若者の仕事・「好きの育て方」

私の職場の仕事机に、一枚の雑誌の切り抜きが、十年以上もはりつけてありました。その後、

職場をいくつも変わったので紛失してしまい、残念です。

山田太一かな、脚本家で有名な方のドラマの一節でした。父親が息子に語っているところ

です。内容はうろ覚えですが、再現してみます。

「若いときにはな。好きなことをな。無理してでも作らなければいけない。

それは瓶の栓を集める、でもいい、小石でもいい、漫画が好きなら漫画だっていい。

人から見たらつまらないものでも、自分が好きだと思ったら何でもいいんだ。好きな漫画を

集めて、読んでいるうちに、もうちょっとこんなものが読んでみたい、と思う時期がくる。

そうしたらまたそれを集めればいい。

だんだん、その中の味がわかってくる。知識が増える。、何がそんなに惹きつけられるかも

わかってくる。どんなつまらなく見えるものでも、深い味わいが出てくる。それが大事なんだ。

そうやってとにかく何でもいい。好きで好きで仕方がないものを無理してでも作るというのが、

若いときには特に必要なんだ。大人になったとき、そういうことが一番役に立つんだよ。

だから今君はなんでもいい。好きで好きで仕方がないものをがんばって、無理してでも、

作るべき時なんだ」

息子とふたりの時、父親がしみじみと語りかけるその内容は、ちょっとそそまま再現はで

きませんが、意味あいはわかっていただけると思います。

おとなが若い人に語りかける言葉は、古今東西たくさん出ています。でもこんな風に

「瓶のキャップでいい。道の小石でいい。子供が関心を持てるものならなんでもいい」

というところ。

そして「それが若い時期の仕事なんだ。無理にでも好きなものを見つけるということが

大事なんだ」と言うところ。

そのふたつが好きで、暇さえあると眺めていたものです。

私の子供のころ、そして若いころは、効率一番の時代でした。また両親が教師でその親も

教師タイプでしたので、無駄なものを嫌いました。学校の教材は惜しげもなく買ってくれましたが、

無駄なものはいっさいだめでした。

私は、自分の中に無駄だけど好きで好きで仕方がないものにのめりこむということをしないまま、

おとなになり、親になり、年よりになりました。

今、わたし自身は年齢を逆走してもいいのではないか。そう思っています。

無駄だけど、好きで好きで仕方がない。人から笑われるくらい、無駄なこと。

そんなことで遊んでみたいです。

☆       ☆       ☆

今、フォトエッセイ集の表紙をある方と組んで作っています。つぎつぎとできてくる表紙の

サンプルの中に、涙が出てくるくらいせつなく、かわいい表紙があります。表紙ばかり出来て

きても、中味がまだまだ、できてもいないのです。

はっきりいって無駄といえば無駄です。先に中を作れよ、と言われそうです。でもそうやって

表紙にほれこんでいるうちに、表紙を世に出したい一心で本ができるかもしれないのです。

「あ、わたし、これ好き!」と無邪気に笑える年よりを目ざします。

無駄だけど、これ好き。好きで好きで仕方ない、というものを増やします。

そうやって年を重ねていきます。

だんだんコドモになっていきます。

赤ちゃんのように無邪気に笑える年よりになって死にます。

だんだんコドモになります。

今日から3日まで仕事です。

今日の夕方から3日の朝まで当直と宅直の仕事です。

私は長い休暇をとれるより、休日がリズミカルにさえあったらそれでしあわせを感じる人間です。

パート医ですので、こんな時期こそふだんよく働く人と変わってあげなくてはね。

たいていの医者が正月も盆も夜もないですからね。

雪が降り続いています。

わが家の猫たちは完全家猫です。

でも外は大好きで、好奇心いっぱいです。

雪の中でも元気に飛び出していきます。

雪だと唯一遠くに行く心配がないので出せます。

一時間後にイチゴ、2時間後にレモンが帰ってきました。

下のエッセイが的を得ているとするなら、

私はレモンとイチゴを一番あ・い・し・て・い・る?

夫よりも?

そういうことになるわねえ・・・・・

このエッセイ、変?

それとも、わが家、ヤバイ? どちらかですね。

朝の気分

今日は大掃除の日でした。

妹も動員して大人3人がかりで丸一日。

お風呂係りだった妹のそばでイチゴがずーっと遊んでいました。

☆     ☆     ☆

「朝の気分」というエッセイです。いずれ推敲してフォトエッセイ集に入れます。

自分らしく生きる19 直観力や本能に「働いてもらう」生き方

    

        ☆       ☆       ☆

今日は不潔恐怖などの強迫性障害で通っている30歳代の女性が定期診察に見えた。

とても頭の良い女性なのだけれど、人間関係がうまく作れないために、定職が決まりにくく、

今度もやめることになった。パートやアルバイトを転々としている。

もう職場をさがす気力もない。どうやって決めたらいいかもわからない、自信がないと言って

涙ぐんだ。

「いっぱい、そう、つぎつぎと雇ってくれるかぎりやればいいのよ。やめたらいけないなんて思う

必要もないの。合わないと思ったらやめて、またさがせばいいのよ。ただサービス業だけは合わないと

思うよ。またどんな仕事があったか話してね」そう言ってお帰しした。

23才のとき、私は結婚相手を選ぶことができなくて、悶々としたことがまるでうそのように、

50才を過ぎて再婚したときには、すぐに直感で決めることができた。それも見ず知らずの男性からの

たった一本の短い自己紹介メールを読んで、それだけで結婚を決めた。

若いときに本能や直感がまったく働かなかったのは、幼いときからの環境も影響している。勉強をする

環境にはあったが、いわゆる箱入り娘だった。

勉学以外の面で問題があったということだ。今になってそれがよくわかる。

この20数年の間に、人生経験があったと言えばそれまでだけれど、誰でもがそんなに簡単に決断できる

ものではない。箱入り娘のまま、箱入り奥さんに突入して一生を終える人だっていっぱいいる。

私の直感力や決断力が働くのは「自分の気持ちに正直に生きる」ということを繰りかえして

きたからだ。自分の気持ちに正直に生きると、何かと角の立つことが多い。

表と裏を使いわけたほうが穏便にすむ。だから人間関係がおだやかな人ほど、

上手に表と裏を使いわけているものだ。

しかし、私が精神科医になったとき、精神科には教科書というものがないことを知った。

自分の勘をかなりの部分で灯台の灯りのようにたよることで、治療の決断をして

いかなければいけない分野であることに亞然とした。

直観を磨き、本能的な勘がきちんと働くように自分を育てていかないと、まともな医者にはなれないと

思ったのだ。それがきっかけである。

そしてそれが人生のいろんな分野で役立った。

本能や直感が最大限に働くということはどんなことだろうか。人間が生まれたときに持っている

本質的なものを見抜く純粋な力に加え、それまで人生経験として積み重ねたデータがうまい具合に

働いて、一瞬のうちに見抜いたり、感じたり、決めたりできる力が発揮されることである。

そういうものが働いて好循環になった人のことを「運がいいね」といい、働きにくい状態で悪循環に

おちいった人を「ついてない」と表現することもある。

さて、ある夜、私に一本の電話がかかってきた。それは私が苦手とするA女史からだった。

旅行の誘いだ。A女子と2人で旅行に行くなんて考えられないことだと思ったが、私はさも誘いを受けて

喜んだように、はしゃいだ。楽しいであろう旅行の話でふたりは一見はなやかに盛りあがった。

でも本当の心はとても旅行に行く気分ではなかったのだ。電話を切ってから夫に

「旅行になんか行きたくない」とグチを言った。

さて、こんなとき、私の脳はどう感じるだろう。私の脳細胞は、わたしが「本当は行きたくないけど、

ことわるのは相手に悪いから話を盛りあげているだけだ」ということを、一回や2回なら理解する

かもしれない。

しかし同じようなことが習い症になってしまうと、どちらが本当の気持ちかということを認識できなく

なってしまう。というより、楽しく盛りあがっているほうを、私の「本当の気持ちだ」と理解するようになる。

「本当は」なんていう言葉は脳には存在しない。現象あるのみなのだ。

脳細胞というのは、真の気持ちとか、気持ちの裏表などを理解するようにはできていない。もっと単純だ。

楽しそうにしていたら「楽しいのだ」と理解し、楽しくなさそうにしていたら「楽しくない」と理解する。

だから自分の気持ちを偽って表現する癖がついてしまうと、脳細胞が

「わけわからなくなる」状態になり、いざという時に直感力が働かなくなるのだ。

そこで、さきほどのA女史からの電話である。行きたくないと思ったら、そのときには多少の角が

立とうとも「旅行はね、気が進まないの。誘ってくれたのはうれしいわ。ありがとう。でも行かない。

ごめんね」そう言ってことわった。夫には「A女史とはそんなに相性がいいわけじゃないし、旅行も好き

じゃないから、ことわったわ」そうつげて話しは終わりにした。

まあ、これは架空の作り話しなのであるが、似たようなことは日常生活にしょっちゅう出くわす。

できるだけ自分の正直な気持ちを見つめる。そしてその気持ちを損なわないよう、そして相手の気持ちを

もまた嫌な気分にさせないように話しを持っていくというのは大変な知恵が必要だ。結果として角が立ったり

「正直な人だけどつきあいが悪い」「悪い人じゃないけどきつい」と言われることもあるかもしれない。

たぶん私は、そういう風に言われる類の人間だと思う。

けれど、精神科医としての直感は、かなり鋭くなっている。

余談ではあるが、私は裏表のある、儀式の多い田舎のつきあいがとても苦手だ。私が何か言うと

「木で鼻をくくる」ような言葉になってしまい、顰蹙(ひんしゅく)をかうことが多く、母から注意されっ

ぱなしだった。ある時泣いて訴えた。

「お母ちゃんもおばちゃんも、精神科医をやっていないじゃない。誰もそんなむづかしいことやって

いないじゃない。やれもしない癖に、それをやっている私をつかまえて「気がきかない」だの「つきあいが悪い」

だの「挨拶が下手」だの言われても、私出来ない.」。そう言っておいおいと泣いたことがある。母は驚いていた。

でもそれから数年後に亡くなる一ケ月前のこと。「お前のこと、いろいろ悪く言ってごめんね

。あなたはよくやったと思う。あなたには誰にもできない偉い面がいっぱいあると思う。

でも今ごろそれに気づいたの。ごめんね」と言ってくれた。

それを言えた母はやっぱり私よりずっと偉かったと思う。(余談である。母の話を出したくなる)

さて、このこの原理はパニック発作のときにも、同じことが言える。発作はおきていないのに、

「起きるのじゃあないか」という不安を持つと(予期不安という)発作が起きやすくなる。

そして案の上、発作がおきると「やっぱり起きた」と私たちは思う。

「起きるのじゃあないか」という不安な気持ちと、実際に不安が起きた時の不安状態を

脳細胞は識別しない。なので「ぜったい発作は起きない」「発作のことはすっかり忘れていた」と

いうくらいまで良くならないと、パニック障害が治りきらないのは、そういう理由からだ。一回でも起きたら、

また最初からやりなおしですよ、しっかり薬を飲んでおさえこんでしまいましょうと話すのは、そういう理由だ。

今日の患者さんに話が戻る。

合わなければ無理しないでやめたらいいのよ。失敗をこわがらないで、やりながら感じてごらん。

次第に自分に何が合うかという直感力が働くようになるの。そうやっていると自然に、あなたに向いた仕事が

向こうからやってくるようになるのよ。と話したのだった。

       ☆       ☆       ☆

話があちこちに飛んでちょっと今日の話は、わかりにくかったかもしれません。

看護師さんに話したら「うーん。自分に正直すぎると角が立つわねえ。かといって自分の気持ちを

抑えこみすぎると感覚がマヒちゃうわ。そういうことね」と言ってくれた。

そう。生き辛く感じている患者さんなんかには「感覚をマヒさせない生き方をするのが結局は

生きやすくなるということなのよ。とわかってほしくて」と話した。

自分らしく生きる 18 「こころ」を「暮らし」に変換する

☆      ☆      ☆

友人から電話があった。「あなた変わっているわね。他の医者の2歩か3歩先を

歩いているんじゃないの。先日の、患者さんの手をとって屈伸運動をしながら診察

する医者なんて日本中さがしたっていないわよ」と言われた。

「そうかしら。人の0.5歩くらい先だから、単なる変わり者医者だと自覚しているの。

本当に2、3歩先だとしたらすごいことだけど」と答えた。

「他の医者とどう違うの」と聞いてくれたので「そうね、具体的ってことかなあ」

と答えた。

今日はわたしが、個別性と具体性を重んじる治療者であることについて書きたい。

私が医者になったころは、「精神分析治療」があり、その対極に「生活療法」が

あった。薬物慮法も必須ではあったが、今ほど薬だけに頼る時代ではなかった。

私はどちらかというと「生活療法」を提唱している医師を、自分で勝手に師にしていた。

精神分析は知識としてはとり入れたが、自由連想法などはやったことがない。

実際の診察では、患者さんの生活に具体的に働きかける治療法を選んだ。

自分はこれこれが専門であるという方向にはいかず、患者さんによってどんな

治療法でもとり入れることができるように新しいものはすぐ学んだ。家族療法、

絵画療法、作業療法、サイコドラマそして地域にもどんどん出て行った。

外来に来る人は年齢と症状に関係なく誰のどんな相談にものった。昔は、家族が

来ると「本人を連れて来なかったら診察しません」と拒否する時代だった。でも私は

「相談」と称して家族の相談にも気軽にのっていた。

これが自分の勉強になった。家族から話を聞いて患者さんを想像しながら家族の

対応に関するアドバイスをおこなった。それを繰り返すことが、患者さんを直接診るより

勉強になった。話しの裏にあることを想像したり、仮説を立ててアドバイスすることは、

後に患者さんが私の前にあらわれた時、想像通りであったら、私の理論が正しかった

という証明になった。まったく違うこともあった。その時にはあらたな視点と視野が

広がった。試験を受けているようなものである。

精神科の往診が普通におこなわれている時代だった。診察を拒否する患者さんの家

に看護師とともに出かけ、治療の説得をするのだ。「病識がない」と表現するタイプの

患者さんなので、簡単には説得に応じてくれない。往診はとてもエネルギーが

いるので、医師にとってあまり好まれない治療だったが、私は好きだった。

患者さんから得られる情報、家族から得られる情報の間の深い溝、ところが診察室で

患者さんや家族と話しているのと、家を訪れて家の中を見せてもらった時にわかる

情報の間には、また深い溝があるのだった。

その3つをおこなうことで私の治療に具体性と深みが出た。

うつ病の回復期に、そろそろ何か動き始めたほうがいい、という場合がある。

「気晴らしに旅行にでも行ってらっしゃい」主治医からそう言われた患者さんがいた。

診察に行くたびに「もうどこか行った?」と聞かれ、答えようがなくて、医者を変え

私のところに来た患者さんがいた。

その方は、旅行があまり好きではなかった。でも医者にわかってもらえなかった。

誰でも旅行は好きだろう、などと思うのは浅はかだ。でもやっぱり外の風にあたったほうが

いい時期にきていることはたしかだった。その方のおうちには犬がいた。犬の散歩も

良い気晴らしになると思う。でも彼女にはそれがまた負担になるのだった。

その方には、夕食の下ごしらえをすませてから、本当に何も持たず、目的もなく、

家の周囲を20分ほど歩くことを提案した。これは続いた。それがきっかけとなって、

今では会社にも復帰した。

患者さんに逐一、指示を出すわけではない。精神科医って、こんな視点で自分を

見るんだ、という気づきを与えることにつながるとしめたものである。

それが「効く」。「効く」のはすべて「気づき」である。

患者さんの生活をこまかく分析するためには、自分の暮らしが地に足がついて

いないと出来ないことだ。自分の暮らしを自分の手できちんとやることが、患者さんの

精神や暮らしに働きかけるときとても役立つ。

地に足のついた生き方をできていない人、出来なくなったときに心の病が忍び寄る、

というのが私の持論のひとつだ。

私が毎日の仕事から帰り、わずか20分以内に3品用意する日常は、ひとり暮らしの

60才の男性が退院するとき、役にたつ。わずか5分で作れる料理を3つくらい教えて

あげることができる。単なる味けない診察が、楽しい世間話になり、話しもはずむし、

患者さんのわびしいひとり暮らしに華が咲く。少しでも希望がわく。

もうひとつ例をあげてみよう。

薬は普通、一日3回朝昼夕の処方である。どの医者も無造作におこなっている

のではないだろうか。でも私の場合は、患者さんが何時に起きて、食事をいつ、

何回とるか。食事の後が一番薬を忘れないか、または違うか。特に夕食は何時に

とるか、誰と食べるか。何時に寝て、その時歯磨きとかのなんらかの儀式が

あるかどうか。

うたた寝する習慣のある人に、寝る前の薬を処方すると忘れがちになる。

その患者さんの暮らしぶりを聞かないと、薬がきちんと無理なく服用されるか

どうか疑問になる。

その結果、薬を昼・夕にしたり、夕・寝る前にしたりする。

もうひとつ私が患者になった例をあげよう。

以前から頻脈の発作に悩されている。朝、起床して1~2時間だけ

頻脈がひどいのだ。朝起きたら即、薬を飲むように言われた。しかしそれでは

おそい。薬を服用してから効くまでの間動けない。自分で夜寝る前に服用するように

変更した。その薬は12時間くらい効くので、朝起きたときにはすでに効いており、

とても朝が快調になった。生活の質がうんと上がった。どの医者も「ねる前に

飲みなさい」とは言ってくれなかった。せっかく効く薬でも飲み方によっては

「効かない」と誤解することもあるのではないだろうか。

暮らしぶりと、その患者の症状と、その患者の癖などを聞きながら処方するのは大変

時間がかかる。けれどそれをやっていくと、しっかり一歩一歩確実に良くなっていく。

これも先ほどの論理と同じ。患者さんが気づくことが「効く」。自分で工夫していこうと

治療に積極的になれることが「効く」のだ。

自分で何でもやろうとしないで、わからない時にはわからないとはっきり言う。

治療法は医師だけの特権ではない。すると案外、患者さん自身が回答を見つけて

くれることもある。

精神は、身体によって支えられている。また暮らしによって支えられている。

精神は、からだと暮しに変換・細分化できる。またそうやって細分化していかないかぎり、

治療にならない。そう信じてきた。

精神が生活に根ざしているということは、患者さん自身もまた暮らし方を変えて

いくことによって精神や病気や人生が変わるということでもある。

人生とは習慣の積み重ねである。良い習慣をたえずつくりあげていきたいものだ。

自分らしく生きる17 ヒストリー4 結婚する

チキンを焼いて、妹がケーキを焼いてきてくれて、3人でクリスマスをしました。

レモンとイチゴも加わりました。

☆      ☆      ☆

私は祖母から娘、孫娘まで、5世代を見ることになります。女性たちは少しづつしあわせになって

いるでしょうか。女性のしあわせは歴史の影響を受けます。世代を追うごとにしあわせになれ

ることを昔から願っていました。

祖母の時代は結婚前に京都の由緒あるおうちでご奉公をし教育や躾を受けてから結婚する時代

でした。私は生後一年から18才で家を出るまで祖母と寝ていました。ご奉公していたころの話を

毎夜。自分の知らない世界の話を聞くことはとても楽しいことでした。

「ねえ、その人、なんて言わはったの?」

「ねえ、それからその人、どんな人と結婚しやはったの?」

「おばあちゃんは、そう言われて嫌じゃなかったん?」

毎夜毎夜、同じ話を聞いて、いとこやはとこ、そのまたつれ合いの、その子供にまで話を

発展させていくのでした。

何万人と患者さんを診たと思いますが、名前と顔を思い出すと、たいてい一瞬にして

その患者さんの経歴や家族背景を思い出せるという特技は、そのころ培われたのかも

しれません。

祖母は明治20年の生まれですが考え方はとても進歩的でした。母のほうも師範学校から

教師になりました。しかしこの時代、結婚に関してはまだまだ保守的です。

祖母も母も写真一枚で相手を決められて嫁いできました。

祖父はお百姓さんでしたが、教養の高い人格者だったということですし、両親も比較的

しあわせな結婚生活を送っていました。写真一枚のほうがうまくいく?と思うくらいです。

けれど、男女席を同じくせず、の時代でしたので、私の父はテレビにキスシーンが映ると

バチリと消してしまいました。男女の交際や結婚に関して、私はとても未熟で無菌状態のまま、

自由な世界にほうり出されてしまいました。

また私には年子の弟がいましたが、弟は今から思うと心の病気だったのかもしれません。

忘れもしない私が小学校6年生のとき、いわゆる家庭内暴力が始まりました。

母はあちこちに相談に行きましたが誰も回答を与えられませんでした。原因らしい病気が

世の中に知れわたってきたのは、それから40年以上へたここ10年です。

母はとても苦労しました。わが家は私が高校を卒業して家を出るまでの7年間、暗くて陰気で、

いつもおびえていて、時には弟から逃げまわるような状態が続きました。

母は「自分の育て方が悪かった」といって自分を責めてばかりいました。

家庭的な温かさに飢えた私は、一刻も早く結婚して温かい家庭でぬくもりたいと

いう強い欲求を持つようになりました。

しかし無菌状態だった私は、20才になるまで男の子と喫茶店に入ることさえほとんどあり

ませんでした。話したこともない男性に片想いするばかりです。男の人と喫茶店に入ると、

今度は「トイレに行ってきます」ということが恥ずかしくて言えないのです。

自分でも情けないほどでした。膀胱が破裂しそうになってしまうこともありました。

男の子のほうもまた、そういう面では未熟でした。電柱の影に隠れて帰りを待たれているような

状況になると、これまた気持ちが重くなって避けたくなりました。しゃれた誘い方を知らない、

お互いに思いを伝える手段を学んでいなかった。

そんな20才のある日曜日のこと。下宿で洗濯をしていると、医学部の助手をしているという

数才年上の男性から電話がかかってきました。散歩に誘われましたのでなんとなく応じました。

2時間ほど散歩をして別れるとき、突然「結婚してください」と言われました。その唐突さにただ

驚きました。その後も、しつこく結婚を求められました。

その人にとっては男女関係イコール結婚、であるようでした。これまた女性とはまったく

つきあったことのない世間知らずの研究者でした。研究のことをとうとうと話す様子は、

特別悪い人には見えません。素朴で裏表のない人でした。

しかし、「好き」という感情を経験したり、好きになったり別れたりの経験を持っていな

私にとっては、途方にくれるばかり。でもバイクの後に乗せてもらって野山を走ったり、

下宿で一緒にレコードを聴いたり。とにかく男の人と一緒にいるという経験がなかっただけに、

初めてのその経験はそれだけはとても新鮮でうれしかったことを覚えています。

でも、結婚となると自分では判断がつきません。結局は、判断がつかないのもあたり前である

程度のレベルの相手だったということにつきるのです。

でも初めての経験だからわからないのです。

相談する人のいなかった私は足しげく書店に通いました。人生論とか結婚論を読み

あさりましたが答えは出ません。

半年目に「親ならどう思うかしら」と実家に連れて行きました。親もまた写真一枚で結婚した

世代でしたので、そういうことには皆目うとかったようです。

反対するほどの理由もないという、その一点でもって結婚することに決めました。

ところが結婚式の二週間ほど前です。突然、結婚することに気が進まなくなりました。

実家に帰って訴えましたが、今さら世間体が悪いと言われました。相手の男性も必至で

連れ戻しにやってきました。

これが私の人生の大きな挫折の序章となりました。

それに、妙に自信がなかったですね、仕事のできる女性に多いのですが、

「女性としての魅力に欠けるのではないか」「二度とこんなチャンスは訪れないかも」

「もてないかもしれない症候群」ですね。

人生の先輩から「あせる必要なんかないよ」「十分に魅力あるよ」という助言が

ほしかったです。若いときにはみな、自分に自信がないものです。

おばさんになると、根拠のない自信を誰もが持てるものなんですがね。

でもいずれにしても誰に責任もありません。

すべては自分の未熟さゆえです。

その彼を選んだことと、育った家庭の問題が関係していると気づいたのは結婚して

からです。

弟が最終的には父や母を嫌って、音信不通の状態になっていました。

私は優しい面もある女の子でしたので、そのことに長年とても心を痛めていたのです。

相手の男性は、いわゆるマザコンでした。20才を過ぎても、母親を誘ってふたりで

登山をしたり、母親と一緒に買い物に出かけたり。とても仲良しの母と息子でした。

わたしは不自然と感じず、うらやましい、微笑ましい、私の母と弟もあんな風に仲良しだったら

良かったのに、と思いました。後から考えるととても不自然なことが、育った家庭での

親子関係のいびつさから「微笑ましい」と感じてしまったのです。

2泊の新婚旅行から帰って、家に入る前「お姑さんがいると思うと気が重い」とちょっと

すねただけで、突然何も言わず顔面を張り倒されてしまいました。

暴力から始まった結婚生活でした。

お姑さんになった女性は、病気で夫を、そしてやはり病気で幼子4人のうち3人を

つぎつぎと亡くしました。わずか一年ほどで夫と3人の子供を亡くすなんて、どんなに

悲しかったことでしょう。

えきりという病気が流行った時代です。弱冠28才で息子とふたりで残されてしまいました。

そういう境遇になったら、特別賢い女性でないかぎり、ひとり息子を溺愛するようになっても

やむを得ないのでないかと思います。そういう女性同士であるが故の同情があったので、

お姑さんとは喧嘩をしたことが一度もありません。しかし母と息子とのつながりが

ものすごく強くて、入りこむ余地まったく無しという感じでした。

人生の志をあれほど高く掲げる少女であった私が、ゆがんだ家庭生活の中で親から

受けた因果を引きうけてしまったとしか言いようがありません。

親のことなんか心配する前に、まず自分を大切にしてほしい。

すべての若い人に言いたいことです。

一番仲の良かった、医学部の女性の同級生には相談し続け助けを求め

続けました。けれど、その女性もまた私と同じ優等生タイプでしたので、男女関係では

まったく何の相談相手にもなりませんでした。

あまりにもひどい結婚生活ではあったのですが、私は結果として逃げること

思いとどまりました。

この責任は誰にもない。自分が選んだ結果だとすれば、この状況の中で自分が

成長していかないかぎり、何回でも同じレベルの人と結ばれることにならないだろうか。

とことんこの状況の中で、自分にふりかかったものを甘受しながら、自分を成長させて

みよう、と決心したのです。

夫は子どもたちをかわいがっていましたし、子供には父親が必要でした。

また夫になった人は、母親にも強い愛情を抱いていましたが、同じく分身である

いう理由で、子供たちにも普通では考えられない強い執着を持っていましたので、

離婚するのなら子どもを置いていくしかないという状況に立たされました。

異常ともいえるほど、こわいほどの執着でしたから。

たとえどんな結婚生活であれ、子供を置いて家を出るという選択は私には、まったく

考えることさえ出来ませんでした。結婚生活に耐えられなくなって何回家を出たか

しれません。でもわずか数時間子供と会えないだけでも、わたしはすごすごと家に帰るしか

なかったのです。

我慢した家族7人の暮らしは、いいことも悪いことも山のようにありました。

これはまた「人生そのもの」であるように思います。

いいことだけ、悪いことだけ、という人生がないように。

この結婚生活は15年続きました。

私が患者さんを診るようになり、家庭内弱者である子供のしあわせ、女性のしあわせを

心から願って親世代に苦言を呈し続けるのは、ただただ家庭内弱者として苦しみ続けた

自分の過去の思いが強くあると思います。

また、失うものはもうない。今のしあわせは誰からもらったものでもない。

自分のこの手で血を流しながら築いたきたものだという確信もあります。

私が今持っているしあわせは、結婚した相手によって左右されるようなレベルのしあわせ

じゃないのです。

しかし。

そう思えたのは「死にたい」と思うくらいの辛い日々を通りこしたあとだったのです。

でも、このへんでとめておきます。

私の人生の目標は、あくまでも仕事と家庭生活のバランスです。

家庭生活は私にとってとても大事です。さびしさをまぎらわす、というレベルでは

ありません、仕事と家庭は車の両輪なのです。

どちらが欠けても、わたしにとってはしあわせではありません。

私の話が、今結婚生活で悩んでいる人や、これから人生が始まる若い人の役に

少しでもたてばと思います。

自分らしく生きる16 ヒストリー3 精神科医になった理由(わけ)

高校を出て「こうり」2個に荷物をつめて、18才で金沢に出ました。アパートじゃなくて、下宿。襖を隔てて何人かが同居していました。
台所がひとつで、おうちの方と共同に使いまわしていました。
作りましたよ、料理。スーパーが出来始めたころでした。
18才に家を出てから、かれこれ50年以上。食事を作らない時期はほとんどないです。
信号を始めて見ました。それほどの田舎者が、とにかくひとりで歩き出したのです。自主独立の精神が強く、ホーム・シックというのにはかかったことがありません。
人生の希望に燃えていました。

    ☆    ☆    ☆

               
医学部というのは、一学年が80人。そのうち女性はだいたい2人から3人の時代です。
ところがわたしの学年だけ9人もいました。その当時としてはとても珍しい現象でした。
しかも美人がとても多い学年で、医学部の男性の注目を集めていました。えっ? わたし? わたしはフツーで地味でした、残念!
医学部に来る女性は「ブス」が多いと言われた時代。
こんなことを言われたこと、今でも覚えています。
    「医学部の女性はブスが多いから あやこさんは美人の部類にはいるかな」

      マッ、失礼しちゃうわ。

   「顔に自信がなかったから 医学部へ来たの?」

         返事の仕様もありません。
わたし言っときますけどね。、顔になんかこだわっていません。
と言いつつも何十年と覚えているんですから、しっかりこだわっていますね。
「いやあ。。。才色兼備な人っているもんですね。マイリマシタ」だとか。
「いやいや。。。ヒナには珍しい美人っていうんですかね」とか。

心になくても言ってごらんよ。誰も損しないでしょう。言うほうも言われたほうもなんとなく気分が華やぐじゃないですか。
誰に迷惑かけなくて品よく相手の気分を良くする。
それが「文化」とか「教養」というものだと思います。

学生生活は思い描いた華やかさは何ひとつなく地味で暗かったと思います。

あまりいい思い出がありません。

       ☆      ☆      ☆

わたしの医学部時代、それは学園紛争が一番はげしい時でした。
インターン制度廃止を主張してデモやストをやりました。東大紛争もそのころです。
東大ほどの激しさはありませんでしたが、しゅっちゅう授業をボイコットしました。
と言っても、わたしはいわゆるノンポリといって 特別の信条があるわけではないのだけど「改革をしようという動きに心情的に賛成して」改革しようと運動している人と同じ行動をとったのです。
「改革=善」という図式で動かされていました。
授業の前に突然先輩がやってきて「医学部は保守的だから変えないといけない。
賛成か反対か」と問われると、思わず「賛成です」と。
まあ そんな具合で学園紛争に加わりました。

        ☆      ☆      ☆
ある時、法医学の教授が「学生がストライキするということは学問を放棄したことだ」と

言いだしました。
「卒業試験も放棄していることだから受けさせない。卒業もさせない」
という論理で迫ってきました。
80人のうち。62人が「そうですね。すみません。二度とストはやりません」と謝罪文を提出しました。
「謝罪文は提出しません。ストと学問の放棄は同じではありません」とがんばった学生が18人。
わたしもそのうちのひとりでした。
革マルなどで活動中の人が12名。ノンポリはわずか数名です。
卒業が出来ないままぶらぶらして 一年半が経過しました。しかし貴重な一年半でした。人生には無駄な時間こそ案外大切な時期になるんですね。
「謝罪文を書くくらいなら 医師にならなくてもいい」そう考えたことを覚えています。
意になじまないことはしない。これが今も昔も、わたしの生きる姿勢。
わがままと紙一重の差である「気持ちになじまないこと、意に添わないことに繊細な神経を払う」という信念。
でも、これこそが「自分を大切にすること」そしてその結果「相手を大切につながると信じている私なのです。

医師免許を取得したのは24才の秋でした。

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中学生のころキュリー夫人伝を何回も読んで研究者に憧れ、自分でも合っていると思いました。まず研究室の門をくぐりました。けれど憧れと現実の乖離は大きかったです。まず丸一日中顕微鏡をのぞいている根気のいる仕事、標本をつくるのも器用でないとできません。何より合わないと思ったのが、教授を筆頭にした閉鎖的で狭いヒエラルギー構造でした。私は進取の気性がはげしく、狭い世界で閉鎖的に生きていくことは合っていないと本能的に感じました。
研究者への道はわずか半年でギブアップしてしまいました。
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臨床をやるしかないか、ということになりました。血液になじみませんでした。それに不器用で、そそっかしいのです。臨床医でやっていけるという自信がまったくありませんでした。外科だったら腹の中にハサミなど忘れてしまうかもしれません。内科も胃カメラなど検査は結構多いのです。眼科や耳鼻科は顕微鏡を使って行う微細な手術。
医師というのは体力仕事です。器用さが必要です。その両方がないのです。小児科は、臆病ですから子供が死ぬなどは耐えられそうにありません。受験の時でもさっさと10時には寝ていた夜に弱いわたしは 真夜中に起こされる産婦人科もどうにもやりこなせそうにありません。それにそのころは長い時間立っているだけで脳貧血をおこしてしまうこともありました。

行く科がない!

残されたのが唯一 精神科だったという理由で精神科医の道を選びました。座っていてもやれる、というのが一番気に入りました(怠け者でした!)

言い訳をするわけじゃありません。でもこういう現実的な決め方って案外 いける気がします。
仕事や結婚など大事なことを決めるときにはね。
「人間の心に関心があって」「自分も苦しんだから人を助けたい」などの理由で精神科関係の仕事を決めた人には辛い仕事だと言われています。しあわせな子供時代を過ごした人のほうが合っているそうです。
人生の一大事って、大事であればあるほど ものすごい理由があって決めるものでもないような気がします。勘を働かせる、消去法で決める。大事なことです。

そうやってやっと決まった精神科の道でしたが、わたしには合っていたと思います。

これは偶然でしょうか。それとも「自分らしく生きていきたい」という執念の結果

でしょうか。

(私の考えでは多くの事象は、偶然と運命と執念の混合だと思います)

一日も休むことなく ひたすら続け、今40年を越えました。

雪が降りました。

自分らしく生きる16 こだわりは「愛」

見かけによらず、と言うべきか。私は割合こだわり性でなにかとこまかいことが気になる

タイプである。しかしたいていは一晩寝るとケロッとする。どんな悩みも宵越しということは

あまりない。それでも仕事にさしつかえるほど気になるような時もたまにはある。

そんなある日のことだった。

ある病院での昼休みのこと。わたしはその日気分が冴えなかった。

「実はね、気になる人間関係があるのよ。ある職場のスタッフとの関係なんだけどね」

と切りだした。「私にとってすごく大切な人間関係かというとそうでもないの。

それなのにこんなに気になるのは変だよね。もう忘れなくては」と自分に言いきかせる

ように話した。

「そんなことないですよ」と看護師さんたちはいっせいに「女性に、人間関係の悩みは

あたり前である」と言わんばかりの勢いでなぐさめてくれた。

職場の看護師さんたちも家族関係などで悩みがあるらしい。いわゆる嫁姑という

やつだ。昼休みには、そういう話で盛りあがるらしい。

「先生が変ということはないと思いますよ」

他の人もうなずきながら「そうよ。愚痴を聞いてもらいっこしているの。聞くだけしかして

あげれないけど、話すとすっきりするし、盛りあがるわ」などと同調してくる。

たしかに誰かに話すことですっきりすることはしばしばあることだ。

職場の昼休みが、読んだ本や観た映画、趣味の話などで盛りあがることなどない。

そんなことを話しただけで浮きあがってしまう。だけどあまりうさ晴らしだけに終始する

のもどうかという考えが私にはある。

だから私は反論を唱えることにした。

「だってね。あなたの姑さんが、あなたにとって一番大切な人間であり、とても

愛しているというのなら、その人の悪口を言うことは愛の証として納得できるわ。

でも、そうじゃないんでしょう? 姑さんをとても愛しているわけではないんでしょう?

それなのに、貴重な休み時間を、その人の悪口のためだけに費するなんて

おかしいわ。結局はそれだけ姑さんを愛しているってことなのよ」と私。

「いいえ、愛してなんかいません。むしろ嫌っています」

「でもね、愛ってその人のために時間をとることよ。その人を見てるってことよ。

その人のことをついつい話したくなるってことよ。だったら愛してるってことじゃない。

はっきり言わせてもらうわ、あなたはお姑さんを世界で一番愛しているのよ」

看護師さんたちは、目を白黒させていた。

わかってもらえたかどうかわからない間に、その日は昼休みが終わり、

診療に入った。

妹もよく職場の人間関係の悩みを口にする人だった。楽しい夕食の時間が、

口角泡を飛ばして話す彼女の愚痴を聞くことに終始する。わたしたち夫婦はうんざり

したが、止めることもできなかった。

私はあるとき、こう言うことにした。

「同じようなレベルだから気になるんじゃないの? すごく人格的に高い人が集まっていたら、

そんな低いレベルのことで喧嘩にならないでしょう。でも結局は自分だって、そういうレベルの

職場で働くしかないわけでしょう。自分の悪口を言っているようなものよ。」

「職場の人がそれだけ大切なのね。仲良しの私たちと楽しく夕食してる時間を削ってさえ

その人たちのことを話したいのね、愛してるのねぇ」

これがうんと効いたらしく、それ以来彼女は少しづつ変わっていった。

それからはつまらない悪口や噂話をすることが、少なくなった。

私がそう言うきっかけとなったのは、夫である。

私もご多聞にもれず、職場の愚痴を家でこぼしていた。ところが夫は聞いてはくれなかった。

「同じレベルなんだよ、結局は」

「都合の良いときにはそこから給料をもらい、都合が悪くなると悪口を言う。

直接いえないくせに家でだけ言うなんて卑怯だよ」

ごもっとも。

聞いてもらえなくなった私はだんだん職場の愚痴を言えなくなった。

言わなくなった。言わなくなったら悩みもどっかへいったし。

何より良かったことは前向きになれて、新しい決断などもできた。

これを書いていたら、突然50年前の子供時代を思い出した。教員であった母が、

いつも教員である父に職場の愚痴をこぼしていた。子供心に楽しくなかった。

幼いころから、人の悪口やうわさ話を本能的に嫌った。先生にだけはならない、と

決めたのはそれもあったと思う。

しかし、職場の悪口が出るのは何も学校の職員室だけではなかったのだ。

人間関係の悩みや人の悪口をえんえんと話す患者さんは多い。

とてもとても多い。

仕事なので、別に嫌と思わず聞けるし、聞くことが大切な時間だと思えば納得する。

話の腰を折って、私が職場で言ったり、妹に言ったようなことを指摘しても、

おそらく聞く耳はない。

だけど、日常的には「ある、ある、そういうこと」ということもあるのじゃないだろうか。

その人のことを気にする。気になる、腹がたつ、悪く思われているような気がする。

悪口を話したくなる。その人をよく見ていろんなことが気になる。

これすべて「愛」である。

「愛」はそういう形でしか見えてこない。愛と憎しみは表裏一体なのだ。

無視される、というのが一番こたえることだ。その中に「愛」はない。

もし、悪口を言いたくなる相手や、気になる人間関係があったなら、それはその人を

「愛している」と思って間違いがない。

「いやいや、愛してなんかいません」と思ったら、もうその人のことは忘れることだ。

少なくともこだわるのはやめることだ、と思う。

患者さんがこの話をわかってくれたら、もう患者さんじゃないと思う。

私を離れ、ひとり立ちできる時期がきているということだろう。