10年、夫婦の問題は完璧に棚上げ
できてしまいました。それほど子供がかわいい、夫婦より子供と思って育てていました。
あとで手ひどいしっぺ返しをくらうとは夢にも思わず。
接する時間も少なかったせいか、しかることもなかったです。
私は、女性だから男性だからというのでなく、仕事をすることがあたり前の普通のことだと
思って育った初めての世代です。
また、仕事を持っていても、子供を育てたり、家事をしたりすることもまた、誰にとっても
普通だと考えていました。
特に精神科の、いいえ、精神科だけでないと思います。医療って暮らしの中に
含まれるものだと思います。
人間の暮らしの中で病気が起因したり、治ったり治したりするのです。医学的知識は
必要です。でも病気だけじゃなく暮らしそのものを見ていかないと本当の治療には
ならないと思う。
私は誰に習ったというわけではないのに、医師になった当時から自然にそう考えて
いました。多分、医者の家で育ったわけではなく、お金持ちでもなく、ごく普通の平凡な
田舎で育った生育環境からきたことやまた自分の感性もあると思います。
どんなものを食べているの? それはどうやって料理しているの? 毎月どれくらいの
お金で暮らしてる?そんな会話も治療のうちです。
わたし自身、どんなに仕事が忙しくても自分の食べるものは自分で作りたい。家事は
下手だけど自分の身のまわりくらい自分でしたい。
子育てで大事にしたこと。それは夕食だけは、きちんと手をかけたことです。家事も
子育てもかなりいい加減な私でしたが、夕食を作ることだけは、手抜きをしませんでした。
その理由は、食事を作るという行為は、欠かせない家事であって同時に心を育てる。
その一石二鳥さがいいと思ったからです。忙しい暮らしを切りぬけるキーポイントは
食事だけは自分の手で作る、とうことです。そのかわり掃除機のかけ方はいまだに
よく知らないのです。アイロンなんて一生かけたことないです。針箱なんて家にあったか
なあ。そんな世間知らずの生き方。自分であきれています。
もうひとつ大事にしたことがあります。お金です。医師の給料って世間一般より高いです。
でもそれにみあった暮らしはしません。なぜなら患者さんたちの暮らしとかけ離れて
しまうとだめです。また自分の子供たちが将来、医師になるとはかぎりません。
親の恩恵を受けて暮らしが良くても、ずっと一生良い暮らしができるとはかぎりません。
だから生活費は、世間の普通のサラリーマンの平均額で家族6人の生計をやりくり
しました。普通は医者のおうちってけっこう贅沢な暮らし。私からしたらとんでもないです。
子供たちの洋服は全員、お下がりでした。夫の母が洋裁の得意な人でしたので、
ズボンやくつ下には何回もツギをあててくれました。その当時でも、そんな子供は
少なかったように覚えています。長女の赤いTシャツを着た三男が、はずかしそうに
うれしそうにしていた顔が思い浮かびます。
とにかく、からだを使って働ける子に。からだを動かして働くことを嫌がらない子に。
両親が医者だったらお子さんもお医者? よく聞かれるんですがそんな風に
聞くひとを軽蔑してしまいます。
長男は三浪のあげく専門学校にしましたし、長女は内申書が悪いために高校に
入れず、二次募集でやっと入った高校を非行で退学させられ、うつ病になったので
通信制高校にして、それからアメリカの大学に入りました。次男は高校一年でさっさと
中退してしまい、三男は大学の生物工学科を出たとたん、ヘルパーがいい、といって
介護職につきました。
みんなそれぞれ。でも全員わたしの誇りの子供たちです。
家事や育児と仕事とは車の両輪。どちらが欠けても、わたしの人生はまわっていかない。
暮らしは自分の手で整える。そして普通のつつましい暮らしをする。これはわたしが
もっとも大事にしてきたこと、今現在も大事にしていることです。
ちょっと立派に聞こえますか。
でもそういう持論で暮らしていること、また地味で地道な子育てをしたことだけは確かです。
私の子育て、これで良かったんだ、としっかり思えたのは、あれから30数年経た
最近です。自分の子供たちが子育てをしているのを見て「しっかり子育てしている。
私の子育て、間違っていなかった」とはじめて思えました。それを子供に言ったら
「よく言うわね。反面教師やってるだけよ」と言われて、おしまい。子供って親に
批判的なんですね。
けれど、私の持論では、反面教師になれる親というのも、なかなかいいんですよ。
わかりやすくて。中途半端に「いい親」をやるよりよほどいいと思うけど。
子供って親以上にはなれない。親以下にもならない。今、両親を亡くしてみて
そう思うのです。私もあれだけ親を批判ばかりしていましたが、親以上にはなれて
いません。親以下にならないようにするのに必死です。
親が亡くなってしまうとよくわかると思いますよ。
亡くしてみてつくづくそう思うのですから。
でも親以下にもならないような気がして安心しています。