インスタグラムって・・・

 

インスタグラム 

って、名前しか知らなかったんです。(上の文字をクリックすると見れます)

先日、PON.BON夫妻の新聞記事で初めて見ました。

そして関心を持つようになりました。

関心を持つ⇒好奇心を持つ⇒行動する⇒結果を感じる

わたしはこの繰り返しで今まで生きてきました。

すぐ行動します。

やってみて考えるのです。

ちょっと新鮮です。

毎日、一枚づつ載せています。

 

 

 

 

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連載コラム(37)年の始めに手放すこと

<37>年の初めに⼿放すこと

新しい年を迎え、「今年こそ何かを始めたい」と思う⼈も多いだろう。しかし、私はあえてこう勧めたい。「今年こそ何かをやめてはどうですか︖」と。

実は「始める」ことより「やめる」ことのほうがはるかに難しい。⻑年続けてきた何かを、やめたり、断ったり、捨てたり、⼿放したりするには決断⼒や勇気がいる。真⾯⽬な⼈ほど難しい。誠実な⼈ほど悩んでしまう。なぜだろう。それは捨てることが怖いからだ。捨てることは失うことだと思っているか

らだ。断ることは迷惑がかかると思っているからだ。

失うことは誰でも怖い。惰性と⾔われてもいいから、失うよりしがみついているほうがまだラクだ。そうして、「始めるより、やめるほうが何倍も難しいこと」をいいことに、⼈は背負うものを増やしていく。それはあたかも家の中にモノがどんどん増えていく様と似ている。⾃分で⾃分の背中は⾒えない。だからこそ⼀度、その荷を⾒直してみてはどうだろう。

実は⼿放すことは何かを失うことでは決してない。「⾃分の⼈⽣になくてはならないことは何か」をハッキリ知ることにつながる⾏為である。なんとなくずるずると続けていることはないか。⼈⽣のしがらみから断れずにいることはないか。また⾃分にとって⼤事なことでも、⾝体が⾔うことをきかなくなって無理をしていることはないか。いや、かつては⼤事だったとしても、もう役割を終えたことはないか。

⼀つ、⼆つと思いきって荷を下ろしてみれば、肩にくい込んでいた重みも減り⾝体も軽く、動きやすくなる。「荷物が減るって、なんて気持ちのいいことか」とつくづく知るだろう。すっかりやめるのは無理でも減らせばいい、転換していけばいい。そして⾃然に納得のいく形に変えていけばいい。

先⽇ふと思いついて、⾝近な⼈たちに「始めるコツとやめるコツ、どっちが知りたい︖」と尋ねたら、「やめるほう」との答えが圧倒的だった。「⼿放すことはとてもしんどい作業だったけれど、それでも⼿放してよかった」という声も多かった。やめることの困難さや⼤事さにみんな薄々気づいているのだと思えた。

やめることは、⾃分の中に「空き地」をつくるようなものである。いろいろな何かで埋もれていては、新しいものは⼊ってこない。背負い過ぎて窮屈な中でもがいているより、まず、何かを⼿放してみよう。そして静かに待つのだ。そこに何を⼊れようか、何が⼊ってくるだろうと想像することはきっととても楽しいはず。あなたがつくったその「空き地」に、今のあなたにふさわしいものが、ふさわしい形で必ず⼊ってくると思うよ。

ここがポイント!

さて今年、私は何をやめようか。

 

 

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ますます悪化した腰痛

 

しっかりプールで歩けば治る・・・自信満々の(?)私でしたが、ちょっとやり過ぎたようで、今日はさらに悪化してしまいました。

痛くて歩きにくく、身体を  の字に曲げて歩かざるを得ず、情けないかぎり。

 

それでも懲りずに、今夜もプールに行きました。

やっぱり。

「少しでもいいから動かしたほうがいい」

「一日の疲れをとったほうがいい」と

思うからです。

今夜は、たった20分弱、遊ぶ程度に歩き、泳ぎました。

 

たった20分でも一日の疲れがとれてスカッとしました。

20分のために2時間も費やするのはもったいない気もしますが、プールに入る効果は、時間やお金に換えられれません。

 

明日は良くなっていると思うのですが・・・・・

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連載コラム(36)一歩だけ踏み出す効用

<36>「⼀歩だけ踏み出す」効⽤

患者さんに対応する時、「⾏動こそがホンネ」という⾒⽅をすることがある。例えば「早く1⼈暮らしがしたい」と⾔いながら何年も家を出ない⼈がいる。「もちろん結婚したいです」と⾔いつつ決断しない⼈がいる。「こんな会社、今すぐ辞めたい」なんていうのもある。どれも「⾏動こそがホンネ」という理屈に⽴つと、「1⼈暮らしもいいけど、この居⼼地は⼿放せない」「⾃分を捨ててまで結婚したくない」「会社を変わるほどの⾃信はない」あたりがホンネだと私は踏んでいる。その⼈の⾔葉より⾏動を⾒よ、である。

ご主⼈を亡くし、1⼈暮らしとなった75歳の⽼婦⼈がおられた。⼼配した娘さんが夫と3⼈の⼦どもを連れて同居した。

最初はうれしかった婦⼈だが、間もなくことごとく若い⼈たちと合わなくなり、うつ状態になってしまった。「やっぱり1⼈暮らしのほうがよかった」「でも私から同居を望んだのに、出て⾏ってとは⾔えない」と悶々としていた。私は軽い発想の転換のつもりで、「いっそ広い⼀軒家は若い⼈に譲ったらどう︖」と提案した。「娘さんから家賃をもらって、アパートで気ままな1⼈暮らしもいいかも」彼⼥は素直な⼈で私の軽い助⾔を本気で実⾏したのだ。家具つき賃貸アパートを⾒つけてきたのには、私のほうが驚いてしまった。そして「ここで⽣活してもいいかも」と思えるようになったという。しかし結局、彼⼥が家を出ることはなかった。なぜなら「嫌だったらいつでも出られる」という余裕と⾃信が彼⼥をちょっぴり変えたのだ。娘夫婦との軋みが明らかに少なくなった。その後、いろいろあって娘家族が家を出ることになり、今ではほどよい距離を保ってうまくいっているという。

私⾃⾝は⾏動派である。⾏動すれば失敗も多くなるが、想像を超える発⾒がある。⽼婦⼈のように少し経験するだけでも選択肢が広がって⼼に余裕が⽣まれるし、⾃信がつく。これらが⾏動することの効⽤である。そこで提案だが、もしあなたにくよくよと悩んだり、決めかねていたりすることがあるのなら、まずは⼀歩でいいから⾏動してみてはどうだろう。

ここがポイント!

「⼀歩だけ」がいいのは、⼀歩だけなら失敗が少なく、成功体験を得やすいからだ。⼭梨⽇⽇新聞の連載「にじいろ⼦育て」に先週書かれていた⼦育てに⼤事な「成功体験」も「⼀歩だけ」なら失敗が少なく、わが⼦が⾃信を積み重ねやすくなる。⼀歩進めば景⾊が変わる。もう⼀歩進めば気持ちが変わる。次の⼀歩は、⼀歩進んだ後で考えればいい。「⼀歩でいい」「⼀歩がいい」が、私の勧める最⼩にして最⼤のコツである。

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霧の朝

 

今朝は深い霧。

もやの中を灯りをつけて運転して行きました。

 

一日、腰痛がひどくて困りました。

なので、夜はしっかりプールで歩き、泳いできました。

 

若いころから腰が弱く(固く)、しばしばぎっくり腰のような

状態になります。

若い頃は、マッサージ屋さんにかけこんだり、鍼治療を受けたこともありますが、ここ20年は、プールで治します。

腰が固くなると、腰痛になります。

ですので、マッサージや整体でお金と時間をかけるより、プールでしっかり歩くと治っていきます。

先日は、とうとう膝が・・・・と思いましたが、プールで歩いて

治りました。

身体を冷やすので長い時間は良くないですが、40分くらいなら大丈夫。

今夜も30分歩いて、500m泳いできました。

 

すぐには治らないでしょうが、こうやって少しづつ治していきたいと思います。

「痛さ」にエネルギーがとられると、たいした仕事もしていないのに、ふだんの何倍も疲れた感じがして、あちこち痛い人の気持ちがとてもよくわかりました。

 

 

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連載コラム(35)自分にとっての魔法の杖

<35>私にとっての「魔法の杖」

⼦育てと精神科の治療は共通点が多い。そう気づいたのは、以前住んでいた所の地元の新聞に⼦育ての連載をしていた20年ほど前のことだ。児童精神医学が専⾨ではない私が、不思議と⼦育ての記事を書き続けることができた。その経験から、未熟な⼦どもをひとり⽴ちするまで育てる「⼦育て」と、弱っている患者さんの⼼を育てて社会に送り出す「治療」の本質が同じだと知ったのだった。

⼦育ても治療も相⼿の⼼に添い、叱ったり褒めたりしながら対応し、またいろいろな役割の⼈が関わることで社会性を獲得させていく。それを裏づけるように、精神科に勤務するようになって⼦育てがラクになったという看護師は少なくないし、私もその⼀⼈だ。

精神科医になった当初は、ただ患者さんの気持ちに共感することに必死だった。しかし、精神科病院にあっては⼀対⼀の関係だけに閉じこもってはいられない。同時にさまざまな職種が関わっており、⾃分が関わる部分はそのほんの⼀部にすぎない。また主治医としてチームをまとめるという役⽬もある。診察室での様⼦だけでなく⽣活全般や過去、将来など広い視野に⽴って治療⽅針を決める。その中で時には制限をしたり、叱ったりすることも必要になる。

私は最初、家庭でいえば⽗親が担いがちなこの役⽬がとても苦⼿だった。しかし次第に抵抗なくやれるようになり、今ではメリハリのきいた役割と優しくて受容的な役割を使い分けることができるようになった。⺟親や看護師のように⾝近でお世話をするからこそ⾒えることと、主治医として少し距離を置くからこそ⾒えるものは違う。そしてその両⽅が必要なのだ。

精神科ではそれを意図的にやっているわけだが、これはあらゆる⼈間関係に応⽤できるだろう。例えば「両親の考えを統⼀しないと⼦どもが混乱する」などと⾔われるが、必ずしもそうではない。両親であっても別⼈である。考え⽅も接し⽅も違うのが当たり前だ。その⼆つをどのようにうまく機能させるかが⼤事なのだ。また、会社という組織で⼈を育てる時も同様だと思う。どんなに優秀な⼈でも、⼈は⼀⼈では何もできない。反対に、どんな⼈にも存在の価値を与えることができる。

価値観や考え⽅、やり⽅の違う⼈を敬遠し、つい排除したくなる私たちだ。でも「チームで」という観点に⽴つと、あの⼈がいるから、この⼈がいるおかげで、という謙虚な気持ちになれる。⻑い間精神科病院という特殊な環境で働いてきた私はそのことを学んだ。今では家庭でも職場でもその考え⽅を取り⼊れた途端に不思議と物事がうまく運ぶ、いわば私にとっての「魔法の杖」なのである。

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やっぱり腰を痛めてしまいました。

パソコンのやり過ぎ、スマホはだめよ。

何回も妹に注意を受けていましたが、心のどこかで「大丈夫」という気持ちがあるものですね。病気になるまでは・・・・・

今朝、当直室のベッドから起き上がろうとしたところ・・・・・

腰がやられて起きれません。

やっと起きて仕事をしましたし、夕方には当然治るものと思っていましたが、治りません。

プールに行ったら治るとまだ、タカをくくっていましたが。

でもまだ調子が良くありません。

腰を痛めるなんて、私の辞書にはなかったのに。

やっぱり、座って背中を丸めて長時間いることが良くなかったのでしょうか。

それでも尚、ブログを書いている私。

しぶといですね。今日はこのへんで。

 

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連載コラム(34)人生の伴走者とは誰か?

 

<34>⼈⽣の伴⾛者とは誰か

これは私のお気に入りのコラムのひとつです。

どの⼈にも⼈⽣の伴⾛者ともいうべき⼈がついてくれている。こんなことを⾔えば、夫や妻、親や友⼈などの⾝近な⼈たちを思い浮かべるだろう。だが違う。あなたの⼈⽣にいついかなる時も寄り添ってくれる⼼強い⼈⽣の伴⾛者。それは実は「あなた」の中にいるのである。

いったい何のことかと思われるかもしれない。それは「⾃分の中にいて、⾃分を⾒ているもうひとりの⾃分」である。そしてそれは誰にでもいる。それが「⾃我」と呼ばれる存在だ。

こんなことはないだろうか。とても緊張する場⾯に置かれた時、冷や汗をかきながら慌てている⾃分がいる⼀⽅で、緊張し慌てている⾃分を冷静に「困ったことになったぞ、どうする︖」などと思いつつ⾒ている⾃分もまた同時にいたりすること。また、思春期の⼦どもに「そろそろ⾃我が出てきた」と評するように、⾃我は相⼿と意⾒が違っても「私はこう考える」と主張できる⼒を⽣む。これを世間では「反抗」と呼んだりするが、ただ主張するだけでなく相⼿の思いも汲みながら対応ができるように⼿助けすることで、⾃我は育っていくのだ。こうした主張や対応をするためには、⾃分を客観的に⾒つ

める能⼒が⽋かせない。

例えば「⾃分が認知症ではないかと⼼配しているうちは⼤丈夫」というように、今の⾃分の思考や判断⼒の衰えをちゃんと客観的に認識するというのは、なかなかすごい能⼒なのである。これもしっかりした⾃我があればこそ可能になる。ちなみに⾃⼰主張の強い⼈を「あの⼈は我が強い」と表現することがあるが、それとは違うので誤解しないでほしい。そういう⼈はむしろ⾃分の弱さを、強がりや頑固さでカバーしていることが多い。

⾼齢になり、親類縁者もいないままひとり暮らしをしている⼈を⾒れば、周りはどんなに寂しいだろうと案ずるかもしれない。しかし当の本⼈は特に寂しいとも思わずに暮らしている。これも、⼈は本来もうひとりの⾃分と対話しながら⽣きる⼒を持っているからである。

⼈は孤独に耐える⼒を⼗分に持っているものだ。

私が患者さんを診察したり治療したりする時に重要視するのも、表に出た症状より、むしろこうした「⾃我」の強弱であると⾔えば驚かれるだろうか。「⾃分の中のもうひとりの⾃分」は誰にも必ずいる。⾃分を客観的に⾒つめ、時に励ましたり、慰めたり、叱ったりしてくれる、唯⼀無⼆の親友であり味⽅だ。無意識のうちに「ふたり」が会話することで、⼈は⼈⽣の孤独や荒波を乗り越えていく。若くても⽼いても、ひとりの時間を⼤切にし、⾃分を⾒つめ、⾃分と対話する時間を持ってほしいと思う。

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八ケ岳に住むということ

 

インスラグラム・プロフィール

八ヶ岳山麓に住む私が感動した風景、花、絵になるものすべて。私がここに住んで良かったと思わせてくれたすべてのものたち、そして猫たち。時に旅先で。

上は私がインスタグラムに書いた自分の写真のプロフィールである。

まだたった数枚しかアップしていないが、このプロフィールは、私の想い、そのものだと思った。

 

私は夫の強い意思でここに来た。

都会に住みたい気持ちを封じこめて、夫についてきた。

しかし、ここに住んでますますカメラを持つようになった。

 

普通は、カメラと言えば、朝の光の中、あっちこっち出かけ、じっと構え、辛抱のいるエネルギーのいる作業だ。

しかし私は、

家と職場の往復だけで

膨大な写真を撮った。

そんなことが普通はあり得るだろうか、

私は写真のために一回でも撮影旅行や旅に出かけたことはない。

 

ここで撮った数々の写真は私のこの土地での人生そのものだと思え、胸がつまった。

 

インスタにどれだけはまるかはわからないが、私の書いたプロフィールは私をよく現わしている。

 

私がここに住んで11年。

住まないとぜったい、わからない季節の移ろいや自然。

旅行者や別荘の人たちにはぜったいわからない、この微妙な季節の移り変わり、それを切り取る。

私はここに住んで多くのものを得た。

昨日、インスタに載せる写真を選んでいてつくづく思った。

☆   ☆   ☆

載せ方がわからなくて、妹にメールしたら「身体を壊すからやめなさい」と強く注意された。

たしかに今の私にスマホやインスタは、健康を害する元かもしれないが。

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連載コラム(33)自分が変われば相手も変わる

 

 

 

<33>⾃分が変われば相⼿も変わる

精神科の患者さんの症状は、どこからが病気でどこからが性格的なものか区別がつきにくい。それもそのはず。⼼の病とは「⼈間関係の病」でもあるからだ。

⼈間関係の中で、⼈の⼼は⼀定の法則に従って動く傾向がある。満⾯の笑みを浮かべて「ありがとう」と⾔われた時、⾃然に⼈はうれしい気持ちになる、などはそのちょっとした例である。

精神医療では、その動きの法則性を⾒つけていくことが⼤切で必要になる。例えば、ダダをこね続けた時に根負けした親が⾃分のわがままを聞いてくれると、⼦どもはだんだんわがままを通すためにダダをこねたり、それがエスカレートしたりする可能性もある。こうやって親⼦の間で⻑年の間に困った性格や精神症状が形成されていくことはよくあることだ。私たちは患者さんと家族の⼼の関係性を探り、良くない⼒関係が働いているなら、それを別の⽅向に変えるよう働きかけたりもする。

先⽇、激しい不安障害で⼊院となったA君はまだ若い17歳。不安が起きるたびに家に電話し、会いたいと⾔う。それが1⽇⼗数回にもなって親がネをあげた。患者さんは発作を起こすと親が⾔いなりになることを無意識に知っている。発作を収めたい⼀⼼で⼦どもの願いをかなえ続けたツケは⼤きい。

また別の例だが、神経質で⼏帳⾯な強迫性障害のBさんには、おおらかでのんびりとした妻がいた。神経質な夫を持てば、妻はバランスをとるためにどんどん⼤ざっぱになりがちだが、妻が⼤ざっぱになればなるほど夫は不安になり、強迫的な⾏動が増えていた。

こんな時、患者さん⾃⾝を治療するのはもちろんだが、家族にも働きかけ、変わってもらわないと症状は改善しない。A君の両親とは、今後A君の⾔いなりにならないよう話し合う予定だ。Bさんの奥さんには、ご主⼈の症状を神経質すぎると決めつけないようにお願いした。そして奥さんも⼏帳⾯な⾯を出してくれれば、ご主⼈も安⼼すると助⾔したところ、症状は少しずつ改善している。⼈間はともすれば、相⼿ばかり変えようとする。というか、⾃分は変わりたくない、相⼿をばかり変えたいと思う⼈であふれている。誰でも⾃分は悪くないと思い、⾃分が変わることには強い抵抗を感じるものだ。

しかし、⼈の⼼が関係性の中でどちらにも動くことが分かれば、どうだろう。どちらがいいか悪いかではない。相⼿の病気が良くなったり、⼆⼈の関係が良くなったりすることが⽬的なのだから、思いきって⾃分から変わってみよう。「⾃分が変われば相⼿が変わる」は真実である。ぜひ試してみてほしい。

 

 

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