ブログにコラムを載せること

 

ブログにコラムを載せることを決めたのは、今日たまたま来た患者さんの一言です。

私の連載は新聞で読んで励まされる方は多くいてくださいますが、インターネットではほとんど知られていません。

フェイスブックに定期的に載せていますが、読んでくれる方はみなさん、誰よりも元気でタフな方々です。

ブログを読んでくださる方も、多分、誰よりも元気な方が多いと思います。

でももっとも届けたいのは、病んでいる方やそのご家族です。

新聞ではそれが可能ですが、インターネットを通じて必要な人に届けられないか、という試みをやってみようと思い始めました。

今、このブログに掲載するだけでは、読んでくださる方は限られています。インターネットで世に知られることは並大抵のことではありません。

でも、今日であった患者さまから「一緒にやってみよう」と言われ、重い腰をあげてみました。

コラムをワード化し、写真をさがし、会話調にわかりやすく書きかえることは大変な作業です。

少しづつやっていきます。

どういう手段があるかまだわかりませんが、船を出してみようと思います。

コラム(5)人の心の傷は人との関係の中でしか治らない

精神科の治療は、⼦育てに似ています。

ということに気づいたのは、ある新聞の連載を頼まれた15年前ほど前でした。

 

神⼾や佐世保で起きた殺⼈事件など少年による犯罪が⽬⽴ったそのころ、私は⾦沢に住んでいました。⾦沢の新聞社から「だから⼦供はキレる」という題名の連載を頼まれ、児童が専⾨ではないのに⽂章がどんどん出てきたのです。その時、統合失調症の⽅の治療や社会復帰に⻑らく関わってきた経験がまさに「⼦育て」に似ているからだ、と気づいたのでした。

私が診察室で患者さんと向き合う時、まず考えること。

それは病気の重症度によって「⼦育てのどの時期まで遡って関係を持っていったらいいか」ということです。

精神症状が激しくて関係をつくりにくい⽅や、話す元気もないほど落ち込んでいる⽅の場合には、⽣まれたての⾚ちゃんの時期にまで遡る必要があります。

それはどんなに叫んだり、駄々をこねたりしても、それを⾮難せず受け⼊れることでもあります。また、話せない状態でも焦らずに「しっかり待ってあげること」です。

⾼校の時までバリバリのスポーツマンだったA君は、こだわりが強いため、それが遠因となっていじめに遭い、学校に⾏けなくなってしまいました。中退した後、清掃業で働いていましたが、25歳の時、突然仕事をやめ、家に引きこもってしまったのです。病院に来たきっかけは眠れなくなったことでした。

最初のころ、A君はうつむきがちで暗く、ほとんど会話もなく、うなずく程度で、とりつくしまもありませんでした。

仕事ができなくなった⾃分を責め、親や世間に肩⾝が狭いと感じるばかりであるように見えました。そんなA君と対⾯しながら「今は、今のままでいいんだよ」と⾔ったり、黙りこむA君の気持ちをなぞるようにただ⼀緒に黙っていたりすることもあったと覚えています。

そんな期間が1年以上も続いたでしょうか、長く感じる一年でした・・・・・・

あるころからA君は、私に対して、⼼を許し始めたと感じるようになりました。次第に顔を上げ、視線を合わすようになったのです。

声も⼤きくなりました。

たまに笑顔が⾒られるようになりました。

何もできない⾃分でも、そのままで認められていると感じると、⼈は⼼を開き始めます。少しずつ会話が増えていったのでした。

ただただ泣き叫んでいた⾚ちゃんが、安⼼して泣きやみ周りを⾒渡し始めたかのように見えました。

ここがポイント!

薬物療法全盛の昨今です、しかし。

⼼の病は薬だけでは治りません。薬は最低限に必要なものです。

その上で、心の病は、⼈間と⼈間の関係の中でしか治っていかないのです。

診察室は「ひとつの宇宙」のように感じる時があります。患者さんと医師との間の 大きな宇宙。

そして、生まれたばかりの赤ちゃんとお母さんの時代にいったん戻って、関係を築きなおす場所であるように感じるのです。

 

それが「重い⼼の病気」の場合における、「専⾨家による育て直し」ということでしょうか。

私たちにとって⼈間関係は時に⼤きな悩みの種。

しかし同時に、⼼が最も⼤きく育つのも、気づきが得られるのも、⼈が⼈にかける⼿間暇の中でだと思います。

人間関係。

わずらわしいものではありますが、大事にしながら暮らしていきたいものです。

コラム(4)母と娘。成人したら別れてもいい

 

年に⼀度の「お盆」の季節となりました。墓参りや帰省、家族だんらんのこの時期、「帰省したくない」「⺟に会いたくない」という⼥性患者さんが意外に多いことに最初はとても驚きました。

平穏な家庭⽣活を営み、⼩学⽣の娘さんが2⼈いるA⼦さんとは、もう何年にもわたるお付き合いです。彼⼥から「実家は⾞で1時間ほど。夫婦2⼈暮らしの⺟親から、孫たちの誕⽣⽇など記念⽇ごとに誘われるんです。でも⾏きたくないんです」と⾔われた時、私はすぐに返事ができなかった。カウンセリングならそこから話が始まるのでしょうが、⼗数分の診察では、患者さんも深いところまで聞いてほしいわけではないことが察しられたからです。

私は「いろんな⺟⼦の関係があってもいいと思うよ。⾏きたくないって⾔えないの︖」と⾔ってみました。「⾔えないんです。罪悪感が出てきます。でも私は⺟と相性が悪いんです。苦痛です」。お説教をしても意味がないと思った私は「お⺟さんを重く感じる⼈は結構いるよ。⼦どもたち(母にとってはお孫さん)だけ送り出してあげればどう︖」と提案したのです。それ以来、お孫さんたちは実家に⾏きますが、A⼦さんはもう何年も⺟親と会っていないはずです。

そんな母子関係もあるって知っていましたか。

実はA⼦さんの了解のもと、⼀度だけご両親と会ったことがあるんです。

今はやりの⽥房永⼦著「⺟がしんどい」、信⽥さよ⼦著「⺟が重くてたまらない」、岡⽥尊司著「⺟という病」などの本に⾒られるような重苦しいお⺟さんには実は⾒えなかったんです。ごく普通の平凡な、また愛の感じられるお母さんでした。

「なぜか分からないけれど、娘さんはお⺟さんが苦⼿らしいんですよ。お⺟さんもご⾃分を責めないでください。⼦どもっていうのはね、この世に出てくる時、お⺟さんのおなかを借りるだけなんです。お⺟さんの持ちモノじゃなく、通り道なだけです。だから20歳を過ぎたら別⼈格。別々の⼈⽣を歩むことが⼀番です」と持論を展開しました。

ここがポイント!

お母さんは、おなかを貸してあげただけですよ。そうやってこの世に出してあげたと考えればいいんです。

この持論、お⺟さん⽅に結構受けます。

「兄弟、顔は似てるけど性格が全然違うんです。道理で」「考えや価値観が親と似てないんです。なるほど」と笑いを誘う。私は「⾝体を借りるから顔や体形は似るんですよ」と返すんです。

また反対の場合もあります。⺟親が娘をかわいいと思えない場合です。これもまたタブーで「⼦どものいない⼈のことを考えなさい」と諭されそうですね。とても言える言葉ではないです。でも多いんです。私の職場でさえも、同感する人、けっこういます。以外でしょう。でも、そんなお⺟さんは病気の⼦どもを持っていることも多く、どこかで頑張り過ぎたのかもしれませんね。いいお⺟さんでいたい。⼦どもの気持ちに添ってあげたい。なんでも頑張り過ぎるとどこかで無理がきて、結局は嫌いになってしまうことがあります。

そうですよ、頑張り過ぎて嫌いになっちゃったんです、きっと。

⺟と娘、時には難しい関係ですが、どんな場合でも⾃分を責めず無理せず、それぞれの⼈⽣を精いっぱい楽しんでほしいなぁと思います。

コラム(3)趣味と娯楽を分けてかんがえよう

「趣味と娯楽は別もの」と書かれており、なるほどぉと胸にストンと落ちたのは、もうすごい若いころでした。

実は、ワタクシこの春から趣味としてオカリナを習い始めました。けれど、あとに書く理由、つまり向上の辛さを乗り越えられなくて、ただ今中断しております。

患者さんやそのご家族にとっても「趣味」はかなりの関⼼事です。仕事で定年を迎えたり、うつ病で悶々としていたりする⼈に対して、ご家族が「趣味を持ってほしい」と⾔い出すケースがけっこう多いのです。

その時、私は「趣味を持つことは仕事より難しいのですよ。仕事のほうがまだラクです。だから無理強いしないで」とご家族に⾔います。

こう言われると、みな「?」顔になるので、説明が必要なのです。その説明をこれから書きますね。

仕事は「今⽇からやめます」というわけにいきません。でも趣味をやめる理由なんて⼭ほど⾒つかります。

みなさん、思いあたることがあるでしょう。

実は若いころ出会ったのは、こんな⽂章でした。「趣味とは向上の苦しみが伴う愉しみ。娯楽とは向上の苦しみが伴わない愉しみ」。

それ以来、⾃分の中で趣味と娯楽をはっきり分けるようになったのです。

そして患者さんには「趣味を持つことは難しいので考えなくていい。でも娯楽はできるだけたくさん持っていた⽅がいいよ」と話すことにしています。

娯楽は向上の苦しみが伴わないので、続きやすいですよね。ビデオや⾳楽の鑑賞、散歩、ウインドーショッピング、気ままに楽器をつまびく、読書、ゲーム、テレビ…挙げたら切りがないでしょう。

気持ちが乗らなければしなくていい娯楽をたくさん持っていることは、病気の回復や⼈⽣の充実度にとても大切です。

さて、話を「趣味」に戻しましょう。

趣味を持つことは難しいのであまり考えなくていいと思うけれど、ないよりはあった⽅がいいかもしれません。「趣味」の⾒つけ⽅ですが、⼦どものころどんなことに関⼼があったか思い出すと割合みつけやすいようです。

何も思いつかない場合には、現実の⽣活の中でいろんなことに関⼼を持ち、機会があればなんでも⼿を出してみることですね。

深く考える必要なんかないですよ。

「忙しいから無理」「三⽇坊主に終わるんじゃないか」「⾃分の苦⼿分野だから」というのが三⼤妨害要素ですが、そんなこと考えていたら何もできません。

そう。⼼配なんかいらないんです。

これは私の説ですが、⼀つの趣味を⼀⽣かけて追求する⼈はどこか特別だという気がします。

ここがポイント!

特別な人ではない我々凡人は、趣味より娯楽をいくつか持って楽しみましょう。平凡なことを愉しみに変えましょう。

信念と頑固は紙⼀重だし、⼀つのことに固まってしまうより、いろんなことに挑戦する⽅が楽しいではないか、という考えもあります。いったん始めたものをやめると、やめ癖がつくと⾔って、⽇本⼈は⾃分にも⼦どもにも無理を強いる傾向があります。でも合わないものを無理に続ける必要などどこにもありません。やめるからまた、新しいことに挑戦できるというメリットはとてつもなく⼤きい、そのほうが大きい気がします。

「○○1⽇講座」に出てみる。合わないと思ったら3⽇でやめる。3年、10年と続けた趣味も現実の暮らしの中で無理が⽣じると思ったら潮時です。好きなものや得意なものより、苦⼿だと思っていたことの⽅が「伸び代」が⼤きいのでやってみるといい、というのは認知症予防のアドバイスのひとつですが、これは⼀般にも通じることです。

無理に趣味など持たなくていい。が、あれば時にはとってもつらく、そしてちょっぴり楽しい。

みなさんは、どちら派ですか?

 

コラム(2)愚痴上手な人のマナーとは?

先回、会話はキャッチボールのようなものです。ですからまずボールをしっかり受け⽌めることが⼤事ですと書きましたね。

今回は逆の⽴場から書いてみました。

毎⽇、診察室で多くの患者さんの話を聞くのが私の仕事です。「この1カ⽉はどんな調⼦でした︖」とまず話を振るのは私のほうからです。

患者さんが話す内容はさまざまですけれど、好転しやすい⼈としにくい⼈があるんですよ。治りやすい人と治りにくい人と言いかえてもいいかもしれません。

だったら「治りやすい人」「成長しやすい人」に入りたいと誰もが思うのではないでしょうか。

どんな違いがあるか考えてみましょう。

今⽇いらした50歳の男性は、職場や仕事の中で葛藤を抱えておられ、いまひとつ体調不良が好転しなくて悩んでおられる方です。

「どうですか︖」とまずお聞きしてみました。

「やっぱり、もやもやします。⼈間関係って難しいです。いろんな本も読んでみるんですが、ピンとくるものもないし」とおっしゃいます。

「どんな時に︖」と話を向けても、私の問いかけなどなかったかのようにスル―して、いかにご自分の体調不良がつらいか、気分がすっきりしないかについて、えんえんと話されるのでした。こんな具合ですと、一方的な愚痴だけで、診察の持ち時間はあっという間に終わってしまいます。

ああ、もったいない。

次に来た患者さんは38歳の⼥性でした。

「ぐっすり眠れないんです。質の良い睡眠が欲しいんです」とおっしゃいました。続いて彼⼥は「仕事を3⼈で組んでいるんですけど、私以外の若い2⼈が仲がいいんです。こないだ、私の仕事が遅いので残業していたら、2⼈して攻撃してきたっていうか、あなたの要領が悪いから⾃分たちまで帰れないって、いじわるな⾔い⽅で」などと、彼⼥の話はとても具体的で、職場の状況を想像できる話し方です。

私自身も共感もできましたし、こうなると断然アドバイスもしやすいですよね。

では一体、具体的に語れるとはどういうことでしょう。

実は、ここがポイント!

やはり、普段からまわりを客観的に⾒て⾃分の置かれている状況を知ろうとしたり、⾃分の⼼の動きに注意を払ったりしていないとできないことなんです。

むずかしい言葉で言うと「自我を働かせる」とか「もうひとりの自分が、今の自分を俯瞰する」とでもいいましょうか。

⼈は⼈間関係の中でいろんなストレスを受けています。いくら⾃分がおとなしくしていても、問題があちらの方から勝⼿にやってくると言っても過言ではないでしょう。そして悩まされるのです。

そんな時、誰かに話を聞いてもらうと本当にすっきりします。

しかし、その話し⽅にはやはり⼯夫が必要だと思います。

例えば「ちょっと愚痴を聞いてほしいんだけど、いい︖ 聞いてもらえるだけですっきりすると思うの」と断ってから話すだけで、相手にも心の準備が出来ますし、「聴いてあげたいな」と思うでしょう。

また、愚痴と相談事は違うので「迷っているの。ちょっとあなたの意⾒を聞きたくて」と最初に⾔うと分かりやすいですよね。そしてあくまでも、愚痴も悩みも、相⼿が想像しやすいように具体的に手短に。また相⼿や周囲の悪⼝だけにとどまるより、⾃分のことではあっても、その⾃分を「もうひとりの⾃分」が⾒ているように話すと、聞く⼈の気分を重くしないですみます。またそのほうが、はるかにより効果的なんです。

愚痴上⼿になって今⽇のもやもやを明⽇に残さず、すっきりした気分で夜を、朝を迎えたいものですね。

 

コラム(1) 会話とはキャッチボールと同じです

最初からぶっそうな話ですみません。

私の患者さんが診察室に入ったとたん「わたし今・・・人を殺してきたんです」と言ったなら。

多分、わたしはとても驚くと思います。

そして表情ひとつ変えることなく言うでしょう。

ただ「・・・そう」とだけ。

 

患者さんの訴えを診察室という名の密室で聞き続けて何十年。

時代は変わり、病気の様相はすっかり変わったけれど、「人の話を真っ白な心で聞き続ける」というスタンスだけは変わることなく続けてきました。

そして何十年続けてきても、一番むづかしいと感じるのは何でしょうか。

それは「人の話を聞く」ということなんです。

 

そんな私が伝えたいこと。

それは、会話とはまず、投げられたボールをしっかり受け取ることだということです。

 

なあんだ、と思われるかもしれません。

わかっている、とおっしゃるかもしれません。

ところがどっこい。そうはいかないものなんです。

 

自分と同じ考えである時には「そうそう」とすなおに聞けても、反対意見だったり、思いもよらず「学校に行きたくない」「やめたい」などと言われた時に、まず「そうなんだね」と言える人はとても少ないと思います。

 

たいていの人は、困ったことを言われると相手のボールをしっかり受けとる前に、急いで投げ返そうとします。

 

私にも若いころ、苦い思い出があります。

 

それはある若い女性の患者さんでした。彼女の会社の上司の息子もまた、私のクリニックに通っていたのです。ある時彼女から「先生、私がここに通院していること彼にしゃべったでしょう」と言われました。身に覚えのない私は被害的になり疑っている彼女の気持ちを受けとめる前に即座に否定したのでした。

本当に心外だと思った私は「言うわけがないでしょう」と言い、彼女は黙りこみました。

 

そして話はそこで終わったと思っていたのですが・・・・・・。

ところがです、その後、彼女から長い手紙が届いてびっくり。

 

こんなことが長々と書かれていました。

 

「先生は不安な私の気持ちをわかってくれる前に、怖い顔をして否定し自分を主張した」と書かれていたのです。

 

「殺してきました」と言われても受けとめられる私が、危険が自分の身に及んで余裕をなくすと、受けとめるどころか自分の身を守るのに必死になっていたという事実。

 

反対の例をあげましょう。

 

先日、私は仕事のことで急に自信がなくなり、相手に電話をして訴えました。

相手方は「そんな気持ちでおられたんですか。気がつかなくてごめんなさい。でも大丈夫」と言ってくださった。

「そんな気持ちでいらしたんですね」と投げたボールを受けとめてもらっただけでなんだかとてもうれしく「頑張ってみようかな」という気持ちになれたのです。

 

不思議!!

 

わかってもらえていないと思うと人はしつこく訴えたくなるものです。わかってもらえたと思えた途端にすっとして、案外「もう少しだけがんばってみようかな」などと思えてくるのですから本当に不思議ですよね。

むつかしく考えることはないんですよ。

そしてここがポイント!

多少 ?? と思っても、とにかく「そうなんだね」と相槌をうつだけでも結構。

相手や自分を偽ることと、相槌はまったく別モノですよ。わからない部分はあとでゆっくり確かめましょう。

言葉の魔法。上手に使って聴き上手となり、まわりの笑顔、引き出したいものですね。

おことわり(Dr.あやこのしあわせ論)

新聞に連載したものがとても好評で、載せてほしいとのお願いが多いため、会話調に読みやすくなおしてこのブログに漸次、載せていきます。

カテゴリーは「Dr.あやこのしあわせ論」となっています。

別仕立てに出来ず、カテゴリーを分けることしかできませんので、すでにお読みくださった方は、飛ばしてくださいますようお願いします。

優雅な朝

 

今朝はとても寝起きの良い朝でした。

昨日の朝の不調とはまったく別人です。こんなに急速に悪くなり、急速に改善するものなのでしょうか。

(疲れがたまっていたのですね。疲労の蓄積はこわいです)

朝食の準備は前の晩にあらかたやっていますので、朝の時間を十分にゆっくりと過ごせました。

スマホはまだまったく使えていません。

今日いらした患者さまが「やっぱりスマホは便利ね。もう手離せないわ」とおっしゃりながら帰っていかれました。「もうカーナビは買わなくてすむ」そうです。

でもね。私のひがんだ観測なので許してほしいのですが、その方の娘さんが ヤフーに転職されて、時代の最先端を行っておられるのですが、ヤフーって好きな時間に働けたり、休みをかなり自由にとれるそうなんです。なので、月に一回は東京から帰ってこられ、田舎の空気を味わっていかれるそうなのですが「ぜったい教えてもらっているんだろうな、いいなあ」と思います。もちろん顔には出しませんが。

夫に聞くとうるさがられるばかり。

ああ、一年かかって学べばいいわ、と思っているのですが、今朝いじっていたら、突然音楽が聴こえてきてびっくり。

端末に三曲だけ入っていると出ており、私好みの曲が突然、大音量で聴こえてきたのです。

夫も夫。「おい、消せよ。すごいお金、請求されるぞ」ですって。

私、ダウンロードなんかしてませんよ。出来てませんよ、ほっといて!

と叫びたくなった。

それでも、庭に出て、珈琲を飲みながら、その決まりきった三曲を繰り返し聴いていたら、大満足。

音もけっこう良いので、驚きです。

なんか自分のCDから曲もとれるようで、夫はそれができるようですが、うるさがって教えてくれません。

でも夢は広がります。少しづつ使いこなせるようになりたいです。

「一年かかって」「ゆっくり」馴染んでいくってなかなかいいじゃあありませんか。私にはそれが合っていると思います。なぜって、もし教えてくれる人がいても、そのペースについていけないと思います。身につかないんですもの。

スマホに振り回されるってゼッタイ嫌。やっぱりこれって出来ない私のひがみかな??

とうとう年貢の納め時かと思いました。

昨夜は元気だったので、プールまで行ったのですが、今朝起きてみると、激しい頭痛、胃もたれ、下痢などで起き上がることさえ出来ません。どうなったのかと思うくらいの不調です。

それでも私の病院は医師ひとり体制なので、ぜったい的に「行かない」という選択肢はありません。また病棟なら遅れてもいいのですが、外来を持っていると、休むという選択肢がないのです。それが良いのか悪いのか

何十年と寝込むこともなく病休ゼロを更新し続けていますが。

今日という今日は、もう年貢の納め時かと思ってしまいました。

自分は食べれませんでしたが、夫の朝ご飯を作りました。身体ならしの意味もあるので、どんなにしんどくても動いていたほうがいいのです。

そしてどうにか運転して職場に行きました。

一日どうにか働き、夕食は夫がおじやを作っておいてくれました。

だんだん回復し、お風呂から上がった頃にはすっかり回復して、明日の朝食の準備を今、終えたばかりです。

夜には、朝食の準備をかならずやっておきます。野菜を洗い、茹でたり切ったりしてタッパーに入れます。

これをやっておくだけで、朝がどんなに不調でも、簡単に朝ごはんが作れるのです。

朝は健康な時でもぼーっとしていますので、前の晩に下準備をやっておくことはとても助かります。

そんなわけで、不調の結論は「風邪」ということになりましたが、私の風邪は何年に一回もありませんけれど、その一回もめでたく一日で治ってしまいました。

でもいつか、病休ゼロを更新できない日がくるのだろうと予感されるようなひどい不調の朝でした。

昨日のブログで「体調管理に苦慮しています」と書きましたが、あの時点でなんとなく不調感があったのでそういう書き方になったのではないか、と思いました。

 

珈琲ブレーク

今日は時間もないので、ちょっと珈琲ブレーク。

私の手帳の上半分。

は、ちょっと可愛くしています。

横と下に、起きた時間、寝た時間、食べたもの、買ったもの、TO DO RIST などを書いています。

家計簿は月末にこれを集計するだけなので簡単です。

最後にその日の体調を書きます。

体調管理には毎日、大変苦慮しています。