こころの病と向き合うために・2

精神科というのは、ある意味「社会の窓」です。ですから当然かもしれませんが、社会のほうにも変化

があらわれ始めていました。

今から20年前、最近死刑に処せられたという宮崎 勤の幼女殺害事件がおきました。精神的異常を

疑われ、精神鑑定がおこなわれました。3人の鑑定医がそれぞれ別々の鑑定結果を出すという異例の

事件でした。わたしは関心を持ちましたし、驚いたことはたしかですが、特殊なケースだろうと思い、

いずれ忘れていったように思います。

ところがそれから8年後、忘れられない事件が起きました。神戸の14歳少年による殺人事件です。

手のこんだ残虐な事件の犯人がまさか14歳の少年だとは、誰も予想しなかったのではないでしょうか。

わたしが「大変な時代になった」と感じた理由は、その少年に精神的疾患がなかった、つまりごく普通に

生まれて生きていくはずだった少年が、育ったプロセスの中で、事件を起こすまでになったということで

す。誤解があると困りますから説明しますが、精神的疾患があれば事件をおこしても不思議じゃない、

驚きはしなかっただろうという意味ではありません。精神的疾患と犯罪に相関関係はないばかりか、

こころを病まない人の犯罪のほうが、世の中にははるかに多いのです。わたしの場合は、精神科医の

さがとして、わずか14年間の少年のこころにどんな心の変化があったのだろう、それに関心を持った

のです。

そのとき強く思ったのは、わたしたち戦後のおとなの子育てが、どこか間違ってきているのではないか

。わたしたちが何か大切なものを見失い、子育てにそれが影響しているのではないか。そんな危惧を

抱くようになったのは、精神科医としての自然の流れでした。

「このごろの若い子は。。。」と言いがちですが、子供たちは変わっていません。生まれたときは真っ白

です。どの赤ちゃんも、気質こそみんなそれぞれに違いますが、心は真っ白でまっさらであることに

今も昔もなんら変わりはありません。

でも大人が自分を見失ったり、忙しさにかまけて大切なことを捨ててしまったりしているために

子供への対応にすこしづつ変化が起きているのです。

さて、その後もこれでもかこれでもかというほど、少年少女による、考えられないような殺人事件が

起き続けています。

最近一番驚いたのは、父親と一緒にカレーライスを作って、楽しそうに食べたその夜に、就寝中の

父親を刺し殺した少女の事件でした。その前日に試験をボイコットして無断で休んだという以外、

母親にも周囲にも、何ひとつこころの変化を気づかせていないこと。また少女自身が「自分でも何を

したかわからない」と供述していることです。

こころの中は見えないものであるとはいえ、ここまで見えないのがこころだとしたら、やはりこころの

問題を誰もが真剣に考える時期にきているのではないかと思うのです。

 ずっと、人のこころを仕事の対象にしてきた私が、この20年来の変化を「こわい」と感じます。

37年前に、内因性の精神疾患だけを治療の対象にしてきた私が、今ではほとんどの患者さんが

ごく普通の人です。見かけは普通だけど、実は。。。。とかいうレベルの「普通」ではなく、本当に

「普通」。ほんのちょっと前まで、親の自慢の子であったり、数十年の人生を何のとどこおりもなく生きぬ

いてきた人であったり、という意味の「普通」です。

それが精神科医のわたしだったとしても、決して笑えない話としてあり得るというのが今の時代だと

思います。

大袈裟に言うつもりも、おどかすつもりもありませんが、診療を通してまた、いろんな事件を通して

そんなことを考えるのです。

こころの病気とはいったい何でしょうか、という話がこんな風になりました。

まとめると、こころの病気とは、これほど実態が不透明なものもないということ。また「私には、わが家

には関係ない」と言い切れるものでは今やないということ。そして時代によって変わるものである

らしいこと。

現代では「心の健康な子を育てる」とか「一生を精神的に健康に送る」ということがどの人いとっても

人生の大きな課題として立ちはだかっていて、その傾向はますます強くなるかもしれないということを

まずわかっていただきたいと思います。