こころの病と向き合うために・11 自分と向き合う

体の病気も、こころの病気も、何らかの素因がもともとあって、

その上で、無理が重なったとき、発病します。

自分にどんな素因があるかわからないのがあたり前です。また

無理になっているかどうかもわからないのが、あたり前です。

無理をしているといっても数量的に出せるものではありませんし、また

他の人と比べる機会もありません。

しかし身体科であれば、生活習慣病にならない暮らし方をする、つまり

食事と運動が基本で、ほかには 定期的に検査をすることで多くの病気は

予防できたり見つかったりするでしょう。

では、こころの病気ではどうでしょうか。

何らかの素因のもとに発病すること、無理が重なったとき発病すること、その2点

では 身体科と同じです。

しかし身体科に匹敵するような チェック項目や検査は、ないと言うのが正しい答え

です。

じゃあどうすればいいか。そこで 登場するのが自分の主治医としての「自分」です。

子供のとき、お母さんに認めてもらうことが子供のすべてでした。それを通じて自我が

できあがるのでした。大人になってからは、自分が自分を認めてあげられるように

なることが目標です。ところがこれは 一朝一夕で成るものではなく、一生の大仕事

なのです。ただでさえ難かしいことの上に、人はどんどん変化するからです。

死ぬ、その瞬間まで、人は変化し続けますから、これでいいという時はこない。

まずそのことをわかっていない人が多いように思います。

それがそんなに大仕事で大変なら、手っとり早くすませる方法は何でしょうか。

他人の評価です。他人によく思われることを、基本にすえて生きている人のなんと多いこと。 

そんな大人であるお父さんやお母さんをまねた子供がどんどん大きくなって、またお父さんや

お母さんになるのだから あたり前ですね。

お母さん自身に自信がないと、他人の評価で子供を評価したり、条件つきで子供をが愛する

ことになります。

時代が悪循環の方向に行かないようにするためには、どこかでその悪循環を止めなければ

いけません。

そのためできることがあります。あなたが今、20歳であれ、40歳の働きざかりであれ、

60歳70歳となって人生の役割の大半を終えたと思っている方であっても、「自分のこころと

向き合ってみる」ということはできます。

「向き合う」というと、なんだかこわいことのように感じますが、向き合うということは、どんな

ことかというと、気持ちを受けとめるということです。

「夫と向き合いましょう」というと、なんだか 夫と正面きってむずかしい話をしなければいけない

ように感じますが、そうではありません。夫の気持ちをまずは受けとめてあげることです。

「子供と向き合う」も同じです。

気もちを受けとめるためには、まず その人を見ていなければなりません。相手の気持ちを

想像しなければなりません。問いかけしたり問い返したりもしなければなりません。

そういうことをして、結果として「ああ そんな気持ちでいるのか」とまずは受けとめてあげること、

それが向きあうということ。

自分のこころと向き合う、も 同じことです。自分のこころを観察し、自分の心を感じてあげ

自分に問いかけ問いかけしながら 自分の気持ちを確かめてあげる、そしてその結果として

どんな気もちが出てこようと、その気もちをまずは受け入れてあげること、それが 自分のこころ

と向き合うということです。

楽しいことです。

一生かけて、自分と楽しくつきあっていけるなら、そして その結果、健康的でしあわせな人生

が送れるなら、いうことありませんよね。

こころの病と向きあうために・10 朝の気分

このブログの最初のほうに書きました。

「こころの疲れの測り方」という題名でしたが、朝起きた瞬間の気分を大切にして観測しようと

いうものです。

うつ病を疑うような食欲不振や睡眠障害、また「やる気のなさ」や「憂鬱気分」を訴える患者さんが

いたとします。これだけそろえば 完璧な「うつ病」です、普通は。

でも念のために聞いてみます。

朝起きた瞬間。つまりまだ自分がどこにいるかもわからないくらい 半分もうろうとしているくらい目覚めた瞬間の

気分はいかがですか?

「それはいいんです。でも そのあと ああ またいやな一日だとか 会社かぁとか思ってしまう」とおっしゃる。

そんなときには 純粋なうつ状態ではないのではないか と疑ってかかります。

いろんなことを考える前の、純粋な朝起きた瞬間の気分を見ることがコツなんです。

うつ病の方は たいてい 朝起きた瞬間から 嫌~な気分に襲われて目覚めたくなかったとおっしゃいます。

でも、こんなこともあります。

もう5年も前になります、早いですね。母が突然亡くなりました。

お母さんっ子だった私は、その後 半年くらい 朝起きた瞬間がとても嫌な 憂鬱な気分で 起きることができません

でした。ひょっとして うつ病? 疑いました。

でもね、夜になると ちゃんと寝れたんです。

だから うつ病にはなっていないと判断しました。

うつ病のときは 睡眠障害、食欲もあまりない。生気がない。そして 朝起きた瞬間、とても嫌な気分に襲われる。

そんな症状を総合して判断します。

 それでもまだ うつ病の診断って 確定的ではありません。 精神症状って すべて自己申告ですからね。

自分で そう思いこんだら 症状なんて そろってしまうこともあります。

うつ病は エネルギーが 最低に低下した状態ですから 訴える力もない、というのが 真実です。

ですから、いかに辛いかについて とうとうと述べる方の場合は やっぱり うつ病ではないのではないかと疑います。

それくらい うつ病の診断って むつかしいのです。

チェック シートで カンタンに自分で出来る、というほどカンタンではありません。

先日、67歳くらいの方が ひざの治療で整形外科にかかり、ねむれないというので 精神科にまわされました。

重症の睡眠障害が半年も続いている、何かと悲観的である、それ以外は 会話も少なく 訴えることも少ない

おとなしい方でした。

「うつ病だと思うので 治療しましょう」ということになりました。家族も気にはしていたけど 気づいていないと

いうので 一週間後に 奥さんと来てくださいと話しました。

でも何日もしないうちに 自殺を図って 救急で運ばれてきました。さいわい一命はとりとめましたが、

本当の重いうつ病の方は 訴えるエネルギーさえないので まわりも気づかないくらい 影がうすくなります。

診察場面でも、はい、はい、と答えて さっさと帰ろうとされるので 重い うつ病は 本当に見逃されやすいです。

完璧に自分の中で悲観している、訴えるエネルギーさえない。だから 重いように見えなくて、精神科医でさえ

見逃してしまうことがあります。

朝の気分を大切にしよう、という題名が 横道にそれてしまいました。

健康なときから 自分自身の朝起きたときの気分に注意をはらいましょう。

家族の方が さわやかな顔で起きていらっしゃるかどうか 観察しましょう。

夫婦でも 子供でも、朝は忙しくて ろくろく相手の顔を見たこともないわ、なんてことはないですか。

ゆううつなときには 前日に無理をしていないか。前日に嫌なことはなかったか 胸に手をあてて

考えてみてください。

こころの病とつきあうために・10 睡眠

睡眠障害というのは、寝つきが悪い、夜中に目覚めてねつけない、朝超早くめざめてしまう。

このどれかが一ケ月以上続いたときを言います。

食欲にはあまり目をくれない私も、睡眠障害があるかないかだけは、ぜったい! はずしません。

睡眠障害がある場合と、ない場合では、対応がまったく違ってきます。

どんなに失意のどんぞこにあっても、悩みが深くても、ねむれるなら、ただの心配事です。

でも、悩みや心配事がなくても、睡眠障害があれば 立派なこころの病気です。

悩みや心配事があっただけで食欲は落ちますが、睡眠障害はでません。

単なる落ち込みと、うつ病との違いは、睡眠障害があるかないかで判断します。

睡眠って 不思議ですね。心の持ち方は努力で多少変えることができても、寝つけないのはもうどうしようも

ありませんね。

私も寝つきが悪いほうですが、本当に、どんなに努力しても工夫しても、これだけは自分の力ではどうしようも

ないとつくづく思います。でも 反対に 横になったら 5分でねむれる、昼でも夜でも、という人を何人か

知っています。

何を隠そう、わたしの夫や夫の妹は、昼でも夜でも、会話しているその最中でも、返事がない、と思ったら

もう寝てます。会話の最中に寝てるって、どういうこと?って 思ってしまいますが、そういう性分なんです。

一方わたしときたら、真夜中の運転・助手席に座っていてもねむれません。かえって神経が尖る。

夫や夫の妹は、よく言えば健康的で、性格がさっぱりしている、悪く言えば、単純で物事を深く考えようとしてない。

わたしは、今日考えても仕方のないことを あれやこれや考えたりして とにかくムダに頭を忙しくしているんですね。

それでも、わたしがうつ病ではない証拠があります。

もうブログなんて書こうとしないで、夜はぼーっとの~んびりと過ごすようにしていれば、ねつきが少しづつ

良くなってきます。また 軽い安定剤の一錠や 軽い睡眠薬の一錠くらいで ねむれます(かなりよく使います)

わたしが睡眠薬を使う理由は、やはり 夜も少しは生産的なことをしていたいからです。生活の質をあげたい時。

でも やめよう、と決めれば ぜんぜん使わなくてもすみます。その点が、病気と違う点です。

本物の睡眠障害という場合は、一錠の安定剤や睡眠薬くらいでは 寝つけません。

2時3時までねむれない、なんてことが続くことがあったら、かなり重症の精神的な病気です。

ふだんよくねむれている人が、ねつきが悪くなった場合でも、要注意です。

さて、睡眠障害の治療は睡眠薬だと思いますか? 違います。まず安定剤です。基本の病気に効く安定剤を処方して

車でいえば スピードを落としてやってから ごく少量の睡眠薬を使う(ブレ-キをかける)のが基本です。

スピードを落とさずにブレーキをかけたら 車は反転してしまいます。

たくさんのお医者さんが 安定剤の工夫をしないまま、睡眠薬を増やしていきます、これは邪道です。

ぜったい邪道です。でも精神科医でさえ、睡眠薬を増やしていく医師のほうが多いのが不思議です。

そのほうが安直だからですね。

どんな精神病でも、まず 睡眠を十分にとれるようにする、これが基本。というより 一に睡眠、二に睡眠、

三にも 四にも睡眠です。

睡眠障害は 薬で治すしかほとんど方法がないので、医師と相談してやっていくしかないと思います。

しかし、睡眠障害が改善された後(薬を使っていても)に残ったもの。残った症状。

これはもう、「障害」です。

医者まかせにして良くなるものではない。 自分の弱みを知り、何らかの修正をこころみ、自分を変えていかないと

周囲に適応していけない「障害」だと考えてください。

また逆に、薬をもらっているのに、睡眠障害が かなり長期に続く場合も「障害」です。

「障害」という意味は、薬だけで改善できない、生活上のなんらかの欠陥があるという意味です。

たとえば昼間ねているとか、夜になるとゲームをしたくなる、とか 人が寝ているときに落ち着くから寝ない、など。

つまり、精神科医の治療の中で、薬の調節が必要な時期というのは ほんの短い一時期であって、あとは

薬を服用しながら「障害」や「生活の仕方」や「考え方」や「いき方」の問題をどう扱っていくかという問題になります。

でも ほとんどの精神科医は 薬の調節をしたあとは、どうですか?ねむれてますか。食べれてますか、という

問いかけに明け暮れています。わたしも時間がかぎられるときにはそうせざるを得ないので そうなっています。

あるいは患者さんの訴えをよく聞いてくれる優しい医師もたくさんいますが、ただ聞くだけでは、あまり治療効果が

ありません。やはり何らかの問いかけ、患者さんが 自分を見直すきっかけを与えてくれる治療が一番の治療。

でもでも、言います。

変わりたくない患者さんもいっぱいおられます。

変わりたくない患者さんのほうが多いかもしれない。病気に逃げている患者さんは 変わりたい患者さんの数より

はるかに多いです。

人間というものは、本来は「変わりたくない」ものです。保守的であることのほうが自然で 本来の姿です。

ですから わたしも、変わりたくないと本能的に思っている患者さんに 余計なことは言いません。

ただただ優しく聞くだけ。それでいいのだと思っています。

また いtつ どんな変化が訪れるかわからない。それをじっと待つのも、医者の仕事と心得て。

こころの病と向き合うために・9 雑感

35年まえの同僚精神科医から、ある論文が送られてきました。

この医師は、みずからの長いうつ病とつきあいながら、精神科医を休むことなく続けている蟻塚亮二医師と

いいます。精神病院開放化で共に戦ってきた仲間です。

           ☆       ☆       ☆

論文の名前は「うつ病のリハビリテーション」です。その中味を要約します。

うつ病というのは、一時的な病でなく、慢性の障害である。だからうつ病からの回復に何が必要かというと、

いささかでも環境や心の構えを変えること。つまり「自己を修正する体験」なくして、薬だけにたよったり

医師に下駄を預けたままでは、この病気は治らない。病気になる前と同じ自分、同じ環境、同じ対人関係、

同じ社会的立場を保存したまま治ることは難しい。環境を変えたり(環境のほうに変わってもらうのでは

ないですよ。環境を変えるというと、環境のほうで変わってもらわないと、理解してもらわないと、と たいてい

の人がいいますがそうじゃないんです。相手は変わりませんからね。これ 私の注です)

そして、「何かしらのふんぎり」「健康的な開きなおり」「人生や対人関係に目からウロコが落ちる体験」など

「以前とは一味違う自分」を発見しなければ、この病気は治らないのではないか。

             ☆        ☆        ☆

わたしがこのエッセイの中で、一番言いたいこと、これから書いたいきたいと思っていたことを はからずも

書いていましたので、紹介しました。

この医師は2歳年下で、決して上司とか先輩ではなかったのに、とても優しい方でした。

今でも思い出すことがいっぱいあります。

医局会といって週に一回、夜おそくまで会議があるのですが、子供たちのことが気になりつつ 下っ端としては

帰ることができません。すると、かならず9時ころになると言ってくださったのです。「〇〇先生、先生はそろそろ

帰ったらいいよ」 その一言で、わたしだけ腰をあげることが出来たのです。

また、医局員7名のうち、一名だけ外国旅行に視察旅行に行けることになったのです。わたしは下っ端ですし、

女性ですし、白羽の矢が当たるわけはありません。彼が行くことになりました、が 彼が言いました。

「僕たちは男性だから、また機会があると思う。でも あなたは女性だから 家事や子育てでなかなか自分から

行けるということはないだろう。この機会にぜひ、あなたが行ってくればいい」 そう言ってくれました。

30数年前の保守的な医師社会で、そんなことを言える先生と共に働けたということが、私の一番のしあわせ

、医師としての原点を作ってくれた病院でした。

私は飛行機がこわかったし、もし何かあったら、子供たちが・・・・と思って 勇気が出なくて行きませんでした。

 その先生は、おみやげに、私の4才の子供にロシアの可愛い帽子をおみやげに買ってきてくださいました。

 また統合失調症の男性がひとり暮らしするにあたって、カンタン料理を研究しては、教えていました。

お金と住まい、あとは料理ができなかったら退院しても暮らしていけない。

わたしはいつも「優しいなあ」と感心して見ていましたし、おおいに影響されたと思います。

意気投合しては共に仕事した、大切な仕事仲間でした。

             ☆        ☆        ☆

さて、今日は 睡眠について書くつもりでしたが、ダウンして一日寝こんでいました。

私は仕事はどうにかがんばってやっていますが、カラダはとても弱いです。その弱さをいつも気に

かけながら暮らしています。

遠出はぜったいしませんし、夜も10時半には休みます。夜の外出はいっさいしないし、とても自分を

いたわりながら暮らしていかないと、とにかく仕事にさしつかえてしまいます。仕事、命なんですから。

先日は ローストビーフの食べすぎだったのでしたが、今回はどうも、枝豆やとうもろこしや トマトを 人に

いただくまま あまりにも美味しくて食べすぎたのが原因だと自分では思うのです。

とにかく何が原因かわからないけど、休日の 3割くらいは寝込んでいます。仕事を休むことは一度もない

わたしですが、日ごろのケアは かなり気を使い、休息を大事にしています。

今は夜の9時半ですが、これ以上パソコンに向かうことも控えています。明日の疲れに影響するから。

これって 半分 ビョーキ?

そんな自分がとても嫌でした。

しかし、今日ダウンしていた日に 蟻塚医師の論文が届き、なんか 目からウロコが落ちました。

蟻塚医師の弱みは「うつ病」です。

でも私の弱みは、この 「弱い体」「弱い神経」じゃないかとふと気づいたのです。

頑健な方とくらべて いつも「なぜ? なぜ? どうして そんなに違うの?」そればかりでした。

でも、タフじゃないのが わたしなんです。どこか 神経も タフじゃないと思う。

本当にこまかいことを気にかけてしまったり、相手のことを考えすぎて 自分の神経を痛めてしまう

ことがよくある。自律神経も不安定で 心臓と目に病気があります。

でも、その弱みを 本当には受け入れていなかったのではないか。 今日、そのことにあらためて

気づいたのでした。

          ☆      ☆      ☆

医師は病気して初めて一人前だと言います。健康なだけの医師には偉そうなことを言う資格がありません。

わからないのですから。

わたしだって、こころの病を治療中の人の 本当の気持ちはきっとわかっていないのだろうな。

偉そうなばかりいつも言って、ごめんね。一生勉強だもの。

蟻塚医師も、うつ病をしたからわかったことがあるのでしょう。

わたしは、普通には健康体ですが、たいていの医師や看護師の持っているタフさがありません。

でも 弱いからこそ、弱い人の気持ちがわかり「自分を大切にしよう」という こういうエッセイが書けると思います。

人には書いているくせに、自分だけはもっと 強くありたいと思っていた 今までのわたし。

今日はつくづくそのことに気づきました。

すぐダウンする弱い私を 人と比べちゃいけない。自分が自分をかわいがってやらなくてはと思った今日の日でした。

原稿は、はかどりませんでしたが 私にとっては 忘れることのできない有意義な一日でした。

こころの病と向き合うために・8 食欲

食欲と睡眠は、精神科でも身体科でも大切な項目です。精神科ではぜったい必須の項目です。

食欲は自律神経の支配下にあります。食べている時には、副交感神経優位になります。

多少緊張していても、食事を始めると、リラックスできるようになっています。これはとても大事な

ことです。食事の時間を大切にする人は、一生の健康を保証されているようなものだと思う。

緊張や心配事があると、食欲がピタッと止まります。そんな経験はありませんか。

私は若いころ、たとえば失恋や心配事などで、食欲があまりにもピタッと止まるので驚いたことがあります。

でも、心配事が解決すると、とたんに食欲が回復してモリモリ食べられることにも驚きました。

最近は神経が鈍くなったのか、あるいは人生の波が平穏になってきたせいか、食欲がピタッと止まるような

ことはなくなりました。それでも、食べることは、とても大切にしています。

ある時、こんなことがありました。遅くまで働きながら毎晩の夕食を作ることは結構大変です。そこで夫と相談して

しばらくスーパーでつくり置きのおかずを買って食べることにしたのです。とても楽でした。

ところが、二週間ほどしたころでしょうか。楽をして時間もたっぷりあるはずなのに、食事が終わっても、 仕事の

疲れがとれません。いらいら感さえ出てきました。

その時つくづく気づいたのです。仕事では緊張の連続ですから交感神経優位です。車を運転して帰ってくるの

ですから、ますます交感神経が働いています。

そこで、突然食事の時間、といっても、神経が切り変わらないのですね。お酒でも飲めれば別かもしれませんが、

私の場合は飲めません。

キッチンに立って、あれやこれや考えながら料理をしている間に、少しづつ神経が切り変わっていくのだなあと

実感しました。健康に気をつけるということは、そういうことも含めて考えてあげるということなのでしょう。

また料理を作るという行為は、大変といえば大変ですが、私の場合には、日中使っていた頭や神経を休ませ、

手やカラダを使うことが大事になってくるのだと思いました。また匂いをかいだり、味を見たり、色どりを考えたり

することが、交感神経優位から副交感神経優位に切りかえるときに、よい役割を果たしてくれると思います。

カラダを使って仕事をしている人には、また別の転換法があると思います。

要は使っていないものを使うということでしょうか。

頭も神経も体も使うという人はそんなに多くはありません。だけど看護師さんや小学校の先生、外科や産科の

お医者さんなんかは、3つを同時に使っていないと仕事になりません。

そんな方にとっては、誰にも会わず、ただぼーっとしていたり、逆に馬鹿騒ぎしたり、ということがあってもいいかも。

それぞれに、自分がふだん何を使って仕事をしているかを考え、使っていないことを使う工夫をすることをおすすめ

します。

食欲の話からだいぶそれてしまいました。

私は診察の時には。食欲があるかないかは、あまり重要事項に考えていません。なぜかというと、実は食欲って主観的

すぎてあまり参考にならないんです。

でも 食べることを大切に考えているので、誰といつ、どんな風に、何を食べているかについては かなり詳しく聞きます。

誰といつ、どんな物をどんな風に食べているか聞くだけで、その人の暮らしの半分くらいが見えてくるからです。

忙しさにかまけている人も、食べることを大切にする暮らしをぜひとり戻してほしいと思います。

そうそう、これも余談になりますが・・・・・・・

子育てでも、食べることだけ大事にしていれば、子供は育ちます。むつかしいことを考えるより、一生懸命作ってあげて

美味しい美味しいといいながら一緒にたべているだけで子供は立派に育ちます。

それくらい作って食べるという行為には、愛情と知恵が含まれているからです。

じゃあ、料理のできない人、好きでない人はどうでしょうか。

統合失調症がやっと良くなって退院した男の人がひとり暮らしをする時にも、安くカンタンに作れるおかずを一緒に

考えてあげます。精神科ではそれもまた治療のうちです。が、最近の若い精神科医たちは、そんなことどうでもいいって

言うでしょうね。私はそういうことも治療のうちだと考える、精神科医として最後の世代かもしれません。

こころの病と向き合うために・7

自分の心を見るという体験は、「コロンブスの卵」に似ています。意識してやっていないので、えっ?と思う

かもしれませんが、誰でもやっていますし、出来ます。

「誰でも精神科医になれる法」というわたしのエッセイがあります。精神科医の教科書は何ですか?

フロイトですか? ユングですか?どちらでもありません。精神科医の教科書、それは「自分の心」です。

人の心はぜったいに見えません。だけど自分の心だけは手にとるようにわかります。わたし自身がどんな

ときに、どんな気持ちになるか。自分の気持ちや心の動きを見ることによって法則性を知り、それを相手の

立場になって当てはめてみるのです。人間の心理というものをその繰り返しで学んでいくのです。

と、言ったような内容です。

このことは、病気のなった患者さんにもあてはまります。心の病気になったとき、医師から問われますから

なんと答えようかと考えます。これは普段から考えていないと、診察のとき答えられません。「気分はどう

でしたか?」と問われるので、必然的に、ふだんから自分のこころをのぞきこむようになります。

「自分の心を見る」ということが、初めて意識にのぼるのです。そして余談ですが、そういう意識にもって

いくような診察をする医師が、良医です。

これは身体科にもあてはまりますね。「なんとなく悪いです」と言っても、医師はとりあってくれません。

ですから自分のカラダに意識を向け、自分の状態を自ら観察することになります。あまりにも意識を向け

過ぎると、心身症と呼ばれてしまいますけどね。

病気の予防には、ふだんから自分のカラダや心に意識を向けておくことが大事です。

そのことをお教えてしたくて、長々と理屈っぽく書いてしまいました。ストレートに言えばいいようなものですが、

理屈でわかってもらいたかった。

生まれて10年、お母さんがずっとあなたの心につきそって、あなたの心を、自我を育ててくれたように、その後

死ぬまでの何十年は、自分が自分の主治医として、自分を大切に、自分につきあっていかなければなりません。

その大切さをわかってほしいと思います。

この話は中学生から大学生くらいの若い人に話すと、目を輝かせて聞いてくれます。いつかそんな機会を持ち

たいと思っています。彼らは親から、おとなから押しつけられた身勝手な価値観と、自分らしい若々しい感覚の

はざまで悩んでいるものです。若い人たちが、親の押しつける「ねばならない」に縛られて、どれだけ苦しんで

いるかについては、おとなになった人たちはたいていきづいていません。わたしの話は若い人はスポンジが水を

吸収するように聞いてくれる。

わたしのブログの読者はどちらかというと、もうおじさん、おばさんになった人たちだと思うけれど、ぜひ自分の

まわりの若い人たちに、子供たちに孫たちにわたしがこれから書くことの少しでも伝えてほしいと思います。

こころの病と向き合うために・6

自我について、その続きです。

 自我とは「自分の行為を見ている、もうひとりの自分」だと話しました。

でも、こんな記載も見つけました。

         ☆        ☆       ☆

自我とは、人が適応的に生きていく上に必要なもろもろの精神機能をになった中枢機関のことである。すなわち

外界を近くしてさまざまな状況を適切に判断し(現実機能)、対人関係をうまく調整して適応をはかり(適応機能)、

内部に高まる欲求や感情を巧みに統制し、心理的な危機におちいることから自分を守り(防衛機能)、自律的に

生活しようとする(自律機能)などなどの機能をになう。つまり、外界から自分を守り、うまく適応しながらも、

自律的に生きる力。

          ☆       ☆       ☆

わたしはもっとわかりやすく、こんな風に説明しています。

「押したり引いたりを上手にやりながら対人関係をやっていく力だ」と。この説明は ある心理士の方が、とてもわかり

やすいとほめてくれました。

押すだけだったら「頑固おやじ」を通せばいいだけですから、たやすいです。引くだけだったら、誰も文句をいいません

からこれも波風立たずたやすいです。でも 人間、何が一番むつかしいかっていうと、「押したり引いたりする能力」

なんだと思うのです。

中間管理職が一番むづかしいと言われるのもこのせいです。また また人間関係の中で一番むづかしいのが家族関係、

それも夫婦関係です。「むつかしくなんかないよ」って言う人がいたら、多分 それを言った相手の夫(または妻)が

相当我慢していると思って間違いありません。だって誰にでも「自分」というものがあって、たとえ夫婦といえども

違う人間ですから あっちを立てればこちらが立たず。こちらを立てればあちらが立たず、ということが起きることは

あたり前のこと、自然現象のようなもの。だからあるときは主張し、あるときは我慢しなければいけないのです。押し時、

引き時を間違えると、喧嘩になります。我慢のしっぱなしの夫(妻)は多いと思いますが、そんな場合は、「夫婦関係」

をあきらめて子供や友達にはけ口を求めているでしょう。我慢していることさえ意識していない夫(妻)もいると思う。

その場合は、まあ 無意識に避けているのですね。

喧嘩や意見の食い違いがおきても、またお互いに調整して仲良くやっていけるんだ、ということを親から学ぶことに

 よって、子供は自我を形成していくのですから、喧嘩しない夫婦の子供の自我が育っていないということがあります。

また 成績が悪くてもやんちゃ坊主だった子供のほうが、社会で大成したりします。それはヤンチャをすると、頭を

おさえられるでしょう? それで加減というものを覚えていくのです。対人関係が上手になります。なんといっても

どんな能力より、対人関係をうまくやっていける能力が一番、世間で成功しやすいですから。

おとなしいだけの子供や、いい子は、しかられることがありませんから 加減というものがわかっていません。

だからちょっと押して、しかられて、それだけで挫折してしまいます。

こわさを知らないうちにヤンチャを。はずかしさを知らないうちに、自己主張をさせておかないといけないのは

そのためなんです。

          ☆       ☆       ☆

そして、自我を形成し、鍛えるために必要なことはただひとつ、自分を見ている、もうひとりの自分、というものが

ちゃんと機能しているかどうかなんです。

患者さんには主治医。

子供にはお母さん(お父さん)

そして わたしやあなたに必要なのは、他ならぬ 自分自身なのです。

自分が自分の主治医。

なあんだと思うかもしれません。でも コロンブスの卵。これはわかってしまえばなあんだ、ですが 使えるように

なったら、まさに鬼に金棒。

           ☆        ☆        ☆

立派な方が、自我が強いとはかぎりません。ヘンなプライドが邪魔をして、自分の弱みを正視できない場合は

賢いはずの方や立派な方に案外多いようです。

朝青龍が、一時、批判に耐えられなくなって解離性障害という、もっともらしい病名がつきました。あの場合も

批判に弱いというか、突然批判された自分を受けいれ難かったので、貝のようになってしまったのでしょう。

雅子妃殿下のことは、週刊誌で書かれている以上のことを知りませんが、やはり、自我が弱っていることや

葛藤が関係していると思います。

批判や葛藤に耐える力こそ、自我の強さです。

環境のせいにすれば、何事も自分のせいじゃないのですから楽です。でも、誰も拉致されたんじゃない。

本当に拉致されて、あんな苦しい人生を強いられた人でさえ、生き抜いてこられたではありませんか。

自我の強さと、その人の地位、能力、知能はほとんど関係ありません。

わたしの患者さんでも、自分を見つめる能力を養うことに成功している人がいくらでもおられます。

でも一方で、立派なはずの方が、ちょっと批判めいたことを言われただけで去っていかれます。

自分が自分の主治医になって、自分のこころを見つめる、大切に扱ったり、弱みを受けとめてあげる。

そんな方法のいくつかをお話していきたいと思います。

こころの病と向きあうために・5

その答えはちょっとこっちに置いといて、みなさんに少し哲学的な話をしたいと思います。

哲学や心理学や精神医学の世界で「自分とは何ぞや」という問いかけを古今東西、営々とやってきました。

それでも答えの得られないむずかしさの壁を、精神医学の世界ではたやすく越えてしまったといわれています。

それはどういうことかというと、自分というものを、ふたつに分けて考えるのです。つまり「自己」と「自我」です。

「自己」とは行為している自分。つまり今なら、このブログを読むという行為をしているあなたです。そして

「自我」とは、読んでいるあなたを、もうひとりのあなたが観察していると思ってください。「このブログ、つまんない」

と思いつつ、つい読んでしまってる私がいるわ」と自分を観察する力です。

つまりおとなの人間というのは、行為しながら、その行為している自分を冷静に見つめる力を持っているのです。

よく「うちの子、3歳になって自我が出てきたから」なんていうお母さんがいますが、それは自我なんかじゃありま

せん。単なる自己主張です。また「あの人は頑固だ、我が強い、自我が強いんだ」ということもあります。

これも自我なんかじゃあありません。頭が固くなっているから、一方的に自分を主張しているだけという場合です。

統合失調症の患者さんは、自我が弱いといいました。つまり自分の行為を冷戦に観察することができません。

「2~3日前から、私の悪口を言っている声が聞こえるようになったんです。最近、仕事に自信がなくてね、

なんかひがみっぽく感じることが多いんです。こころが疲れているのかなあ。悪口言われるようなこともして

いませんから、被害妄想でしょうかね、わたしってこころ病んでますね」などという患者さんはいません。

いきなり「盗聴されてる。悪口言う人がいる。なんとかしてください」です。

また思春期以前の子供にも、まだ自我というものは発達していませんので、自分の行為を見る力がありません。

自我の役割をはたしているのは、お母さんです。夢中で外で泥だらけになって遊んできて、帰ったらお母さんから

「まあ、楽しそうに遊んできたわねえ」といわれることで「ああ、外で思う存分遊ぶことは、楽しいことだし、それは

お母さんも喜んでくれてるから、いいことなんだ」と感じるわけです。そうやってお母さんを喜ばせる行為から

自分の自我をとりいれていくわけです。

それが思春期ともなれば自我ができてきてますから「少しは外で遊んでらっしゃい」とお母さんから言われても

「うるせーぇ。そんなことは俺の好きなことじゃねぇぜ。ほっといてくれ」になってしまう。何をしたら楽しんでいる自分が

いるかということがわかってくるから、もうお母さんの指図や評価がいらなくなってくるんです。

お母さんの仕事は指図や評価ではなくて、本人の気持ちを最大限尊重してあげることだけです。そうやってまだまだ

不安定で未熟な自我が育っていくのです。

こうやって「自我」というものをキーワードに、子供や患者さんのこころの成長や成熟度を考えていく精神医学というのは

むつかしい哲学にはない、現実的でしかも誰にでもわかりやすいという点で、とても優れた面を持っています。

こころの病と向き合うために・4

治療の話のつづきです。

統合失調症の患者さんには、お母さんが子供のこころに添うように、患者さんの心に添う主治医・患者関係が

基本にあること、そして、信頼j関係ができてからは、いろんな職種の人が関わることで、社会に踏みだしていくこと

を話しました。

では、自我がもう少し強い、境界例精神病の患者さんに対してはどうでしょうか。自分で自分を支えきれない

不安定さから「今から死にます」と主治医に電話をかけてくる場合を想定してみましょう。

そんな場合も「死にたいんだね」と優しいお母さんのように辛い気持ちを受けとめてあげればいいでしょうか。

必ずしもそうではありません。強くて温かいお父さんのようにどっしりと構えて、動揺しないことが大切です。

治療者のこころが揺れるかどうか、わざとためしているように見えますが、わざとではありません。だけど結果的に、

治療者が患者さんを信頼してドンとかまえる力量があるかどうかが、ためされることになります。つまり治療者は、

患者さんの病気の重さによって、母親的であったり、父親的であったりすることを求められます。

余談になりますが、わたしは患者さんの気持ちを汲み取り、気持ちに添うような治療態度を体得するまでに長い

年月を費やしました。言葉で言うのはかんたんですが、実際におこなうことはむつかしいことです。子供のように

抱きしめるわけにはいきません。また子供が母親を無条件で愛するようには、患者さんは医者を愛していません。

ありとあらゆる患者さんを相手に、言葉や態度を使ってそういう関係を作っていくことはむつかしいことでした。

 わたしは現実の暮らしの中では、4人の子供の母親でした。治療の経験と同時進行で子育てをしていましたので、

治療でおこなったことを家でわが子にためしてみたり、わが子にしめしたことを治療で使ったりしました。

ですから男性の医師にくらべて、そのあたりのコツを体得するのは上手だったかもしれません。

ところが看護師さんたちからは、しばしばブーイングを受けました。先生は優しすぎる、甘すぎるというのです。

先生が優しくすれば患者さんもいい気持ちになるので、言うことを聞いてくれる。だけど先生が帰ったあとの

長い時間を共に過ごす看護師には、なかなか言うことを聞いてくれず対応に困ることばかりです。先生も、

もっときびしい態度をとってください、というわけです。

そんなわけで、看護師さんの目の前で、患者さんをしかったり注意したりすることもさせられました。

優しいこともむつかしいけど、きちんとしかるということはさらにまたむつかしいことでした。境界例精神病の

患者さんに対して、からだをはって、堂々と持ちこたえれるような男性性を発揮しないと、すぐ見破られてしまいます。

わたしは女性ですので、優しさときびしさを使いわけるコツがなかなかつかめず、ずいぶん苦労しました。

入院しているはげしい症状の患者さんの治療体験を積み重ねる中で、わたし自身が医者として鍛えられたと思います。

さて、もっと軽い患者さんではどうでしょうか。自我も育っている軽い患者さんに場合には、もっと対等でよいのです。

人生の先輩のように支えたり、普通の専門家のようにアドバイスをすることが求められます。

このように、こころの病気を治すという治療行為は、「治す」というより、子育てのように、関係性の中でこころを育てて

いくという感覚に近いかもしれません。

こころの治療とは、主治医・患者関係を使って、こころを育てなおすこと。子供のこころが、お母さんによって、

お父さんによって、そしていずれは友人たちとの関係の中で育っていくことと同じように。

小児精神医療の専門家ではない私が、治療で経験したことを新聞に連載したら、編集者の方が「わが子の気持ちが

わからなくなる前に読む本」という本に仕上げてくださったことがそのことを証明しているように思います。

さて、患者さんには主治医がついている。子供にはお母さんがついている。

では、わたしたち、健康なこころをもって生まれ、そのこころを使って一生を送っていく者たちには、誰がつきそって

くれるでしょう。

夫婦でいれば夫や妻でしょうか。あるいは友人だという人もいるかもしれません。あなたには、いったい誰があなたの

こころの伴走者としてついていてくれますか。

ちょっと考えてみてください。

こころの病と向き合うために・3

治療の話をします。

精神科的治療の基本は、昔も今も薬物療法といって、精神安定剤とか抗うつ薬です。精神科で使う薬

は注意深く使うことが大事ですが、大変よく効きます。

だから世間では、精神科医じゃなくて薬屋さんですか?と皮肉を言いたくなるくらい、薬の調節だけで治

療を終える医者も多いようです。どうですか?とお聞きして、良くないと答えると、じゃあ 別の薬にしま

しょう、と どんどん薬ばかり変えていく医者です。

患者さんのほうも、自分の心に向きあうことを避け、薬の調節だけにこだわる傾向があります。

「薬でこころは変えれませんよ」と言わざるを得ない患者さんもいます。治療の基本は薬です。また 信

頼した医師からもらった薬は、医者からのラブレターのようなものだと思っていますので、大事な治療

法ですが、薬で心が変えれるかというと、そんなことは出来ないと断言できます。

薬を使いながら、ではその医師がどんな治療法を併用するかで、その医師の腕が決まります。

ただし治療法の併用といっても、まだこれといった決定的な治療法はありません。というより、やはり

一定の治療法で心を変えていくことは無理なのであって、決まったものがなくてあたり前なのです。

患者さんの言うことを丁寧に聞きながら、どの医者もいろんな治療法を自分なりに組みあわせ、苦心し

ながら治療しているといったところです。

そこで、わたし自身の治療経験の苦心の歴史を少し語らせてください。

私が新米医師だったころは、もちろんクリニックなどなく、重い統合失調症の方の入院治療が主体でし

た。今から思えばこれが何物にも代えがたい貴重な経験になりました。先輩医師たちも匙を投げたよう

な重症の方を、大いなる社会的偏見と戦いながら、どっぷり4つに組んで治療のできた、最後の世代で

はないかと思うからです。この経験が医師としての原点となっています。

身体科の新米医師や新米看護師には同じことが言えると思います。死と隣りあわせのような重い患者

さんを診てはじめて、軽い病気の方を自信をもって診れるのではないかと思います。とことん重い患者

さんの治療に真剣に取り組む経験がないと軽い患者さんはかえって診れません。

さて、統合失調症のように、自我(自我とは、それを使って、いろんな対人関係や社会との関係を築い

ていく心の力のこと)がとても弱い人の幻覚や妄想、興奮などや、病気ではないと言いはって薬を拒否

する態度などにつきあっていくのは大変ホネのおれる仕事でした。先輩を見習うことはできても、誰も

答えは出してくれません。論文や本で体得していきました。

その中で心に残っているのは、中井久夫先生の書かれた「気持ちを汲む」「気持ちに添う」という治療

態度でした。言葉で言うのはやさしいけれど、それを体得するまで、長い年月がかかりました。

たとえば薬を飲みたくないといって怒っている患者さんを説得することは至難のわざです。「自分は病

気ではない、と思うことが病気の本質である」患者さんに向かって、「飲みなさい」というのは神経を さ

かなでするようなものです。だけどそんなとき「そうか、飲みたくないんだね、だって病気だと思っていな

いんだから あたり前だよね」とか「自分は天皇陛下の子供だ」という妄想のある患者さんに「それは違

う、そんなこと言うことが病気だ」と決めつける前に「へぇーっ。あなたは天皇陛下から生まれたってホン

ト? どうしてそれがわかったの? いつからそう思ったの?」と信じてあげることを先にする、そんなこ

とから患者さんに気持ちを汲んだり、気持ちに添ったりできるようになっていきました。

まやかしだという人がいるかもしれません。でもこれって、9歳以前の子供を育てているお母さんの母

心そのものなんです。

お菓子を食べたばかりのわが子が、もっともっととわがままを言うときがあります。そんなとき、お菓子

を食べたばかりでしょ、だめですよ、と説教すると 子供はすねてしまいます。

でも「あら、もう食べたくなっちゃったの? 美味しかったもんね。でもほら、お母さんは今、洗い物の最

中でしょ。これが終わったらあげるからそれまで外で遊んでらっしゃい」と言えば、気持ちをくんでもらっ

た子供は、なんとなくその気になって「はーい」と答えて外へ飛びだしていき、お菓子のことなどすっかり

忘れて、遊びに夢中になってしまうかもしれません。子供はお菓子をほしかったのでしょうが、それ以上

にお母さんに気もちを受けとってもらいたかったに違いありません。本来は自分の中に自己と自我があ

るんですが、 自我ができあがる前の子供というものは、自我の役割をはたすのはお母さんなので、

お母さんが認めてくれること、お母さんが喜んでくれること、そのために生きているようなものなのです。

そうやってお母さんを喜ばせるために生きていく行為が、すなわち子供の自我を作っていくようになって

います。

もっとも、子供じゃなくても、おとなになっても、自分をもてあます時期というものはあって、わたしにも

経験があります。開業して何年かたったころ、仕事が辛くて仕事をやめたいくらい落ちこんだことがあり

ました。同業者ならわかってくれるかと、内科を開業している同級生だった男の先生に電話しました。

「やめたくなっちゃった」そう言ったら彼は「あなたねえ、仕事って本来きつくて辛いものなんだよ」と

お説教を始めたではありませんか。わたしは「あなたに説教してもらうために電話したんじゃないの。

よくそれで医者やってられるわねえ」とばかり電話をガチャンと切ってしまったんです。

ぐちを聞いて、辛さをわかってもらったら、また元気が出るってことは誰でもありますね。

これってわがままでしょうか。わたしは決してそうは思いません。患者さんなら、まず自分の痛さやら辛

さやらをわかってもらいたいものですが、普通の患者さんでなく、自分で自分を受けとめる自我という

ものがない統合失調症の患者さんは、誰かが気持ちを受けとめてあげないと、前へ進めません。

また、自我ができあがる前の子供というものも、条件なしで丸ごとお母さんに認められたいものなん

です。条件たとえば勉強ができるからいい子、明るいからかわいい子、そうではなくて、もう存在して

いるだけでいいの、ありのままそのままで自慢の子供なのよ、そう言われ続ける9年という歳月が

人間のこころにとっては不可欠なんです。そしておとなも、時にはね。