連載コラム(9)しあわせは、持ち物の量で決まらない

昔、よく往診をしました。

通院を拒否する統合失調症の⽅のおうちに診察に出かけるのです。家の中に「何にもない」ことが多くて驚いたことがあります。

何かに関⼼を持つと、どうしても「モノ」が増えることになりがちです。

まったく何にもないガラーンとした部屋を⾒ながら、この患者さんの精神内界もこんな⾵に荒涼としているのだろうかと思ったものです。

(このくだりは、私の患者さんから、少々傷ついたと言われていますので、そういう場合もあったということで、また書き方を考えなおしたいと思っています)

⼀⽅では、多くのモノを収納しきれない⼈が増え「収納術」の本が出始めました。

その次が「断捨離」でしたね。

「断捨離」が発展して⾏き着く所まで⾏き、今では「ミニマリスト」という⼈たちの本が書店に平積みされています。

「ミニマリスト」と称する⽅の部屋の写真を⾒ると、昔、統合失調症の⽅の家に往診に⾏った時の⾵景を思い出します(この表現も考慮の余地あり、ですね。それに、ちょっと違う感じですので。ミニマリストさんは本当に何も持っていないようですから)。

それこそワンルームの部屋に、布団と1組の⾷器だけ。テーブルさえ、収納ボックスを兼ねた箱であったりします。「本当にそれだけで⽣活できるの」と問いたくなってしまいます。

しかし、彼らはインターネットを通じて社会とつながり、いろんな情報を持ち、最低限の仕事をしています。そういう形で社会とつながることを選んだ結果なのでしょう。

私の病院の隣に⼩さなグループホームが建っています。病院を退院した後、⺠間のアパートで⽣活する⼒やお⾦のない⽅がここで暮らしているのです。

ここにも持ち物の少ない⼈たちが住んでいます。ある⼈は資産家の家に⽣まれ、豪勢な⾃宅を持っているのに、その家を空き家にしてまでホームに⼊居しています。また、共同作業所で働いたり、病院のデイケアに通ったりするのが⽇課の⼈もいます。

皆さんの暮らしは質素、部屋は超シンプル。多くのモノや責任を背負って息切れ切れに暮らしている私から⾒ると、その⽅たちが⾝軽で飄々と⽣きているように⾒えて羨ましく感じるのです。

私がそう話すと、彼らは「先⽣も飄々と⽣きているように⾒える」と⾔ってくれます。

そこで「モノを持っていてもいなくても、⼈⽣の苦楽はほとんど同じねえ」と、2⼈で笑い、お互いにそこそこの幸せを確認するのです。

幸せが環境に左右される⽐率はたかだか10%だという報告を読みました。「なるほど」と思います。

その理由として、どれだけお⾦持ちでも、それに慣れてしまえば当たり前。⾼学歴しかり、⼤邸宅しかり、美貌しかり。すべては「慣れ」の現象が起きるせいで、いずれそれらは「当たり前」となります。そして持っているモノはすっかり忘れ、ないモノを数え出すようになるのです。

⾃分にとって価値あること、必要なことを知り、それを選んで⽣きていけば、おそらく多くはいらないのではないか、と思います。

つましく謙虚な患者さんたちから私は日々、多くのことを学んでいるのです。