チキンを焼いて、妹がケーキを焼いてきてくれて、3人でクリスマスをしました。
レモンとイチゴも加わりました。
☆ ☆ ☆
私は祖母から娘、孫娘まで、5世代を見ることになります。女性たちは少しづつしあわせになって
いるでしょうか。女性のしあわせは歴史の影響を受けます。世代を追うごとにしあわせになれ
ることを昔から願っていました。
祖母の時代は結婚前に京都の由緒あるおうちでご奉公をし教育や躾を受けてから結婚する時代
でした。私は生後一年から18才で家を出るまで祖母と寝ていました。ご奉公していたころの話を
毎夜。自分の知らない世界の話を聞くことはとても楽しいことでした。
「ねえ、その人、なんて言わはったの?」
「ねえ、それからその人、どんな人と結婚しやはったの?」
「おばあちゃんは、そう言われて嫌じゃなかったん?」
毎夜毎夜、同じ話を聞いて、いとこやはとこ、そのまたつれ合いの、その子供にまで話を
発展させていくのでした。
何万人と患者さんを診たと思いますが、名前と顔を思い出すと、たいてい一瞬にして
その患者さんの経歴や家族背景を思い出せるという特技は、そのころ培われたのかも
しれません。
祖母は明治20年の生まれですが考え方はとても進歩的でした。母のほうも師範学校から
教師になりました。しかしこの時代、結婚に関してはまだまだ保守的です。
祖母も母も写真一枚で相手を決められて嫁いできました。
祖父はお百姓さんでしたが、教養の高い人格者だったということですし、両親も比較的
しあわせな結婚生活を送っていました。写真一枚のほうがうまくいく?と思うくらいです。
けれど、男女席を同じくせず、の時代でしたので、私の父はテレビにキスシーンが映ると
バチリと消してしまいました。男女の交際や結婚に関して、私はとても未熟で無菌状態のまま、
自由な世界にほうり出されてしまいました。
また私には年子の弟がいましたが、弟は今から思うと心の病気だったのかもしれません。
忘れもしない私が小学校6年生のとき、いわゆる家庭内暴力が始まりました。
母はあちこちに相談に行きましたが誰も回答を与えられませんでした。原因らしい病気が
世の中に知れわたってきたのは、それから40年以上へたここ10年です。
母はとても苦労しました。わが家は私が高校を卒業して家を出るまでの7年間、暗くて陰気で、
いつもおびえていて、時には弟から逃げまわるような状態が続きました。
母は「自分の育て方が悪かった」といって自分を責めてばかりいました。
家庭的な温かさに飢えた私は、一刻も早く結婚して温かい家庭でぬくもりたいと
いう強い欲求を持つようになりました。
しかし無菌状態だった私は、20才になるまで男の子と喫茶店に入ることさえほとんどあり
ませんでした。話したこともない男性に片想いするばかりです。男の人と喫茶店に入ると、
今度は「トイレに行ってきます」ということが恥ずかしくて言えないのです。
自分でも情けないほどでした。膀胱が破裂しそうになってしまうこともありました。
男の子のほうもまた、そういう面では未熟でした。電柱の影に隠れて帰りを待たれているような
状況になると、これまた気持ちが重くなって避けたくなりました。しゃれた誘い方を知らない、
お互いに思いを伝える手段を学んでいなかった。
そんな20才のある日曜日のこと。下宿で洗濯をしていると、医学部の助手をしているという
数才年上の男性から電話がかかってきました。散歩に誘われましたのでなんとなく応じました。
2時間ほど散歩をして別れるとき、突然「結婚してください」と言われました。その唐突さにただ
驚きました。その後も、しつこく結婚を求められました。
その人にとっては男女関係イコール結婚、であるようでした。これまた女性とはまったく
つきあったことのない世間知らずの研究者でした。研究のことをとうとうと話す様子は、
特別悪い人には見えません。素朴で裏表のない人でした。
しかし、「好き」という感情を経験したり、好きになったり別れたりの経験を持っていな
私にとっては、途方にくれるばかり。でもバイクの後に乗せてもらって野山を走ったり、
下宿で一緒にレコードを聴いたり。とにかく男の人と一緒にいるという経験がなかっただけに、
初めてのその経験はそれだけはとても新鮮でうれしかったことを覚えています。
でも、結婚となると自分では判断がつきません。結局は、判断がつかないのもあたり前である
程度のレベルの相手だったということにつきるのです。
でも初めての経験だからわからないのです。
相談する人のいなかった私は足しげく書店に通いました。人生論とか結婚論を読み
あさりましたが答えは出ません。
半年目に「親ならどう思うかしら」と実家に連れて行きました。親もまた写真一枚で結婚した
世代でしたので、そういうことには皆目うとかったようです。
反対するほどの理由もないという、その一点でもって結婚することに決めました。
ところが結婚式の二週間ほど前です。突然、結婚することに気が進まなくなりました。
実家に帰って訴えましたが、今さら世間体が悪いと言われました。相手の男性も必至で
連れ戻しにやってきました。
これが私の人生の大きな挫折の序章となりました。
それに、妙に自信がなかったですね、仕事のできる女性に多いのですが、
「女性としての魅力に欠けるのではないか」「二度とこんなチャンスは訪れないかも」
「もてないかもしれない症候群」ですね。
人生の先輩から「あせる必要なんかないよ」「十分に魅力あるよ」という助言が
ほしかったです。若いときにはみな、自分に自信がないものです。
おばさんになると、根拠のない自信を誰もが持てるものなんですがね。
でもいずれにしても誰に責任もありません。
すべては自分の未熟さゆえです。
その彼を選んだことと、育った家庭の問題が関係していると気づいたのは結婚して
からです。
弟が最終的には父や母を嫌って、音信不通の状態になっていました。
私は優しい面もある女の子でしたので、そのことに長年とても心を痛めていたのです。
相手の男性は、いわゆるマザコンでした。20才を過ぎても、母親を誘ってふたりで
登山をしたり、母親と一緒に買い物に出かけたり。とても仲良しの母と息子でした。
わたしは不自然と感じず、うらやましい、微笑ましい、私の母と弟もあんな風に仲良しだったら
良かったのに、と思いました。後から考えるととても不自然なことが、育った家庭での
親子関係のいびつさから「微笑ましい」と感じてしまったのです。
2泊の新婚旅行から帰って、家に入る前「お姑さんがいると思うと気が重い」とちょっと
すねただけで、突然何も言わず顔面を張り倒されてしまいました。
暴力から始まった結婚生活でした。
お姑さんになった女性は、病気で夫を、そしてやはり病気で幼子4人のうち3人を
つぎつぎと亡くしました。わずか一年ほどで夫と3人の子供を亡くすなんて、どんなに
悲しかったことでしょう。
えきりという病気が流行った時代です。弱冠28才で息子とふたりで残されてしまいました。
そういう境遇になったら、特別賢い女性でないかぎり、ひとり息子を溺愛するようになっても
やむを得ないのでないかと思います。そういう女性同士であるが故の同情があったので、
お姑さんとは喧嘩をしたことが一度もありません。しかし母と息子とのつながりが
ものすごく強くて、入りこむ余地まったく無しという感じでした。
人生の志をあれほど高く掲げる少女であった私が、ゆがんだ家庭生活の中で親から
受けた因果を引きうけてしまったとしか言いようがありません。
親のことなんか心配する前に、まず自分を大切にしてほしい。
すべての若い人に言いたいことです。
一番仲の良かった、医学部の女性の同級生には相談し続け助けを求め
続けました。けれど、その女性もまた私と同じ優等生タイプでしたので、男女関係では
まったく何の相談相手にもなりませんでした。
あまりにもひどい結婚生活ではあったのですが、私は結果として逃げること
思いとどまりました。
この責任は誰にもない。自分が選んだ結果だとすれば、この状況の中で自分が
成長していかないかぎり、何回でも同じレベルの人と結ばれることにならないだろうか。
とことんこの状況の中で、自分にふりかかったものを甘受しながら、自分を成長させて
みよう、と決心したのです。
夫は子どもたちをかわいがっていましたし、子供には父親が必要でした。
また夫になった人は、母親にも強い愛情を抱いていましたが、同じく分身である
いう理由で、子供たちにも普通では考えられない強い執着を持っていましたので、
離婚するのなら子どもを置いていくしかないという状況に立たされました。
異常ともいえるほど、こわいほどの執着でしたから。
たとえどんな結婚生活であれ、子供を置いて家を出るという選択は私には、まったく
考えることさえ出来ませんでした。結婚生活に耐えられなくなって何回家を出たか
しれません。でもわずか数時間子供と会えないだけでも、わたしはすごすごと家に帰るしか
なかったのです。
我慢した家族7人の暮らしは、いいことも悪いことも山のようにありました。
これはまた「人生そのもの」であるように思います。
いいことだけ、悪いことだけ、という人生がないように。
この結婚生活は15年続きました。
私が患者さんを診るようになり、家庭内弱者である子供のしあわせ、女性のしあわせを
心から願って親世代に苦言を呈し続けるのは、ただただ家庭内弱者として苦しみ続けた
自分の過去の思いが強くあると思います。
また、失うものはもうない。今のしあわせは誰からもらったものでもない。
自分のこの手で血を流しながら築いたきたものだという確信もあります。
私が今持っているしあわせは、結婚した相手によって左右されるようなレベルのしあわせ
じゃないのです。
しかし。
そう思えたのは「死にたい」と思うくらいの辛い日々を通りこしたあとだったのです。
でも、このへんでとめておきます。
私の人生の目標は、あくまでも仕事と家庭生活のバランスです。
家庭生活は私にとってとても大事です。さびしさをまぎらわす、というレベルでは
ありません、仕事と家庭は車の両輪なのです。
どちらが欠けても、わたしにとってはしあわせではありません。
私の話が、今結婚生活で悩んでいる人や、これから人生が始まる若い人の役に
少しでもたてばと思います。