自分らしく生きる 12 悩むことの大事さ

人生には悩みなんかないほうがいいでしょうか。。悩みはひとつでも少ないほうが

いいでしょうか。ないほうがいいと思うのが自然です。けれど、悩みは人生に必要

なものだし、悩むこともとても大切な人生の出来事であるという話をしたいと思います。

あいついでパニック障害の発作をおこした患者さんがあらわれました。

ひとりは16才の男子高校生。もうひとりは子育て真っさい中の30才代の女性です。

16才の子をA君、女性をBさんとしておきましょう。

A君は高校にはいって、学業もバイトもきわめて順調だった秋になって、なんとなく

不安な気持ちになる自分を自覚するようになりました。なんだろうと思いながらも

学校に行き、バイトをしていました。だんだん漠然とした不安感におそわれる回数が

多くなり、寒くなってころから強いパニック発作も出てくるようになったのです。

自分で自分の気持ちを見つめたり、観察したりしました。だけど軽快しません。

「これはおかしい」と思って受診したと言います。親に勧められたわけではなかったが

、受診することだけは告げてきたと言います。

B子さんのほうは、子供が人見しりするようになったころ突然パニック様発作を

おこしたと訴えました。同居している義母から早く早くとすすめられ、受診しました。

さて、すぐに受診したB子さんと3ケ月くらい様子を見ながら、受診を決めた

A君では、治り方が全然違ったのです。

症状の重かったA君のほうが力強くなおっていったのです。

なぜだろうと考えてみました。A君には「悩む力」「自分を見る力」があるのです。

この力に関してだけは、年齢や人生経験と関係ないのです。

精神科や心療内科にはできるだけ早く受診するように、というのが世の流れです。

しかし私は違うと思っています。ほうっておけばいいというわけではないけれど、

自分で悩み、自分で自分を観察し、迷いながら受診を決める、というプロセスが

大事なのです。「悩む」ためには能力がいります。「悩む」ためには「自分を見つめる」

という力も必要です。いったいその力はどこからくるのでしょうか。

私の前著には、人間に必要なのは学歴や性格ではなく「どんな環境におかれても

自分でしあわせになれる力を持っていること」と書きました。そういうしあわせになる力は

どこからくるのでしょう。

今日の朝日新聞にたまたまおもしろい記事を見つけました。花まる学習会代表の

高濱正伸さんの記事です。

高濱さんは私が「しあわせ力」と表現したようなことを「どんな時代になっても、

一人でメシが食える大人」と表現しています。

彼は言う「勉強も人間関係も仕事も、根っこは10歳までの教育にある。

それまでに自分で考え、壁を乗り越えるおもしろさを教えないと、いくらいい大学に

進んでもいい会社に入ってもいずれ社会のどこかで挫折してしまう」と。

そして学習塾を120教室までに拡大した彼がやっている教育とは。

先生が複雑な立体図形に描かれたパネルを一瞬だけ見せる。子供たちは時間を

はかりつつ、同じ図形を手元の立体パズルで作る。そういう教材をつぎつぎと

なんと一時間半で10種類もこなすらしいのです。

「空間認識力や図形センス。独創的な発想力を鍛えることが未来につながる

」という考えです。夏休みは全員親元を離れ、野外生活の中で仲間と自然と

ぶつかって忍耐力をつけるのだそうです。

そんな教育があることは知りませんでしたが、空間認識力や図形センスが、

この世を乗りきっていくための基礎力になるという考えをとてもおもしろいと

思って読みました。

「自分で悩んで解決しようとする力」「不幸なことがおきても自分でしあわせに

なっていく力」「どんな時代になってもメシを食っていける力」それを養うのは

10才までの教育。教育の中でも、感覚的なことを伸ばし、遊びの中で解決して

ほめられる体験をたくさんして自信をつけること。と高濱さんは言い、

実践しているのです。

私が子育てをしていた時代は、よく考える子供に育てるためにはたくさんの本を

読んでやったり読ませたりしたほうがいいと言われた時代でした。わが子にもずい分

読んでやりました。昨年、私と同世代のピアノの先生が発表会のあとの挨拶で

「ピアノも大事だけど、みなさんたくさんの本を読みなさいよ」という挨拶をされて、

ちょっぴり違和感を感じました。本を読むことは楽しいことだし、大切なことだけど、

ピアノの発表会の挨拶としてはとっぴだと感じたのです。でも私の世代はそうやって

育てたのだったなあと思いました。

けれど、長い間患者さんを見てきて思うこと。それは「頭でっかちの人間ほど

弱いものはない」ということです。10歳までは本じゃない。あえて言いましょう。

むしろ本は意識的に捨てたほうがいいかもしれない、と。

あえて極論を言いたくなるくらい、最近の教育から生まれてくる子供たちが

ゆがんでいるのです。

わたしは教育の専門家ではないのですが、本ばかり読んできた子と、勉強も本

もまったくお呼びではなく、ヤンチャしかしてこなくて親を困らせた子では、

いろんな遊びをやってきた子のほうがはるかに社会で生きていく力を持っています。

基礎力があってたくましいのです。

話は変わります。昨日、二年ぶりに外来に来た女の子は中学3年生になっていました。

二年前のカルテを見たら「気力が出ない、死にたくなる。でも学校の成績は普通。

学校にも行っている。薬を処方したが、飲みたくないといって外来は2回で終了」

と書いてありました。2年ぶりに会った彼女は、あいかわらず無口で暗く、

気力も乏しい感じが2年前とちっとも変っていませんでした。最近ねむれないので

薬をほしいということで来たのです。高校受験を控えて緊張感いっぱいらしい。

お母さんが言うところによると、娘は勉強がきらい。働きたいと言うそうです。しかし成績は

落ちたものの、不登校にはなっていないので普通高校への進学を親も先生も勧め

いるといいます。やっと高校に行くことは納得したものの、働きながら定時制に行きたい

と言うらしい。

しかし担任の先生から「定時制っていうのはね、不登校になったり、ぐれたり、

家が貧乏な子たちが仕方なく行くところなのよ。あなたは普通の子供なんだから

そんなところに行くことはいらない」と言うそうです。そう言われると子供はもちろんの

こと親も言いかえせず(子供の味方をできず)子供ひとりがねむれないほど苦しんで

いるらしい。

「若い子をだめにしているのは、私たち大人だ」と怒りさえ感じました。

「勉強も大事だけど、働きたいという気持ちは、今の時代にあっては特に大事にして

あげたい気持ですよ。親が子供の気持ちを支えてあげて担任の先生と喧嘩するくらいに

ならなくてどうするの、って思います。参考にしてね」と言ってお帰ししたのでした。

子どもや思春期の子を専門に診ているわけではない私。しかし「自分らしく生きる」

でも「心の病と向き合うために」でも「私流しあわせの見つけ方」でも。

どんな題名で文章を書いても、いずれは話が「子育て」にいってしまうのです。

なぜでしょう。やはり高濱さんの言うように、人間は10歳までの教育で大半は決まる、

というのが真実に近いからかもしれません。

この文章は10才を過ぎた人に向かって書いているので、「そんなこと言われてもね」

と思われる向きもあるかもしれないですね。

教育者ではなく、ただの一臨床家である私が伝えたいメッセージは、「未来の社会を良く

しようと思ったら、まず子供を変えなくては。子供を変えようと思ったら、今あなたが

何才であろうとも、今のあなた自身が変わらなくては」というメッセージです。

だってまわりにいるのは猫や犬もいるけどたいていは人間でしょう。人間の中には

子どもも入っているし、子育て中の人もいる。また教育に関わっている人や障害者と

関わっている人もいると思います。

40年前、心療内科がこんなに流行る時代になるとは夢にも思わなかったです。

悩んでいる人をみて心療内科に行ったほうがいいよ。○○にいい先生がいるよ、

という情報なんかより、もっと大事なことがあります。

どうしたの?とまずは聞いてあげること。一緒に悩んであげること。でもそのためには、

自分がちゃんと悩む力を持っていることがとても大事なのです。

今あなたは、何について悩んでいますか。

悩む力を日々、養っていますか。

深い悩みの淵に沈みこんだあかつきには、その谷の深さにふさわしい高みを

ともなった強さと味わいある人生が待っていることでしょう。