連載コラム(50)人は誰でも課題をひとつ与えられて生まれてくる

 

 

 

私のフォトエッセイ集に「どんな人も、人生の課題をひとつ与えられて生まれてくる。こんな優しい花でさえ」という一節があります。

 

息子のことで相談したいと、思いつめた表情でお母さんが訪ねて来られました。

成人した子供が社会に出て会社に勤めたのだけれど、どこも長続きしない。母親としてはなんとかしてやりたいと思う。息子の性格をわかっている知人に雇ってもらおうと思うがそれでいいだろうか、という内容でした。

 

若い頃の私は、その悩み事につきあい、相談に乗り、解決の糸口を見つけることに必死だったように思います。

 

しかし、やがてある疑問につきあたったのです。

精神科医としての私の役割って一体何だろうと。

そして気づいたことがあります。

診察や相談に来る方の悩みの多くが、家族の悩みと自分の悩みがごっちゃになり未整理になっていることです。

そして辿り着いた答。

人はみなそれぞれに人生に何らかの課題を持って生まれてくる。私の仕事は、それを代わりに解決することではなく、それに気づかせてあげることではないかということでした。

 

たとえば2才の子どもはヤンチャ盛りです。

この時期は怖さを知らずにヤンチャをすることが“仕事”です。

その子が水たまりで転んだとしましょう。

親が先回りして「水たまりがあるよ」と注意するのも、転んだ我が子の手をひっぱりあげるのもよくある光景です。

しかし2才の子どもにとっての課題は「転ぶこと」であり、「自分で起き上がること」です。

それをいつも親が避けたり、すぐさま助け起こしたりしていたら、子どもはその年代特有の課題を解かないまま大きくなってしまうことになります。

次にさらに大きな水たまりに出会った時、もっとひどいころび方をした時、その子はどうやってそこから起き上がれるでしょう。

自分が過去に助け起こしたことなどすっかり忘れ「どうしてこの子は、こんな水たまりから起き上がれないのだろう」と嘆いていないでしょうか。

ここがポイント!

ここで一番言いたいこと。

それは「愛する子どもであれ、夫婦であれ、人の課題を取りあげてはいけない」ということです。

 

そして逆説的ですが、人は自分が最も避けたい事柄こそがつきまとい、それに向き合って解決しなければ前に進めない課題として横たわってしまうことです。

たとえば「同じ過ちを繰り返す」などは、実はその中にこそ、ヒントが隠されていると思っていいでしょう。

 

それぞれの課題に気づくこと。

相手からその課題を取りあげず、本人に返してあげること。

私の仕事は、それぞれが自分の課題に気づくお手つだい、そして勇気をもってそれに立ち向かっていけるように背中を押してあげることだと思っています。

息子(娘)の課題、夫(妻)の課題を手をとって助けてあげたい気持ちは自然ですが、そこをぐっとこらえ、相手の課題は相手が乗り越えるように。

それを願うのが真の愛情だと思うのです。