自分らしく生きる15 自分で限界をもうけない

好きなことを見つけたくて、いろんなことに手を出した。

編み物に始まり、絵画、手芸、陶芸、貼り絵、エレクトーン・・・・・・

〇〇一日教室などというものは、もう覚えていないくらい出た。

まわりの大人たちから「なんて飽きっぽいの」とあきれられていた。

あるとき、囲碁にはまってこれだけ10年続いた、3段までいった。

レッスンプロの先生の魅力にはまったら、もう麻薬のように抜け出せなくなっていた。

おもしろかった。教え方が上手で、教わった人はみな、はまっていた。

教え方に理論があって、素直に習っていたらみんなどんどん上達した。

習い事は「先生」の影響が大きいと知った。

大人たちには飽きれられていた私だったが、あるとき子供が言ってくれた。

「お母さん、夢中になれるものをさがしていたんだね」

その一言がうれしかった。曇りのない目でみるとそう見えたのだ。

夢中になれることを持っていることも素敵だが、

それを探すことももっと素敵なことなんだ。

それからだ。

飽きることもやめることも。

次ぎの第一歩の始まりだと知ったのは。

☆      ☆      ☆

これはかれこれ7~8年前の文章だ。

パソコンの奥から出てきた。

その後、囲碁をすっぱりやめて(先生も亡くなった)。

10年前に夫の影響でピアノを始めた。

一年やってあきらめた。

その後数ケ月だけ再開した。

でも「私には無理」とあきらめて4年たった。

それからまた7ケ月習って、やっぱりダメとあきらめた。

そして2年前に4回目の挑戦で、今度は2年続いている。

夫と友人の影響だ。趣味には先生か仲間がいる。

ただそれだけで続いた。

自分で自分に限界を作っていたのだ。

無理、忙しすぎる。

無理、むづかしすぎる。この年からじゃ無理。

いつも自分で限界を作っていただけだった。

今やれているのが不思議だ。

何回でもやめたらいい。やめたければ。

でも始めたくなったら始めたらいい。

好きなことをさがすのも、育てるのも楽しい。

自分らしく生きる14 弱い人ほど強くなれる

職場のクリスマス会でピアノを弾いた。だいぶ失敗した。

が、心理士の若い男性がわざわざ来て「昨年より見違えるほどうまい」と

言ってくれた。飛びあがるほどうれしかった。

看護師さんに「私があまり大きく写らないように撮って」とカメラをわたした。

そしたら、まってく写らないように撮れていた。

☆     ☆     ☆

遠くに住む友人と電話で話した。子供が幼いころ子供つながりで知りあった友達

だから、もうかれこれ30年近く続いているだろうか。私のブログを読んでいてくれる。

近況がわかって毎晩読むのが楽しみと言ってくれる。でも最近のブログを読むと時々

落ちこむの、と明かしてくれた。子育てに関しては、私はかなり手きびしいからだ。

自分でもわかっているが、子供たち若い人たちが苦しむのを見ていられないのだ。

すごく辛い。だからつい親世代にきびしくなる。彼女は子供さんのことで悩みがある

のかもしれない。どんなに近い友人でも、相談された時以外は触れないので、

わからない。私が相談にのってもらうほうが、はるかに多い。私は弱虫なのだ。

私の弱さを知らない人は、私の友人ではない、と言いきれるくらい、友人だけが

知っている私の気弱で神経質でナイーブな一面がある。

でもブログでは、その弱みもまた惜しげもなくさらけだす。結局は強いのだ。

「あなたはどうして、そんなに強いの? 弱みをさらけ出せるの?」とその友人から聞かれた。

今日はその話をしよう。

先日、伊勢エビを食べるために伊豆に行った。お降風呂にはいりこれから

食事というとき、携帯をチェックした。電話がたくさん入っていてメールまであった。

どうも私の患者さんが2名。大変なことになっているらしい。精神科で「大変」といったら

自殺か他害である。今日はその両方だった。私は内心、食事どころではない気分に

なってしまった。夫は私の仕事がどんなに大変かを知らないから、そわそわしている

私を見て不機嫌になった。それも仕方ないかなと思えた。伊豆にいるんだもの、指示は

出せても自分では動けない。観念するしかない。

伊勢エビを美味しそうに食べながら、一方で死ぬか生きるかという瀬戸際である

人への指示を出す神経というのは「異常」である。普通の神経だったらやれないことだ。

「異常」で「無神経」とも言えるし、良い風に言えば「自我が強い」とも言える。

でもそわそわと落ち着かなくなる自分を、私は否定しない。

そわそわがなくなったら、もう人間ではない。

医者になったその日から、そういう修羅場にさらされ続けてきたために、訓練された、

という強さがひとつ目である。

ふたつ目。友人にも言ったのだが、最初から強いわけではなかった。

30才過ぎたころの私は、体裁を気にするただただ弱い人だった。最初の結婚に

失敗したと悩んでいた私は、そのことを誰にも相談できずにいた。友人知人にも

隠していた。ところが夫の変人ぶりを友人たちが気づくようになり、だんだん隠しきれ

なくなってきた。だんだんばれてきて、少しづつ自分の置かれた

「幸福ではない状況」を認めるしかないか、知られるしかないかと思い始めた。

精神科医が離婚だなんて洒落にもならない、という時代背景もあった。体裁を保て

なくなってきたプロセスは多分、ヒストリーに書くと思う。

つぎは子供である。娘が思春期のときうつ病になった。精神科医の娘がうつ病だなんて

これまた洒落にもならない。そう思って人には相談できなかった。

しかしだんだん周囲から砦がこわされてきた。「お宅のお嬢さん、ちょっと元気が

なさ過ぎるよ、大丈夫?」「こないだお宅に遊びに行ったとき、娘さん寝てばかりいたよね、

あれって異常じゃない」などというおせっかいおばさんがあらわれて、隠せなくなってきた。

そのうちに娘はだんだん重くなった。私はおろおろして真夜中、友人である精神科医

の家に電話しまくる一時期があった。

「あの○○先生(私のこと)でさえ、わが子のことになったら台無しだね」と言われていると知り、

私は自分のおろかさと弱さを認めざるを得なくなってきた。

ただただ不遜でごう慢な医者だった私も、患者さんや家族の方の気持ちもわかる

ようになってきた。

何事も一朝一夕にはならない。体裁を捨て、捨て身になれたのは、

私が体裁を保てない状況に置かれたという、

ただそれだけのことである。

3つ目の理由がある。

私の目の前に座る初診の患者さんである。初対面の私に対し、何の防衛心もなく、

弱みをさらけ出して相談を受けようとなさる。その私という医者を疑わおうとしない

無防備さ、純真さにいつも心打たれる。

私だけカッコつけていられなくなるのだ。

弱いのはみんな一緒。弱い人でも、打たれている間に打たれ強くなれる。

また私の「自我」を友人たちが横から支えて助けてくれたように、誰かの「自我」を側面

から支えられたら、と思う。

そう思いながら毎日なにかしら書いている。

話は変わるが、職場でとても辛い思いをした。手きびしく私を批判する同僚がいて、

頭では理解できるのだが、図星すぎて精神的に辛く、今その職場をやめようかとさえ

思うほど悩んでいる。

今日の電話の友人に相談した。

「誰にでも欠点はあると思う。だからどんな意見も、あなたを成長させてくれる糧に

できるよ。それに、その図星の嫌な忠告と、その同僚の人格は別でしょう。意見とは別に、

ひとつの人格を持ったひとりの人間としてのおつきあいをしたほうがいいよ」と言ってくれた。

これはすごく効いた。「ひとつの人格か、いい言葉だな」と思えた。

以前はそんな手きびしくも的確なことを言ってくれる人ではなかった。

ああ、なんていいことを言うの。彼女には悩みがあるのかもしれないが、悩みこそ

人を成長させるものなのだとつくづく感じた。

悩みのない人は、しあわせの風を周囲にふりまいて、まわりをしあわせにしてくれればいい。

しあわせの風。ふける人はいっぱい吹いて、人をしあわせにしよう。

悩みのある人は、そのことによって成長する時期なのかな、と思えばいい。

いずれ近い将来、それが自分を助け、人を助けることにつながるのだから。

自分らしく生きる13 たくさん種まきする

映画監督の新藤兼人さんが、98歳になっても脚本を書きたい、仕事をしたいという欲望は増す

ばかり。それは「私らしく生きたい」という「欲」なのだ、と書いていた。

彼のように、この道一筋で自分の好きなことを見つけて生きてきた人は、尊敬する。

けれど江戸研究家の田中優子さんが「この道一筋を尊とぶようになったのは、明治に

入ってからだ」と書いていた。江戸時代の文化では、芸術で身を立てていた人でさえ、

名前を売って人に知られるとか、好きなことを見つけてそれに一生をかけるという文化

ではなく、職業や名前さえ途中で平気で変えながら芸術的な活動をすることもあったと言う。

時代によって違うことなどあたり前だから、人によって違うのはあたり前だ。

私にとっての「自分らしさ」とはまあ、好きなこと合っていることで生きていったほうが

人生が楽しいのじゃないだろうか、それを生涯かけてひとつでも増やし、

楽しい時間がより多く持てるようになったらいいな、というくらいのものである。

患者さんに勧めている「自分らしさ」も、そういう意味である。

私は子供のころ、外で遊ばない子供だった。友だちがカンけりやかくれんぼを

楽しんでいると、たまには仲間に入ったが、たいていは家にいた。机にばかり

絵を描いたり本を読んだりしていた。座っていると「かまぼこ!かまぼこはだめだ。

家の手伝いをせよ」と親にしかられた。

家の手伝いが一番上だったわが家の教育方針だけは良かったと思う。

その後も体育だけはだめで坂上がりも跳び箱も出来ないままだった。

だから運動とか運転とか、からだを動かすことからはずっと逃げていた。

43才のころ、結婚もしてかわいいさかりの子供もいたのだが、すごい空虚感に

おそわれた。結婚生活がうまくいっていなかったせいだと思う。

作家の藤原審爾が亡くなって、その50歳を過ぎた奥さんが

「とてもさびしい。突然海を見たくなって、新潟までオートバイを走らせました」

と雑誌のエっセイに書いていた。50歳をいくつも過ぎた女性である。

東京から新潟なんて遠い。さりげなく言えるところがなんてかっこいいんだろうと

思えた。娘さんは藤原真理子さんだがいまでも女優として活躍されているだろうか。

「いいなあ、オートバイ」といったらオートバイ好きの若い男性の看護師さんが

「先生、みんないいないいなって言うけど、じゃあ免許とるかってうと誰ひとり

取らないよ」という。「来年の春に挑戦するわ、今年は学会で外国旅行を控えてるし」

というと「ほら、もう言い訳をしている。来年の春になって、何が起きているかは

わからないんだよ。思いたったときに言い訳をしないことが大事なんだよ」

「だって今、10月でしょ。ヨーロッパに12月には行くのよ。とれるわけないじゃない」

「そんなことないよ。途中で抜けたっていいはずだよ」

彼があまりに言うものだから、とうとう翌日、自動車学校の門をくぐった。

旅行中は抜けて、自動二輪の中型免許を取得したのは、12月のある

雪の降る寒い日だった。足はあざだらけ。お金も人の倍かけて、運転音痴の私が

中型免許をとった。

これは私にとって大きな成功体験となった。昨日、10才までの成功体験が大事と書いた。

しかしいくつになっても遅くはないのだ。

早速ホンダの400ccバイクを買った。でもいったん倒れるとどうしても起こせない。

自動車学校ではおこせたのに。ヤマハの赤い250ccに買い替えた。職場で妙高に

ドライブをするという計画があった。私だけオートバイで行った。こわくてこわくて

死ぬかと思ったが死ななかった。妙高を風を切って走ったときには、なんと気持ち

いいのだろうと感激した。

でもオートバイに乗ったのはそれが最初で最後となった。金沢の市内をオートバイで

走ろうと出かけた。でもう右折がどうしても出来ない。前からどんどんと車がくる、

後続の車がいる。にっちもさっちもいかなかった。やっと辿りついた職場で、

これまた別の男性看護師さんから「先生のへっぴり腰は、見ていても哀れ」と言われ、

自分でも「オートバイは合わない」と思ってやめた。

でも、それ以来、私の中で何かが変わった。言い訳をしないことにした。

思いついたらなんでもやってみることにした。なんでもいいんだ。チャンスが

あったらそれを受けて立つということだ。簡単だ。

今もたくさんの種蒔きをしている。

まず、ポストカードでしょ。電子出版でしょ。レンタル ボックスでしょ。

エッセイ集の出版でしょ。以前に出した本の電子書籍化でしょ。ピアノでしょ。

職場で演奏会をするでしょ「色えんぴつで絵を描こう」という本を買ったでしょ。

2つの病院で写真展をやっている。

こうやってたとえ一時間でもあったら、とにかくブログで原稿を書く。

それはそう決めたから。これも種まき以上のナニモノでもない。それでいい。

芽が出たら楽しい、でなくても楽しい。

もっといっぱいあると思う。夫からは節操がない、と言われている。が

私にしたら種蒔きなのだ。どれから芽が出てくるかなあと楽しみにして

せっせと蒔いているのだ。

今日もこれから、伊勢エビを食べるためだけに、伊豆の南端に行く。

夫が夏に海で伊勢エビをつかまえた。かわいい伊勢エビだった。すぐにはなしてやったが、

いつか大きな伊勢えびを食べたいねということになった。

本当は出かけるのは、あまり好きじゃない。でも夫が出かけるというからそれに

乗ってみる。これも種蒔きだ。

交通事故の危険もはらんでいる。が、たのしい発見や出会いがあるかもしれない。

新しい自分を見つけるためには、私は自分から動く。

悩みはぐずぐずだが、行動は早いのだ。

行ってきます。夫が早く、早くと待っている。雑な文章ですみません。

自分らしく生きる 12 悩むことの大事さ

人生には悩みなんかないほうがいいでしょうか。。悩みはひとつでも少ないほうが

いいでしょうか。ないほうがいいと思うのが自然です。けれど、悩みは人生に必要

なものだし、悩むこともとても大切な人生の出来事であるという話をしたいと思います。

あいついでパニック障害の発作をおこした患者さんがあらわれました。

ひとりは16才の男子高校生。もうひとりは子育て真っさい中の30才代の女性です。

16才の子をA君、女性をBさんとしておきましょう。

A君は高校にはいって、学業もバイトもきわめて順調だった秋になって、なんとなく

不安な気持ちになる自分を自覚するようになりました。なんだろうと思いながらも

学校に行き、バイトをしていました。だんだん漠然とした不安感におそわれる回数が

多くなり、寒くなってころから強いパニック発作も出てくるようになったのです。

自分で自分の気持ちを見つめたり、観察したりしました。だけど軽快しません。

「これはおかしい」と思って受診したと言います。親に勧められたわけではなかったが

、受診することだけは告げてきたと言います。

B子さんのほうは、子供が人見しりするようになったころ突然パニック様発作を

おこしたと訴えました。同居している義母から早く早くとすすめられ、受診しました。

さて、すぐに受診したB子さんと3ケ月くらい様子を見ながら、受診を決めた

A君では、治り方が全然違ったのです。

症状の重かったA君のほうが力強くなおっていったのです。

なぜだろうと考えてみました。A君には「悩む力」「自分を見る力」があるのです。

この力に関してだけは、年齢や人生経験と関係ないのです。

精神科や心療内科にはできるだけ早く受診するように、というのが世の流れです。

しかし私は違うと思っています。ほうっておけばいいというわけではないけれど、

自分で悩み、自分で自分を観察し、迷いながら受診を決める、というプロセスが

大事なのです。「悩む」ためには能力がいります。「悩む」ためには「自分を見つめる」

という力も必要です。いったいその力はどこからくるのでしょうか。

私の前著には、人間に必要なのは学歴や性格ではなく「どんな環境におかれても

自分でしあわせになれる力を持っていること」と書きました。そういうしあわせになる力は

どこからくるのでしょう。

今日の朝日新聞にたまたまおもしろい記事を見つけました。花まる学習会代表の

高濱正伸さんの記事です。

高濱さんは私が「しあわせ力」と表現したようなことを「どんな時代になっても、

一人でメシが食える大人」と表現しています。

彼は言う「勉強も人間関係も仕事も、根っこは10歳までの教育にある。

それまでに自分で考え、壁を乗り越えるおもしろさを教えないと、いくらいい大学に

進んでもいい会社に入ってもいずれ社会のどこかで挫折してしまう」と。

そして学習塾を120教室までに拡大した彼がやっている教育とは。

先生が複雑な立体図形に描かれたパネルを一瞬だけ見せる。子供たちは時間を

はかりつつ、同じ図形を手元の立体パズルで作る。そういう教材をつぎつぎと

なんと一時間半で10種類もこなすらしいのです。

「空間認識力や図形センス。独創的な発想力を鍛えることが未来につながる

」という考えです。夏休みは全員親元を離れ、野外生活の中で仲間と自然と

ぶつかって忍耐力をつけるのだそうです。

そんな教育があることは知りませんでしたが、空間認識力や図形センスが、

この世を乗りきっていくための基礎力になるという考えをとてもおもしろいと

思って読みました。

「自分で悩んで解決しようとする力」「不幸なことがおきても自分でしあわせに

なっていく力」「どんな時代になってもメシを食っていける力」それを養うのは

10才までの教育。教育の中でも、感覚的なことを伸ばし、遊びの中で解決して

ほめられる体験をたくさんして自信をつけること。と高濱さんは言い、

実践しているのです。

私が子育てをしていた時代は、よく考える子供に育てるためにはたくさんの本を

読んでやったり読ませたりしたほうがいいと言われた時代でした。わが子にもずい分

読んでやりました。昨年、私と同世代のピアノの先生が発表会のあとの挨拶で

「ピアノも大事だけど、みなさんたくさんの本を読みなさいよ」という挨拶をされて、

ちょっぴり違和感を感じました。本を読むことは楽しいことだし、大切なことだけど、

ピアノの発表会の挨拶としてはとっぴだと感じたのです。でも私の世代はそうやって

育てたのだったなあと思いました。

けれど、長い間患者さんを見てきて思うこと。それは「頭でっかちの人間ほど

弱いものはない」ということです。10歳までは本じゃない。あえて言いましょう。

むしろ本は意識的に捨てたほうがいいかもしれない、と。

あえて極論を言いたくなるくらい、最近の教育から生まれてくる子供たちが

ゆがんでいるのです。

わたしは教育の専門家ではないのですが、本ばかり読んできた子と、勉強も本

もまったくお呼びではなく、ヤンチャしかしてこなくて親を困らせた子では、

いろんな遊びをやってきた子のほうがはるかに社会で生きていく力を持っています。

基礎力があってたくましいのです。

話は変わります。昨日、二年ぶりに外来に来た女の子は中学3年生になっていました。

二年前のカルテを見たら「気力が出ない、死にたくなる。でも学校の成績は普通。

学校にも行っている。薬を処方したが、飲みたくないといって外来は2回で終了」

と書いてありました。2年ぶりに会った彼女は、あいかわらず無口で暗く、

気力も乏しい感じが2年前とちっとも変っていませんでした。最近ねむれないので

薬をほしいということで来たのです。高校受験を控えて緊張感いっぱいらしい。

お母さんが言うところによると、娘は勉強がきらい。働きたいと言うそうです。しかし成績は

落ちたものの、不登校にはなっていないので普通高校への進学を親も先生も勧め

いるといいます。やっと高校に行くことは納得したものの、働きながら定時制に行きたい

と言うらしい。

しかし担任の先生から「定時制っていうのはね、不登校になったり、ぐれたり、

家が貧乏な子たちが仕方なく行くところなのよ。あなたは普通の子供なんだから

そんなところに行くことはいらない」と言うそうです。そう言われると子供はもちろんの

こと親も言いかえせず(子供の味方をできず)子供ひとりがねむれないほど苦しんで

いるらしい。

「若い子をだめにしているのは、私たち大人だ」と怒りさえ感じました。

「勉強も大事だけど、働きたいという気持ちは、今の時代にあっては特に大事にして

あげたい気持ですよ。親が子供の気持ちを支えてあげて担任の先生と喧嘩するくらいに

ならなくてどうするの、って思います。参考にしてね」と言ってお帰ししたのでした。

子どもや思春期の子を専門に診ているわけではない私。しかし「自分らしく生きる」

でも「心の病と向き合うために」でも「私流しあわせの見つけ方」でも。

どんな題名で文章を書いても、いずれは話が「子育て」にいってしまうのです。

なぜでしょう。やはり高濱さんの言うように、人間は10歳までの教育で大半は決まる、

というのが真実に近いからかもしれません。

この文章は10才を過ぎた人に向かって書いているので、「そんなこと言われてもね」

と思われる向きもあるかもしれないですね。

教育者ではなく、ただの一臨床家である私が伝えたいメッセージは、「未来の社会を良く

しようと思ったら、まず子供を変えなくては。子供を変えようと思ったら、今あなたが

何才であろうとも、今のあなた自身が変わらなくては」というメッセージです。

だってまわりにいるのは猫や犬もいるけどたいていは人間でしょう。人間の中には

子どもも入っているし、子育て中の人もいる。また教育に関わっている人や障害者と

関わっている人もいると思います。

40年前、心療内科がこんなに流行る時代になるとは夢にも思わなかったです。

悩んでいる人をみて心療内科に行ったほうがいいよ。○○にいい先生がいるよ、

という情報なんかより、もっと大事なことがあります。

どうしたの?とまずは聞いてあげること。一緒に悩んであげること。でもそのためには、

自分がちゃんと悩む力を持っていることがとても大事なのです。

今あなたは、何について悩んでいますか。

悩む力を日々、養っていますか。

深い悩みの淵に沈みこんだあかつきには、その谷の深さにふさわしい高みを

ともなった強さと味わいある人生が待っていることでしょう。

自分らしく生きる 11 娘になってほしい職業

高いところから飛び降りて、腰を複雑骨折した女子高校性が入院してきました。

腰の手術がすみ、一応車椅子で動けるようになったので、精神科医としての

診察をおこないました。もともと精神の病気を持ちあわせている女性ではなか

ったので、突然の出来事でした。

末の弟を産んだころからお母さんが病気がちになり、ご両親も不仲、父方の

祖父母を含めて、家族関係が長年もめていると言います。

彼女はその争いに直接巻きこまれてはいないのだけれど、最近になって特に

家にいてもくつろげなくなったようです。その上、高校三年生ともなれば進学や

就職で学校の中自体も緊迫した空気が流れます。そんな中にあって、

あるクラスメートとのゆき違いから悲観的になってしまい、発作的に

飛び降りてしまったと言います。

しっかりした話しぶり。自分のとってしまった行動に対しても、反省しています。

根底に深い精神的な疾患があるかどうかは今のところわかりません。

けれど何回かの治療のあと、順調に回復し、学校にも行けるようになりました。

成績も悪いわけではなく、とても優しいお嬢さんです。

でも気がかりなことがひとつありました。それは東京の看護大学校に進学が

決まっていることです。病弱なお母さんを幼いころから見てきたので、身近に

看護師さんがいたのです。自分も人の役にたてる仕事がいいと思うようになった

といいます。衝動的に自殺をはかったことがあるような子は、看護師に向いて

いないというつもりはありません。けれど、繊細すぎるような子には辛い仕事

であると言えます。

最近見た新聞の統計によると、親が娘になってほしい職業のナンバー ワンは

公務員、二番目が看護師とありました。親とは実に勝手なもので、娘の性格や

実態をあまり見ていません。単に世相に影響されて子供の将来を考えていると

いうことがよくわかる統計です。不況のさ中、確実性を求める親心でしょう。

私の若かったころには、能力のある女性でも家庭に入ることを勧めるのが普通

の親でした。それが女性のしあわせと言われました。最近は能力に関係なく

「女性も手に職を」「女性も安定した職を」と一様に願うのが親心のようです。

親が子供のしあわせを願うのはあたり前でしょうと言われます。でも違います。

間違っています。

わが子をもっと見てください。世相に影響され、世間に影響された上で、それを娘に

あてはめているだけだなんて、貧しくありませんか。それが本当に親の愛情ですか。

看護学生を毎年何人も診察します。この女性には看護師という仕事が合わないから、

適応障害をおこしているのではないか、と推察しても、看護師を選ぶようなタイプの

人は「合わない」ことを認めることができないのです。だから理想と現実のはざまで

苦しみます。

公務員もまた安定した職業ナンバーワンです。しかし福祉関係から土木関係、

土木関係から税務関係という風に何年かに一度、まったく違う部署に配属される

ような仕組みであることが多いのです。ですから勉強ができて、まじめだけど、

いろんな環境に適応する力が弱い人にとっては強いストレスになります。

割合、心の病気になる人が多いのです。けれど適正より安定を求めるのでしょうか。

学校の先生も、心の病気になりやすい職業のひとつです。子供に気を使い、

親に気を使い、転勤があって環境が変わり、という具合に大変な仕事なのでしょう。

人間のやることですから、挫折も失敗もあり、だと私は思います。しかし失敗や

方向転換が許されない家庭環境にあると、子供たちは苦しみます。親のほうは

「もう無理しないでいい」と言っているのに、子供のほうは幼いころから親の価値観を

烙印されているものだから、価値観の方向転換ができなくなっているということもあります。

「女性でも男性と同じように職業を」というのは決して悪い風潮ではありません。

けれどお菓子つくりのとても好きな女の子に「パティシエがいいね」というのは

飛躍しすぎだと思います。一緒にお菓子づくりをしながら見守る。それくらいがちょうど

です。

私にも同じ経験があります。私の娘はとても人の気持ちをおしはかる子どもでした。

人間関係を冷静に観察して判断する傾向がありました。中学一年のときでした。

「あなたは臨床心理士になったらいいね。合っているかもしれないね」と言った、

らしいです。

実際は言ったかどうか覚えていないのだけれど、その2年後、不登校とうつ病になって

苦しむ娘から「お母さんから臨床心理士になれと言われて苦しい思いをした」と

言っていると担任の先生から聞いて、びっくりしました。その後、ロールシャッハテストを

やってみて二度びっくり。娘には人間反応がほとんど出なかったのでした。

天井のシミが全部、人間の顔に見えるというほど、人間に関心のある私の

「お母さんそっくりね」と言われる娘にしてそうなのです。誰が想像できたでしょう。

似たように見える母と子でも、タイプがこんなにも違うんだと、心底驚いた覚えがあります。

娘は親としては考えもつかなかったデザインの学校に進みました。それもアメリカの。

外国嫌いの両親の娘が、外国でないと暮している気がしない、というほどの

外国好きなのです。

それほど、人間というのはみんな違うのです。

親の役目、それは男の子にも女の子にもまず生活の基本を教える。そのつぎが

勉強の機会を与えてあげる。そしてその子の気質をじっくり時間をかけて見てあげる。

ここまでだと思います。

早く早くと押しつけたために、急いだがためにとり返しのつかない事態に発展すること

も多いのです。

まずは、大人自身が「自分のこころを見つめる」習慣「自分らしさとは何かを考える」習慣。

その延長線上にこそ「わが子のその子らしさ」を生かす生き方の模索という考え方が

成り立つことだけは知っていてほしいと思います。

自分らしく生きる 10 ヒストリーその2

先日、中学校二年生の日記がでてきたことを書きました。自分では全然覚えていない内容

ばかりです。しかし現在の自分の核が、そのころすでに出来上がっていたことに関しては驚く

ばかりです。

「クラスメートが腹痛を訴えた。いつもなにかしら体の症状を訴えるので、みんな嫌になって

きている。嫌われている。でも私は思う。彼女はおなかの病気なんかじゃないと思う。

彼女には何か悩みがあって、それが体の不調にあらわれているのじゃないかと思う。」

などと書かれています。

彼女の成績はとても悪く、家庭の環境も相当悪いようでした。環境や成績などの全然違う

私がその女の子に特別に親切にするのを見ていたクラスメートが私のことを、何か下心が

あるのではないかとうわさしている、などと書かれていて、笑ってしまいました。

なぜか自分より弱い人が気になる。そういう気持ちがくりかえし出てきます。

13才でこの健気さは、何か不自然な気もします。祖母にかわいがられたことと何か関係

しているようにも思います。

物心ついたころ祖母はもう70才を過ぎていました。今でこそ70才は若いですが、

そのころといえば、いつ亡くなっても不思議でない年齢。子ども心にも「死んでしまうん

じゃないか」という不安をたえず抱いていたことでしょう。

今に死ぬかもしれない祖母に愛されながら、わたしはきっとわたしが年老いた祖母を

いたわってあげなくては、という気持ちばかりが幼いころから培われたのでしょう。

それが、弱い立場の人の気持ちにとても敏感な現在の性格をかたちづくってきた

のではないかと思います。

良し悪しは別として、自分がしあわせでもそれだけでは満足できない性格は、苦労症としか

いいようのないものですが、このころからわたしの根底に根強くあることをこの日記は

教えてくれます。

もっと甘えていいんだよ。もっと気楽にやっていいんだよ、わがままになってもいいんだよ。

そんなメッセージを自分に送ってやりたい気持ちです。

中学二年のころ、学校の図書館に「仕事」という本がありました。村上龍の「13歳の

ハローワーク」昔版です。それを読みながら将来に夢を馳せることが私の大きな楽しみに

なっていました。

自分の長所を生かして仕事をしたい。そのころの私にとっての「自分らしさ」とは「自分に合った

仕事を見つけて、それを拠り所にして生きていくこと」だったのでしょう。

私が女性として生まれたからには男性には出来ないことが何かできるに違いない。
女性として生まれた私が、自分らしさを生かして仕事をするには看護婦さんがいいかしら。

ですから私が「自分らしさ」ということを意識したのは、13歳のころからです。
甲府でターミナル ケアの仕事を精力的にされている 内藤いずみ先生の新聞記事を

読みました。

彼女もまた、10才前後で将来のことを考え、そのころ考えていたことが現在の仕事の核

になっていると今になって感じる。そのころの想いがかたちになっているのが今の自分だ、

と述べておられます。

10才前後はおとなから見たらまだまだ子どもです。だけど、その人らしさの核のようなもの、

芽のようなものは実はそのころすでに出来上がっているのではないかと思われる例が

たくさんあります。

「その人らしさ」などという曖昧な言葉を多用しますが、「その人が他の人とちょっと違うその人

特有の個体的な差」という意味で書いています。

これを本にする時があるとすれば、また言葉は熟考するつもりです。

そしてそのころ、何を根拠に「自分らしさ」をたしかめるかというと、実は親なんじゃないか

と思います。
私も実に親をよく観察していました。父は小学校の教師でしたが、情熱的な教師では

ありませんでした。人づきあいの嫌いな職人的な性格だったので、毎日定時に帰宅して

大工仕事をするのが習慣でした。こつこつと楽しそうに器用に棚やテーブルを作っていました。

でも私は「なぜ仕事に情熱を傾けないのだろう。あんな教師なんかいやだ」そう思って

批判的でした。
反対に母のほうは、熱心な小学校教師でした。家事を祖母にまかせきりで毎晩毎晩、

宿題のように仕事をしていました。私は母にも批判的で「家族をほうりっぱなしで なぜあんなに

仕事に埋没するのだろう。もっと家族と楽しい時間を持ったようがよほど仕事にもいいのに」と

一人前に批判していたのです。

学校の先生なども、モデルになり得ます。だけど情報の量は両親に及ぶものではありません。

親というのは、毎日包み隠さず膨大な情報を子どもに提供しているのです。

子どもが「自分らしく生きる」ことを考えたとき、まずは親が一番のモデルになると思います。

特に女の子の社会性は父親の影響が大きいことをキャリアを持つたくさんの女性を見て感じます。

仕事を持つことに男の子も女の子もない、と考えている男性の娘はだいたいにして社会に出て

働く方を選ぶことが多いようです。

高校3年のとき、考えに考えぬいた私は保健婦さんか薬剤師さんがいい、と父に告げました。

東京に行きたかった。当時あった東大の保健学科にいって保健師さんの指導をするような

仕事が合っているのじゃないかと思いました(今でも保健師さんとはなぜか仲良しです)

父も小学校の先生をしていました。先生にだけはなりたくなかった。
人前で話す仕事はゼッタイにいやだったと思っていましたから。
父が「医療関係に進むんだったら、医者のほうがやりがいがあるかもしれない」というのです。

まわりに医者などいない田舎町でしたから、ピンときたわけではありませんが、父の影響で
父の一言で受験のほんのまぎわになって あっけなく医学部受験が決まりました。

大学は「兼六園がきれいだったぞ」の一言で、これまた金沢大学にしました。

なんとあっけないこと! たくさん悩んでばかみたい。自然流がいい。今ならそう思えます。

母はそのとき泣いて反対しました。「女性には子育てがあるから普通がよい」という理由でした。

母は自分が働きながら余裕のない子育てをしたために失敗をしたという後悔を持っていました。

それゆえの反対でした。私は母の意見をまったく無視しました。それだけ反対されても平然と

無視できる自分の強さをそのとき自覚した覚えがあります。

医学部に決めた理由がありました。医者になりたかったわけではありません。

実は、長い間考えたにもかかわらず、自分が何になりたいか、何に向いているかについて

答えが見つけられませんでした。わずか18歳の小娘にその答えを求めることは無理なのだ

ということがすでにわかっていました。

漫画家の手塚治虫は医学部の出身です。手塚治虫の漫画を愛読していたわけでは

ありませんでしたが、医学部を出てからも、何にだってなれるんだ。それが決めてでした。

教育学部や薬学部を出てから漫画家や小説家になった人は少ない。だけど医学部を

出てから漫画家や小説家になった人がけっこうたくさんいることを知って、それが背中を

押してくれました。

また医学部は、研究者、保健所、厚生省、臨床家、大学病院、大きな病院、診療所、

船医。同じ医師でもまったくタイプの違う職場で自分を生かせます。赤ちゃんを専門にすること

もお年よりを専門にすることもできる。いずれにしても自分に向いていることをじっくり考えて

からどんな道に進むこともできる。

それが医学部に決めた最大の理由です。

その根本にあるのは「まったく向かない世界で生きていくのは辛いのではないか」という

想像力です。想像力を刺激したのは、そのころ読んだ本であったかもしれません。

キュリー夫人伝は繰り返し読みました。影響され、将来は研究者になりたい、何かに熱中して

いたら人生の悩みも半減し、気にいった人生が送れるのじゃないかと思いました。

ただただそう信じて人生に夢みていた若いころがなつかしい。

女性も仕事を持つ、というのは、わが家の中でも私の中でも議論にもならないあたり前の

ことでしたが、世の中はまだまだそうではありませんでした。

健康であるかぎり仕事をする、という一点は、物心ついたころから今日までただの一日も

揺らぐことのない私の考えです。それがどこからきたのかはいまだにわかりません。

祖母はひとり息子の嫁である働いていた母を尊敬し、全面的に助けていました。それを見ながら

自然に身についたのかもしれません。

いえいえ、それとも人間にはすでに生まれつきの気質があるのでしょうか。

これは私の専門ですが、生まれつきのものはとても大きいと思います。その子がどんなタイプで

あるかを見分けることが親の役目であり、精神科医の役割だと思っています。私は決して

人には同じことを勧めません。働かない患者さんを心から甘やかしている優しいお医者さんです。

世の中の人がみな、わたしみたいだったら世の中がぎすぎすします。

いろんな人がいて、世の中です。

正義感旺盛であるくせに、

こういうゆるやかな考え方もまた、物こころついたころからの傾向です。

いつも考える子供だった私。

その子がどんな気質であるか。それを見分けるのが 親の一番大切な役目

であると精神科医としての私は信じて疑いません。

25才以下のお子さんをお持ちの方はぜひ参考にしてください。

自分らしく生きる 9 自己と自我・夫婦の戦い

以前に出した「わが子の気持ちがわからなくなる前に読む本」で評判の良かった

項目のひとつが「子供が敏感に反応する夫婦仲」の項です。

引用します。

家庭はやすらぎの場であると同時に、家族ひとりひとりの戦いの場でもあると

いう私の意見に、友人から「心にスッと入って納得できる」と言ってもらったこと

があります。話すうちに「問題はその戦い方のむずかしさであるだろうね」という

ところに落ち着きました。子供というのは両親の関係に敏感です。

(中略)

人間関係で一番むづかしいのは、自己を主張しながらも、同時に相手と

うまくやっていくことです。家庭にあっても会社にいても、黙っているだけ、

我慢するだけだったら誰でもできる。しかし自分の考えをちゃんと主張しながら、

相手と和していくこと。これが人間にとっての最大の試練でしょう。家庭にあっては

会社にいるときよりむづかしいことは言うまでもありません。(以上引用)

家庭とは一種の戦場だ。田辺聖子が「夫婦は一個しかない椅子をふたりで

とりあいっこするようなものだ」と書いていたが、しばしばその言葉を思いだし

ます。夫婦に関しては先に座ったほうが勝つのです。

ところで家庭が戦いの場でもあるのは、自我という観点から見たら当然です。

戦いがおきないのは、9歳以前の母子関係だけ。子供も9歳くらいまではお母さん

が大好き。どんな人格的に欠落しているお母さんであれ、母親だというだけ

で大好きです。しかしそれ以降になると「自己」「自我」というものが出てきます。

親と同じ考えだったら気味悪い。夫婦となったらなおさらのこと。

まったく「自己」「自我」の違うふたりが同じ屋根に下に暮らしたら、考えが違う。

感じ方が違う。価値観が違う。好みのライフスタイルが違う。葛藤がおきる。

戦いが起きる。

「わが家には葛藤も戦いもありません」という人がいます。そんな場合は、そう思って

いる人の周囲の誰かが、我慢していることが多いのです。あきらめていること

もあります。誰かを我慢させることなくて、あきらめさせることなくて、人が自分の

思いのままに生きていくことは土台無理なのです。それが人間関係の宿命です。

猫や犬なら何匹飼っていようとも大丈夫。「自己」も「自我」もないから気楽なもの。

だから人は猫や犬を飼いたがるのですね。

「自己」とか「自我」が全員がとても弱い、あるいはみんなが鈍感という場合も、

戦いは少ないと思われます。

おしなべて、家族全員が鈍感だったら、問題も葛藤もおこりません。鈍感な

子供たちの間に、ひとりだけ敏感な子供が生まれるから、苦しむことになります。

成績の良い子供たちの中にひとり成績の悪い子が混ざるから親がやきもきします。

全員の成績が悪かったら親もあきらめがつくというものでしょう。

本当に、家族間の精神力動というのはおもしろいものです。

私は患者さんの家族にもお会いすることが多いのは、そんな理由からです。

さて、わが家の話です。きわめて鈍感で働き者でまじめで優等生タイプの私と

きわめてナイーブで、神経質で、偏屈で、怠け者である夫の間の葛藤は、

友人を巻き込んだために、収拾に丸一週間もかかりました。

全員それだけエネルギーを持っていたということでしょうか。

とても疲れました。

でもA子さんから言われた「両者を裏切っている」という言葉が背中を押してくれました。

「大切な人を裏切る行為」というのは、どうも私自身が「自分らしくない」と感じる行為の

ようでありました。

「今度ふたたび私の生きる道に通せんぼするのなら、私は出ていきます。

ちいさなアパートを借ります。この立派なおうちはすべてあなたにさしあげます。

ビタ一文いりません。管理費用は私が払います。猫は二匹とも連れていきます。

よろしいですか」

「わかりました。そうなるとぼくはこの家で餓死することになりますね」

「どうぞご自由におやりください」

わたしにとっての「自分らし生き方」それは、自分が大切にしている生き方を

守ること。物にはまったく拘泥しないことが私流だ。金沢から大阪に出、

大阪から信州にきた。たくさんの物を失い捨てた。今またたとえすべてをかけて

建てたこの家にさえ、こだわりはない。本当に男の人より男らしい自分が好き。

仲良しの精神科医が、私が泣きながら電話したせいもあるだろうけど「あなたは

学習性無力症だよ」と診断しました。当たるも八卦、当たらぬも八卦。

診療所の女性医師からは「全員がボーダーラインじゃあないの」と言われました。

医者って診断をつけるのが好きですね。

看護師さんが「ボーダーラインってなんですか」というので

「そうねえ。チャーミングでエネルギッシュだけど、ちょっと心に空虚感をだかえて

いるために、わざとじゃないけどまわりをふりまわす人のことよ。特に私の夫などは

ひょっとしたらそうかもしれないわ」と答えました。

「先生のご主人はたしかに調子の良いときはとても魅力的な人ですもんね」

私「そうね、あなた方のご主人は扱いやすい人たちで本当に良かったわね。

普通は年齢に従って角がとれ、のっぺりしてしまっておじさんやおばさんになって

いくの。それでいいのよ。だから扱いやすいけど魅力もなくなってしまう。

ボーダーの人は扱いにくいけど、角がちゃんと若いときのままあるから、おもしろいの。

悪く言えば子供っぽい、よく言えば角がとれてなくて魅力あるってことになるわね」

と自分に都合の良いように説明しました。

「うちの主人、扱いやすいです。でもチャーミングかというとギモン!」とか言いながら

看護師さんは目を丸くして聞いてくれます。

私は自己主張が下手で、女性にきわめて多い「黙りこむ」タイプです。でも

今回はだいぶがんばりました。「自分らしく生きる」とは私にとって

自分の気持ちに正直に生きることです。

そのためにはまず、自分の気持ちを見つめる訓練が必要です。「自分に正直に」

などという言葉もまたありふれた言葉ですが、どれが正直な気持ちなのかは、

やはり訓練しないと自分にとってもわからないことが多いのです。自分を見つめると

いう行為ことほど左様にむづかしいのです。そしてそういうことさえ案外世間では

知られていないという現実があります。

こんなにありのままを書かせてくれた夫やA子さんに感謝します。

自分の弱みをさらけ出すことができるのは、真の意味で強い人でなくては

できないことです。

また丸い中に角があってチャーミングな夫やA子さんとは比べものにならないほど、

全体が角ばかりの扱いにくい私を、ブログに何を書かれても無頓着なまま、

おおらかに見守ってくれる夫が一番、器が大きいのかもしれない、ということにしておきましょう。

こういうのを本当の意味で「夫を立てる」と言うのよ、ということにしておきましょう。

(追記)

話は、人格を傷つけないように多少修飾してあります。また、すべては夫なりの

理由あっての言動であり、「自己」と「自我」にもとずく夫婦の戦い、という話を

わかりやすく書くために夫やA子さんに登場していただいたのであります。

決して詳しく詮索したり、悪く思わないでいただきますようにお願いします。

A子さん、などと書いていますが、実はちゃきちゃきの、うんと年下の素敵な男性

だったりしてね。だから夫がこだわったのだったりしてね。

かもよ!(それは永遠のヒミツということで) この話はおしまい。

自分らしく生きる 8  男性と女性

男の理屈、男の感性と女の理屈、女の感性はまったく違います。地球人と火星人ほどの

違いです。たまにきわめて女性的な男性を別にして。

それを知ったのはうんと若い時でした。精神科医になってまもなく、50人ばかりの女子患者

病棟をひとりで受けもちました。毎日が戦場でした。訴えが多く、よくしゃべり、感情的になって

葡萄の皮や水をぶられました。診察は毎日夜おそくまでかかりました。

その数年後、今度は50人も男子患者病棟を受けもちました。診察はきわめて短時間で

終わります。50人があっという間でした。男性患者というのは必要最小限しかしゃべらない

からです。殺されそうなこと、殺されていたとしても不思議でないことが一度づつありましたが、

日常的に水をぶっかけられるようなことはありませんでした。何事も「集団」になると、

その特徴がよくあらわれるのです。

同じころです。「ひまわり」というイタリア映画を見に行きました。でも私には小さな子供がいたので、

映画の途中で帰りました。翌日です。昨年亡くなったこのブログにも書いた留美子さんが

ケースワーカーをしていました。「映画、あれからどうなった?」と電話をしました。彼女はまるで

映画を目の前にして話しているかのように微にいり細にいりあらすじを話してくれました。

2時間近く話したのを思い出します。だから「ひまわり」という映画を私は半分しか見ていないのに、

最後の最後まで情景が浮かんでくるのです。

ところが、同じ日に一緒に見に行った男性の精神科医に「どうだった?」と聞いてみました。

その時の答えは、腰を抜かしてしまうに十分でした。

「どうだったって。うーん。ロシアの姉ちゃんがきれいだったな」たったそれだけだったのです。

その精神科医がたいした人でなかったら驚ろかなかったでしょう。とても優秀で私に治療の

なんたるかの基本を教えてくれたもっとも影響を受けた医師だったのです。

今でも活躍していますし、すばらしい本も何冊か書いています。その彼にして、その感想だった

ことは私にとって忘れられない出来事でした。かくして医師になって数年で、男性と女性というのが

本来は合い入れない何かがあることに思いいたったのです。

その経験は、結婚した相手に応用されました。離婚になったくらいでしたから最初から悲惨な

結婚生活ではありました。が、かなり私は鷹揚だったと思います。男性と女性は100%は わかりあえない

何かがあることを知っていたので、相手に期待し過ぎることがなかったのです。とても楽に相手を

見ることができたと思います。けれども鷹揚すぎて相手を甘やかしてしまったり、優しくなりすぎたり

する傾向がありました。

この経験は、後に思春期の患者さんを診るときにも役に立ちました。

20年くらい前から、母親たちがとても変わり始めました。本を読んだり講演を聞きに行くのは

みな女性ばかりです。女性は変わろうとするのです。

しかしいったん、問題が「お父さんらしい」というとき、大変です。お父さんという名の男性が問題となるとき、

なかなか病院にも来てくださいません。

来ていただくことにまず、一策講じないとだめなのです。いらしてからも

のっけから、娘さんや息子さんの治療の話題に入ってはいけません。お父さんを立て、いかに

お父さんががんばって家を守ってきたかについて聞きだし、お父さんのプライドのありかや弱みを

しっかりわかり、私がお父さんを叱るために来ていただいたのでは決してない、ということをわかって

もらってからでないと、こちらの言うことを聞いてくださらないことが多いのです。

男性は自分の弱みをさらけ出すことにとても臆病です。

あら、なぜこんな話になったかしら。

お父さんを治療に巻き込むことでは天下一品と言われている私が、夫ひとり

手に負えないのです。たぶん、甘えの構造がからんでいるからですね。

それに、夫婦って同じ船に乗ってる同士だから、降りるわけにもいかない。

みなさん、そんな経験ないですか。ない方はおしあわせですね。

先日の「実験」で私が折れたことで、一応の穏やかな暮らしを保ってはいます。

夫婦って離婚寸前でも、表面的には穏やかな暮らしが続けられる動物であるようですよ。

たくさんの例を見ていますから。。。

けれど、友人のほうから言わせると「あなたは二重に裏切ったことになるわ」

たしかに、夫を裏切って友人と隠れてつきあうなどということは、友人としてもちゃんと夫と談判

していないという点で許せない、二重の裏切りです。

亭主が黒といったら白いものでも黒という女性たちは、いったい外の世界とどう折り合って

いるのでしょうね。二兎を追って一兎も得ていないのかもしれない・・・・・・・

ところで夫はむづかしい面があって、私の手に負えるような人じゃない。

夫は親類縁者から「屁理屈を正当化する達人」と言われています。

今も自分のことは棚にあげ、「ぼくのせいで友達を失った、失ったと大騒ぎするけど、本当に友達

だったら失わないでしょう。よく友達を失うっていうけどぼくから言わせたら最初から友達なんか

じゃなかったから失ったように見えるだけだよ。君たちだったら大丈夫だよ」

でも友人はそう簡単には許してくれません。感情と理屈は別です。友情には誠実さ、優しさ、

許しも必要です。また時間も必要だと思う。

みんな「ともだち、ともだち」って気軽に言ってるけど、真の友人なんか持ってる人、数えるほども

いないのじゃああにでしょうか。主婦同士の方の友情も、いい加減なものだと思います。

表面では〇〇でも影では△△ってことなども日常茶飯事にあるのではないでしょうか。

それでもなお、ブログつながりの友人から「あなたたちそれでも大人?まさか女学生?」って

言われてます。すみません、女学生気分が抜けなくて。だから書けるんですけどね。

あえて文章にする努力だけは認めてよと言いました。

男性と女性の感性がこれほどまでに違うから、まやかしでも表面的でもいいから女性には

女性の友人が必要になってくるんでしょうね。

本当に賢くて、正直で、誠実であろうとしたら、友人なんかいない、出来ないというような

ことかもしれないと思えてきます。

しょせんつきつめたら、夫婦も友人もラッキョウの皮をむくようなものでしょう。

向きすぎたらなんにも残っていなかった。

適当なところで、むくのをやめる、ということも時には必要なことのように思います。

というわけで、これからも夫婦関係、友人関係については大きな課題として

私の胸に残り続けることでしょう。

たくさんの友人、知人の方、つたない文章を読んでくださってありがとうございます。

自分らしく生きる 7  視野を広くもつ

珍しく食欲がない。朝食べられず、昼ぬいて、夜になっても減らない。

神経に一番直結している臓器は、胃だと思う。胃は一晩で大出血をきたす。

食欲がなくなった原因は、例の「実験」である。「聞き流す」という防衛機能は

大変有用な生きる手段である。「聞き流せる」というのはひとつの能力だ。

しかし自分の気持ちをおしこめ、表面的にとりあえず解決したふりをすると

いう解決法は、ある意味危険である。自分の気持ちを押しこめても、いつか顔を出す。

ということがよくわかった。

「夫の好きな赤烏帽子」というくらいならいくらでもするが、「夫が黒といったら白くても

黒という」などという解決法はやったことがなかった。

それはさておき、最近、「食欲が出ない。体重が減る一方だ」という訴えで来院する

患者さんとても多い。心療内科大はやりだ。最初は内科に行く。検査をして異常がない。

胃薬を処方される。良くならない。心療内科にまわされる。安定剤を処方される。

良くならない。まわりまわって私と出会う。もう相当重症になっている。

表情はさえず、元気がない。うつ病ではない証拠に、いかに食べられないか、

体重が減ったかについて、しつこく訴える。抗うつ剤も効かない。

たぶん最初は今日の私と同じだ。何かの気がかり事がおきて、一時的に食欲が

なくなるのだ。よくあることだと思う。問題はそれからだ。人間というのは考えられる

動物であるから、どうしたらいいか解決しようとする。そして解決することも多い。

しかしどうしても解決できそうにないとき「とりあえず様子を見る」とか「人の意見を聞く」とか

「なるようにしかならないと考える」とか「違うことをして気分転換をはかってから考える」

など手段を講じる。

ところがそれができない人種がいるのだ。解決しないで悩んでいるうちに

食欲が出ない日が続くと、今度は最初の問題事は忘れ、食欲が出ないことのほうが

気になり始める。気になって気になって仕方なくなる。そのうち、体重を気にするように

なり、減ってでもいようものなら、それが気になる。どこか病気ではないかと思い始める。

という風に、最初はちょっとした誰にでもおこる食思不振なのに、だんだん気持がそこに

とりこまれていくのだ。

というのが、私の仮説である。

治療方法はとてもむづかしい。胃腸薬も安定剤も効かない。ぐちや悩みを聞いて

いても良くならない。かえって悪くなる、というのが特徴だ。だから精神科や心療内科に

行くとかえって悪くなる。医者が聞くからだ。

とてもむづかしい治療になる。実際のケースはまた別の機会に書く。

こういう患者さんは、こだわりが強い。何かにこだわり始めるとそこからなかなか

抜けだせないのだ。また視野がとても狭い。性格もかたい。

その予防策はある。

視野を広く持つ、というのが大事である。いろんな角度から物事を見られるように

ふだんから訓練しておくとよい。いろんな人の意見や考えを聞く習慣も大事である。

また、私がおこなったように「実験」と称して、ふだんならあまりやらない方法を

ためしてみて、体験したり体感したりすることも良い。

とにかく人間、60才をすぎたころから頭が固くなる。そういう患者さんはたいてい

60才をすぎている。体は目に見えて訓練ができる。しかし頭や心は見えない。

しなやかに、やわらかい頭を持つというのは人間にとって一番むづかしいことだ。

でも意識すればできないことではない。

今日は年に一度のピアノの発表会だった。夫とは険悪で、友も失い、体調も気分も

サイアクだった。

でも。

こんな時こそ、気分転換がはかれないようじゃ、自分が患者さんになる。

そう思って弾いてきた。すごくうまく弾けた(と、自分の耳には聞こえた)

あとでCDなど、誰もくれないことを願う(昨年はくれた、聴いてがっかりした)

私のあとに弾いた女性は子供が習い始めたので20年ぶりに復活したの。

楽しくて楽しくて仕方ないの、と言っていた。すごく上手だった。私は練習もいやだし

苦しいことが多いが、子供のころ10年もやっていた人は指の動き方ができあがって

いるから、目をみはるくらい上手だった。基本で悩むこともなく、ただただ楽しいらしい。

うらやましかったが、何事も人とくらべたらぜったいだめだ。