自分らしく生きる30 自分や病と「向き合う」とは何か・4

毎日、患者さんを診察している私ですが、こころがけていることがひとつだけ

あります。ひとりの患者さんが診察室にいる時間といったらせいぜい10分から

15分。長くて20分です。30分以上というのは、初回だけです。正味5分と

いうこともあります。

これは保険診療ですから、やむを得ないのです。診察料は3600円と決まって

います。診療所は一時間に4人、これはすごく良心的な人数です。診療所は

営利が出ていないと思う。所長が女性なんです。「それでいい」と言ってくれる

のですが、男性ならこんなわけにいきませんよ。私もそうでしたが、一般に女性の

ほうが太っ腹です。男性が開業すると一般的にこまかいです。

総合病院では一時間に6人の予約が入っています。それくらいでないと採算が

とれないのです。ひとり正味5分です、短いですね。

その短い「時間」をいかに気持ちよく診察を受けていただくかに配慮します。

顔を見て挨拶をします。それからかならず、お天気の話題を出します。

「寒くなりましたね」「いいお天気が続いて気持ちいいですね」「雨で、出にく

かったでしょう」などなど。それは患者さんがドアを開いてから椅子に座るまでの

時間です。その間、患者さんの顔を観察します。こちらはずっと笑顔です。

診察が終わってからも、かならず顔を見て挨拶をします。笑顔です。

「お大事にね」「また一ケ月後にね」「気をつけてお帰りください」などなど。

病院に通ってくるだけでも大変なので、せめて診察くらいは「快い」時間で

あってほしいと願うからです。

私も最初からそうだったわけではありません。若いころは自分の気持ちを見つめる

余裕もなかったし、ましてや就業時間ぎりぎりに入ってくる患者さんなんかには、

いやな気持ちが顔に出ていただろうなあと思います。自分と向き合い、

自分の気持ちを見つめる訓練をしたり、「快」と「不快」に配慮をする生き方を

していたら、結果的に今のようになれたのです。

「自分と向き合う」ということは、自分の気持ちを見つめることだと話しました。

自分の気持ちの中でも、ネガティブな気持ち、たとえば不快、悲しい、悔しい、

避けたい感じ、怒りなどは、あまり見たくない気持ちです。どうしても、見ないよう

にしてすましてしまおうとする意識が働きます。けれど、そういうネガティブな気持ち

をきちんと感じてあげること。そういう気持ちを人間なら誰でもおきる普通の気持ち

であると認めてあげること。それが自分と「向き合う」ということです。

それができて初めて、「他」の気持ちに向き合えるようになれます。

でもそういうことが出来きるまでには、やっぱり訓練が必要です。訓練といっても

「コロンブスの卵」と言いましたが、やれてみれば、なあんだ、ということなのです。

まず手はじめに「快」と「不快」を感じる練習をしてみてください。

「快」と「楽ちん」とは違います。「快」と「イベントをして楽しかった」というのも

ちょっと違うのです。

「この人と一緒にいるとなんだか心地いいな」でもいい。「温泉、気持ちいい」でもいい。

「白い雪に真っ青な空を見ていると、凛としてとても好き」でもいい。「コンビニで買って

きたら楽だったけど、がんばって野菜スープを作ってみたら、なんと味が深いの。

美味しい」でもいい。「つまんない曲、と思っていたけど、強弱つけて優しく弾いて

みたら、なんとかわいい曲なの」でもいい。

暮らしの中でつぎつぎと起きてくる山のような出会いに対して、「快」と「不快」の

位置をきちんと与えてあげる。

「快」に敏感になると自然に「不快」にも気づくようになってくると思います。

でもまず、たくさんのささいな「快」を積み重ねていくことをお勧めします。

大きな旅行を計画したり、イベントを作らないと楽しくないというのではなく、

生きているかぎり、かぎりなく起きてくる出来事の中から、でいいのです。

あまりハッスルしたり、感嘆したりしなくてもいいくらいの、微妙な「快」に

気づけるようになったら、人生の質があがると思います。

患者さんにも、自分と向き合うようになってほしいから、まず手はじめに、

診察の短い時間を「快」にします。病気になったのは辛かったけど、今日も○○先生に

会えてうれしかった、と思っていただけることが、むづかしい治療以前の治療だと

思うので。はたして少しは効いているかしら??

☆     ☆     ☆

今日の写真は、ふだんほとんど抱かせてくれないレモン。

今日はめずらしく抱かれている。

寒いから? ねむいから?

恍惚とした表情で抱かれていたレモンは、今日の話題にぴったりでした。

動物は「快」と「不快」に正直で、人間におもねるところがない。

というところがやっぱりなかなかそうはなれない人間にとって必要な

存在なのかも。