自分らしく生きる14 弱い人ほど強くなれる

職場のクリスマス会でピアノを弾いた。だいぶ失敗した。

が、心理士の若い男性がわざわざ来て「昨年より見違えるほどうまい」と

言ってくれた。飛びあがるほどうれしかった。

看護師さんに「私があまり大きく写らないように撮って」とカメラをわたした。

そしたら、まってく写らないように撮れていた。

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遠くに住む友人と電話で話した。子供が幼いころ子供つながりで知りあった友達

だから、もうかれこれ30年近く続いているだろうか。私のブログを読んでいてくれる。

近況がわかって毎晩読むのが楽しみと言ってくれる。でも最近のブログを読むと時々

落ちこむの、と明かしてくれた。子育てに関しては、私はかなり手きびしいからだ。

自分でもわかっているが、子供たち若い人たちが苦しむのを見ていられないのだ。

すごく辛い。だからつい親世代にきびしくなる。彼女は子供さんのことで悩みがある

のかもしれない。どんなに近い友人でも、相談された時以外は触れないので、

わからない。私が相談にのってもらうほうが、はるかに多い。私は弱虫なのだ。

私の弱さを知らない人は、私の友人ではない、と言いきれるくらい、友人だけが

知っている私の気弱で神経質でナイーブな一面がある。

でもブログでは、その弱みもまた惜しげもなくさらけだす。結局は強いのだ。

「あなたはどうして、そんなに強いの? 弱みをさらけ出せるの?」とその友人から聞かれた。

今日はその話をしよう。

先日、伊勢エビを食べるために伊豆に行った。お降風呂にはいりこれから

食事というとき、携帯をチェックした。電話がたくさん入っていてメールまであった。

どうも私の患者さんが2名。大変なことになっているらしい。精神科で「大変」といったら

自殺か他害である。今日はその両方だった。私は内心、食事どころではない気分に

なってしまった。夫は私の仕事がどんなに大変かを知らないから、そわそわしている

私を見て不機嫌になった。それも仕方ないかなと思えた。伊豆にいるんだもの、指示は

出せても自分では動けない。観念するしかない。

伊勢エビを美味しそうに食べながら、一方で死ぬか生きるかという瀬戸際である

人への指示を出す神経というのは「異常」である。普通の神経だったらやれないことだ。

「異常」で「無神経」とも言えるし、良い風に言えば「自我が強い」とも言える。

でもそわそわと落ち着かなくなる自分を、私は否定しない。

そわそわがなくなったら、もう人間ではない。

医者になったその日から、そういう修羅場にさらされ続けてきたために、訓練された、

という強さがひとつ目である。

ふたつ目。友人にも言ったのだが、最初から強いわけではなかった。

30才過ぎたころの私は、体裁を気にするただただ弱い人だった。最初の結婚に

失敗したと悩んでいた私は、そのことを誰にも相談できずにいた。友人知人にも

隠していた。ところが夫の変人ぶりを友人たちが気づくようになり、だんだん隠しきれ

なくなってきた。だんだんばれてきて、少しづつ自分の置かれた

「幸福ではない状況」を認めるしかないか、知られるしかないかと思い始めた。

精神科医が離婚だなんて洒落にもならない、という時代背景もあった。体裁を保て

なくなってきたプロセスは多分、ヒストリーに書くと思う。

つぎは子供である。娘が思春期のときうつ病になった。精神科医の娘がうつ病だなんて

これまた洒落にもならない。そう思って人には相談できなかった。

しかしだんだん周囲から砦がこわされてきた。「お宅のお嬢さん、ちょっと元気が

なさ過ぎるよ、大丈夫?」「こないだお宅に遊びに行ったとき、娘さん寝てばかりいたよね、

あれって異常じゃない」などというおせっかいおばさんがあらわれて、隠せなくなってきた。

そのうちに娘はだんだん重くなった。私はおろおろして真夜中、友人である精神科医

の家に電話しまくる一時期があった。

「あの○○先生(私のこと)でさえ、わが子のことになったら台無しだね」と言われていると知り、

私は自分のおろかさと弱さを認めざるを得なくなってきた。

ただただ不遜でごう慢な医者だった私も、患者さんや家族の方の気持ちもわかる

ようになってきた。

何事も一朝一夕にはならない。体裁を捨て、捨て身になれたのは、

私が体裁を保てない状況に置かれたという、

ただそれだけのことである。

3つ目の理由がある。

私の目の前に座る初診の患者さんである。初対面の私に対し、何の防衛心もなく、

弱みをさらけ出して相談を受けようとなさる。その私という医者を疑わおうとしない

無防備さ、純真さにいつも心打たれる。

私だけカッコつけていられなくなるのだ。

弱いのはみんな一緒。弱い人でも、打たれている間に打たれ強くなれる。

また私の「自我」を友人たちが横から支えて助けてくれたように、誰かの「自我」を側面

から支えられたら、と思う。

そう思いながら毎日なにかしら書いている。

話は変わるが、職場でとても辛い思いをした。手きびしく私を批判する同僚がいて、

頭では理解できるのだが、図星すぎて精神的に辛く、今その職場をやめようかとさえ

思うほど悩んでいる。

今日の電話の友人に相談した。

「誰にでも欠点はあると思う。だからどんな意見も、あなたを成長させてくれる糧に

できるよ。それに、その図星の嫌な忠告と、その同僚の人格は別でしょう。意見とは別に、

ひとつの人格を持ったひとりの人間としてのおつきあいをしたほうがいいよ」と言ってくれた。

これはすごく効いた。「ひとつの人格か、いい言葉だな」と思えた。

以前はそんな手きびしくも的確なことを言ってくれる人ではなかった。

ああ、なんていいことを言うの。彼女には悩みがあるのかもしれないが、悩みこそ

人を成長させるものなのだとつくづく感じた。

悩みのない人は、しあわせの風を周囲にふりまいて、まわりをしあわせにしてくれればいい。

しあわせの風。ふける人はいっぱい吹いて、人をしあわせにしよう。

悩みのある人は、そのことによって成長する時期なのかな、と思えばいい。

いずれ近い将来、それが自分を助け、人を助けることにつながるのだから。