こころの病と向き合うために・1

こころの病気とはいったい何でしょうか。精神科の教科書は変わっていないのに、精神科にやってくる人たちの

病気の様子が、この何十年ですっかり見違えるように変わってきたことについて、まずお話ししたいと思います。

わたしが精神科医になったのは、昭和46年、今から37年も前のことです。その頃、精神科の病気といえば

精神分裂病のことと言ってもいいくらいでした。この疾患、今では統合失調症と呼ばれるようになったことは

みなさんもご存知だと思います。

わたしは、この統合失調症という病気の治療に、20年、専念していました。この病気は100人ちょっとでひとりが

かかる病気です。100人というと、学校の2クラスから3クラスにひとり。とても珍しいというわけでもなく、かと

いって決して多いわけでもない、特殊な病気でしょうか。その頃、治りにくい、社会で生活するのがむずかしい、

どちらかといえば社会から隔離しておいたほうがいいというわけで、精神病院というのは、総合病院からも離れ、

どこか辺鄙な場所にひっそりと建っていることが多かったように思います。精神科医という仕事も、そういう辺鄙

なところで、ひっそりと仕事している人たちでした。

ところが今では、一生の間に精神科にかかる人は、なんと4人にひとりだと言われています。100人にひとり

だったのが、100人に25人、なんと24人も増えてしまったんです。その間に、何が起きたのでしょうか。

どんな風に変化したのでしょうか。わたしが診療の第一線で肌で感じてきたこの変化を、この間に社会で起きた

事件とからませながら、お話ししたいと思います。

統合失調症の方というのは、「手のかからない聞きわけの良い子供で安心していた」と言われることが多いの

です。そんな方が、親元を離れ社会に出たとたん、その荒波に対応できず、突然混乱して被害妄想や幻聴を

きたす病気です。病気の成り立ちはシンプルですが、「病識」といって、自分のこころが病んでいるということを

認識する力がないことが一番の特徴です。そのため、いったん治療という段には、手ごわい病気のひとつ

なんです。

10年くらいは、その病気の方の入院と外来での治療に専念していました。30数年前のこの時代は、学園紛争を

経験した世代が若くて働きざかりでしたので、どの業界も元気いっぱいだった気がしますが、精神科もそうでした。

またわたしは、どちらかというと型やぶりな医者でしたので、精神病院を開放しようという運動をおこして、鍵を

つぎつぎにとりはらったり、引きこもっている方には、積極的に往診もしました。入院中の患者さんを診るだけでなく、

精神科医の大事な仕事のひとつが往診であったり、外泊中の家庭訪問であったり、患者さんが就職した先を職場

訪問だったりしました。患者さんだけでなく、家族の相談にも積極的に応じていました。診察室という狭い空間を出て

家族や社会の中の患者さんを総合的に看るというのが、わたしが勤めていた病院の方針でした。

ところが、20数年前から、それまで診たことのなかった症状の患者さんが出現してくるようになりました。 

幻覚や妄想はない。口も達者だったり、社会でもそれなりにやれているのだけど、一方で家族に暴力をふるったり、

リストカットを繰り返したり、自殺予告の電話をかけてきて治療者を戸惑わせたりして、神経症の患者さんにはあり得ない

はげしい症状をあらわす患者さんたちです。これは境界例精神病という人格障害の一群だということが次第にわかって

きました。別名・ボーダーラインというので、みなさんの中にも聞き覚えがあるかもしれません。境界例の境界という意味は

統合失調症ほど自我の弱い精神病でもなく、かといって神経症よりは重い。そのふたつの境界に存在するという意味です。

はげしい症状をくりかえす、そういう患者さんたちの治療の右往左往してまた10年ほどたったころ、つまり平成になった

ころから、神経症圏の患者さんが増えてくるようになりました。不安神経症であるとか、強迫神経症であるとか、うつ状態で

あるとか、あまり精神病的な要素がなく、学校や会社に行ってはいるのだけど、何かしら悩ましい、困った症状があって

精神科に来る方たち。ごく普通の会社員であったり、学生であったり、主婦であったりする方たちが目立つようになり

次第に増えてきて、大半をそういう人たちが占めるようになりました。

その時期を同じくして、わたしも「社会復帰しよう」という気持ちになってきました。

社会で働いているわたしが「社会復帰」というのもヘンかもしれませんが、自分としては、重症の統合失調症や境界例

精神病の患者さんを相手に奮闘して磨いた医者としての腕が、一般社会の、軽いこころの病の方の病気をよくするのに、

どれだけ役たつかためしてみたいと思うようになっていたのです。それをわたしは「わたし自身の社会復帰」と呼んでいて、

この年齢になってから総合病院で働くようになったのも、本を書いたり講演をするにも同じ社会復帰路線の線上の

つもりです。

そういうわけで地方都市の繁華街の一角で神経科クリニックを開業したのは、今から17年ほど前のことでした。