自分らしく生きる・3  ヒストリーその1

わたしが生まれたのは、滋賀県は琵琶湖の西の田舎町です。今の日本には珍しく自然の里山や川が残っている美しいところです。
母が教師として働いていたので、一才違いの弟が生まれるとすぐ、祖母に預けられました。といっても同じ家の中ですが、祖母に特別にかわいがられ、大事に育てられました。
「おばあちゃん子は三文安い」ということわざ通り、まったく意気地がなくて小学校へあがるころも祖母がそばにいないと授業が受けられないくらいの内気でした。

ところが中学生になると突然頭角(?)をあらわし、ものさしをふりあげて男の子を追いかけまわしすようになりました。誰かがいじめられるといじめた男の子をやっつけに行ったり、納得がいかないと文句を言いに行ったり。まあ、けっこうのじゃじゃ馬でした。

成績がよくて上品。かっこいいあこがれの男の子からは「生意気」といって敬遠されました。好かれるのはいつも成績が悪いいたずらっ子ばかりでした。この傾向はたった今現在に至るまで、生涯にわたる「わたしと男性との関係」の傾向です。

わたしが「自分らしく生きる」ことを最初に意識したのは中学2年生のころです。戦後から十年以上たち、世の中が落ち着き出したころです。これからは高い教育を受けなくてはしあわせになれない、大学へ大学へと誰もが思うようになった最初の世代。一生けん命働き、経済を成長させた。個性に目覚め口では立派なことを言いながら、こどもたちをうんと甘やかしてしまい、ある意味、日本を変えてしまった最初の責任ある世代です。
「こんな田舎で一生を送りたくない」「高校を出たら田舎を離れて好きな道に歩みたい」そのころは誰もが普通に夢を持てた時代だったのですね。
わたしは将来つくであろう仕事に強い関心をいだきました。放課後になると図書館に行き、「仕事」という本をくり返し見ては将来に思いをはせるのが日課でした。自分にはどんな能力があるのだろう。それに女の子として生まれたからには、男の子には出来ない生き方もあるのじゃないかと考えていました。

先日なんと45年ぶりに実家の納屋から出てきました。中学2年生のころの日記が。こんなことが書いてありました。
「友達に,<あんたら、看護婦になるのん、どう思う? かなんか(嫌か、の意味)>と聞いたら、友達は
<看護婦はオールド・ミス(古いですね)になるさかい、かなん>と言った。
でもわたしは人の役に立つならオールド・ミスになってもなんとも思わないでしょう」と書いていました。

こんなことも書いていました。
今日は先生が「男の人は女の人を、女の人は男の人を愛するものだ。愛することが出来なかったら普通ではないと言いました。
わたしがもし普通だったらきっと人を愛することができると思います。結婚とはきっと一生の友を得ることなのでしょう。
でもその大事な人を親や他人がよる(選ぶの意味)なんておかしいと思う。わたしだったらそんなことしないでしょう。ちゃんと自分で選びます。
親もよく「お前はいずれはよそへもらわれていくんや」と言います。
言われるたびにわたしはとてもいやな気もちになります。そして、もらわれてなんかいくもんか。信頼できる人ができたら結婚する。だけどわたしは自分の幸福のためより人のために働く。そのためだったらオールド・ミスになってもかまわない。
先生、わたしの考えはおかしいでしょうか。
わたしは自分のからだをとても大切に思います。その大事なからだを、自分の幸福のためだけには使いたくありません。また 何不自由なく暮らしている裕福な人のためにも使いたくないのです。弱い人、困っている人、貧乏な人のために使いたいのです」

と書かれていた。

毎日の日記には、赤ペンで担任の先生の長いコメントがつけられていました。私たち生徒は毎日先生と日記でやりとりしたのです。
その日の日記には「結婚はしたほうがいいよ。またいつでも相談においで」と書いてありました。

担任だったその先生にはわたしたち生徒は強い愛情をもらい、影響を受けました。女性も仕事を持ちなさい、生涯にわたる強い武器になる、と言われた日のことは忘れられません。

そのとき「オールド ミスになるさかい、かなん!」と言いきった友はとても素敵なご主人に恵まれましたが、若くしてご主人を亡くし、結局ばりばりのキャリア ウーマンになりました。

しっかり夫を選びます、と書いた私は選んだ結婚に大失敗をし、苦しい結婚生活を長く強いられることになります。皮肉です。

また仕事を優先で結婚なんかしない、と書いた私はその後、結婚相談所に通いづめる運命となります。

また今もひとり暮らしはできないのです。理屈も立ちますし、りっぱなこともいいます。でもそれを相殺するかのように、どこか間がぬけ過ぎているのです。階段の上からすべり落ちたり、穴のあいたゴミ袋に生ゴミを入れて運んだり。生活破たん者的要素の強い私は共同生活者あってやっと暮らしがなりたっているのですから。

「自分らしく生きる」というテーマをみずからに課し、患者さんの治療にも生かし続けている私。

しかし人生とはいかにモザイクのように入りくんでいて思いどおりにはいかないものか。

あきれるばかりです。

それでもあきらめずに自分を見つめ、不器用にしあわせを追求していくプロセスこそが人生の味。しあわせになるのに、いくつになっても遅すぎることはない。