今日、娘を駅に送り、ほっとした。
母親と娘の間の、ものすごい葛藤をテーマにした小説を先日見た。
作家は忘れた。
わたしたち母子も、はたから見れば仲の良い母子に見える。
しかし、娘からはいつも手きびしい批判を投げかけられて、
たじたじとなる。
たじたじとなって、ぐっときて、決して快いものではない。
娘の女友達たちからも、母親に対する批判や葛藤は、すさまじいものを感じた。
なぜだろう。
なぜだろう。
なぜだろう。
こだまのように疑問がわく。
しかし患者さんたちを見ていて、母親を批判しない人のほうが病む。
これだけはあきらかである。
母親の「いい子」でいて、母親をモデルにして、でも出来なくて、蹴飛ばして自立していく。
蹴飛ばせないほどのいい母親をやっていれば、娘は出ていけない。
本当はとても罪の重いことなのだ。
けとばして出ていける、それが自然の自立の過程であるらしい。
だから母は耐えなければならない。母も辛いのだ。
耐えていない、と言い切る母親がいたら・・・・・・・
あなたの娘さんは、あなたから親離れしていませんよ、とはっきり言いたい。
☆ ☆ ☆
同じ日、ご主人を亡くした知人が、娘さんと住むべく、都会へ出ていかれた。
さびしかった。こころで泣いた。
「大変だろうな」と夫がぽつりと言った。
「大変なこと、いっぱいあるよね」私が言った。
娘と住む母親。かならずしもしあわせとは言えない。
女性同士の手きびさ、女同士の気安さ、その両方あいまって老いてから
女同士で住む家族も
結構きついと思う。
わたしは「孤独に生きる」ほうを選ぶ。今から覚悟している。
萩が咲いた。
今日の話は、男性はパス。だまって聞くだけにしてほしい。
何もいう資格はないと思う。
娘は男の子がひとりでよかった。
批判の手綱は娘よりずいぶん優しいはずだ。
今日の話は自分で書いて、自分で泣いた。
全世界の母と娘を思いつつ。
今日のブログは身内には読まれたくないが、さとちゃんは読んでくれたかなあ。
さとちゃも、がんばりな。無理しなくていいんだよ。けとばしな。
書きながら、亡き母を想って、また泣いた。
母と娘は母親が死ぬころからやっと本当に自立した女同士のいい関係になれる。