自分らしく生きる 5 人生は二度ある

私の診察につきそうある看護師さんがため息をつきながら言う。

病気の説明や治療法のアドバイスに対する私の言葉に対する患者さんの反応は

年齢別にほぼ正確に分かれます、と。

10代20代は目を輝かせて聞き、すなおに実行し、そして俄然良くなる。成長する。

30代、40代もつぶらな瞳で真剣に聞き、自分を変えようとする。そして少しづつ

かならず良くなる。

50代も前半では、首をかしげたりだまりこんだりしながらも、やってみますとけなげに

言ってがんばる。

50代後半から変化が始まり、60代70代は、できない理由を話しだす。

80才をすぎると人の話など聞いちゃいないのだ。

というのが看護師さんの観察だ。

私は当事者なのできづかなかったが、観察者である看護師さんに言われて思わず笑ってしまった。

看護師さんにそこまで言われた日には、笑ってばかりもいられない。

「自分らしく生きる」というテーマにいどんだものの、むづかしい。

やめてしまう理由を山のように考えていたばかりだった。

口まで出かかった「できない理由」を思わず飲みこんでしまった私だった。

思春期には、人は悩む。

「自分らしさ」って何だろう。

「自分」が「自分」である理由。他の人じゃないという確固たる証拠。

「自分らしさって何だろう」と一度も悩んだことのない人はいないのじゃないだろうか。

けれど一番わかっているようでわからないのが「自分」

「自分」のことは「自分しか」わからないはず。

なのに肝心の「自分」が世界でたったひとりの自分であるという理由は何かと

聞かれたら答えられない。

その一方で、「個性」を大事にしよう。

磨けば光る玉のような個性が、生まれつき誰にでもあるはず。

そういう唄い文句に踊らされている自分もいる。

つきあう人によって変わってしまう自分がいる。

その日によって気分の変わる自分がいる。

昨日考えていた自分の考えが、今日はもう変わっていることもある。

こないだまで大好きだった趣味が、今はまったく見向きもしたくないことなどあれば、

なんて飽きっぽい。自分は、なんて個性のない人間なのかと思ってしまう。

又、つきあう人によって自分というものがまったく変わってしまうことを経験すると。

自分ってなんていい加減なやつなんだ。

自分はいったいどれが本当の自分なのかなって悩みさえしてしまう。

若い人が患者さんになって私の前にあらわれると、そういう悩みを口に

しない人はまずいない。

なんて初々しい悩みだろう。

しかし人はやがておじさんになりおばさんになる。

おじさんやおばさんになったら、たとえ世界がひっくりかえろうともぜったいと

いっていいほど口にしない悩み。

その若いひとと、おじさんやおばさんの間の隔たりの中に何があるんだろう。

それは人それぞれであるにしろ。

たしかなことがある。

人生は二度ある。

子どもが去ってからの人生の長さ。

仕事を失ってからの人生の長さ。

夫婦ふたりきりで暮らす日々の長さ。

たったひとり残されてからの人生の長さ。

人はあまりきづいていない。

60才、70才を過ぎてからも死を目前にする直前まで、心の不調が存在することを。

私の外来を訪れるお年よりは最近増える一方である。これからもきっと増える。

心の不調が、からだの不調に形を変え、あるいは、あの手この手で形を

かえながら。

「自分はいったい何者?」「私は何のために生きる?」という問いかけは

決して思春期特有ではない。人生があまりにも長くなった今。

いくつになっても

人生には落とし穴がある、

ということを知っているだけでいい。