「心の病と向き合うために」下書き・2

講演で大事なことは、何を伝えたいかであると言われます。たくさんのことを

伝える必要は ない。ひとつ、ふたつでいいから伝えたいこと。

 情熱的に伝えたいことがあると、知識だけを伝えるときより、はるかに講演は

成功です。 わたしが伝えたいことは、だいたい決まっています。

 それは、こころの問題を「自我」という側面からかみくだいて説明し、誰もが今日から

 自分の問題として考えられるように。

子育てや自分の精神衛生を考えるとき、今すぐからでも応用できるように。

 わかりやすく具体的に伝えたい。 ただそれだけなのです。       

 ♥      ♥     ♥

「自我」という考えはむづかしく聞こえるかもしれませんが、精神医学というのは、

実は むずかしい心の問題を「自我」という考えをもってくることによって、

いとも簡単に乗り越えられる ようにした唯一の学問なのです。 他の学問でも「自我」と

いう概念は使いますが、精神医学では、その概念を使うことで

「こころが病むとはどういう状態なのか」

「治療するとはどういうことなのか」などの 大切なことをわかりやすく説明します。         

 ♥    ♥   ♥

精神医学では「自分」というものをとても大切に扱っているという点では、他の医療や

 学問から飛びぬけています。 もうちょっと詳しく説明します。

精神医学では、自分というものを「自己」と「自我」のふたつに 分けて考えることをします。

 「自己」とは行為している自分のこと、「自我」とは行為している自分を見ている、

 もうひとりの自分、です。 今のみなさんの「自己」は「この拙文を読んでいる」ということですね。

しかし、読んでいる みなさんの「自我」は、それぞれ別々。

今のみなさんの「自己」は「この拙文を読んでいる」ということですね。

しかし、読んでいるみなさんの「自我」は、それぞれ別々。

「この読み物、退屈だなあと思っている自分がいるわ」

という人もいる。

「なんだかわくわくする自分がいるわ」という人もいるかもしれません。

かならず、意識する、しないにかかわらず、行為している自分と、それを見ている、

もうひとりの自分がいるはずです。

パソコンの前でちょっと目をつむっていただきましょうか。

みなさんの行為は同じでも、頭の中を駆け巡る思いは千差万別のはずです。

そして、その自己と自我の関係こそが心の本質だと、精神医学では言っているのです。

         ♥     ♥    ♥

伝えたいことは決まっているのだけれど、ここでひとつ大きな問題が横たわっています。

寺澤芳男氏も書いているように、「自分が言いたいことより、相手が聞きたいことを話す」

それが大事だと言われると、講演というものはなんとむづかしいものだと思います。

気持ちが重くなって正直者のわたしが「ぜったいやりたくないもののひとつ」に数える気持ちが

わかっていただけるでしょう。

寺澤氏は言います。

相手の頭に何を残すか。

自分が言いたいことより、相手が聞きたいことを話す。

自分の「口」からどんな言葉を話すかではなく、相手の「頭の中に何を残すか」が大事であると。

この考えがまったく正しいと思える証拠はあります。

今までやってきたたくさんの講演でも聞いている人の目の輝き、そしてうなずきの数、

笑いの数を見ると、相手が聞きたいことを話しているかどうかが一目瞭然。

そしてそれは、売れる本の数に如実にあらわれてきます。

ワークショップをやったことのない私ですが、相手との共同作業が少しでもあると

一方的にやるよりは修正もきくぶん、やりやすい面もあるかもしれない。

でも、一方的におこなう講演の場合、しらけ始めると止める手立てなし。

だんだん会場がしらけていく様を見るのは耐えられません。

パワーポイントを使えばいいでしょうとか。

たまに手をあげてもらって、会場の思いをすくいだしてみればいいでしょうという

考えもあります。

でも私はそれはやりたくないのです。

パワーポイントなんて、ぜったい使いたくありません。

やはり、情熱と知恵を使って、わかりやすい生きた言葉を使って伝えることに

意義ありと思うものですから(わたしにとっての修行という意味で、です)

          ♥    ♥   ♥

今回は精神障害者の作業所が主催して、広く市民も参加できるようにしているちいさな

講演です。

主催者からの注文がひとつ。それは障害者を受けいれる社会になるような助言のある

内容を少しでも入れてほしい、というものです。

障害者の、もう若くはない家族だったり、市民といっても誰か家族に障害の方をかかえて

いるために多少こころの問題に関心のある人たちではないかと思っています。

また、民生委員の方など、身近にお世話しているために知識を増やしたい方もいると思います。

相当わかりやすく、具体的に話さないとだめでしょうね。

困っています。

          ♥     ♥    ♥

自己紹介のあと、一番先に話す言葉を何にしよう。

今日は一日中、暇さえあれば考えているのですが、いい考えが出てきません。

パソコンで打ち始めると考えが浮かんでくるという私のパターンなので、期待しているのですが・・・・

ちょっとお茶でも飲んでこよう。

            (休憩)

さて、本番です、チョン!

          ♥    ♥   ♥

今日の講演の題名である「心の病と向き合うために」というタイトルは、なかなか良い

タイトルを見つけられなかったために、適当につけたものです。

しかしこのタイトルを見てやってきてくださったみなさんは、こころの問題を抱えている人と

まったく無縁ではないために、何かヒントが得られるかもしれないという淡い期待を

抱いて来てくださった方ばかりだと思います。

私は精神科の診察オンリーで40年を過ぎましたので、何万人という患者さんを診てきました。

それだけの実績がある私なら、何か特効薬を持っているかというと、それはまったくない、

と言っても言い過ぎではないくらいにこころの問題はむづかしいものです。

実は今日の主催者と関係のある赤十字病院をこの4月でやめました。

なぜやめたかといいますと、新しい先生が赴任されたからです。その先生とは面識がありません。

だけど、精神科医になって6年だという心意気に燃えたその若い男の先生と、年季40年を越えた

ちょっぴりくたびれた私を比べてみると、精神科というのは不思議なもので、

その若い先生のほうがよく治せる場合のほうが多いのじゃないかと思えて、

あっさり身を引いたのです。

笑わないでくださいね。

私にも若くて情熱的で、ほっとけないように感じられるかわいいときがありました。

古い先生では治らなかった患者さんを若い私が主治医になったことによって流れが変わり、

治らないと思った患者さんが治ったことがよくあります。

またこんなこともあります。重い精神病の方が優しいご両親のもとで手厚く看病されていました。

ご両親が亡くなったらどうなるだろう。誰もが心配するところでした。

ところがお父さんが亡くなり、優しく面倒見の良いお母さんが亡くなりました。

患者さんは悪くなるどころか、次第に良くなっていきました。

そんな例は枚挙にいとまがありません。

こんな話をいたしますと「若い先生のほうが情熱があっていいのかなあ」とか

「親がいなくなると頼る人がいなくなって甘え心がとれるせいかしら」くらいのことは

素人の方でも想像がつくと思います。

そうですね。当たらずとも遠からずではあります。

まず、結論を先に話してしまいましょう。

心の治療というのは、子育てにとてもよく似ていること。そのことを話したいと思います。

若いお母さんのほうが無我夢中で育てるので、うまくいくことってあるでしょう。

また子育ての目標は「自立」ですから、親が亡くなったとたん良くなることも

あり得ることですよね。

「子育て」も「こころの病気の治療」も、心を育てるという意味でまったく同じです。

まず、そのことについて話します。

「心の病気の治療」などという難題が、子育てと同じだとわかれば

またそれぞれの方に新しい視点や方策も生まれるかもしれませんね。

そしてつぎに「じゃあ、こころを育てるとは何か」についてもっとくわしく話したいのですが。

時間がかぎられます。

今日持参しました、今週できたばかりのほやほやの本は、私がこころを育てる治療の中で

ふだん患者さんに話している具体的な言葉が書いています。

わたしという医者はとても年季がはいっているらしいということ。

またどんなときでも治療を投げだすことなく誠実に患者さんを支えてきたらしい

という証拠は、この本以外には、何もありません。

カルテは密室に保管されています。

また患者さんはなおってしまうと医者を忘れます。それでいいのです。

今日はそのいくつかを抜粋してお話しするにとどめます。

関心のある方は、あとでその証拠の品を手にとってみてください。

八ケ岳近辺の美しい写真も入っていますのでながめていただけるとうれしいです。

         ♥    ♥   ♥

ああ、くるし~いっ!

自分らしく生きる 34 いつまでも「女の子」として生きる

高速道路の助手席に乗って、職場から帰った。

南アルプス連邦、八ケ岳連峰が雪をかぶって、神々しいくらいである。

「わーっ!きれい!」を連発した。

「あなたのおかげだよね。もしこちらに来てなかったら、こんなに美しい景色を見ることは

なかった。滋賀でも金沢でも大阪でも、考えもできない景色。本当にきれい!」を連発した。

夫は冷静だった。

「雪が半分以上解けている。ちっとも美しくなんかない。雪が降ったばかりの山こそきれいだ。

若い子とおばさんくらいの違いがあるよ。もっとういういしい雪山じゃないとね」

夫と私の反応が違いすぎて、戸惑っているうち、レモンとイチゴの違いを思いだした。

雪を好むので レモンやイチゴを外に出す。

レモンは黙って駆けだしていく。

イチゴはどうかというと、これがおもしろいのだ。

「わーっ!」と叫びながら外に駆けだすのだ。

かならず「わーっ!」っと叫んで駆けだしていくので、笑ってしまう。

わーっと叫びながら飛びだしていく様は本当に微笑ましい。

男性と女性も違うが、猫でも女の子は「わーっ!」という。猫でさえ感嘆詞が多いのだ。

家の近くまで走ってきた。

「ねえ、男の人は感嘆詞を使わない人が多いわねえ」といったとたん。

夫が「おお!きれいだ。これこそ きれいだと言うんだよ」

朝もまだ早いので樹氷が朝日にきらきら光っている。

樹についた雪が、繊細そのものだ。

夫が「これこそ写真だよ」といった。

車を何回も止めてもらって撮ったが、腕がなくて、美しさの半分も撮れていなかった。

残念である。

          ☆      ☆      ☆

職場の昼休みは「女の子の集団」だからにぎやかだ。

私も写真を見せたり、エッセイ集の原稿をなおしていたりしたら、

職場のナースたちが。

先生って、いつも本当に楽しそうですね、という。

やれ、ポストカードだ、やれエッセイ集だといって、かれこれ

一年近く、楽しんでいる。お金もかかっているらしいけど、それだけ

楽しめたら、もう元とっているわねえと皆が口をそろえて言う。

たしかにそうだ。

いつも「わーっ!」とか連発しながら、大きな声でしゃべり大きな声で笑っている。

いつまでも「女の子として生きる」という生き方も。

女性には「あり」だと思う。

自分らしく生きる 33 イライラの正体

いらいらする病気なんてない

あるのは

出来もしないことをしようと無理している自分

☆      ☆      ☆

上は私のエッセイ集の一こまだ。

私の一言エッセイは、自分にも効くので、きっと人にも役立つと思う。

イライラの原因を整理してみた。

昨日、今日は大雪で、今日などふだん当直の帰り、35分のところ4時間もかかった。

当然、疲れるはずだ。

その上、雪道にはまってしまい大騒動をした。

でも、それがどうってことはなかった。

原因はパソコンだ。

パソコンが壊れ、新しいのに慣れない。

そこへもって、オンライン セミナーをやることになった。

スカイプがこれまたなかなか使えないのだ。

間に合うだろうか、ちゃんとオンラインで 話せるだろうか。

それを考えただけで負担になっているのだ。頼まれた責任があるからだ。

それに、出不精の私にとってオンラインで セミナーをするのは

とても挑戦的で、やってみたいことなのだ。

そして、そもそもそれをやりたいと思ったのは、本を売りたいと思ったからだ。

本ができてもいないのに、売る準備まで考えてしまう私なのだ。

でもそれがわかったらすっきりした。

昨年は電子申告にした。大変だった。思っただけで今年も大変。

でも、これって遅れても大丈夫なのだ。

本の出版も、誰にも迷惑かからない。

負担になっている原因がはっきりしたら、すごくラクになった。

☆     ☆     ☆

先日、誰かの言葉で「いらいらするときは、成長しようとしているとき」

というのがあった。

私みたいな「無理しないで」というメッセージもいい。

でも「成長しようとしているとき」というメッセージもいいな、と思う。

成長しようとして。でも整理できなくて、あれもこれも気になって無理しているとき。

きっとイライラするのだと思う。

めったにイライラしない私って、あまり成長の意欲がない人なのかも。

今度患者さんが「いらいらする」と訴えたら。

「きっと、何か成長したい。変わりたい、という意欲が芽生えたのよ。

でも、整理ができなくて、どうしていいかわからなくて、気持が負担に

なっているのよ。何が一番、気がかりなのか。何が一番したいことなのか。

教えてちょうだい」と話すことにしよう。

自分らしく生きる31 若いころの夢を思い出して

☆   ☆   ☆

30才くらいまで「医者は合わない」と悩みました。

精神的にも体力的にも、わたしには大変でした。

医者って体力勝負なんです。私は身体的にも精神的にも、ちょっとヤワです。

そこでいろんな習い事に手を出しました。

30才のとき、同僚の先生に「医者以外でやれるわけないじゃん」と言われ、腹がたった

けど、そうだなあと思うようになりました。

35歳くらいから「精神科医は天職だ」と思うようになりました。

医者としてとても重宝され、輝きに輝いていました。10年続きました。

55歳くらいから「精神科医をやることは楽しい」と思うようになりました。

そして最近、とうとう年齢制限にひっかかって、仕事が制限されてきました。

残念なことです。やっとおもしろくなってきたのに、年齢制限です。

若い人がドンドン出てくるのだから、それは仕方ありません。

でも、若いころの夢を思い出したのです。医者になりたくなかったころもあったなあ、って。

医者はずっとやれる職業ではありません。でも人生はずっと続くのです。

いくつになっても、年とるほどの味の出ることをそろそろ始めたいと思います。

自分らしく生きる30「老いと向き合う」

私の職場の机の後ろ隣に、40才後半の先生がいらした。

仲良くなって、椅子をクルリとまわして、よくしゃべった。

その先生が転勤され、今度は20才代の若い先生になった。

秘書さんが笑った言った。

「先生。今度は相手にしてもらえないかもしれないわね。若過ぎるもの」

私も苦笑した。

秘書さんの予想に反してそれから半年、ふたりは結構の仲良しになった。

30数才の年齢の差を越えて。

赤ちゃんが生まれたばかりであるらしく、昼休みに写真を見ている。

今日、向こうから話かけてきたので、私のことも話した。

「新しい医者が来るので、とうとうやめることになったの。

それはいいの。新しい医者が来ることは病院のためだからうれしいの。

私も若いときには、そうやって年とった先生を追い出したきたんだもの。

でもね。こないだ、私の親友が亡くなったのだけど、笛吹きだったの。

精神科のケースワーカーをきっぱりやめて、横笛吹きになったの。

癌で亡くなる直前まで笛を吹いていたけど、年々音色が良くなった。

亡くなるのがもったいない。もっと聴いてみたい。そう思えた。

音楽家とか画家とか、年齢に関係なくだんだん良くなっていくってことがある

よね。でも医者ってどう? 30代、40代が盛りだよね。一番いいときって

ただただ年齢でしょ。自分でも、そう思うし。

顔しか見えないでしょ。キャリアも長所も見えない。顔と年齢だけで判断されて

しまう。年で値踏みされるのは嫌なの。だんだん味が出る、まわりからもそれを

認めてもらえる。そんな働き方、生き方をしたいの。どうしたらいいかしら。」

でもその彼は笑いながら、こう言ってのけたのだった。

「でもね。50才後半あたりから、あきらかに、動作も鈍い。頭も固い。勉強の意欲も

乏しい。どう見てもやっぱり働きざかりには勝てないよ」

童顔のその先生にそうもハッキリ言われると、なんだか納得して笑ってしまった。

「そうかなあ、年齢を超越できる先生なんか100人に2~3人か」

そう言いながら、話は終わった。

瑠美子さんの笛の音色は、年を追うごとに良くなっていった。

練習をたえまなくしていたからだろうか。

年とっても練習やレッスンをたえまなくやっているかどうかだろうか。

年とるからだめになるのではなく。

職業が違うからだめになるのではなく。

年とるほどにいい味を出したり、いい仕事をする人は、それだけ努力をしている、

ということなのだろうか。

精神科医であることに疲れたとても優秀な先生が、58歳でリタイアして画家に転じた。

繊細すぎて、優秀すぎて疲れたと思う。

その先生から年賀状をいただいた。心境が書いてあった。

死ぬまで現役で、が口癖だった精神科の先生が、先日80才半ばで亡くなった。

いろんな生き方がある。

若い人は案外、自分より年とった人の生き方を見ている。

「自分らしく生きたい」と願った12才の少女は、それから50年経た今もまだ

何かを願って迷っている。

性分というものは、その人にくっついたもので一生なおらないものであるらしい。

「楽しく悩んでいるのよ」と答えておきたい。

気晴らしに街に出たが、猛吹雪にあい、死ぬほど怖い思いをして帰ってきた。

集中力と根気、いまだ健在でした。

☆      ☆     ☆

☆     ☆

今日は、朝の9時から作業を始めました。

座布団をしいてパソコンをおいて、飲まず食わずで13時間。

例のフォトエッセイ集です。

私の集中力も根気も、いまだ健在でした。

あとは、専門の方たちにおまかせします。

それでも作業があることでしょう。

今年は、まだいただいた年賀状を見ていないくらい忙しいです。

ぜひ一部を見てください。

レモンといちごもいっぱい登場して、素敵なエッセイ集になりそうです。

自分らしく生きる30 自分や病と「向き合う」とは何か・4

毎日、患者さんを診察している私ですが、こころがけていることがひとつだけ

あります。ひとりの患者さんが診察室にいる時間といったらせいぜい10分から

15分。長くて20分です。30分以上というのは、初回だけです。正味5分と

いうこともあります。

これは保険診療ですから、やむを得ないのです。診察料は3600円と決まって

います。診療所は一時間に4人、これはすごく良心的な人数です。診療所は

営利が出ていないと思う。所長が女性なんです。「それでいい」と言ってくれる

のですが、男性ならこんなわけにいきませんよ。私もそうでしたが、一般に女性の

ほうが太っ腹です。男性が開業すると一般的にこまかいです。

総合病院では一時間に6人の予約が入っています。それくらいでないと採算が

とれないのです。ひとり正味5分です、短いですね。

その短い「時間」をいかに気持ちよく診察を受けていただくかに配慮します。

顔を見て挨拶をします。それからかならず、お天気の話題を出します。

「寒くなりましたね」「いいお天気が続いて気持ちいいですね」「雨で、出にく

かったでしょう」などなど。それは患者さんがドアを開いてから椅子に座るまでの

時間です。その間、患者さんの顔を観察します。こちらはずっと笑顔です。

診察が終わってからも、かならず顔を見て挨拶をします。笑顔です。

「お大事にね」「また一ケ月後にね」「気をつけてお帰りください」などなど。

病院に通ってくるだけでも大変なので、せめて診察くらいは「快い」時間で

あってほしいと願うからです。

私も最初からそうだったわけではありません。若いころは自分の気持ちを見つめる

余裕もなかったし、ましてや就業時間ぎりぎりに入ってくる患者さんなんかには、

いやな気持ちが顔に出ていただろうなあと思います。自分と向き合い、

自分の気持ちを見つめる訓練をしたり、「快」と「不快」に配慮をする生き方を

していたら、結果的に今のようになれたのです。

「自分と向き合う」ということは、自分の気持ちを見つめることだと話しました。

自分の気持ちの中でも、ネガティブな気持ち、たとえば不快、悲しい、悔しい、

避けたい感じ、怒りなどは、あまり見たくない気持ちです。どうしても、見ないよう

にしてすましてしまおうとする意識が働きます。けれど、そういうネガティブな気持ち

をきちんと感じてあげること。そういう気持ちを人間なら誰でもおきる普通の気持ち

であると認めてあげること。それが自分と「向き合う」ということです。

それができて初めて、「他」の気持ちに向き合えるようになれます。

でもそういうことが出来きるまでには、やっぱり訓練が必要です。訓練といっても

「コロンブスの卵」と言いましたが、やれてみれば、なあんだ、ということなのです。

まず手はじめに「快」と「不快」を感じる練習をしてみてください。

「快」と「楽ちん」とは違います。「快」と「イベントをして楽しかった」というのも

ちょっと違うのです。

「この人と一緒にいるとなんだか心地いいな」でもいい。「温泉、気持ちいい」でもいい。

「白い雪に真っ青な空を見ていると、凛としてとても好き」でもいい。「コンビニで買って

きたら楽だったけど、がんばって野菜スープを作ってみたら、なんと味が深いの。

美味しい」でもいい。「つまんない曲、と思っていたけど、強弱つけて優しく弾いて

みたら、なんとかわいい曲なの」でもいい。

暮らしの中でつぎつぎと起きてくる山のような出会いに対して、「快」と「不快」の

位置をきちんと与えてあげる。

「快」に敏感になると自然に「不快」にも気づくようになってくると思います。

でもまず、たくさんのささいな「快」を積み重ねていくことをお勧めします。

大きな旅行を計画したり、イベントを作らないと楽しくないというのではなく、

生きているかぎり、かぎりなく起きてくる出来事の中から、でいいのです。

あまりハッスルしたり、感嘆したりしなくてもいいくらいの、微妙な「快」に

気づけるようになったら、人生の質があがると思います。

患者さんにも、自分と向き合うようになってほしいから、まず手はじめに、

診察の短い時間を「快」にします。病気になったのは辛かったけど、今日も○○先生に

会えてうれしかった、と思っていただけることが、むづかしい治療以前の治療だと

思うので。はたして少しは効いているかしら??

☆     ☆     ☆

今日の写真は、ふだんほとんど抱かせてくれないレモン。

今日はめずらしく抱かれている。

寒いから? ねむいから?

恍惚とした表情で抱かれていたレモンは、今日の話題にぴったりでした。

動物は「快」と「不快」に正直で、人間におもねるところがない。

というところがやっぱりなかなかそうはなれない人間にとって必要な

存在なのかも。

自分らしく生きる29 自分や病と「向き合う」とは何か・3

                                       ☆       ☆        ☆

「こころの病と向き合うために」という講演を一時期、続けさまにやったことがあります。

その時に「向き合う」とは、一体なにと向き合うのだろうと考え続けました。私の答えは

「気持ち」でした。その大元は「自分の気持ち」でした。

夫と向き合いましょう、子供ときちんと向き合いましょう。よく言われることです。だけど、

時間をとって対面して相手の顔を真剣に見て話しあうことが「向き合う」ことでしょうか。

「わたしたちの夫婦関係、最近どうかしら」と持ちかけてみることが「きちんと向き合う」こと

でしょうか。そうではないと思うのです。

子どもが「学校に行きたくない」などと突然言い出したら母親なら誰でもびっくりします。

子供と向き合わなくてはと思い、どうしたの?何かあったの?と真剣に聞いてあげる気持ちに

なるものです。しかし、たいていは子供の気持ちをわかってあげる前に「行かなかったらいかに

困ることになるか」についてお説教を始めたり、あるいは「行きたくなかったら無理しないでいいのよ」と

子供の気持ちをわかってあげる前に自分の安心のために、結論を出したりしがちです。

それは、どれだけ子供との時間をとった

としても、子供の目を真剣に見て話しかけたとしても「向き合う」ことにはなってないと私は考えます。

何かと「向き合う」とは、その相手の気持ちのありかをさぐること。それをありのままでわかって

あげようとすること。そして同時に、相手の気持ちをわかった時に、自分の中に生起してくる「気持ち」

をもまた、ありのままに認めることです。相手の気持ちをわかればわかるほど、自分の期待や

自分の気持ちと相反するということはしばしばあります。相手をわかればわかるほど、

気持ちのおさまりがつかなくなる「自分の気持ち」。それをもありのままに認め、受け入れることは並大抵

ではないことが多いのです。ですから、何かと「向き合う」ことは何年に一回か二回くらいにして

もらわないと身が持ちません。

例をあげてみましょう。50歳男性患者さんの若い奥さんが主人公です。

うつ病がほとんど良くなったあとも、薬の維持療法のために通院している、50才になる患者さんが

リストラに合いました。

リストラ後についた仕事で、つぎつぎと「合わない」と言ってやめてしまい、家でぶらぶらすることが

多くなりました。奥さんはまだ若く、幼い子供が2人います。さいわいご主人の親と同居しています。

また奥さんも若くてばりばりと働いていますので、生活にすごく困るというわけではありません。

夫がうつ病だった時は、とてもこころの支えになってくれた奥さんでした。

しかし今回、まだ50歳だというのに、子供が小さいというのに、うつ病はなおっているというのに、

職安に行くこともなく家でぶらぶらしている患者さんを見ることは、奥さんにとって耐えがたい

ことのようでした。夫がどんな気もちでいるのかもわからず、ただただ怠けているようにしか

見えません。奥さん自身は働くことが好きです。

しかし、夫の無気力な様子を見ていると、どうも納得できない、おもしろくない、ついつい尻を

たたいてしまい、余計夫の気持ちを萎えさせてしまうようでした。

このケースの場合、患者さんはご主人のほうです。ご主人が仕事に対する不安感をつのらせ、

奥さんに悪いと思いながらもなかなか一歩が踏みだせないでいる気持ちは、私にはよくわかり

ます。だから治療はそこまででいいのです。しかし、奥さんがあまりにいらいらしておられると

いうので、奥さんにも来ていただくことにしました。

診察費用をいだたいているのは、ご主人のほうだけです。だから時間もかぎられています。

しかしこんなときこそ、「夫と向き合う」という行為をしなければいけないのは奥さんのほうです。

夫の気持ちを聞くのは、夫自身から聞くのが一番です。がこの時には私から説明しました。

そして、夫の態度や気持ちを目の前にしていらいらしている奥さん自身に問題をふり向けて

みました。一人っ子で婚期の遅れたご主人に嫁いでくれた若い奥さんは、今まで家族から大切に

されていました。また両親とずっと同居を続けているご主人には「男の責任で一家を守っていく。

家の屋台骨を支えていく」という自覚が欠けていました。優しくて甘えん坊なご主人です。

しかしそんな甘えん坊で優しいご主人だからこそ、惚れたのではなかったでしょうか。都合の良いときも、

いっぱいあったのではないでしょうか。家事全般を夫の母にまかせ、保育園の送り迎えを夫の父に

お願いし、夫婦でパラサイトしていたような状況で、夫だけが「無職になってたよりなくなった」

というだけで夫だけを責めるのもどうかと私には思われました。

私はそのことを率直にふたりに話し、奥さん自身にも、自分を見つめなおさなければいけない状況に

あることを告げました。

親と同居することを嫌う若い夫婦が多い中で、両親と仲良く世帯を持っている奥さんは、今どき

めずらしい方だと言えるでしょう。しかし、物事は一方的に見ると立派なことでも、別の方向から

見ると見え方が違うということはよくあることです。

「向き合う」ということは、この方の場合、夫の「気持ち」にまず寄り添うこと。その上でおきて

くる自分のいらいら感やおもしろくないという「気持ち」を今までの「誰かにたよって暮らしていた」

人生の延長線上のものとしてありのまま受けとめること。その上でしか、解決方法や奥さん自身の

気持ちがストンと納得できる方向にはいかないでしょう。

そのつぎには患者さんだけが見えました。「どうなりましたか」と問う私に、患者さんは「妻は

何かわかってきたこともあると言っていました。でもきつい先生だという印象も持ったようでした」

と話しました。ぶらぶらいている患者さんを擁護し、一生けん命働いている奥さんに向かって

「自分を見つめてみなさい」と言ったのですから、当然の反応かもしれません。

でも患者さんはご主人のほうですし、何かアドバイスをほしいと言ってやってこられたのは奥さん

のほうですから、「大変ですね」というだけじゃあ、お互いに時間がもったいないでしょう。

少しでも自分をふりかえってみるヒントになっていればいいなと思います。たいていは、一回の

話しあいでは無理ですがね。けれど、自分を見つめる習慣のある方に出会うと目を

輝かせて「やっぱりそうなんですね、すごくわかる気がします」とおっしゃってくださる方が

たまにおられます。

「向き合う」「自分を見つめる」という行為は、知能ではなく、知恵がいります。

いったん「自分と向き合う」習慣をつけると、とても強くしなやかになれます。

心の病にならないばかりか、魅力的にもなっていく方が多いように思います。

自分らしく生きる28 自分や病と「向き合う」とは何か・2

☆     ☆    ☆

今日、職場にあった婦人公論を何気なく見ていましたら、今をときめくスピリチュアル的

視点での発言で有名である人の文章が載っていました。

わずか3頁の中に「現実と向き合う」「家族と向き合う」などの「向きあう」という言葉が

たくさん出てきました。他にも立派な言葉のオンパレードでびっくりしました。

今の世の中を批判して「とにかく明るく生きていきましょう」とはげましていましたが、

こんなにむづかしい言葉を、こんなに安易に使う人をもてはやすわたしたちのほうが

おかしいのではないか。世の中をとやかく言う前に、そういう人をもてはやすわたしたち

個人個人がすでにおかしいのではないか。そう思えました。

わたしが「自分らしく生きたい」と言うときには「自分の短所を無理に直すより、

できるかぎり長所を生かして生きていきたい」「適材適所で生きていきたい」

そういう軽いノリで使っています。なんせ中学一年生ですでに「自分らしく生きて

いきたい」と切実に思っていたのですから、誰から教わったわけではない自分の

言葉なのです。

けれど「向き合う」という言葉に関していえば、簡単ではありません。

安易に使う気持ちには到底なれません。でも、精神医学的にいうと、とても

大事な視点なのです。

しかし、日常的には、そんなに「向き合わなければいけない」場面などありません。

私など「夫と向き合った」ことなど10年で3回もあるかないかです。

「現実に向き合った」ことも10年に2度か3度です。「向き合う」などという疲れる行為は、

そんなにしゅっちゅうあったら大変です。

ただし「自分と向きあう」というのは毎日寝てる時間以外はやっています。

そうです。

「向き合う」という行為は、そもそも「自分の中」でしかできないものなのです。

「家族と向き合う」ですって? 家族といっても、姑と夫と息子と娘がいるのに、

全員、それぞれに思いが違うじゃあないですか。それを「家族」としてひとまとめに

すること自体間違っています。

「現実と向き合う」ですって? 現実なんてさまざまな現実がありすぎて、その中で

どの現実と向きあうんですか。

そもそも「向きあう」という精神的行為は、自分の中でしかおこなえないものなのです。

コロンブスの卵のようなもの。出来ない人にはぜったいできない。できない人が、何かに

直面して自分を見つめざるを得なくなったときには大変です。死にたくもなります。

しかしいったんできてしまうと、なんだ、というくらい簡単です。楽しいです。そしていったん

できてしまうと、生きていくのがとてもラクになります。

人間関係もスムーズになります。

そこのところを次回説明します。

今日の文章はどうしても書けませんでした。丸一日考えて、書けませんでした。

それで、あきらめて寝ました。でも人にわかりやすく伝えるということは本当にむづかしくて

書きにくかったということを書いておくだけでも、明日書きやすくなるかな、と思い、

起きだしてきてこれだけ書きました。

「向き合う」という行為は、自分の外のものとの間で使われるけど、そもそも自分の中の

世界でおこなわれる行為なんだ、と気づけただけでも収穫でした。

私の文章は、誰かの本から抜いたりしていませんので、自分でよほどわかっていないと

書けません。