「アフタークリニック」の夢をふたたびーNo.2

「ある試み」と言いました。
インターネットで「診療」「相談」をする試みです。
12年前に志しましたが、うだうだするうち、あっという間に12年です。
鳴かず飛ばずのHPやブログを細々と続けるだけが精いっぱいの12年。
あまりにもあっという間のこの年月でした。

しかし突然、この「試み」を書いても不思議に思われると思うので、若いころ
のことから書くことにします。

興味のある方は読んでくださいね。

高校のとき進路を保健師や薬剤師などの医療職に決めました。
医学部はまったく選択肢に入っていませんでした。
ところが父から「同じ医療職なら医者が一番働きがいがあるんじゃないか。
医師は人間の汚い面ばかり見る仕事だが、それがいやでなかったら医学部を
受けたらどうだ」
というのです。

受験間際になって医学部を受けることにしました。

「医者はいろんな働き方ができる。研究者にもなれる。専門分野も多い。
手塚治みたいに、最後には漫画家になる人だっているんだ」
自分で納得した理由がそれでした。

またまた遡ります。

中学2年のときの日記に「わたしは、わたしの長所、自分らしさを生かして
仕事をしたい。それで社会の役に立ちたい。結婚はしたいけれど、自分を生かす
仕事のために結婚できなかったとしたら一生、独身でもいい」

そんなことをきまじめに書いている少女でした。

「女性でも手に職を!」とおおっぴらに言われるようになった一番最初の世代です。

卒後すぐ、研究者を目指しました。
けれど研究者は合わないと思い、臨床医に方向転換しました。

精神科医になったのは、手が不器用で、立ちっぱなしで脳貧血をおこす、やわな
身体だったから。
手を使わなくていい、座ってやれる仕事で、末長く仕事をしていこうという理由だけです。

本当に、そういう消極的消去法で決めたのです。

当然、精神科医になった後も、働きやすい方法、働きやすい病院、
自分を生かして働く。

そのことを一番に考えていました。

医学部を出ても医局にはいらない人などほとんどいなかった時代に、
医局には入りませんでした。

自分の働き先を、教授に決められるなんてとんでもない、という理由です。

また、働きやすい病院を見つけたあとも、そこに安住することを
良しとしませんでした。

県立病院にいたときには「こんなに働きやすい病院はない」と思っていましたが、
「安定して過ごすのは、自分の成長につながらない」
「いろんなことをためしてみたい」

それだけの理由であてもないまま思いきってやめました。

みなさんに言われます。

あなたね、医者だからやれるのよ。

医者だからよ。

そんなこと、なんの関係もありませんよ。

医者でなかったら、もっと簡単にやめて、やめて自分の道を手さぐり
していたと思います。
医者は責任があるので、むしろ簡単にはやめれません。

公立病院にいたときには、治療という枠組みの中で、いろんな試みをしました。
院長から「あなたの病院じゃないっ!」と一喝されるほど、改革に熱心でした。

けれど、ひとり社会にほうり出されてからは、自分を実験台にして、
「社会復帰訓練」を続けたようなものです。

いつも考えてきたこと。

それは、自分が楽しく、自分がもっとも生かされる立場に立つこと。

インターネット診療を考える直前には、自由診療をためしました。
ちいさなアパートに一室を借り、カウンセリング主体でやりましたが、
自由診療の根づいていない日本の地方ではやっていけず、一年ほどで閉じました。

この自由診療のことはすっかり忘れていましたが、最近になって思いだしました。
ですから「試み」は他にもあったかもしれません。

「なんでもやってみる」主義のわたしも、

そろそろ年貢の納め時だと思っています。

ある人から言われました。

「失敗だと思ってもやめなければいいんだ。手を変え品を変えて続けるということが
肝心なんじゃないか」

そうかもしれません。

言われてみて。
長い時間をかけてきた今、初めて見えることがあります。

インターネットが好きだということです。

リアルなつきあいより、インターネットのほうが好き。

これはわたしにとっての真実です。

フルタイムの仕事をしながらHPを更新し続ける。
「大変」の一語です。
HPやブログを「見えない相手に向かって発信し続ける」
それを一貫して続けてきたじゃないか。

きっと好きなんですね。

鳴かず飛ばずでやってきた自分を、今日はそうやって

うんと肯定的にとらえてみました。