連載コラム(14)心のアラーム鳴ってるの聞こえていますか?

年の初めの外来はとても気ぜわしいです。

そんな中、なんとも浮かぬ顔で来院したご婦⼈がいました。お⼦さんもそれぞれに家庭を持ち、お孫さんもおられます。さぞかし華やかな正⽉であったろうと想像して話題に出したところ、突然涙ぐまれて驚いてしまいました。

⼭梨県は「⼈々が移住したい県ナンバーワン」です。K⼦さんもそんな移住者のお⼀⼈で、夫婦⼆⼈暮らし。お⼦さん⽅は遠くに住んでおり、正⽉に家族で集まる習慣はどうもないようでした。

寂しいけれど気楽な⽇々の暮らしを楽しんでいるつもりでいたと彼女は言います。
ところがこの正⽉、思わぬところから噂が⼊ったのでした。息⼦たちが寄りつかないのは、お嫁さんがK⼦さんを敬遠しているらしいということです。遠いから来られないのは仕⽅ないと気にも留めていなかったが、あらためてそういうことを知ってしまうと、とても悲しい。本当に落ち込むと彼女は涙ぐむのです。

K⼦さんはお嫁さんに気遣いをしてきたつもりでした。

でももっと近くにいて孫たちをみてやればよかったのだろうか。

私の⽣き⽅、わがままなのだろうか。

考えるほどに⾃分を否定してしまって落ち込むといいます。

こんな時「そんなに気にするほどのことではないよ」と⾔うのが⼀般的な対応でしょうか。

しかし精神科医Dr.あやこは違う(笑)。

 

落ち込んでいるのは私ではなくて当の本⼈だし、それが現実なのだから、まず認めてあげるのが先決だ。
今まではこれくらいのことで落ち込むことはなかった。しかしこの正⽉はなぜか⼼が元に戻らない。

ここがポイント!

こんな場合、つまり不安やイライラ、落ち込みなど普段と違う感情が出るということは、⼼に「アラーム」が鳴っているということだと教えてあげるのがDrあやこのやり方です。

⼼のケアに関わる私たちがとりわけ⼤事にするのが、この「⼼のアラーム」が鳴っているという事実に本⼈が気づくことの重要さです。

いつもとは違う気持ちの変化があった時に、「気にしないで」とか「まだ頑張れるはず」と⾃分の気持ちを抑え込む⽅向にいくのは危険だと思います。

認めた上でその気持ちにどんな意味があるのかを考えることが⼤切であり、治療でもあると考えています。

彼⼥に対しても落ち込みの意味について⼀緒に考えてみました。

「故郷を出て広い世間の中でもまれながら⽣きてきたあなたが失ったもの。それは親や⼦や孫たちとの密な関係や隣近所の友達。でもずっと地元にいたら得られなかった多くのものも⼿にしたと思う」

そう話すと、K⼦さんはうなずきました。

「両⽅は得られないですね。それを忘れ、今までの⽣き⽅に迷いが出たのですね。私の⼈⽣で⼤切にしていくことは何か、つい忘れがちなそのことを今⼀度⾒つめ直す時期にきているのかも」。

帰り際のK⼦さんに、来た時の涙はもうありませんでした。

泣き顔や暗い顔で診察室に入った方が、晴れやかな顔になって出て行くとき、事務員やナースたちは「何があったか知らないけど、そんな時が一番うれしい」と言ってくれます。

今日も患者さんから笑顔を引き出し、それを見守るのが私たちの仕事です。

標高1550mの涼風

下界は30度。

わが家の付近は25度。

仕事帰りに 標高1550m の知人の家へ用事に。

そこは23度の涼風でした。

緑の香りがすごくて、しばらく緑の中に佇みました。

散歩をしたかったのですが、けっこうの坂。

足腰を鍛えてから出直してきたいと思いました。

緑の中、本当に気持ちがやすらぎますね。

住み始めたころより敏感に感じとれるようになっています。

連載コラム(13)枠づけで依存防止

新しい年を迎えました。

私の元⽇は、普段と変わらず当直とそれに続く⽇直の仕事から始まりました。患者さんたちにとっても「正⽉」は単に⽇常の続きにすぎないことが多く、また医療従事者も⽇直や夜勤はお構いなしにやってきます。

ところが、お正⽉が特別に忙しいかというと必ずしもそうではないのです。精神科の急変患者さんが元⽇から多いわけではありません。

つまり、⾝体の病気は意思と関係なく起きると思われますが、一方、⼼はある程度意思に影響されるからではないでしょうか。

「虫垂炎」も「肝炎」もお正月かどうかなど関係ありませんが、かたや心の病気は、お正⽉には病院はやっていないと思えば、パニック発作が元⽇の朝から起きることは⽐較的少ないのです。

「正⽉はどこの病院もやってませんよ」という教育をしていると患者さんもそれなりに⼼構えをつくるのです。

これを精神科では「枠づけする」と⾔います。境界線をつくることで、気持ちが引き締まったり、規律を守りやすかったりするということです。

反対に、我慢強くない患者さんを周囲がとても⽢やかすと、患者さんのわがままが増⻑して症状が悪化することはしばしば見られます。

他にも例を挙げてみましょう。

私の病院の外来は午前中だけです。が、以前に患者さんが午後にも来られた場合には診ていた時期がありました。すると午後の「急患」と称する患者さんは増えていったのです。冷たいようでもきちんと「外来は午前中だけ」を徹底してから、午後の「急患」はあきらかに少なくなりました。

また、私の受け持ち患者さんの数が少ない時期に、夜間休⽇⽤の電話番号を全員の患者さんに教えたことがあります。驚いたことに、その全員から「緊急」の電話があったのです。電話番号を「知っている」とつい電話で助けを求めたくなるのが⼈の⼼理なのでしょう。

私も同じ。パソコンが苦⼿なので、パソコンお助けマンがいます。相⼿の携帯電話を知ってしまうと、パソコンがこじれたときに「翌⽇まで待つ」とか「⾃分で努⼒をする」前に携帯電話につい⼿を伸ばしてしまう⾃分がいます。事務所の電話しか知らないと、努⼒しなくても時間外電話をかけなくてすむのです。これも⼀種の「枠づけ」だと⾔える。

精神科の治療では治療⼿段として「枠づけ」を⾏うのですが、⽇常の暮らしの中では、社会が、あるいは親が⼦どもに、夫(妻)が妻(夫)に、⾃分が⾃分に枠をつくってあげることで、依存や乱れや無理を防いでいます。それ以上超えたらだめよという境界線を、外から内から設けてあげるのです。

ちょっと窮屈な感じがするかもしれませんが、⼈間が⽻⽬を外さないで⽣きていくために⼤切な精神科的視点です。

今年の始めはそれを知っただけで、愚痴を聞いてくれない優しくない夫(妻)を持っている⼈も背筋が伸び、「そっか、これも愛か」と思えるようになるかも。

(:注* ちょっとむづかしいでしょうか。頭ではわかっても、生活の中で具体的に応用して考えるのはハードルの高い視点かもしれませんね。まあ、家族や友人の愚痴も優しく聞いてあげればいいというものではない、というくらいに理解していただければと思います)

生活の見直し

つい先日まで、自分は健康だと思っていました。

しかし、ある出来事をきっかけに頻脈発作が出てからのこの一ケ月。なんだか疲れやすく、また期外収縮なども起こりやすくなりました。

なんだか身体に自信がなくなってきました。

しかし考えてみれば、私の年齢で、月曜日から土曜日まで働き、日曜日も原稿や家事があり、しかも当直を若い人と同じようにこなしていたら、身体がヘンになるのは当たり前のことです。

昨日、知人の精神科医に「慢性の緊張状態」のせいで起きる「不整脈」と指摘され、今さらながら ハッと気づきました。

職場にいると過度の緊張感を強いられています。家に帰ると本当にほっとします。

家は家族も少ないので静かですし、森の空気感もいいです。猫たちにも癒されます。

自分を過信していなかったか。

思いきって、やむなく月一回程度行っていた病院に☎をして一方的にやめることにしました。出かけていって言うと、押し切られてしまうからです。

暮らし方の見直しをしなければいけない時期に来ている。

そのことを教えてくれた体調不良だったのではないかと思えるようになりました。

食べたものを書く行為は楽しいです。

一ケ月限定でおこなってみようと思っています。

カロリーなどにとても詳しいので、食べたもののカロリー計算は難なく行えます。

食べる行為をもっと大切に出来るような気がしてきました。

どんな結果になるでしょうか。



私の弱みについて

 

私の血液検査で特別の異常のない中、アルブミン値だけが低めであるという欠点があります。

アルブミン値は「老化の指標」と言われており、免疫力が落ちて、感染症などにかかりやすくなります。

老化に従って低くなりますが、だいたいごく平凡な食事をしていても、低くなることはあまりありません。70才以上のひとり暮らしの人の10人にひとりくらいと言われています。

従って、人間ドッグを受けても、それが低いと指摘されることは、ほぼないと思います。

それが私は若いころからこれがとても低いのです。

食事は家族もいますし、食事に対する意識はかなり高いほうです。また低いことがわかっているので、その上にふだんから プロテインを飲んでいます。ビタミンやミネラルなども入ったダイエット用のものを利用しているのです。

しかしそれを摂取し、食事もほぼ普通に摂っているにも拘わらず、今日の検査でかなり低い値が出ました。

ちょっとショックでした。

どうしたらアルブミン値が上がるかというと、運動をした後にプロテインをとると、上ります。

しかし私のように、机に座る仕事で運動もあまりしない人に「運動後に摂りなさい」と言われても無理です。

患者さん用の栄養剤をたくさん販売している「明治」や、プロテインサプリを販売している会社の栄養士さん。当院の管理栄養士さん、それぞれに聞いたのですが。

私のアルブミン値を上げる方法を知らないか、またはそれぞれに違う意見を言います。

よくわかっていない分野なのですね。

とりあえず、明日から「食べたもの」「プロテインの摂取時間、体重」などを書いてね、と当院の栄養士さんに言われたので、やってみるつもりです。

血液検査は、よく見ると、その人の弱みが見えてきます。

私の弱みは、不整脈と低アルブミン血症です。

不整脈のほうは「緊張状態の持続だね」と知人の精神科医に言われ、これは即、自分でも素直に納得した次第です。

私は若いころから胃弱だったり、肩こりだったり、疲れやすかったり、なかなか弱みの多い人間ですが、健康に関する関心が高いので、ハードな仕事を持ちながらも、今のところはしぶとくがんばっております。

でも今はちょっとアブナイなあと思っています。

連載コラム(12)意欲こそ、若々しさのもうひとつのポイント

若々しい脳とは何かのキーワードは「⼼のしなやかさ」であると前回書きました。今回は、もう⼀つのキーワードである「意欲」について書いてみたいと思います。

「やる気のなさ」は認知症の始まりの指標として、「もの忘れ」の症状と同じくらい重要です。

ここで脳の仕組みについて簡単に触れたいと思います。

脳は3頭⽴ての⾺⾞に例えると分かりやすいです。

1頭⽬は感性や感覚をつかさどる右脳。

2頭⽬は運動をつかさどる脳。

3頭⽬は論理的な思考をつかさどる左脳。

3頭の⾺が⼒を合わせて私たちの⼼や体を⽀えてくれています。

ここで強調したいのは、⾺以外にも⽋かせないものがあるということです。それは⾺を操る御者の存在です。

⾺がいくら達者でも、御者がさぼっていたら、これ幸いとばかりに⾺も怠けてしまうという具合です。

「意欲ややる気」に関係する場所は主に前頭葉です。御者の働きが悪くなると、今までできたことが何かとおっくうになります。おっくうになってやらなくなるから、ますます脳の機能も衰えるという悪循環です。

以前、1⼈暮らしを⻑く続けた88歳の⼥性が肺炎で⼊院してきたことがあります。気丈夫な⽅で、⼊院するまでは料理や家事をこなし、1⼈暮らしをしていました。ところが、⼊院して脳の検査をしたところ、脳の萎縮は重度だったのです。これだけ脳が退化していても、料理や家事ができることに本当に驚いたものです。

彼⼥には家族や親類が近くにいませんでした。彼⼥を⽀えていたものは「誰も助けてくれる⼈がいない。最期まで⾃分でやっていくしかない」という覚悟と意欲であったろうと想像できます。そして、⼊院して頑張る必要がなくなってからの衰えは、残念ながらあっという間でした。あれだけの家事をこなしていた婦人がたったの一週間で、自分がどこにいるかもわからなくなったのです。

器質的な脳の異常が⼤きくても、⼈⽣にやる気や⽬的があると、⼤きく萎縮した脳がこんなにも働くのだという事実は時に奇跡的でさえあります。少ない脳細胞でも助け合って必死で機能すれば、⼤きな⼒が出るのですね。

⼈⽣に何か⾜りないものがある、というのは必要なことです。また同情すべき状況にある、というのも悪いことばかりではありません。その中に、⼈の⼼を震い⽴たせる何かがあるような気がします。

今嘆いている苦労や重責こそ、若さの秘訣だと考えを変えてみる視点もあるのではないでしょうか。

恵まれて幸せなのは結構なこと。しかし、お⾦があって家族がいて、何もかもやってもらって、⾃分の役割やすべきことまでなくなってしまうと、脳はあっという間に退化します。

どうやら幸せボケは新婚さんだけの専売特許ではないようです。

連載コラム(11)若さのキーワード、それは心のしなやかさ

年を重ねても若々しくいられる秘訣(ひけつ)って何だと思いますか。

そのキーワードの⼀つは「⼼のしなやかさや頭の柔軟さ」です。(身体も同じかもしれませんね)

もう⼀つは「意欲や好奇⼼」を挙げたいと思います。

今回は「しなやかさ」のほうを取り上げてみたいと思います。

心のしなやかさってどうやってそれを鍛えることができるでしょうか。患者さんが⼼を病むときを考えてみました。

それは、環境や対⼈関係が変わったり、傷ついたり、何らかの変化があったときにあらわれます。つまり変化に対応できないとき、⼈の⼼は折れたり病んだりするでしょう?

それを裏返すと、トラブルや悩みのときこそ、脳に刺激を与え、⾃分を変える絶好のチャンスと⾔えるるでしょう。

⾄近な例を挙げてみます。

わが家で新しく買い替えたピアノのことで夫婦の意⾒が異なったことがあります。

ピアノは夫婦共通の趣味です。その扱いで夫がAだと主張し、私は内⼼Bだと思い、考えが真っ向から対⽴したのでした。

私はけんかが嫌で対⽴をあらわにすることを避け、だんまり戦術に⼊りました。しかし、お⾦の⼯⾯で苦労したことを思えば、どうしても⼼が晴れないのです。

そこで、86歳になる昔のピアノの先⽣に電話で相談することにしました。

彼⼥は「難しい問題ね。ご主⼈には彼なりの確固たるお考えがあるのでしょう。あなたの考えも、今は聞いていただけないと思うよ。それを⾔い募って争えば、たった2⼈の夫婦暮らしが不愉快なものになるでしょう。ピアノの扱い⽅の問題は、あなたにとって⼈⽣の⼀⼤事なの︖ でなかったらここはひとつ、気持ちを切り替えて忘れるのもあり。それが嫌なら、どちらが正しいかはさておき、あなたが今できることをやることね」と明快に⾔われました。

それは、私なりのやり⽅で弾いてあげれば、ピアノは響くという⽅法でした。

私は⼿に⼊れた時の苦労やどちらが正しいかばかりにこだわり、それしか⾒ずに悩みました。

でも冷静に考えれば、私のやれることは他にまだあったのです。

⼼がすっきりし、考えの違いは棚上げにしたままですのに、不思議とピアノを弾く時間が⼤切に思えるようになったのです。

⽼婦⼈の想像⼒、経験に基づいた多⾯的な視点、押すだけでも引くだけでもない柔軟な対応。私はそのアドバイスに救われ、だんまり戦術でかたくなになっていた⼼が柔らかくなり、前向きになれました。乗り越えたのだと思えました。

うっとうしい夫婦げんかや職場のいざこざ、そして⼼の病気を得ることなどは、視点を変え、脳に刺激を与えるチャンス到来なのだと思っています。

そして⽼いて⾝体は衰えても、⽼婦⼈のように、周りの⼈に的確なアドバイスを与えることのできる若々しい⼈であり得るという事実。それは、誰にとっても希望であり⽬標でもあると思います。

プールはスポーツ? それとも癒し?

 

吉永小百合さんは、水泳が好きでお上手だということが知られています。

テレビ番組でも、ご自身のホームグラウンドでとてもきれいなフォームで泳いでいるところを撮られていました。

先日のこと。

「今も泳いでいます。スポーツは大好きです。でも泳ぐことは、スポーツではなく、癒しです」とおっしゃっていました。

ハッとしました。

スポーツだと思ってしぶしぶ通っていたからです。

それからプールを別の目で見ることが出来るようになりました。

「鍛えなくては」「運動をしなくては」と思うと腰が重くなります。

疲れた時に「癒しに行こう」と思うと、なんだか腰が軽くなります。

今夜もそんな夜でした。

昨年の秋から、夫に関係なくひとりで行けるようになりました。

今日も「疲れを癒し」にひとりで行き、少しだけ泳いであとは歩きました。とっても気持ちいいのです。

水の中は、お母さんのおなかにいた時の羊水のような感じがします。ふわふわと歩いているだけで気持ちいいです。

これからも、あまり嫌がらず、気軽に「癒し」に行こうと思っています。

パソコン作業のせいか、トシのせいか。

最近よく不整脈が出るので心配です。

なんとか乗り越えたいものです。

その日の疲れはその日のうちに取ってしまうのがいいかもしれません。

プールウオーキングが効を奏しますように。

連載コラム(10)外の風に当たるって大事

⼼の病にかかると、外に出られないと⾔い、家に閉じこもる患者さんが多いです。

そういう患者さんに対して家族も医療者も「少しは外に出掛けましょう」と⾔ったところで、出てくれるわけではありません。外に出られるくらいなら、ここには来てません、と反論したくなる方ばかりです。

外に出られない、と⾔い張る患者さんに「じゃあ、朝起きたら、カーテンだけでも開けてみては︖」と提案してみました。

そのうち、カーテンだけは開けられるようになった、とおっしゃいました。

「どんな⾵景が⾒えた︖」と聞いてみました。

「隣のおうちの壁が⾒えただけです」と素っ気なく答えた後で、「でも、空が⾒えました」と⾔ってくれたときはうれしい気持ちがしました。

次に「ちょっと窓を開けてみましょう」と提案してみました。患者さんは本当に少しだけ窓を開けるようになりました。「⾵が気持ち良かった」と話してくれました。

私は少しずつ⽬標を上げていきます。

「裏庭まで出る」ことになり、「裏庭を少し歩いてみる」ことができた時は患者さんもうれしそうでした。

いつしか夫とスーパーに⾏けるようになりました。

それから数年がたちました。

そしてなんと! 今では週2回のパートに⾏っているんです。大⼤進歩です。

もっと病状の重い⽅もいます。そんな⽅にはさらにハードルを下げます。

つまりまずは、ご家族が「外の⾵」を運んであげるのです。

家族が帰った時、患者さんの部屋の⼾を開け「ただいま。今帰ったよ」と⾔うだけでも「外の⾵」が⼊ります。季節の果物を買って帰り、患者さんと⼀緒に⾷べるのも「外の⾵」です。

⼈間にとって外に出ることは⼤事ですが、家の中に「外の⾵」を⼊れることはもっと必要です。

話はちょっと⾶躍しますが、親⼦の絡む事件なども閉鎖的な環境で起きることが多いように思われます。

家にこもりがちな⽅にとって、家族が帰ってきたり、お客さんが来たりするだけで、家の⾵が動くのが分かります。

症状のすっかり安定した⽅が診察に来ることも、同じ意味です。「出掛けてくる」ということに意味があり、定期的に診察に来る⽅のほうが再発しにくいという事実があります。

「外の⾵を⼊れる」「外の⾵に当たる」ことは、⼈間が社会の⼀員として⽣きていく基本です。

どんなに閉じこもっている患者さんでも、そうやってカーテンを開けたり、外出から帰った家族が声を掛けたりすることなどから始め、無理なく少しずつハードルを上げていくと、必ず外に出られるようになります。

押しつけは逆効果。出無精の⽅に「たまには外に出てみようよ。どんな⾵が吹いていたか教えてね」とさりげなく⾔ったことがありました。

ある時、コスモスを⾒に出掛けたと⾔うので、驚いたことを思い出しました。

押しつけがましくなく聞こえたので、ふっと⼼が素直になれたのかな。

(**注* 自転車が好きなので、この写真はとても気にいっています。乗りませんけれど)

連載コラム(9)しあわせは、持ち物の量で決まらない

昔、よく往診をしました。

通院を拒否する統合失調症の⽅のおうちに診察に出かけるのです。家の中に「何にもない」ことが多くて驚いたことがあります。

何かに関⼼を持つと、どうしても「モノ」が増えることになりがちです。

まったく何にもないガラーンとした部屋を⾒ながら、この患者さんの精神内界もこんな⾵に荒涼としているのだろうかと思ったものです。

(このくだりは、私の患者さんから、少々傷ついたと言われていますので、そういう場合もあったということで、また書き方を考えなおしたいと思っています)

⼀⽅では、多くのモノを収納しきれない⼈が増え「収納術」の本が出始めました。

その次が「断捨離」でしたね。

「断捨離」が発展して⾏き着く所まで⾏き、今では「ミニマリスト」という⼈たちの本が書店に平積みされています。

「ミニマリスト」と称する⽅の部屋の写真を⾒ると、昔、統合失調症の⽅の家に往診に⾏った時の⾵景を思い出します(この表現も考慮の余地あり、ですね。それに、ちょっと違う感じですので。ミニマリストさんは本当に何も持っていないようですから)。

それこそワンルームの部屋に、布団と1組の⾷器だけ。テーブルさえ、収納ボックスを兼ねた箱であったりします。「本当にそれだけで⽣活できるの」と問いたくなってしまいます。

しかし、彼らはインターネットを通じて社会とつながり、いろんな情報を持ち、最低限の仕事をしています。そういう形で社会とつながることを選んだ結果なのでしょう。

私の病院の隣に⼩さなグループホームが建っています。病院を退院した後、⺠間のアパートで⽣活する⼒やお⾦のない⽅がここで暮らしているのです。

ここにも持ち物の少ない⼈たちが住んでいます。ある⼈は資産家の家に⽣まれ、豪勢な⾃宅を持っているのに、その家を空き家にしてまでホームに⼊居しています。また、共同作業所で働いたり、病院のデイケアに通ったりするのが⽇課の⼈もいます。

皆さんの暮らしは質素、部屋は超シンプル。多くのモノや責任を背負って息切れ切れに暮らしている私から⾒ると、その⽅たちが⾝軽で飄々と⽣きているように⾒えて羨ましく感じるのです。

私がそう話すと、彼らは「先⽣も飄々と⽣きているように⾒える」と⾔ってくれます。

そこで「モノを持っていてもいなくても、⼈⽣の苦楽はほとんど同じねえ」と、2⼈で笑い、お互いにそこそこの幸せを確認するのです。

幸せが環境に左右される⽐率はたかだか10%だという報告を読みました。「なるほど」と思います。

その理由として、どれだけお⾦持ちでも、それに慣れてしまえば当たり前。⾼学歴しかり、⼤邸宅しかり、美貌しかり。すべては「慣れ」の現象が起きるせいで、いずれそれらは「当たり前」となります。そして持っているモノはすっかり忘れ、ないモノを数え出すようになるのです。

⾃分にとって価値あること、必要なことを知り、それを選んで⽣きていけば、おそらく多くはいらないのではないか、と思います。

つましく謙虚な患者さんたちから私は日々、多くのことを学んでいるのです。