自分らしく生きる 10 ヒストリーその2

先日、中学校二年生の日記がでてきたことを書きました。自分では全然覚えていない内容

ばかりです。しかし現在の自分の核が、そのころすでに出来上がっていたことに関しては驚く

ばかりです。

「クラスメートが腹痛を訴えた。いつもなにかしら体の症状を訴えるので、みんな嫌になって

きている。嫌われている。でも私は思う。彼女はおなかの病気なんかじゃないと思う。

彼女には何か悩みがあって、それが体の不調にあらわれているのじゃないかと思う。」

などと書かれています。

彼女の成績はとても悪く、家庭の環境も相当悪いようでした。環境や成績などの全然違う

私がその女の子に特別に親切にするのを見ていたクラスメートが私のことを、何か下心が

あるのではないかとうわさしている、などと書かれていて、笑ってしまいました。

なぜか自分より弱い人が気になる。そういう気持ちがくりかえし出てきます。

13才でこの健気さは、何か不自然な気もします。祖母にかわいがられたことと何か関係

しているようにも思います。

物心ついたころ祖母はもう70才を過ぎていました。今でこそ70才は若いですが、

そのころといえば、いつ亡くなっても不思議でない年齢。子ども心にも「死んでしまうん

じゃないか」という不安をたえず抱いていたことでしょう。

今に死ぬかもしれない祖母に愛されながら、わたしはきっとわたしが年老いた祖母を

いたわってあげなくては、という気持ちばかりが幼いころから培われたのでしょう。

それが、弱い立場の人の気持ちにとても敏感な現在の性格をかたちづくってきた

のではないかと思います。

良し悪しは別として、自分がしあわせでもそれだけでは満足できない性格は、苦労症としか

いいようのないものですが、このころからわたしの根底に根強くあることをこの日記は

教えてくれます。

もっと甘えていいんだよ。もっと気楽にやっていいんだよ、わがままになってもいいんだよ。

そんなメッセージを自分に送ってやりたい気持ちです。

中学二年のころ、学校の図書館に「仕事」という本がありました。村上龍の「13歳の

ハローワーク」昔版です。それを読みながら将来に夢を馳せることが私の大きな楽しみに

なっていました。

自分の長所を生かして仕事をしたい。そのころの私にとっての「自分らしさ」とは「自分に合った

仕事を見つけて、それを拠り所にして生きていくこと」だったのでしょう。

私が女性として生まれたからには男性には出来ないことが何かできるに違いない。
女性として生まれた私が、自分らしさを生かして仕事をするには看護婦さんがいいかしら。

ですから私が「自分らしさ」ということを意識したのは、13歳のころからです。
甲府でターミナル ケアの仕事を精力的にされている 内藤いずみ先生の新聞記事を

読みました。

彼女もまた、10才前後で将来のことを考え、そのころ考えていたことが現在の仕事の核

になっていると今になって感じる。そのころの想いがかたちになっているのが今の自分だ、

と述べておられます。

10才前後はおとなから見たらまだまだ子どもです。だけど、その人らしさの核のようなもの、

芽のようなものは実はそのころすでに出来上がっているのではないかと思われる例が

たくさんあります。

「その人らしさ」などという曖昧な言葉を多用しますが、「その人が他の人とちょっと違うその人

特有の個体的な差」という意味で書いています。

これを本にする時があるとすれば、また言葉は熟考するつもりです。

そしてそのころ、何を根拠に「自分らしさ」をたしかめるかというと、実は親なんじゃないか

と思います。
私も実に親をよく観察していました。父は小学校の教師でしたが、情熱的な教師では

ありませんでした。人づきあいの嫌いな職人的な性格だったので、毎日定時に帰宅して

大工仕事をするのが習慣でした。こつこつと楽しそうに器用に棚やテーブルを作っていました。

でも私は「なぜ仕事に情熱を傾けないのだろう。あんな教師なんかいやだ」そう思って

批判的でした。
反対に母のほうは、熱心な小学校教師でした。家事を祖母にまかせきりで毎晩毎晩、

宿題のように仕事をしていました。私は母にも批判的で「家族をほうりっぱなしで なぜあんなに

仕事に埋没するのだろう。もっと家族と楽しい時間を持ったようがよほど仕事にもいいのに」と

一人前に批判していたのです。

学校の先生なども、モデルになり得ます。だけど情報の量は両親に及ぶものではありません。

親というのは、毎日包み隠さず膨大な情報を子どもに提供しているのです。

子どもが「自分らしく生きる」ことを考えたとき、まずは親が一番のモデルになると思います。

特に女の子の社会性は父親の影響が大きいことをキャリアを持つたくさんの女性を見て感じます。

仕事を持つことに男の子も女の子もない、と考えている男性の娘はだいたいにして社会に出て

働く方を選ぶことが多いようです。

高校3年のとき、考えに考えぬいた私は保健婦さんか薬剤師さんがいい、と父に告げました。

東京に行きたかった。当時あった東大の保健学科にいって保健師さんの指導をするような

仕事が合っているのじゃないかと思いました(今でも保健師さんとはなぜか仲良しです)

父も小学校の先生をしていました。先生にだけはなりたくなかった。
人前で話す仕事はゼッタイにいやだったと思っていましたから。
父が「医療関係に進むんだったら、医者のほうがやりがいがあるかもしれない」というのです。

まわりに医者などいない田舎町でしたから、ピンときたわけではありませんが、父の影響で
父の一言で受験のほんのまぎわになって あっけなく医学部受験が決まりました。

大学は「兼六園がきれいだったぞ」の一言で、これまた金沢大学にしました。

なんとあっけないこと! たくさん悩んでばかみたい。自然流がいい。今ならそう思えます。

母はそのとき泣いて反対しました。「女性には子育てがあるから普通がよい」という理由でした。

母は自分が働きながら余裕のない子育てをしたために失敗をしたという後悔を持っていました。

それゆえの反対でした。私は母の意見をまったく無視しました。それだけ反対されても平然と

無視できる自分の強さをそのとき自覚した覚えがあります。

医学部に決めた理由がありました。医者になりたかったわけではありません。

実は、長い間考えたにもかかわらず、自分が何になりたいか、何に向いているかについて

答えが見つけられませんでした。わずか18歳の小娘にその答えを求めることは無理なのだ

ということがすでにわかっていました。

漫画家の手塚治虫は医学部の出身です。手塚治虫の漫画を愛読していたわけでは

ありませんでしたが、医学部を出てからも、何にだってなれるんだ。それが決めてでした。

教育学部や薬学部を出てから漫画家や小説家になった人は少ない。だけど医学部を

出てから漫画家や小説家になった人がけっこうたくさんいることを知って、それが背中を

押してくれました。

また医学部は、研究者、保健所、厚生省、臨床家、大学病院、大きな病院、診療所、

船医。同じ医師でもまったくタイプの違う職場で自分を生かせます。赤ちゃんを専門にすること

もお年よりを専門にすることもできる。いずれにしても自分に向いていることをじっくり考えて

からどんな道に進むこともできる。

それが医学部に決めた最大の理由です。

その根本にあるのは「まったく向かない世界で生きていくのは辛いのではないか」という

想像力です。想像力を刺激したのは、そのころ読んだ本であったかもしれません。

キュリー夫人伝は繰り返し読みました。影響され、将来は研究者になりたい、何かに熱中して

いたら人生の悩みも半減し、気にいった人生が送れるのじゃないかと思いました。

ただただそう信じて人生に夢みていた若いころがなつかしい。

女性も仕事を持つ、というのは、わが家の中でも私の中でも議論にもならないあたり前の

ことでしたが、世の中はまだまだそうではありませんでした。

健康であるかぎり仕事をする、という一点は、物心ついたころから今日までただの一日も

揺らぐことのない私の考えです。それがどこからきたのかはいまだにわかりません。

祖母はひとり息子の嫁である働いていた母を尊敬し、全面的に助けていました。それを見ながら

自然に身についたのかもしれません。

いえいえ、それとも人間にはすでに生まれつきの気質があるのでしょうか。

これは私の専門ですが、生まれつきのものはとても大きいと思います。その子がどんなタイプで

あるかを見分けることが親の役目であり、精神科医の役割だと思っています。私は決して

人には同じことを勧めません。働かない患者さんを心から甘やかしている優しいお医者さんです。

世の中の人がみな、わたしみたいだったら世の中がぎすぎすします。

いろんな人がいて、世の中です。

正義感旺盛であるくせに、

こういうゆるやかな考え方もまた、物こころついたころからの傾向です。

いつも考える子供だった私。

その子がどんな気質であるか。それを見分けるのが 親の一番大切な役目

であると精神科医としての私は信じて疑いません。

25才以下のお子さんをお持ちの方はぜひ参考にしてください。