「自分らしさとは何か・1」

友だちとルイサダのピアノ演奏会に出かけた。食事をしたりしてひさしぶりに長く話した。

彼女は年とってから哲学科の修士号をとった。今現在も勉強中だ。

話してみた「本を書きたいの。でもどうしても書けないの。誰か書いてくれる人、いないかしら」

「自分で書きなさいよ。書けるわよ。書きたいことさえあれば」

「書きたいことはあるわ。いっぱい。でも言葉が出てこないの。たくさんの体験がありすぎて

まとまらないの」

「書きたいことのあることが一番大切なのよ。やってごらん」

背中を押されて、一枚だけ書いてみた。

誰か助けてほしい。

☆      ☆      ☆

昔は精神分裂病と言いました。今は統合失調症といいます。心の病の中で一番嫌われた

病気でした。

そのことによって兄弟が結婚できなかったり、親が病気の子供を一生病院に入れたまま、

世間から隠しつづけた時代が長くありました。そういう時代に私は精神科医となりました。

統合失調症は「自我の病」です。自我が弱いために、社会に出たとたん人間関係などに

つまづいて破たんすることが多いのです。ですから若者特有の病気です。

ところが、たまたま老年期になってから何か身体の病気になって病院に来た女性に、

統合失調症の患者さんを見つけることがありました。

どうしてもっと早い時期に発病しなかったのだろう。あるいは発病しないまま老年期を

迎えられたのだろう、と不思議に思ったものです。

もちろん統合失調症の中でも軽いほうだったせいもあるでしょう。しかしそれだけではない

何かがあったはずです。そういう方たちの多くは、優しく穏やかで面倒見の良い夫を

持っていました。

嫁姑の葛藤からも無縁でした。なかなかに健康でしっかり者の子供たちに恵まれていました。

家庭という砦に守られながら、無理なくその人らしさが生かされ、居場所があり、存在が

認められていたなら、たとえ統合失調症と言えど、発病しなくてすむんだ。

それは私が若い医師だったころの、一番最初のおおきな発見でした。

でも、どうでしょう。優しい夫に守れられながら、家庭という枠から一歩も出ないで一生を送ることは、

その方が選んだ本当にしあわせを感じられる暮らしだったでしょうか。それはわかりません。

昔は、精神安定剤を服用することを嫌がる患者さんがほとんどでした。薬を飲むことは

「精神病者」のレッテルをはられることだったからです。

私は笑いながらよく言ったものです。

「あなたが、誰ともつきあわず、森の中でひとり暮らしをするなら、薬はいらないでしょう。

けれど薬はいらない、病気にもならない。だけど、誰ひとり訪れる人のいない森の中で

一生を送ってそれでしあわせですか」

そう話すとほとんどの患者さんは「それはいやです。私はみんなの中に出ていきたい。

家に閉じこもったままの暮らしなんて嫌です」と答えます。

でもわたしはいじわるな人です。「そうでしょう。じゃあ薬を飲むことですね」

などとは決して言いませんでした。

「そうね。いろんな人生観があるし、好みの暮らし方も違うからね。あたなが森の中で

一生ひとりで暮らすなら、薬はいらない。それでもいいんですよ。でもあなたが別の人生を

選ぶなら、それは強いストレスになるかもしれない。

でもたとえストレスになったとしても、そう生きたいと思うことだってあるでしょう。自分がどういう

生き方をしたいか。どういう暮らしを望んでいるか。それによって治療は違ってきます。

よくよく考えてからまたいらっしゃい」

そう言っていったんはお帰しするのでした。

自分にとっても、患者さんにとっても「自分らしい生き方とは何か」

「どんな生き方が合っているのか」

「悔いなく死を迎えられる生き方とは何か」

そういうことから目をそらすことができない、

それが大きなテーマとなった若い日の私でした。

こころの病は人間関係の病

ひとに近づいて楽しみ苦しみ

ひとと離れて自分ひとりの時間を持ち

またさびしくなって人に近づく

そのバランスの中にこそ人生の醍醐味がある