しあわせ論(56)心を鍛えて癖をなおそう

前回、「⼼の癖」について書いたところ、読者の⽅から「そ の⾒つけ⽅を教えてほしい」というお声をいただいた。

そこで それを書いてみたいと思ったが、これがなかなか難しい。⾃分 でわかるものではない。また、周りの⼈には⾒えるとか、精神 科医だったらわかるとか、そんなものでもない。  そこでちょっと遠回りになるかもしれないが、⼈間の性格を ⻑所と短所と⼼の癖、という三つの観点から考えてみたい。

ま ず⻑所から。意外かもしれないが、⼈は⾃分の⻑所には気づき にくい。なぜなら「何の苦もなく当たり前にできること」が、 その⼈にとっての⻑所となるので、当たり前過ぎて気づきにく く、⼈にほめられたりして⾃覚することが多い。

⼀⽅、⾃分の「できないこと」や「不得意なこと」は苦痛を伴い、⾃分でも強く意識する ので、⾃分の⽋点はよく⾒えるのだ。⼈間が「⾃信」より「⾃信喪失」の⽅をより感じやす いのは、そういうこととも関連する。

では、⼼の癖はどうか。その答えは、先⽇の⼭梨⽇⽇新聞の「体幹鍛えて良い姿勢」とい う記事が、ヒントになった。

「姿勢を良くしようと意識しても姿勢は良くならない。若い頃 から、そして普段から姿勢を維持する筋⾁を鍛え続けて初めて姿勢が良くなる」というもの だった。

⽬からウロコとはこのことだ。

⼼の癖も同じ。わかったところで、直そうと思ったところ で直るものではない。筋⾁を鍛えるように、⼼を鍛え続ける。普段から⼼を柔軟にする訓練 を⾏うことこそ⼤事なのだ。

どうやって鍛えるかというと、⼈の中で困難に出合ってもまれることである。それも「離 れたくても簡単には離れられない⼈間関係の中で」とつけ加えよう。

夫婦であるとか親⼦。 あるいは上司と部下といった⼀緒に働く同僚たち。そういう離れられない関係の中で、⼈は ゲームのように同じようなけんかや嫌な思いをしがちだ。

お⾦がいっぱいあるから働かなくていいよ、気ままで⾃由なひとり暮らしをしていいよ、 と⾔われてみたい気はする。しかしそれでは⼼が成⻑できない。

⼈は離れられない⼈間関 係、例えば結婚、例えば⼦育て、例えばきょうだい、例えば会社などでもまれ、⼼を鍛え続 けていかないと成⻑できないのだ。

それはまた家庭を持ったり、働いたりする意味でもある。苦労はあるが「そうか。こうや ってお給料までいただいて、鍛えていただいて。⼆重にお得」と気をとりなおす⽇もあって いい。

というわけで、今回は、年とってから⼼に悪い癖がつかないように、若い頃から⼈間 関係の中でもまれることをいとわずにやりましょう、というお話でした。もちろん、お年寄 りになってももまれていた⽅がいいですよ。

しあわせ論(55)心の生活習慣病

 

このごろ、⼈⽣の荒波をたくましく乗り越えてきたはずの7 0歳前後の⽅の受診が増えている。その年齢ともなれば認知症 では︖と思われるかもしれないが、必ずしもそうではない。で も何かしらの精神的変調に陥っているのだ。私はこういう⽅た ちを「⼼の⽣活習慣病」とひそかに名づけている。⻑い間の⼼ の癖が根底にあり、それに⽼化や病気や喪失体験などが加わる と、精神的にもまいってしまうのだ。

先⽇も75歳の男性が、めまいとふらつきを主訴に来院され た。いろいろ受診したが悪いところはないと⾔われ、最後に当 院を紹介された。めまいとふらつきは安定剤で軽くなったもの の、根本的には良くならず、だんだんイライラ感や暴⾔が増え ていった。妻も同居する息⼦夫婦もどう対応したらいいかわからず困り果てていた。⻑い年 ⽉に家族関係も固定化しているのだろうと思えた。

家族に昔からのエピソードなどを聞いてみた。「そういえば65歳の頃、⾼額な農機具を 勝⼿に買ったことがありました。⾔い出したら聞かないんです」と⾔う。55歳ごろのご主 ⼈は︖と聞いてみた。「会社員をしていましたが合わないと⾔って辞め、農業を専業にしま した」。40歳は︖30歳は︖とさかのぼっても「とても神経質で、⾝体の不調を気にする あまり救急⾞を呼ぶこともありました」「頑固で妻の私の⾔うことなど聞きません」と続 く。  やはり若い頃から⼼の癖はあったようだ。

めまいやふらつきなどの体調不良が引き⾦とな り、さらに⽼化で頭が固くなって融通が利かなくなっている。気持ちを切り替えるにも無理 があるのだろう。

「なくて七癖」ということわざがあるが、⽋点のない⼈などいない。だから⻑寿社会を迎 えた現代では、⼼の⽣活習慣病はほとんどすべての⼈に多かれ少なかれ起きうる。

ではどう考えたらいいか。

今現在の⾷べ物や運動不⾜で将来、⽣活習慣病が起きるよう に、現在の⽣き⽅、対⼈関係や考え⽅の癖、環境の変化に対する適応⼒などから、10年後 20年後の脳や精神の状態はある程度予測できる。今若い⼈も若いからといって決して安⼼ はできない。

私の⾝にもいろいろなことが起きる。原稿を書いて送ろうとしたらパソコンが壊れた。夫 婦げんかもあった。勘弁してほしいと思い「ああ、もうパソコンを使う⽣活から離れたい」 とこぼした。

夫いわく「それくらいの苦労はあったほうがあなたのためだよ」。「パソコン に⼿こずり、夫が⾃分の思うように動いてくれないといって⼿こずり。思うようにならない ことがあるからこそ頭も気も使い⼯夫するのでしょう。何もなかったら頭が固くなる」と⾔ われてしまった。

たしかに︕

私もいまだに⾃分と戦っているのである。

連載コラム(54)気分が落ち込んだ時に考えること

 

健康な人でも、時には落ちこむ。重苦しい気分になったり、憂うつになることは誰にでも起きる。そんな時に役立つ話をしてみたい。

大事なことは「その気分にはかならず原因がある」ということだ。その中で多いのが人間関係である。

自分以外の他者ほど自分を脅かす存在はないように思う。なかでも最強の相手は家族だろうか。その誰かとうまくいかなかったり、心配事が絶えないなら落ち込むのも当然だろう。

そんな時、あまり責任を感じ過ぎず、少しその家族から距離を置くことも必要だ。

逆に失って初めて、ということのないように、その家族がいかに自分にとって大切な存在であるかを知るきっかけにすると良い。

次いで多いのが、家族以外の人間関係である。誰しも「苦手な相手」や「苦手な状況」というのはあるものだが気がついていないことも多い。

 

A子さんは長く通院している私の患者さん。落ち込みやすい彼女と、原因を一緒に考えてみた。

彼女はパソコンやスマホが大好きだ。リアルな人間関係より、インターネットの中の人間関係のほうが煩わしくなくていいと言う。家にいることが好きで人見知りな性格の彼女にとって、インターネットの世界はのびのびと自分を解放できる場所らしい。しかしそこに落とし穴があることに案外気づいていなかった。

友達とラインでやり取りをしていると相手の反応が気がかりになる。返事が滞りがちになると、何か悪いことを言っただろうか。何か気を悪くさせただろうか。考えれば考えるほど気持ちが重くなり、落ち込むのだと言う。

関係を悪くしたくない。大切な人だと言う。

私は「じゃあ、こんな仮定はどう? その人を失ったらどれくらい困る?」彼女は考える。

「悲しいけど私の人生が変わるほどじゃない」

「じゃあ、しばらく切ってみる?」と提案した。

距離を置いたり、関係をいったん切ってみて困る相手など、そうそういないものだ。

彼女はパソコンやスマホをいったん手離すことに決めた。その世界にのめりこんでおり自分の気持ちがふりまわされていると気づいたのだ。落ち込みには必ず原因がある。

決してあなたが悪いわけじゃない。

落ち込んではじめて、自分の弱み、自分の苦手な状況に気づいたりする。逆に裏に隠されていた自分の願望に気づいた方もいる。そんなことに気づくいい機会である。

時には距離を置き、必要のないものを手放していこう。そうやって自分を幸せな気分にしてくれるものや関係だけが残っていくといいね。

私自身も落ち込みの原因を探ることを積み重ねる中で、自分が自然な形でしあわせなものに囲まれていく気がしている。

 

 

 

連載コラム(53)それぞれの旅に出よう

この夏、ある患者さんが旅に出た。

その女性は育児に困難を抱えて子どもたちを施設に預けていたため、喪失感と自責感で落ち込んでいた。ご主人との関係まで悪くなっていたが、彼が旅好きだったこともあり、また自分にも変化の必要性を感じて、二人で東北へ旅したらしい。

どうだった?と聞くと「二人の関係性を確認することがいくつかあった」と言う。「何年ぶりかで手をつないで歩いた」「手の暖かみを感じた」「お互いに相手が必要な人だと思えた」と話してくれた。思いきって旅に出て良かったね、と私も嬉しかった。

 

別の患者さんは、突然「東京の病院に変わるので紹介状を書いてほしい」と言われた。一年ほどしてまた戻ってこられた時には別人のようにさわやかな表情だった。

「あの時は家庭のことでにっちもさっちもいかなかったんです。東京の友人が手配してくれて、月に一回、信州から上京して東京の空気を吸って、診療を受けて帰ってきた。その日だけ別人になれたんです。それを続けているうちにふっきれました」と話してくれた。

患者さんたち皆、やってくれるなぁと思う。真剣に悩み、今までと違った行動に出ることで、違った視点が生まれるらしい。

 

私もこの夏、夫婦で北海道を旅した。

二人旅はここ数年の恒例だが、私にもきっかけがあった。

7年前のこと。夫の海友達がフィリピンの海辺に移住を決めて、我が家に挨拶に来ていた。彼が落ち着いたら夫も遊びに行くことになっていたが、私は仕事があって休めない。猫もいる。第一、海に潜ったり泳いだりに関心がない。男同士の会話を他人事のように聞きながら洗い物をしていたその時、彼が「奥さんも来れば?」と唐突に言った。

私はキョトンとし、行けない言い訳をいっぱいしたのだった。しかしかたくなに言い訳をしてみると、不思議と「私も行ってみようかな」と思う気持ちが出てきた。仕事のことも他のことも本気になればなんとかなる。なんとかしようと思って出来ないことは少ないと思えた。

 

とはいえ毎回、二人で旅に出るとハプニングの連続だ。まず私が大事なチケットをなくす。道順がわからなくなって迷う。お互いの体質の違いや、行きたい所ややりたいことで揉める…。

昨日までのパターン化された日常とはすべてが違うのだ。

役割も関係性も見直さざるを得ない。夫婦にとってこれ以上の脳活性法はないのではないか。

それ以来、年に一回の旅が自分たちの関係活性化と老化防止のために必要になった。

思いきって旅に出よう。環境を変えよう。

どんなちいさな旅でもいい。

いろんな旅があっていい、それぞれの旅に。

 

 

連載コラム(52)まずは聞いてあげよう

 

私の診察につく看護師さんから「先生は甘過ぎる」と言われることがある。患者さんの愚痴やわがままな訴えを延々と聞いている様子を見ると、「甘やかし過ぎ」に見えるらしい。

しかし、それが「甘やかすこと」にはならないと知ったのは、わが子の子育てを通じてだった。

子育てに悪戦苦闘していたある日、見知らぬおじさんが突然わが家を訪ねてきた。各家を回って子育ての啓蒙をしているという。いただいた手刷りのパンフレットを何気なく読んでいた私は、ある一点で目が止まった。

「子どもがお菓子をほしいと駄々をこねる。お母さんは、お菓子はさっき食べたばかりでしょ、とはねつける。すると子どもはますます駄々をこねる」と書いてあった。では、どうすればいいのか?

「お菓子がまたほしくなっちゃったのね。でもほら、お母さんは洗い物の最中でしょ。これがすんだらあげるね。それまで外で遊んでおいで。すると子どもは『はーい』とばかり外に飛び出していくよ。そのうちお菓子のことなどすっかり忘れているかも」とあった。

それを読んだ時、わが子はもとより、患者さんの無理難題の数々を思い出した。当時の入院患者さんの多くは長期の入院で「退院したい」が口癖だった。私は日々それができない理由を伝え、なんとか納得させようと疲れていた。

そうか、まずわかってあげればいいんだ。退院する、しないの話はそれからだ。

医師になって3年は経っていたと思う。その日のことは今も忘れない。

先日、新聞の投稿欄に似たような話が載っていた。

「入院している部屋に認知症のお年寄りがいる。夜になると『家に帰りたい』と興奮し大騒ぎになる。そこへ若い看護師さんがやってきた。看護師さんは優しく話を聞き、『そうね。じゃあ、帰りましょう』と靴をはかせ、車椅子に乗せて部屋から出ていった。そして30分もした頃、ふたりは帰ってきた。

患者さんは満足してベッドに入り、まもなく寝息を立てて眠ったようだった」。

私たちは子どももお年寄りも、そして働きざかりの人だって、みな「わかってほしい」と思っている。

それは誰もが持っているあたり前の気持ちで、決して甘えでもわがままでもない。

子育てや治療にかぎらず、受け入れ難い相手の言い分に悩まされることは多いだろう。

しかし考えが違っても自分の考えは脇に置き、まずは相手の話を聴き、その思いを受け止めてみよう。

こちらの気持ちや言い分は、その後で相手の目をしっかりと見ながら伝えよう。

「思いをわかってもらうこと」は、人間にとってそれだけ大切な生きる根幹を成すものだから。

 

 

 

 

 

 

 

連載コラム(51)家の中に社会の風を入れる

8月2日最新号です。

これも好きなコラムです。

最近、親族内での殺人事件が目につく。それが夫婦や親子の場合、テレビなどで近所の方が「仲の良いご家族でしたよ」とコメントしていることが多い。誰にも相談出来ずに胸に秘めていたり、あるいは仲の良い家族を演じていたのではないかと胸が痛む。

私自身は、夫婦や親子で悩んだ時できるだけ隠さず、相応しい人を見つけて話を聞いてもらう。家の恥かな、と思えるようなこともその相手には隠さない。夫はそれを「我が家の恥をさらす」と嫌うのだが、自分としては、家庭というものを閉ざされた場所にしたくない気持ちがある。そして何より話すことで客観的になれたり、心が穏やかになり、先に進めることが多い。

そもそも親子や夫婦は、もっとも心を許せる相手であると同時に、ドロドロした関係でもある。その両面を持っているのが肉親というものの宿命だ。だとすれば、いいことばかりではない。悪いことは何ひとつないと断言できるなら、それはよほど表面的で淋しい関係かもしれない。

診察室で「家族を殺そうかと思いました」などと患者さんが打ちあけても、私は驚きもお説教もしない。つまり、そういう気持ちを誰かにぶつけた時点で、そのドロドロ感はひとまず冷静になったと思うからだ。

「家の恥をさらすな」という気持ちもわかる。が、家族を殺したくなるくらいの家族関係を隠し通した結果の殺人事件は、心を開けるちいさな機会を逃し続けた結果である。ふだんから夫婦間の葛藤や子どもの心配事などを言葉に出し、助けを求めていたなら、と思わずにはいられない。

「娘の結婚が遅くて気がかりで」と口に出したところ、いい相手を紹介されて結婚した人がいる。「わが子のダダがひど過ぎて、私、母親失格だわ」と思いきって打ちあけたことで子育てが改善し、母親が子育てアドバイザーにまでなった人がいる。「うちの子、ひきこもりがちなの」と相談したのがきっかけで、私の診察に通うようになり、いまでは立派な社会人になったケースもある。

家族内にうずまく悩みは誰にでもあるもので、決して恥ずかしいことではない。

ここがポイント!

自分の弱さや家族の弱点をさらけ出すのは勇気がいる。しかし勇気と引き換えに、度胸が座る、客観的になれる。

そして何より家の中に新しい風が吹き始めるのがいいのだ。

最近、医療者も病院だけにこもらず、訪問などで積極的に外に出るようになった。家の中に社会の風が入っていくことで防げた少年事件や殺人事件は多いと思う。家という密室をいい形で社会につなげていこう。

 

連載コラム(50)人は誰でも課題をひとつ与えられて生まれてくる

 

 

 

私のフォトエッセイ集に「どんな人も、人生の課題をひとつ与えられて生まれてくる。こんな優しい花でさえ」という一節があります。

 

息子のことで相談したいと、思いつめた表情でお母さんが訪ねて来られました。

成人した子供が社会に出て会社に勤めたのだけれど、どこも長続きしない。母親としてはなんとかしてやりたいと思う。息子の性格をわかっている知人に雇ってもらおうと思うがそれでいいだろうか、という内容でした。

 

若い頃の私は、その悩み事につきあい、相談に乗り、解決の糸口を見つけることに必死だったように思います。

 

しかし、やがてある疑問につきあたったのです。

精神科医としての私の役割って一体何だろうと。

そして気づいたことがあります。

診察や相談に来る方の悩みの多くが、家族の悩みと自分の悩みがごっちゃになり未整理になっていることです。

そして辿り着いた答。

人はみなそれぞれに人生に何らかの課題を持って生まれてくる。私の仕事は、それを代わりに解決することではなく、それに気づかせてあげることではないかということでした。

 

たとえば2才の子どもはヤンチャ盛りです。

この時期は怖さを知らずにヤンチャをすることが“仕事”です。

その子が水たまりで転んだとしましょう。

親が先回りして「水たまりがあるよ」と注意するのも、転んだ我が子の手をひっぱりあげるのもよくある光景です。

しかし2才の子どもにとっての課題は「転ぶこと」であり、「自分で起き上がること」です。

それをいつも親が避けたり、すぐさま助け起こしたりしていたら、子どもはその年代特有の課題を解かないまま大きくなってしまうことになります。

次にさらに大きな水たまりに出会った時、もっとひどいころび方をした時、その子はどうやってそこから起き上がれるでしょう。

自分が過去に助け起こしたことなどすっかり忘れ「どうしてこの子は、こんな水たまりから起き上がれないのだろう」と嘆いていないでしょうか。

ここがポイント!

ここで一番言いたいこと。

それは「愛する子どもであれ、夫婦であれ、人の課題を取りあげてはいけない」ということです。

 

そして逆説的ですが、人は自分が最も避けたい事柄こそがつきまとい、それに向き合って解決しなければ前に進めない課題として横たわってしまうことです。

たとえば「同じ過ちを繰り返す」などは、実はその中にこそ、ヒントが隠されていると思っていいでしょう。

 

それぞれの課題に気づくこと。

相手からその課題を取りあげず、本人に返してあげること。

私の仕事は、それぞれが自分の課題に気づくお手つだい、そして勇気をもってそれに立ち向かっていけるように背中を押してあげることだと思っています。

息子(娘)の課題、夫(妻)の課題を手をとって助けてあげたい気持ちは自然ですが、そこをぐっとこらえ、相手の課題は相手が乗り越えるように。

それを願うのが真の愛情だと思うのです。

 

連載コラム(49)本日掲載・夢を叶える消去法

本日掲載のコラムです。

☆  ☆  ☆

ピラティスの先生と話をしていた時「どうしてこの仕事を選んだんですか」と尋ねてみました。彼女が元々栄養士だったと聞いていたからです。

短大を卒業して、最初は何を思ったかジムのインストラクターになったそうです。しかし「この雰囲気は合わない」と感じて、栄養士として病院に勤めることになりました。

ところが今度は「病院という保守的な組織に馴染まない自分」を感じて早々にやめてしまったといいます。そしてかねてから関心のあった整体を学び、師匠について仕事をしていましたが、上下関係の厳しさに疑問を感じて独立の道を選んだということです。

その後もいろいろと手を出したが自分に合わないものを、熟慮の末、消去していくうちに今があるのだそうです。

彼女は好きな仕事に巡りあえ、今、生き生きと働いています。

実は私も職業選択の折に消去法で決めたという経緯があります。

医学部を卒業したものの、臨床医は苦手だと感じていました。ふと中学生の頃キュリー夫人に憧れていたことを思い出して研究者の道を選んだのです。

しかし教授を頂点とした閉鎖的な環境が「進取の気性のある自分には合わない」と感じて一年でやめてしまったのでした。

 

さて、どうしよう・・・・

さりとて臨床医になる自信はなく、いろいろと考えを巡らせたが、どれもピンとくるものがなく、もう臨床医になるしか道はなかったというのが正直なところです。

(手塚 治が、医学部を出たものの、漫画家になったと知って、医学部を出ても、どんな仕事にも就けるんだ、ということを知ったのが、医学部を受けた動機だったので、音楽や絵の道を模索しましたが、ことごとく挫折しました。もともとその方面の才能はなかったということです)

 

しかし大変不器用ときています。医療器械を扱う自信がこれまたなかったのです。

まったく使わなくてすむのは精神科しかなかったという消極的選択でした。

(実は精神科だったら夜、起こされなくてもいいというのも選んだ理由でしたが、こちらは今でも深夜に起こされています。精神科救急って案外、深夜に多いのです)

いずれにしても自分に合わないものを消去していくうちに、精神科医に辿り着いたわけです。

今でこそ「天職ですね、精神に関心があったのですね」などと言われるがトンデモナイ。合わないものを消去した結果、私に残されていた道が精神科医であり、もうこの道でやっていくしかないと覚悟した結果です。

ここがポイント!

精神科医の吉田脩二先生が、「不登校の子供には“不適応能力”があると考えたほうがよい」と提案している。その考えに通じるものがあるかもしれない。不登校といえば「学校に適応できないのは問題で、適応できるように改善すべき」と考えられがちだが、本人が「この学校は自分には合わない、適応できない」と気づく力こそが大切なのだと言っています。

確かに、とにかく我慢だ辛抱だ、とムリヤリ適応していては、自分らしさも自分の能力も何がなんだかわからなくなってしまいます。

「消去法」というとネガティブな感じがするが、実は失敗から学び、合わないものがわかるって素晴らしい能力なのです。

そういう意味で、“消去力”は必要な場所に辿り着くために欠かせない力になり得ます。

 

自分に合うか合わないかの視点で歩む道を見つめ、合わないものにしがみつくことなくさらりと消去して、軽やかに転身していければ、人は年令に関係なくいつか夢に辿り着くことでしょう。

(注*この考え方は30年来、自分の中では暖めてきた構想です。自分の生き方でもありました。ピラティスの先生とたまたま話していて共感し、今回書いてみようと思いました)

 

連載コラム(48)心と体はつながっている

 

 

 

<48>⼼と体はつながっている

モノが⾷べられないという訴えで働き盛りの男性が来院された。これまであちこちの病院を回り、どこも悪くないと⾔われた。しかし⾷べられないという状態は改善しない。内科では胃薬を、精神科では安定剤を処⽅されたが⼀向に良くならず、不満になっては医者を変える。

私のところはもう5カ所⽬で、さすがに疲労困憊されていた。胃や腸はストレスを受けやすい臓器だ。おそらく⻑年のサービス業で気を使い続けた結果かもしれないと推測した。サービス業はその⽅の最も苦⼿とする分野だったが、転職する勇気もなかったようだ。

最初は重湯から飲んでもらった。さすがに重湯と⾔われて驚かれたようだが「とにかく喉を通ればなんでもいい。⾷べられなければ⽩湯でもいい」と話した。元通りに⾷べようとしたり、他の⼈と⽐べたりするから良くない。⾷べたいもの、喉を通るものを⾒極め、そこから始めることだ。

仕事はとりあえず脇に置いた。妻と話し合い、妻が腹をくくって当⾯は⼀家の稼ぎ頭になることとなった。それが安堵となり、お粥やバナナが⾷べられるようになった。それでいいと励まし続けてだんだん良くなり、5年を経た今では元気に主夫として家事全般をこなしている。仕事には就いていないが、それがこの⽅にとってベストではないが、ベターなのだし、いろんな家庭の在り⽅があっていい。

⼼と体はつながっていると⾔われる。しかし⼼が疲れていても⼼は⾒えない。本⼈も家族も気づかないまま⻑年経過することが多い。結局体に症状が出て来院し、それを説明してもまだ半信半疑である。

実は先⽇、私⾃⾝も精神的ストレスが体に直結する体験をした。たまたまある⼈から私の弱点を厳しく指摘されることがあり、精神的にまいってしまったのだ。⼈は、⾃分でも気にしていることを注意されるとこたえるものらしい。

そしてその夜、⼤変なことが起きた。帰宅して⾷事をすませ⾵呂に⼊ったのだが、湯船につかった瞬間、ひどい不整脈性の頻脈発作に⾒舞われた。不整脈発作は私の持病で過労や精神的ストレスで出てくる。「疲れたな」とは思ったが、精神的ダメージに加え、温冷などの物理的刺激は⼈が考える以上に体が反応するものだ。しかしたったあれだけのこと、ここまで体にくるとは意外だった。

⼼の状態は、正直に体に現れる。⼼と体がここまでつながっていることを改めて思い知らされた出来事だった。それにしても、たとえ精神科医であっても⾃分の⼼はなかなか読めないものである。このごろ⾃分の⼼と体が怖い(笑)。荒く扱ったために突然、⽛を剥き出さないかと思って。