自分らしく生きる28 自分や病と「向き合う」とは何か・2

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今日、職場にあった婦人公論を何気なく見ていましたら、今をときめくスピリチュアル的

視点での発言で有名である人の文章が載っていました。

わずか3頁の中に「現実と向き合う」「家族と向き合う」などの「向きあう」という言葉が

たくさん出てきました。他にも立派な言葉のオンパレードでびっくりしました。

今の世の中を批判して「とにかく明るく生きていきましょう」とはげましていましたが、

こんなにむづかしい言葉を、こんなに安易に使う人をもてはやすわたしたちのほうが

おかしいのではないか。世の中をとやかく言う前に、そういう人をもてはやすわたしたち

個人個人がすでにおかしいのではないか。そう思えました。

わたしが「自分らしく生きたい」と言うときには「自分の短所を無理に直すより、

できるかぎり長所を生かして生きていきたい」「適材適所で生きていきたい」

そういう軽いノリで使っています。なんせ中学一年生ですでに「自分らしく生きて

いきたい」と切実に思っていたのですから、誰から教わったわけではない自分の

言葉なのです。

けれど「向き合う」という言葉に関していえば、簡単ではありません。

安易に使う気持ちには到底なれません。でも、精神医学的にいうと、とても

大事な視点なのです。

しかし、日常的には、そんなに「向き合わなければいけない」場面などありません。

私など「夫と向き合った」ことなど10年で3回もあるかないかです。

「現実に向き合った」ことも10年に2度か3度です。「向き合う」などという疲れる行為は、

そんなにしゅっちゅうあったら大変です。

ただし「自分と向きあう」というのは毎日寝てる時間以外はやっています。

そうです。

「向き合う」という行為は、そもそも「自分の中」でしかできないものなのです。

「家族と向き合う」ですって? 家族といっても、姑と夫と息子と娘がいるのに、

全員、それぞれに思いが違うじゃあないですか。それを「家族」としてひとまとめに

すること自体間違っています。

「現実と向き合う」ですって? 現実なんてさまざまな現実がありすぎて、その中で

どの現実と向きあうんですか。

そもそも「向きあう」という精神的行為は、自分の中でしかおこなえないものなのです。

コロンブスの卵のようなもの。出来ない人にはぜったいできない。できない人が、何かに

直面して自分を見つめざるを得なくなったときには大変です。死にたくもなります。

しかしいったんできてしまうと、なんだ、というくらい簡単です。楽しいです。そしていったん

できてしまうと、生きていくのがとてもラクになります。

人間関係もスムーズになります。

そこのところを次回説明します。

今日の文章はどうしても書けませんでした。丸一日考えて、書けませんでした。

それで、あきらめて寝ました。でも人にわかりやすく伝えるということは本当にむづかしくて

書きにくかったということを書いておくだけでも、明日書きやすくなるかな、と思い、

起きだしてきてこれだけ書きました。

「向き合う」という行為は、自分の外のものとの間で使われるけど、そもそも自分の中の

世界でおこなわれる行為なんだ、と気づけただけでも収穫でした。

私の文章は、誰かの本から抜いたりしていませんので、自分でよほどわかっていないと

書けません。