言うは易し・行うは難し

患者さんには、いつも無理をいましめている。

夫にも「週にひとつの行動ね」と宣言。

なのに、動きすぎ。一日に5つくらい、動いている。

昨日はさすがに、動きすぎて今日はダウン。

もう死んだみたいな疲れ方で働いていた。

なのにまたひとつ、しんぶんしゃの・・・・・いやいや。もうこれを言っちゃ。

患者さんがみな、逃げてしまいます。

神戸で買ったマイカップ。特別に高いものじゃないけど。

かわいい柄が気にいって。

職場に置いておくのがいやで、毎日持ち歩いて・・・・・・

大胆で行動的で忙しいわたしの、まったく別の一面です。

週末に楽しみなお客さまがあるので、今夜は早く休みます。

夜中に起こされるかもしれないし・・・・・・・確率は半分以下なんですけど。

その後。

本を出版するということは、普通は結果だと思われている。

しかし、私に言わせればそれは「スタート」である。

新風舎の斉藤さんというプロヂューサーが言った言葉を思い出す。

「出版はスタートです。それを携えて世間に出ていくんです」

本当にそうだと思う。

講演もにべもなくことわっていた。人ともあまり関わることを避けて生きてきた。

しかしいったん本を出すと、途端に世間に出ていかざるを得ない。

この数日、電話をかけて頭を下げたり。新聞社の取材を受けたり。

知り合いにお礼に持っていったり。すごく忙しい。

しかし一冊の本を送るのでも、封筒を買い切手をはり、自分でコンビニか郵便局に行かないといけない。

フルタイムで仕事と家事があるので、生活はめちゃくちゃである。そこで考えた。

一週間にひとつだけ送ろう。しかしそんな決心はもろくも崩れ、今日も分刻みで動いていた。

楽しくやらなくてどうするん。そう思っている。

ぜったい楽しく売る。しかしわたしの「社会復帰」は数年に一回で十分だ。

本を買ってくれた方と、このブログと実際の診療表の名前がつながらないよう、

実名で出さなかった。でも、急にブログの読者が増えた。

このブログはすごく個人的なことをホンネで書いているので、地元の人に知られると

ちょっとまずいかなあと思う。

フェイブックは名前も写真も実物なんだけど、知った方がいないのですごく気楽になんでも書ける。

知った方が私のホンネを知るとなんだかだ言われるので、すごく気を使う。

シャバのつきあいはむづかしいから、そろそろブログから逃げようか。

写真は新聞に出た講演の記事。ナースが持ってきてくれた。

めぐりめぐって今はただ。

疲れ果ててダウンしていた朝。
滋賀県から突然、ギャングたちが来た。
一緒に出かけようという。
疲れているの、寝させて、と言ったのだけど
「わたしたち、一年に一回しか来れないのよ(七夕みたい)!」
とおどされて、夫婦で連れさられた。
車山高原をドライブした。
震災の反動だろうか。
日本中の人が集まってきてるのじゃないかというくらいの人、人、​人。。。
おかげで写真好きの私が、こんなに好きな写真が撮れた。
一年に一回のギャングたちは、
夕方にはもう別の衆を襲うらしく、帰ってしまった。
ギャングのひとりに猫アレルギーのやつがいるらしく。
どうもわが家に長居はしたくないようだ。やれやれ・・・・・・

☆       ☆      ☆

こどもが6人、孫が8人いる。それぞれにつれ合いがいたりするので、誕生日なんてまったく

覚えていない。誕生祝いとやらもしたことがない。出来ない。

入学祝いはお金を送るだけだから、それを8回×3回(小学・中学・高校)計24回。

とにかく終えたころ、わたしたちは死ぬ(祖母も母もそうだったから、いつもそれを思う)

子供たちも夜勤のある仕事や外国なので、一年に一回来るのがやっと。

それも親に会いたくて来てるわけではない。顔出さないと悪いなあと思って、責任感から

来てくれている。それがよくわかる。

一年に一回しか来ないわりに、孫たちはなついてくれる。ありがたい。

だけど近くに住むような場合のような関係にはなれない。

私は祖母や母に最高のことをしてもらったが、私はやっていない。

それもこれもいろんな事情。それでよい。

人は人。わたしはわたし。

無理して「おばあちゃん役」をやろうと思っていないし、やれる時間がない。

そうそう。できたての「本」を息子に見せたが、見もしない。

出来の悪い母親のすることなんか、まったく信用していない。

腹がたつけど、考えてみれば「乗り越えやすい母親」になろうとバカなふりをして育てた。

ふりをしているうちに本当にバカな母親になってしまった。

おそろしいことだがそれも仕方ない。それでいい。

わたしのカラダ改造宣言

わたしはからだを動かすことがきらいです。

子供のころから、外で遊ぶこともあまりせず。

かなりの怠け者だと言えます。

「わたしはからだが丈夫じゃないから」というのは言い訳でした。

でも最近になって「からだを動かさないから、丈夫になれないのじゃないか」

ということにハタと気づくようになりました。

積極的にプールに行ったり、車をやめて電車を使ってみたり。

そして昨日。

一年に一回、海に来ます。夫が海で泳がないと生きていけないくらいの海っ子なんです。

私のような深窓の奥さんを海に連れだす、それも毎年。

あつかましいと思いません? 

でもわたしは優しいところがあるので毎年がんばって海に来ます。

でも私にとって海は「苦役」に等しいんです。

最初の1~2年は海に入りました。

夫を喜ばせようとシュノーケルの練習までしました。だめでした。

ここ10年は浜で日傘さして「父兄」やっていました。

でも最近の心境の変化で。

今年はひさしぶりに海に入りました。

泳げません。

海に入るまでの、石ころごろごろの浜辺を歩くだけで何回ころんだことか。

でも。

体操するつもりでバランスとりながら歩いたんです。

海にもちょっとつかりました。

本当はすごく、すごく疲れはてていたんですけど・・・・・・

からだを動かしたら、何かが変わるかもしれない。

そしたらがんばってからだを動かしたら、復活しました。

石ころの浜辺を歩くだけですごい運動になるんです。

ぜったい受けていたホテルでのマッサージも受けなくてすみました。

明日は帰るだけですけど、もう一度浜辺を歩いてみようかと思っています。

人間、いくつになっても変われるんですね。

からだ動かします、からだ改造宣言します。

こころの病と向き合うために・3

こころの病を治すということと、子供のこころを育てることが同じであること。

こころという概念を「行為する自己」と「行為している自己を冷静に他人の目で見つめる自分

すわわち自我」というふたつの概念にわけて説明する精神医学は、「子育て」にも

「こころの治療」にも使えること。

精神医学は「自分」という視点を大切にする学問であり、その観点は自分だけでなく、

自分と他者との良い関係を無理なく作っていくことにもつながる、人間関係の学問であること。

人と人の信頼関係を作ることは、子育てであれ、成長した親と子の関係であれ、夫婦であれ。

友人であれ、仕事での関係であれ、すべての人間関係の基本を教えてくれるものであること。

そういうことを、私の経験をふまえて話したいと思います。

        ♥    ♥    ♥

私が精神科医になったのは、はるか40年も前になります。まだまだのんびりした時代でした。

精神病院に勤めましたが、病院には鍵がかかり、個室はなく、50畳100畳の大部屋で寝る

ような具合でした。私の仕事は、何十年もなおらないまま、病院の片隅でうつろに暮らしている

慢性の精神分裂症(今では統合失調症)の方を少しでも良くして、社会に出ていくようにする

ことでした。

医学部で習ったことは何ひとつ役に立ちません。毎日根気良く話しかけたり、一緒に

散歩に行ったりする中で、自分で感じ、自分で考えたことを元に、いろんな働きかけをすることが

精神科医の治療です。

他の科の医師から「医者の中で一番頭の悪い人が精神科医になる」と悪口を言われ、患者さんや

家族からは「あなたにだけはかかりたくなかった」と嫌われました精神科でした。

「心の病」「気が狂う」ということが忌み嫌われ、縁者は結婚もできないという時代だったのです。

安定剤は今と同じようなものがありました。基本的には変わっていません、同じです。

しかし、いつの時代でも、薬で人の心を変えることは出来ません。

地道に話しかけ、寄り添い、共感しあい、はげましたりしかったりしながら、心が開いてくるのを待つ。

そしていずれは社会に戻っていけるようにしていく。

そして 治療者も医師だけではありません。医師、看護師、ケースワーカー、臨床心理士、作業療法士、

食事を担当する人や掃除をするおばさんたちもまた 患者さんと関わりがあります。

ですから「治療共同体」と呼びました。

そう。精神病院というところは、まるで 普通のおうちと同じなの。

医者がお父さん、婦長さんはお母さん、ケースワーカーはお姉さん。。。。。。お兄さんもいる、

入院患者さん同士はお互いに友達です。

統合失調症という病気はね。心の自我という部分がとても弱いために、外の世界で人間関係を

持つことができず、外界との接触の中で 心がとても傷ついたり弱ってしまったりして幻覚や妄想

の世界に逃げ込んでしまう病気です。

つまり心のレベルが 赤ちゃんや幼児のころのように 弱く、自信がなく 傷つきやすくなっている病気

なんです。

そういう状態にある患者さんの治療というのは、治療共同体にいる「家族」みんなが協力しあって

心を育てなおすこと。

だと今ではどこの講演でも話していますが、当時の私にはわかっていませんでした。

病気は医者が治すもの。患者さんが努力して治すものだと、当時は誰もが思っていました。

たぶん、現在でも私のように考える医者は少数派かもしれません。

                         ☆   ☆   ☆

実はそのころ、私には 男の子がひとりいました。そして医師になってまもなく二人目が生まれ、数年後

には 4歳を頭に 男の子3人、女の子1人の母親になっていました。

病院で心を開いてくれない患者さんと「格闘」をしながら 仕事が終わってやれやれ家に帰りますと、

4人の子供たちが、いろいろダダをこねたり、いたずらをしたり、要求してきます。

大人同士なら話し合いもできますが、相手は子供です。受けとめたり聞き流したり、自分の子供に対する

対応にも新米お母さんは四苦八苦。

あるとき、子供と留守番をしていましたら、どこかのおじさんが「子育てパンフ」を配布しに来ました。

何気なく読んでいましたら、こんなことが書いてあって、それが私の転機になりました。

            ♥    ♥    ♥

子供がお菓子ほしいとダダをこねる。お母さんはさっき食べたばかりでしょう、甘いものばかりダメよと

ばかり真剣に注意する。でもそこで視点を変え、ああそうなの、またほしくなったのね、そうかそうか。

でもお母さんは今 洗い物の最中よ。これがすんだらあげるからそれまで遊びに行ってらっしゃい。

そう言えば子どもは満足して遊びに行き、夢中になってお菓子のことなんか忘れるよ、

と書いてあったんです。

要は、子供がほしいのはお菓子ではない。お母さんの心だ。お菓子をほしがっている自分の気持ちさえ

わかってもらったら、もう菓子のことなんかどうでもよくなるくらいのものなんですよ、とそこには

書かれていたのです。

わたしにとって一生忘れられない、目からウロコの一瞬でした。

私は肩の力が抜けてしまいました。それからです。仕事でおこなったことをわが子供に応用し、

子供で経験したことを仕事の治療で応用する。

普通は足かせ手かせになる子育てと仕事。それが私の場合はちょうど良い具合に働きあって、

子育てもうまくいき、仕事にも男性の先生方にはわからない微妙な理解の仕方ができるようになった

と思います。

チームを組んでいる看護師さんなど、すべての人とうまくいくようになりました。

わたしが、相手の行為や言い分にこだわらず「気持ち」に焦点をあわせられるようになったからでした。

            ♥    ♥    ♥

それから20年の歳月がたちました。

平成10年、いろんな少年事件がおき始めたとき、突然「だから子供はキレル」というタイトルで

新聞の連載を依頼されました。

小児精神医学の専門家ではない私に白羽の矢が当たったのは不思議なご縁としか

言いようがありません。でも一年間、毎週すらすらと文章が出てきたのです。

自分でも何が出てくるかしら・・・と楽しみながら書いていました。

なぜだろう、それを考えたとき初めてでてきたのです。

そうか。こころの治療は子育てと同じだったんだ。

だから仕事のことを書いているだけなのに、それが子育て本になったんだ。

これもまた私の視点が変わった瞬間でした。

書いたことは普通の精神科医には書けないような、それまでの私の仕事、私の子育て、私の結婚生活

から得たものがぎっしりとつまったものでした。(後に本になりました)

たとえば「家庭はやすらぎの場であるだけでなく、それぞれの自我がぶつかりあう戦場でもある」

という下りがあります。

これは受けました。

私たちが結婚式で愛を誓うときには、まさか夫婦喧嘩をしようと思って結婚する人なんかいませんよね。

でも夫婦喧嘩ってほとんどが子供のことからだと思いません?

子供を間にはさんて夫婦の意見が違うことなんてざらにあります。でも違わなければだめなんですよ。

自我が違うわけだから。

どちらかが我慢すれば喧嘩になりません。でも言い張れば喧嘩になります。

でも子育てでは夫婦の喧嘩や議論がとても大事なんです。人間はみんな考えが違うんだ。違ってあたり前

なんだ。自分だって親と違ういろんな考えを持ってもオーケーなんだ。これだけ考えが違って大喧嘩しても

また家族というのはしばらくすると忘れたように仲良くしたり楽しく食事できるんだ。

そう思えるということが「自我」ができあがっていく過程で大事なんです。

仲良しだけの夫婦から自我のしっかりした子は育ちません。陰険な雰囲気はだめですよ。

喧嘩ができること。それでもなおカラっと忘れて仲良くできること。それが大切なんです。

子供の自我の確立は、自我の違うふたりの大人が折り合って結婚生活をするのを見る中で

確率と統合をされていくんですよね。

だから妻が夫に服従している家の子供は温和には育ちますが、社会に出たとき、

押したり引いたりのかけひきや、いろんな葛藤に弱いと思います。

そのあたりのところは本に書いてありますので良かったらまた読んでください。

   (「わが子の気持ちがわからなくなる前に読む本・学陽書房)

          ♥    ♥    ♥

話がそれてしまいました。

こころが弱って自我の力が働いていない患者の状態は、実はまだ「自我」が育っていなくて、

お母さんが子供の自我の役割を果たしている0才から9歳くらいまでの時期の子供とほとんど

同じなんです。

9歳くらいまでの子供って、どんなお母さんであれ、お母さんが大好き。お母さんの言うことなら

なんでも聞いてしまいます。とにかく世界一大好きなお母さん、本当にかわいい。

小学校5~6年あたりから自我が出はじめむづかしくなってきます。

少年や少女の事件が起きるのはだからかならす9歳以降です。

震災でも子供のこころのケアをと言われますが。私は自我が出始めた8才9才10才くらいの

子供さんを重点的に見ていくことが大切だと思っています。

子供のこころは、お母さんの育て方で変わってきますが、20歳も過ぎれば、自我が育っていない

からといって、お母さんに出番はもうありません。

「私はどうしたらいいでしょう」とおろおろするお母さんは多いのですが、専門家がお母さんの

替わりになって、こころを最初から育てなおすしかないのです。

  •  

この感覚の違いは何だろう・Ⅱ

ピアノの発表会にでた。

練習をしていないので、さんたんたる出来具合だった。

ビデオに撮った。

一年前は、自分の演奏会の音を聴いて、しりもちをつくほど驚いた。

「そんなもの、見ないほうがいいよ」と慰めてもらうのが関の山だった。

自己を冷静に見ている自分がいなかったから、もうちょっとマシだと思ったいたのだ。

最近、自分の演奏ビデオを出したり、FBに実態(顔写真)を載せたりしているせいで、

自分を客観的に見ることに耐えられるようになった。

そんなにステキでもなんでもない、けどちゃんと普通の人間の実態くらいはなしている、

と思えるようになった。

こんなものだ、と思えるようになった。

すごく熱くなれたり、すごく自分を冷静に見れたりしたほうが、

そこから逃げるよりいいと思う。

ピアノが中断したまま弾けなくなったが、頭が真っ白にならず、

さてどうしたものかと演奏中に考えていた。

まわりからは「なんて神経が太い」と思われたかもしれないが、

失敗しないほうが不思議だと思うからどうってことない。

この感覚の違いは何だろう。

 

若いころと今現在と。

この感覚の違いはなんだろう。
安曇野の、とあるちいさな駅で。
ベンチに座って電車を待った。
これから2時間半もかけて、別の病院に移動する。
若いころだったら、そんな無駄は許せなかった。
年とるほどに、時間の流れが速いというから。
こんな無駄はよけい、許せなくなるだろうと想像していた。
でも違う。
無駄に見える昼(寝の時間も。
一生懸命働いている時間も。
彼氏(ま、彼氏がいたら、の話だけど)と逢引きしている時間も。
忘れモノをして、引き返している時間も。
鉢物をひっくり帰して掃除している時間も。
汚れた猫を風呂に入れている時間も。
好きな音楽を聴いている時間も。
大好きなピアノを弾いている時間も。
夫と喧嘩している時間も。
夫となかよく食事している時間も。
全部が同じように。
いとしい。
こんな感覚になったのは、最近である。
効率的に働いたり。
好きな時間だけが大事なのだったり。
そういう気持ちがなくなり、
なんか全部が平等なのだ。
   ☆   ☆   ☆
韮崎のちょっと手前で、特急あずさで横になったら
一瞬寝てしまい。
きづいたら、電車は降りるべき駅をすでに発車していた。
あわてずさわがす、甲府まで行って降りた。
また下りの鈍行電車に乗りかえて、韮崎まで戻った。
こんな無駄、ありえない。
通勤に片道3時間半だなんて。
でも、許せた。

そのおかげでブログが書けなくなったり(これはFBのコピー)

回診がちょっとおざなりになったりすることと、

電車にまったく余計に乗ったりしてしまったこととの間になんら価値の違いはないように思えた。

友だちが「ビデオ見たけどあの本、いいね!」と電話をくれました。

ちょうど出版社から、最後の色あわせの製本手前のものが送られてきて。

それで友人宅に見せに行きました。

「すごくいいじゃない。ほんといいわ」

めったに書いたものをほめてくれないのに。

今日は目を真ん丸くしてほめてくれました・

「あやこさん、こおゆうのすごく合ってる」

「文章も中学生でも読めるくらい易しいけど、内容は深いわ」

わたし「作っていて、すごく楽しかったの」

彼女「楽しいって気持が伝わってくるわ。楽しく書いたり作ったりした

本じゃなかったら、だめなのよ。このタイプを今後も追及しなよ」

とあまりほめてくれるので複雑な気分。

というのは、彼女、とっても賢い哲学者。

特殊な精神の持ち主。

「本の読者はね。あなたみたい研究者じゃないのよ。私をはじめ、

平凡な8割の人が買ってくれるのよ。

平凡な人にも非凡な人にも受けたのは養老猛の<バカの壁>くらいよ。

あなたにあまりほめられるような本は売れないな、がっかり」

私が言うと苦笑していました。

ほめられたのはうれしかったけど。

今日は窓をいっぱいに開けて風を入れました。

猫は外の空気がすきですね。くんくん・・・・・

いよいよ、あちこちで畑作業が始まりました。

当地は高原野菜の産地です。

農家の人が元気よく働きだしました。

花もいっせいに咲きだしました。

きれいな花を見ると、洋服をどろどろにして撮ってしまいます。

でも、写真がたくさん過ぎて、整理不能になっています。

ここでお見せしたいのですが、時間がかかりすぎて・・・・・・・

いまは、仕事第一、二番目が運動、三番目がピアノですので・・・・・・・

HPやブログ歴はあしかけ14年になります。

からだを削って続けてきたといっても言いすぎではないくらい、根気と時間がいりました。

でもずいぶんと愛読者の方が増え、とても感謝しています。

大事にしたいと思っているのですが、愛読者の方は応援はしてくださっているでしょうが、

でもブログで本は売れません。

フェイス ブックで本を紹介したいと思うようになってから、

両方がこんがらがってしまい、相当、かなりの、負担。

わたしのことですので、いつかどこかで折り合いはつけていくと思いますが・・・

いましばらくあたたかく見守っていただきますようおねがいします。

猫と緑の風とたんぽぽのわたげ

また動画です。

当直の疲れが重なり。

その上、自分のDVDで気持ちが超ハイになったので。

疲れきってしまいました。

今日は「青菜に塩」状態です。

動画はわが家の庭で。

カッコウとウグイスが鳴いていますが、聞こえますか?

孤独には超強い私です。

自然環境にも恵まれ、ふだん仕事にかまけています。

さびしさを考えるゆとりさえありません。

が、フェイス ブックで相手からの反応や双方向のコミュニケーションがあり。

それが楽しくとても新鮮に感じるときがあります。

やっぱりふだんの暮らしの中で。

気楽でほんわかとした双方向の反応やコミュニケーションに

飢えているのかなあとあらためて感じます。

本当は甘えん坊のさびしがりやなんでしょうね、きっと。

再婚したのはひとり暮らしのさびしさに耐えられなかったからです。

健康で誠実で、ふつうの人なら誰でもよかっ(うそ、うそ、うそっ!。そんなこと

口が裂けても、言っちゃいけません)

でも結果オーライです(ほっ!)

男の人を見る目、昔はなかったけど、今はあります。

ひとめでわかります(こわいぞー)

動画 ↓↓↓

猫と緑の風とちいさないのち